序、西の龍神
日の国・越後。
この地を治めし、長尾景虎こと関東管領が、齢三十を数えた頃。 景虎の住まいである春日山城が、突然騒がしくなった。
「でもまさか…」
「いや、でもそうかもよ?」
今朝は侍女達がやけに五月蝿い。
これでは、やっと戦から疲れて帰って来たというのに、ゆっくり休める筈が無かろう。 仕方ない。少し叱咤しておいたほうがよかろうか。
「何事だ…?」
「「お、お館様!」」
侍女達はようやく景虎の存在に気付き、慌てて深く頭を垂れた。
それを景虎は一声で制した。
「面を上げよ」
侍女達は主人の命に従い、そろそろと頭をあげる。
そんな侍女らに、景虎は眉間に僅かな皺を寄せ、いつもと変わらぬ声音で静かに問うた。
「今朝は何かと城内が騒がしいが、何事だ?」
景虎は小鳥の鳴く音が聞こえる、朝日の眩しい外を、窓越しから覗いた。
「いえ、それは…」
「少々申し上げにくく…」 景虎は困惑している二人を見下ろし、無意識に腕を組んだ。
着物の擦れる音がする。
「よい。申せ」
暫くして 侍女達はぽつりと語り出した。
「…ただの噂なのですが…。我が日の国・西の小国で、お館様を名乗りし大名がおられるとの噂が……」
景虎の眉間にますます皺が寄る。
「わたしを名乗る?どういう事だ」
「はい…。なんでもその大名は、他国との戦で勝利後、必ずといってよい程、“我は西の越後龍なり”。こう申して引き返すそうなので御座います」
もう片方の侍女が、代わって口を開く。
「私どもは、そのような大名の事など、今まで全く聞き入れなかった故……」
自分を無断で名乗られた事が害したのか、少し不機嫌そうに、再び尋ねる。
「して、その者の名は」
「確か…」
二人は顔を見合わせる。
やがて、一人がその名を口にした。
「聞いた話によると、多田 蛮崔と…」
「多田…。あまり聞かぬ名だな」
多田…か…。
見過ごし難いが、暫く様子を見る事にしよう。
景虎は戦の疲れを癒そうと、再び自室へと引き返した。
頭上で、数匹の鳥が鳴いた。 |