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忌まわしき記憶



 ――その女には理想があった。



 その理想とは、往々にしてあるものだ。自身が産まれた土地を守り、自身を育ててくれた人々を守る。

 この世界に生まれて、正しく世を生きていれば、少なからず抱く事もあるだろう、そんな夢。



 その女も、身も知らぬ誰彼と同じように、そんな理想に生きていた。



 ただ、女が他の者と少し違ったところは、女がただの人ではなかったこと。女神アルシュナの使徒たる精霊の血を引いた古い家に産まれ、北から常に圧力を掛けてくる異なる種族達に立ち向かう、神子たる者であったのだ。



 そんな女には、剣を習う時によく言って聞かせられた話がある。精霊の力は、女神アルシュナが人間に与えた、異なる種族に対抗するための数少ない力だと。



 故に、自身はいつ如何なる時も敗北に甘んじてはならないのだと。

 人々が健やかに暮らすためには、その力は決して絶やしてはならないものだと。


 だから、女はそうやってずっと生きてきた。女神アルシュナに祈りを捧げ、研鑽を積み、時には北から攻めてくる異なる種族に立ち向かい、これを打ち倒す。そんな、理想を現実として叶えていた、そんな日々。

 女に産まれた幸せを知る事はまだなかったが、それでも思い描いていた毎日を送れていた。



 だが女の理想に満ちたその夢は長くは続かなかった。



 新たな魔の長が王座についたその日、女の夢は泡沫のように、儚くも潰えたのだ。



 王城で知らせを聞いた時には、既に何もかもが遅かった。北から襲い来る百万の悪意の海嘯に、町や村が、国土の四分の一が異なる種族の暴圧になすすべもなく飲まれていたのだ。



 圧倒的な数だった。しかも異なる種族達はその個個に至るまで、人間を遥かに超える力を持つ。それが百万を超えるとは、まさに絶望的だった。

 しかし、それでもまだ、ほんの一縷でも希望はあると、女は戦った。まだ残っているものだけでもと。産まれた地を、人々を守るために。今まで磨いてきた剣を、力を振るった。



 そして多くの異なる種族を精霊の力とその剣技をもって、血と肉でしかない骸に変えていった。


 女は強かった。精強と謳われる北の兵士達その誰よりも。だが、襲い来る暴威は、彼女達にとってあまりにも巨大過ぎた。



 強大な悪意と力の前に、女の夢は崩れていく。女の産土は異なる種族達に容赦なく蹂躙され、守りたかった者達はその悉くが無惨な末路を送る事となった。



 そして向かってくる圧倒的な力は、女に対しても例外ではなかった。



 異なる種族を率いる将。強大な力を持つ悪意の権化に敗北を喫し、その上、唾棄すべき呪いを至上と嗤う忌まわしき魔に、恥辱をその身の枷とされた。



 故に、もはやこれが最後と、女は覚悟を決めた。ここで、己も仲間達のようにこの北の産土に還るのだと。あの憎き異なる種族の将と最期まで戦い抜き、決して癒えぬ痛手を与えてやるのだと。



 だが、そんな女の悲壮な決意は思わぬ形で覆された。女が守ろうと必死になった、みなの頼みによって。

 そう、女の力は尊いものだ。それは、この天と地を正しく作り変えた女神、アルシュナにもたらされた尊き精霊の力。邪悪な神を崇める異なる種族に立ち向かうために人間に与えられた、数少ない力。



 決して奪われてはならない希望。潰えてはならない光明。だから、ここで無意味に死を選ぶよりも、逃避の恥辱に甘んじても、その力を蓄えるか、次代を成して魔に復讐の刃を突き入れるかを選んでくれと。




