和解
失うことが怖いわけではない。
ただ、失ったときに自分がどうなるのか。
それを予測できないことが、何よりも恐ろしかった。
きっと狂い出すのだろう。
きっと噛み合わなくなってしまうのだろう。
全てが。
全てに。
幹部にしか与えられない豪奢な部屋は、骸の好みに合っていた。暗色系の色調でまとめられた室内には、時折さり気なく花が飾られていたりする。そういうことをするのは、骸の半身ともいうべきあの少女しかいない。マフィアに対して警戒心の強い骸は、自分の身内以外は決して部屋の中へは入れないからだ。少しでも骸が過ごしやすいようにと、暇を見つけては部屋を整えにきてくれるクローム髑髏のことが、骸は愛おしかった。
「骸様?」
顔を見るなり抱きしめられ、髑髏は少し驚いたように体を強張らせた。
「あの…何か、あったんですか」
控えめな問いかけに、骸はフッと微かな笑みを浮かべる。腕の中にある彼女の体は、あまりにも細くて華奢だった。それなのに、大きな安心感が胸を満たす。他者の存在に救われるなど、ほんの数年前の自分には、絶対に考えられなかったことだ。
ゆっくりと息を吐き出して、胸の奥に溜まったどろどろとした感情を打ち消していく。仲間の傍は居心地が良かった。それを認めるのに随分と時間がかかったような気もするし、たった数年のうちに変化してしまった自分自身が信じられないような気持ちもある。
―――…ああ、どちらにしろ、僕は認めなければならない。
雲雀とリボーンの顔が交互に浮かぶ。再び暴走しそうになる心を自力で制し、そっと腕をほどき髑髏を解放した骸は、彼女と目を合わせ「なんでもありませんよ」と笑ってみせた。
「ただ…そうですね、少し疲れてしまったんです。性格の悪い人たちに、代わる代わる相手をさせられたものですから」
「性格の悪い人…?」
骸以上に悪い性格の人間なんているのだろうかと、もしもこの場に綱吉が居ればそう突っ込みを入れただろう。もちろん髑髏はそんなことは言わない。ただ、ゆるやかに小首を傾いで目を瞬いただけだった。
「骸様、」
「はい?」
「あの、私では頼りないでしょうか」
「…どういう意味ですか?」
「力になりたいんです。あの、だから、何かあったら言ってください。骸様のためなら何でもします」
両手でぎゅっと拳まで作って、髑髏は至極真剣な口調で言う。厳かと言い換えてもいい。まるで誓いの言葉のようだ。普段は変化の少ない彼女の表情が、きゅっと引き締まって真っ直ぐにこちらを見つめている。
骸は軽く目を瞠って、そのあと思わず笑ってしまった。
「どうしたんですか、急に。言われなくとも、僕はお前に遠慮なんかしませんよ?」
「あ、いえ、そうではなくて…えっと」
ほんの少し顔を伏せて、髑髏が言いよどむ。その左目に宿る力強い光が見えなくなってしまって、骸は少しだけ残念だなと思った。
「そうではなくて…何ですか?」
骸が重ねて問うと、髑髏は少し言いにくそうに、そっと目をそらした。
小さくポツリと言う。
「犬と千種が…心配してたから」
「心配?」
「骸様の様子が、最近少し変じゃないか、って。2人が話していました」
「…」
「もともと変な人だとは思ってたけど、近頃はもっと変になった、って」
「…それはどっちが言ったんですか?」
「犬です」
後でボコ殴り決定。
骸が心の中でそんなことを呟いているとは露知らず、髑髏は淡々と続けた。
「あの…ですから、骸様。私はともかく、2人にだけは…犬と千種にだけは、ちゃんと話してあげてください。あの2人は本当に…骸様のことが好きだから」
「知っていますよ」
骸は手を伸ばして、髑髏の髪を撫ぜてやった。くすぐったそうに肩を揺らし、髑髏が頬を染めて瞼を下ろす。はにかんだような表情が、彼女を実際の歳よりも幼く見せた。愛らしいと、素直にそう思わせる顔だ。
あの2人は本当に骸様のことが好きだから。
そう呟く彼女の表情が、一瞬やわらかくなったことを骸は見逃さなかった。その言葉の裏にある感情も、まるで手に取るように解る。2人が自分と同じ思いでいてくれることが、髑髏は嬉しくてたまらないのだ。大切なものを誰かと共有すること、それだけのことが、骸と出会う以前の彼女にとっては有り得ない現実であったのだから。
大好きです、骸様。
