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皇國記
作:真崎優



第二十二話 甘き私よ来たれ


 綿に墨を染み込ませたような雲が幾十にも層を重ね、季節を巻き戻そうとして冷たい水滴を投下させている。
 二日前から降り続く雨は一向に勢いを弱める気配を見せず、それはまるで太陽と大地の仲を裂こうとする嫉妬のようでもあった。

 しかし夏の厳しさを考えれば、この時期の雨量が少ないとより深刻な問題になってしまう。
 そういう意味では自然の恵みとして忌避するべきものではないのだが、都合が悪いときにはそれさえも忌々しく思えてくる。
 これも人間の度し難い一面だろう。

 また一方では、準備のための時間が少しでも多く取れるというのはありがたい。
 急激に膨らんだ組織を統合する作業というのは、どうしても少なからぬ時間を必要としているからだ。
 だがそうも言っていられない事情も存在する。
 当然、敵側にも同じだけの猶予を与えてしまうことになるし、何よりもこの雨季が終われば本格的に農作業が活発化するのだ。
 戦いが避けられぬのであれば、できればその前に決着をつけたいという思惑がある。
 勝敗を度外視するにしても、労働力がなければ農業が立ち行かなくなり、ひいては集団全体の基礎体力を削ってしまう。
 そういった悪循環に陥ってしまうと、立て直すのにはかなりの時間と労力を費やすことになる。

 確か日本の戦国時代以前には農耕期に戦争を控える、といったような暗黙の了解があったはずだが、詳しいことは覚えていない。
 もう少しそういった方面の歴史にも興味を持っておけばよかったかとも思うが、今さら後悔しても遅いだろう。

 とにかく今は、あと半月ほどの間にカール・レオナルド・メクレンベルクを打ち破らねばならないのだから。




 俺が紙の束から目を上げて椅子の背もたれに体重を預けていると、クリスが湿気を含んでおさまりの悪くなったクリーム色の髪を玩びながら、ここ最近で見慣れてきた灰色の景色を窓ごしに眺めていた。
 雨続きで書類仕事が増え、時間に空白が出来てきた午後のことである。

「この雨に乗じて短期決戦を仕掛ける、か……」

 子供じみているかもしれないが、未だ意に沿わぬ出来事に対しては寛容になりきれない。
 その証拠に、確認のための言葉も不満でデコレートされて口から滑り落ちてしまう。

 カール軍は北東に早馬で五日行程の町、ヴァンデルンを拠点と定めたようだが、今のところ大きな動きを見せていない。
 その地域は雨季にだけ現れる川がいくつか散在しているため、その確認作業をしていると思われる。
 必要にして十分な情報を纏めるのにはあと一週間はかかるだろう。

 では、その期を逃さず叩くべきではないか──。
 彼らが態勢を整えるよりも早く戦線を展開しようとするのは、毎年の観測を集積している陣営として当然だ。
 革命軍上層部も、ほとんどがそのつもりで動いている。
 いや、これはヴィッテルスバッハ卿の指示に依っているのだから、即ち全体の意思ということではあるのだが。

「一見、それが最善の策のように見える。俺たちには過去の資料があるし、特に今年が例年と変わるわけじゃない」

 そうだ。
 頭ではわかっている。
 しかし意識の片隅では警鐘が鳴り続けているのも事実。
 そのわずかな疑念は既に笑殺されているが、不安要素というものは切り捨てた時にこそ発現し、それは致命傷になり得る一撃であることが多い。

「貴様の懸念もわからぬではない。奴らが事前に情報を入手し、今は擬態でもって我々を欺こうとしているのではないか、と」
「そう、絶対に情報が漏れていない、なんて確証はないんだ」

 先日の会議でもこの懸案は具申したが、一顧だにされることなく不採決の憂き目に会った。
 漏洩している確証も無いうえ、過ぎる消極は臆病との謗りを免れない、という例のエセインテリ准将の言による。
 多少強引ではあっても、勇猛、精悍を旨とする将兵にとって、臆病と言われることは死に等しい。
 その論法を採られてはおとなしく引き下がる他なかった。

 確かに情報の管理には細心の注意を払っていることだろう。
 だが、厳重なプロテクトを誇るコンピュータでも重要機密が流出することは無くならないし、ましてや人の口に戸は立てられない。
 実際、俺たちの側にはハンスという内通者が存在しており、同等の可能性を否定するには傲慢が過ぎる。
 多くはない可能性であっても、警戒が足りるとは到底思えないのだ。

「私もそう思うが、今回に限れば杞憂ではないか? 内情を知っていれば他にやりようがあるだろう」
「だといいんだけどね……」

 こちらの情報が漏れているのなら、これほど中途半端なことはしないはずだ。
 速攻でもって混乱を誘ってもいいし、長期戦に持ち込んで兵糧攻めにしてもいい。
 ただカールの人となりを聞く限り、採るならば前者の策であろうことは想像に難くないが。
 そもそも大兵力を用意できる立場であるにも拘らず、それをしないのは故あってのことなのか。

 或いは、何もかも知っていてなお、他の目的で動いているか……?

「……」

 背中に得体の知れない悪寒が駆け抜ける。
 他の目的があるとして、それがどのようなものかは見当も付かないが、だからこそ感じる種類の「イヤな予感」だ。

 俺たちが巨大な人食い蛇だと思っているそれは、実はヒトを塵とも思っていない竜の類なのではないだろうか。




「どうかしたのか?」

 俺はおかしな顔でもしていたのか、怪訝な様子で問いかけてきた。
 同時に冷たい感覚も薄れ、突飛なことを考えてしまった頭を振って平静を取り戻す。

「いや、お茶請けに作っておいた大福がベッテに食べられてないか不安で」
「それを早く言わぬか! 厨だな?」

 案外知られていないが、普通のうるち米でも餅が作れる。
 もち米の澱粉はほとんどがアミロペクチンであるのに対し、うるち米は二割ほどアミロースが含まれているため、それを取り除く加工をしなくてはならない。
 そのためには……いや、何を説明しているんだ俺は。

 飛び出したクリスには悪いが、厨房の大福は既に完食されていることだろう。
 何故ならば、それは巧妙に仕組まれた囮であるからに他ならない。
 俺は項垂れて戻ってくるであろうお姫様のため、入念に隠されている真の大福を取りに向かった。












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