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  皇國記 作者:M's Works
第二話 さよなら安息の日々




「がはははは! 驚かせちまったみたいで悪かったな」

 本当に漫画のように笑う人間を見たのは初めてだったが、そんなことは瑣末な事象でしかない。
 着替え中に突然血の付いた鉈を持った髭男が入ってきて、獲物を狙う鷹のような目で睨み付けられるという、平和で美しい国ニッポンではなかなか出来ない体験に比べれば、エアーズ・ロックを前にした小石も同然だろう。
 何故俺が生きているのかというと、ありがちなことではあるが、この髭男は少女の知り合いだった。
 不穏な気配に慌てて出てきた少女は、髭男に事情を説明すると半裸の俺に気付いてまた慌てて逃げていったのだ。
 尤も、あと数秒遅かったらどうなっていたかは考えたくない。
 俺の頭部から左斜め上一メートル付近に、急停止した鉈があったことだけ記しておこう。

 今は何とか服を着込み、正面に頭は綺麗に禿げ上がった赤銅色の髭の男、右手には緩いウエーブがかったクリーム色の髪の少女という配置で、ざっと片付けられたテーブルを囲んでいる。
 目の前に置かれたカップからは湯気と、甘いような香ばしいような香りが立ち上っている。
 蒸留酒を湯で割って、バターと黒胡椒を混ぜたものだと説明された。

 髭男が見た目から想像するのと誤差の少ない、ざらついたバリトンの声で、呆れたように俺に話しかける。

「しかしなんだってあんな格好でこの雪の中寝転がってるかね」

 ちらりとストーブの前で乾かされている俺の着ていた服を見やり、訝しそうな表情に変えてから視線を正面に戻す。

「軽装にしても見慣れねえ形だしな」
「それは私も気になっていた。あれはどこの様式だ?」
「様式と言われても、そこらの店で買った安物だからブランド品なんかじゃないですよ」

 少女と髭男は顔を見合わせ、若干ではあるが警戒の色を強くした。
 俺としては、わずかでも警戒を解いてほしくて正直に話しているのだが、どうにも見解に相違があるようだ。 

「髪も目も両方黒いってのは見たことねえし、どこから来たんだ」
「日本です。ジャパン、ヤポンとか国によって色々言い方はあるでしょうけど」
「ニホン……聞いたことあるか?」
「いや、私は知らない」

 日本を知らない?
 いや、そんな地域もあるのか。
 良くも悪くも、結構有名だと思っていたのだけれど。

「ここは何と言う国なんですか」
「アヴェストリア」

 アヴェストリア。
 響きはヨーロッパ系に聞こえるが、耳慣れない固有名詞だ。
 知っている国なら多少の安心も出来たのだが。
 不勉強ゆえ詳しくは知らないが、もしかしたらソビエト連邦の崩壊後に独立した国家群のひとつだろうか。
 だとすると情勢が不安定だったりしたら、密入国が露見するといささかまずいことになるかもしれない。
 友好国なら強制送還ぐらいで済むかと思ったりしたのだが……。

「知らない国だ」
「アヴェストリアを知らない? 二十の小国を従える近隣に並ぶものなき大国だぞ」

 緊張か焦燥か、恐らく両方だろうが、喉が粘つくほど渇いていく。
 まさか、そんなわけはない。
 そんな大きな国を知らないわけがない。
 動揺と混乱が器用にスキップで駆け回る脳を落ち着かせようとカップを取り、熱い液体を流し込む。

「!」

 むせた。
 居酒屋で出されるようなお湯割りかと思ったら、半分はアルコールで構成されていそうな雪国用の飲み物だった。
 喉に火がついたように熱い。
 それでも胃にまで達した熱さは俺をある程度冷静にさせてもくれたようだ。
 本当は冷静になったと思い込んでいるだけかもしれない。
 ほんの少し吸収されたアルコールが、思考機能に障害をもたらしているのかもしれない。
 何故なら、ふと思いついたこの状況の答えは、あまりにも突拍子のないものだからだ。