 ……女には理想があった。だが、女に選ぶ余地はなかった。




 だから、女――レフィール・グラキス・ノーシアスは、今も一人、涙している。




       ☆




 ギルドの加盟を終えて数日後。朝早く目が覚めた水明は一人、宿の庭先で水銀刀を振っていた。


「セッ、ハッ」



 上から下に規則正しく、呼気も狂わせる事なく、型通りの素振り。


 こなれたものだが、無論その剣術は父に教えてもらったものではなく、家の近くの剣術道場で会得したものだ。

 魔術師である父も近接戦闘にも重きを置いていたが、教わるならばその道の玄人からが良いだろうと、そういった運びとなって剣を持っている。



 いま素振りしているのも、そこで教えられた一環である。


 剣は振らねば鈍るものだ。修練を一週間も怠ると、余程の才がない限り勘は廃れてしまうのが道理。

 故に、王城で知識を溜め込むばかりの生活を送っていた水明ならばなおさらだ。

 確かに水明は魔術や魔術品などを利用して接近戦に臨むため、そこまで剣に根を詰めなくてもよいものなのだが、やはり気分的に振っていたほうが落ち着くのである。



「ふぅ、こんなもんかな……」



 一通りの素振りを終えて、水明は一息つく。吹いた汗を布で拭う。普段のものに比べれば、些か短い修練の量だが、今日はそう言うわけにもいかず。

 この日はあまり朝から疲労を溜め込む訳にもいかないのだ。そう、今日はこのあと、ネルフェリア帝国に向かう商隊の護衛任務に付かなければならないのである。



 町から町、国から国を行き来する商隊の護衛。この依頼を引き受けたのは、もちろん自身の目的のためだ。

 いまの自身の目的は、元いた世界に帰る方法を模索し、そして帰還する術を作ること。

 それにさしあたって、アステル王国から情報や物品の流通量が多いネルフェリア帝国に向かうのだが、まず手始めにネルフェリア帝国の手前、アステル王国西端の都市であるクラント市に向かうことにしたのだ。



 クラント市はアステル王国とネルフェリア帝国との国境にある都市だ。アステルでも王都メテールに次いで大きく、情報の行き来も物品の流れも活発だ。違う国に行く前に、その国の情報だけは手に入れておきたいもの。まずはそこでも、今後有効に活用できそうな品などを手に入れてネルフェリアに入る。


 そのために今回、商隊という周辺地理に明るく旅の知識を持つ者達に同道するのである。



 ……ギルドに加盟してからその類いの依頼を探して、そしてつい昨日、この依頼を正式に受けることができた。


 競争の倍率は高く、簡単には依頼を取れないかと思ってはいたが、掛かった日にちは三、四日。思いの外早い。

 それについてはやはり、回復魔法の存在が大きかったと言える。Dランクになった水明が依頼を受けようと窓口に赴いた時点で、商隊の護衛人数は上限に達していたのだが、にも関わらず、回復魔法を使える者は多いに越したことはないというキャラバンリーダーたっての申し出から、それを越えて参加が認められた。

 やはり、この世界でも回復魔法を使える人員は重宝されるらしい。


 自身のギルドでの実績がないため、実質それについては“使えれば儲けもの”程度の考えなのかもしれないが――



 それでも、今後の予定は決まった。後は王都メテールから旅立つだけ。



「さて、戻るか」



 そんな風に考え、素振りに作った水銀刀を戻し、立ち上がる。

 そして、宿の中に戻って旅立ちのための最後の確認をしようと部屋に向かって歩き出し、角を曲がったところで。



 出会い頭。誰かと思い切りぶつかった。



「いっつ……、すいませ――!?」



 一瞬、目蓋の裏に星が散る。突然見舞われた衝撃に軽くよろめき、しかし不注意をそう謝ろうと、頭を下げようとしたのだが。



 しかしその折り、謝罪は止まった。否、停止を余儀なくされた。



 ぶつかった相手。それは現在同じ宿に宿泊している宵闇亭のギルド員で剣士の少女、レフィール・グラキスだった。



 だが、謝りを止めるまでの事か。二人とも同じ宿にいるのだ。こんなこともあり得ない話ではない。


 しかし、水明が謝罪しきれず止まったのは、レフィール・グラキス。彼女の出で立ちが不可解だったからである。

 そう、どこぞ――恐らく敷地の外から脇目もふらずに走って来ただろうレフィールその格好は肌着のみで、しかもどうして彼女は目を赤く腫らして、大粒の涙を溢していたのだ。



「ぁ――」



 レフィールはぶつかった相手である自身の姿を目に留め、気付いたか。しかし、まだ彼女は呆けたまま、突然の事に喘ぐまま。この現状よりも囚われた悲しみの方が勝るらしく、瞳は未だ辛そうな色に染まっている。



「え、あ、え――?」



 一方、一時停止から回帰した水明は、あまりにあまり。唐突すぎた出来事に頭が上手く回らない。

 ぶつかるのはない話ではないが、その容姿については類を見ない。肌着一枚と心許ない姿でしかも泣いているとは、全く予想だにできないことであった。



「ぅ――すまない……」


 やがて、レフィールは正体を取り戻したか。彼女は涙を振り切り、呻くようにそう言うと、水明の問いも返事も聞かぬままに宿の中に入っていった。




 ……しばらく。その場に一人取り残された水明は、困惑のままに呟く。



「こいつは、一体……?」



 刻限は早朝。まだ誰も起き出す前。答えが返ってくるはずもなかった。




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