七章 目覚めし者(二)
目覚めし者(二)
「あの微かに見える山が狼のねぐらかい?」
フェリが静かに言った。
リボルトとキイはそう言われてから、やっと自分達の岩山が近づいてきたことに気付いた。
「ああ、そうだが、なんで分かったんだ?」
リボルトの呟きを無視する形で、フェリは先を急いだ。ここは、猿の縄張り付近。猿と猪が争っているという森林のすぐそばだった。キイがちらりと森林を見つめた。猿と猪の争いの下になっているというもの。新鮮な小川。きれいな水。水。
「ああ、喉が渇いた……」
キイが心底うんざりした様子で呟いた。
そういえば、暫く水を飲んでいない。唯一の食事だというのに。
リボルトは無言でフェリを見やった。フェリはキイの呟きに振り返り、澄ました目を猿達の森林へと向けた。
「ふうん、あの森が噂の森だったかな? 猿どもが猪と水を巡って争っているとかいう」
「ああ、そうだ。俺達も来る時、水を失敬して猿達を怒らせてしまった」
リボルトの返答に、フェリはくすりと笑い、森林へと完全に向き直った。
「ひとつ行ってみるかい? どうせリポスでは争い事は禁忌だ。襲われて最終的に罰を受けるのは向こうのみでしかないからね。まあ、この先にも水を補給できる場所があるんならいいんだけども……」
リボルトとキイは思い出してみた。熱帯平原へと向かう道すがら。このけちな猿達の森に来るまでに、どのくらい水を飲める時間があったか。そして一分にも満たない間に、二匹とも、同じ結論に至った。
「ここで飲もう。水が湧いているのは随分と先だ」
言葉にするのは、リボルトのほうが早かった。
「そうかい。じゃあ、極力猿に会わないように気をつけながら行こうじゃないか」
フェリは言い終わるなり早速飛び出し、真っ先に森林へと駆けて行った。リボルトとキイは、一拍遅れで、その長い尻尾に続いていった。
間もなく森林に踏み込むと、リボルトは急に寒気を感じた。平原と森林とで温度差が激しいようだ。この間はそんなことはなかったのだが、これは何なのだろうか。寒気を感じているのは、リボルトだけではなく、キイも、フェリも、同様にぶるっと身震いした。
「おかしいね。リポスのこの方角でこんなに寒気がするなんて」
フェリが囁いた。
森林は妙に静かだった。たまに聞こえるのは、鳥達の声。リボルト達には分からない、鳥達だけの言葉。それは、他所の鳥達の可愛らしい歌声ではなく、他種族を怯えさせる、陰鬱でおどろおどろしい旋律の歌だった。
言語が分からないのが、特に、不気味だった。
リボルト達は極力喋らずに、小川へと進んだ。
猿達に会わないようにといった警戒心から、というよりは、この不気味な雰囲気による圧力から、といったほうが正しかった。
だから、進んでいって、がさがさと音がする度に、三匹は心臓が跳ね上がるほど驚いた。
そうして小川にたどり着いたのが、三十分後。しかし、この三十分は、普段の十倍以上は長く感じた。
「ついた……」
キイが掠れ声で囁いた時、リボルトは声というものを久々に聞いたような感覚に浸った。得体の知れない緊張と静けさで、時間感覚がおかしくなっているかのようだった。早く水を飲んでここを去りたい。リボルトは真っ先にそう思った。
何も言わずに小川に近づき、水を飲む。冷たくきつい刺激が走る。しかし、喉は渇いていたらしく、リボルトの舌はどんどんと水を身体に流し込んでいく。キイも、フェリも、いつの間にかリボルトと同じく水を飲んでいた。
耳に聞こえるのは、遠くからの鳥の声。そして、虫の声。後は雑音。三匹が水を飲む音、小川の流れる音、誰かが草を踏む音、誰かが気の枝を折った音。
リボルトの耳が、すばやく反応した。
誰かがこっちに来る。
猿だろうか。
いや、それよりも、大きな何かの音。
「おやおや、狼とは珍しいものだ」
老婆の声だった。
キイもフェリも素早くそちらを見やる。小川の向こう側からこちらを見る者がいる。それは、猪だった。白い毛の混じった、老猪。濁った色の目を細めて、こちらをじっと観察している。
「山猫と狼の組み合わせかえ……面白いもんだ」
リボルト達はじっと老猪を見つめた。岩のような胴体に、どっしりとした足、頑丈そうな蹄。濁った色の目で、こちらを見据えている。
「踏み込んですまない。すぐに去るよ」