「大丈夫か、おい」

 髭男は初めてこっそり子供にアルコールを飲ませたときの父親のような、悪戯っぽい目を向ける。
 そう言えばまだ二人の名前も知らない。

「すいません、酒はあんまり飲まないもので」
「だらしのないことだな、男だろう貴様は」

 男なら飲めるというのはどうだろう。

「玲司」
「ん?」
「名前。伊藤玲司。だから貴様はやめてほしいな」
「イトーレイジ?」
「レイジが名で、イトウが姓だ。レイジでかまわないよ」
「面白い名前だな、貴様」
「ちゃんと名前で呼んでやれよ。俺はスヴェン・カッセル、スヴェンでいい」
「クリス。クリスティナ・アッテルベリ」
「助けてくれてありがとう、クリス。スヴェンも迷惑を掛けた」

 癖なのかスヴェンは左頬だけをぐいっと上げて笑った。
 クリスは何故か肩をいからせて隣の部屋に行ってしまったが、照れてるんだろうよ、とのことだ。

「ところでよ、これからどうするんだ。どこから来たのかもわからねえんじゃ、ここに行け、あそこに行けとも言えねえ」
「そのことですが、さっきから考えていました。……スヴェン、神隠し、というのはご存知ですか。名称は違うかもしれませんが、家出や事件ではなく突然人が居なくなったりすることです」
「ああ、昔話なんかでよくあったりするな」
「その神隠しに遭った人は、一体どこに行くんでしょう?」

 馬鹿なことを、と笑いかけ、俺の目を見てやめた。

「……まさかおめえ……」
「そうではないか、と思っているだけです。俺はここで目覚めるまで、あの格好で快適に過ごせる場所に居ました。眠らせて移動させるにしても膨大な手間が掛かります。何よりお互いの国の名を知らない」
「うむ……」

 ストーブの薪が一際大きく爆ぜる。
 神妙な空気に気付いたのか、クリスも戻ってきて俺の声に耳を傾けている。
 容易く信じられることではない。
 現に俺だって半信半疑だ。
 しかしそうでもないと説明が付かないように思う。

「何故言葉は通じているのか、何故ここにいるのか、それはわかりません。でも俺はここにいて、帰り方を知らないことはわかる」
「威張って言うことではないな」
「チャチャ入れるんじゃねえ」

 苦笑するしかないのが歯がゆい。

「そこで、もし、俺に何か出来ることがあるなら、手伝わせて欲しい」

 何かを考えるように腕を組み、窓の外の一点を凝視する。
 ついでクリスに目を向け、俺を掠めて再び窓へ。
 嘆息か溜息か判別できない空気の塊を吐き出し、禿げた頭を掻く。

「まあ確かに、人手が欲しいことはないこともないんだが」
「本当ですか」
「おい、あれのことか? 私は余所者はどうかと思うが」
「おめえが拾って来といて言うかよ」
「ではこいつの所有権は私にある!」

 所有権って、俺は物ですか。

「使ってみて駄目ならまた考えればいいじゃねえか」
「しかし……」
「よし、決まりだ、レイジ。しばらく俺らを手伝ってもらうことにする。いいか?」
「俺はありがたいんですが」

 クリスは不服そうだ。
 椅子を前後ろに座って、聞き取れないほどの声で何かを呟いている。
 この可愛げがいつもあればいいのに、と思うが、それはどうやら微妙な顔をしているスヴェンも同じらしい。

「なに、明日になれば機嫌は直ってるさ」
「ところで具体的には何をしたらいいんですか?」

 もうすっかり日も落ちて、白かった雪も闇と同化して黒くしか見えない。
 何をするにしても明日からだろう。
 今晩中に気構えが出来るなら大抵のことならできそうだ。

「どう言えばいいだろうな、そう、わかりやすく言うとな」
「戦争だ」



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