リボルトはそう言って、踵を返そうとした。
その途端、老猪はくつくつと笑んでみせた。
「きっと、おまいさんは前に猿と会ったんだね? そうじゃなきゃ、リポスに来たばかりなのかえ? 心配せずともこの水は私のものじゃない。沢山飲んでいくがいいさ」
リボルトもキイも呆気にとられた。何しろ、前に来た時の猿の対応があれだ。その猿とぶつかり合っている猪というと、同じように他所者を嫌い、小川を守るのだと思っていた。
「婆さんはあたし達を追い出したりしないんだね」
フェリが思ったままに訊ねた。
「他の猪たちも同じなのかい?」
「大体は同じだろうねえ、山猫のお嬢さん」
老猪は答え、鼻を少しだけ動かした。
「猿と争っていたのは、猿が傲慢だったからねえ。だが、今はもう平和さ。猿どもがいなくなったからね」
老猪はそう言うと、水を飲み始めた。
猿がいなくなった。その言葉を遅れて理解し始めたリボルト達は、はっと老猪に訊ねた。
「猿がいなくなった?」
リボルトが真っ先に口を開いた。
「いったい何処に?」
老猪は水を飲むことを中断し、ちらりとリボルト達を見上げた。
「消えた」
ぽつりとそう告げ、また飲み始める。
消えた。
ただそれだけの情報。ただそれだけの情報だったが、リボルトは色々と思案を巡らせた。リポスの禁忌を犯した猿達。それが、消えた。何が、どう起こって、そうなったのだろうか。消えるとはどういう事なのだろう。
――存在が、消える?
リボルトは考えた。
リポスの禁忌を犯して争いを起こした猿達。彼らはどうなったのだろうか。罰として、残らず消えてしまったのだろうか。どうやって、消えてしまったのだろうか。彼らの身に、何が起こったのだろうか。
その間に老猪は水を飲み終え、ゆっくりと顔を上げた。
「消えたってどういう事だ?」
リボルトの問いに、老猪は表情を変えずに答えた。
「そのままの意味さ」
「猿達に何が起こったの?」
キイが問い直した。
老猪はちらりとキイの目を見つめると、小さく溜め息を吐いた。
「酷い夜だった」
老猪は語り始めた。
月の無い夜、猿達の悲鳴が響き渡って、森林の生き物たちは騒然とした。
あの猿達が、何者かに襲われている。
猪だろうかと殆どの生き物は思ったものの、そうではないと知っている猪たちの恐れと驚愕は計り知れなかった。すぐに幾らかの生き物たちは悲鳴の下へと駆けつけ、猿達の身に何が起こっているのかを確認した。
そして、見に行った者の殆どが、そのことを後悔した。
「私も見に行った一人さ」
老猪は静かに語る。
その濁った目では殆ど何も見えなかったものの、鼻と耳が目をカバーし、何が起こっているのかを彼女に把握させた。
全ての者が、見ていることしか出来なかったという。
それは、綺麗な姿だったという。老猪の目にも、淡い光として見えたらしい。空の虹をそのまま地上に降ろしたかのような、綺麗な存在だったらしい。輪郭はあやふやで、捉えどころのない姿。生き物というよりも、自然現象という雰囲気。死んでもいないし、生きてもいない、美しくて不気味な存在。
目玉の無い空洞の目が、笑っていたらしい。
全ての者が、見ていることしか出来なかった。その得体の知れない者が、泣き叫ぶ猿達の身体を少しずつ擦って、消していくという光景。
「止められなかった」
老猪は低く唸る。
「止めてはいけないと誰かが私達に言ったんだ」
「止めてはいけない?」
リボルトに、老猪は頷いた。
「確かに聞こえた。あの日から、もうあの荒っぽい猿はいない。だから、平和になった。それだけさ」
そうぼそりと言い、老猪は踵を返す。一歩彼女が踏み出そうとした時、急にフェリがはっと顔を上げ、老猪に声をかけた。
「ねえ、待って」
老猪はそのまま制止する。
「猿はみんな消えてしまったのかい?」
フェリの質問が妙に響き渡った。まるで、その言葉に深い意味が込められているかのようだった。そう、リボルトには感じられた。
老猪は振り向きもせず、小さく尾を振った。
「一人……以外はね」
「その一人って、誰? 何処にいるの?」
「ガリ」
老猪は短く言った。
「何処にいるかは、自分達で探すがいいさ」
そうして、ゆっくりと去っていった。
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