口下手な彼女がそんなことを言えるはずもない。けれど、充分すぎるくらい伝わっていた。器用なのか不器用なのか、時々よく解らなくなる娘だ。そんなところが骸は気に入っている。
失いたくない、と。
思ってしまったら負けなのだと。
ああ、それならば僕は、尚更に認めなければならない。
敗北したまま気づかぬうちに目をそらすのと、敗北を自覚した上で前に進むのとでは訳が違う。
ならば、自分が選ぶべきなのは―――…。
「骸様…? どうかしましたか」
「いいえ、何でもありません」
首を横に振って、骸は目を細めて微笑んだ。
花の甘い香りが鼻孔をくすぐる。鬱陶しくはない。悪くないなと思った。他者の存在が与えてくれるものは、必ずしもではないが、自分に心地よい安堵感をもたらしてくれる。ようやくそれに気づくことが出来たのだ。
「ありがとう。可愛い僕のクローム」
明日。
朝一番に彼に会いに行こうと、骸は心に決めた。
「むくろ…か?」
ノックもせずに中へ入った。振り向いた彼は、自分の顔を見るなり「ああやっぱりお前だった」と言って、微かに笑う。無礼を咎めることもしない。
広い室内には自分たち以外に誰もいなかった。ここ最近は常と言っても過言ではないくらい、彼の傍らには決まって自称右腕の姿があったのだが、今日は珍しくどこか別の場所へ出ているようだ。聞けば、大事な式典を前に落ち着くことが出来ず、大広間や人員配置などの最終チェックをしにいったのだという。例の家庭教師も、先ほどまではこの部屋で一緒にいたらしいのだが、骸と入れ違いにどこかへ行ってしまったそうだ。もしかしたら、骸がここに来るであろうことを知っていたのかもしれない。
部屋の奥には大きな窓があり、そこから射し込む朝日がまっすぐに彼を照らし出す。目を細めた。あまりに眩しくて、相手の顔がよく見えない。
「あ、ごめん。眩しいならカーテン閉めようか?」
気づいたように尋ねてくる彼に首を振って、骸は少しだけ相手に近づいた。明るさに大分慣れてきた目は、少しずつ、彼の表情をはっきりと映してくれる。案の定その顔はあまりにも無防備で、自分がマフィアのボスであるということも、今日がその就任のための式典であるということも、彼はもしかして忘れているんじゃないだろうかと一瞬思った。
「沢田綱吉」
名を呼べば、答えてくれる瞳。遥かな大空が傍にいる。
無意識のうちに、骸は小さく息をついた。少しだけ胸のつかえが軽くなる。いつも通りの彼の姿。それを見るだけで、肩の力が抜けていくのが不思議だった。
「…話を」
「うん?」
「話を少々、よろしいですか?」
「あ、うん。いいけど…」
頷きかけて、綱吉は急に思い出したように「あ」と小さく声を発した。
なんですかと怪訝そうな顔をする骸に、彼は苦笑にも似た表情を浮かべて答える。
「昨日…ごめんな。リボーンがお前にちょっかい出したんだろう?」
「ちょっかい、というか…まぁ」
苦々しく言葉を濁した。出来ることならば思い出したくもないが、あの家庭教師の行動が自分に及ぼした影響は、決して悪いものではない。他人に干渉されることなど滅多にない骸にとっては、あれはかなり重大な出来事だったのだが、常日頃リボーンの気まぐれに付き合わされている綱吉にしてみれば、それは「ちょっかい」という何とも可愛らしい一言にまとめられてしまうのである。そのことがやけに腹立たしく、同時に妙な脱力感を覚えた。
黙り込む骸に何を思ったか、綱吉は少し心配そうに首を傾ぐ。
「気を…悪くしたか?」
「ええ、かなり」
「ごめん」
「君に謝られても困るんですがね」
「…ああ、うん、そうだな。でも、リボーンは絶対に謝らないと思うから、せめて俺が、」
「つくづくお節介ですね、君は。他人の責任とりまでするんですか?」
「だって俺は、ボスだから」
面を上げると、寂しそうに微笑む彼と目があった。背にした光が神々しさを感じさせ、思わず息を呑む。
「いいんだよ。わかってる。…お前の話って、今日の儀式のことだろう? 幹部は全員、俺に忠誠を誓わなくちゃいけない。マフィアを憎むお前が、本心からそんなこと出来るはずないって、俺、ちゃんと知ってるよ」
「…」
「だから、さ。今日は、忠誠を誓う“振り”でいいから。形式だけで構わないよ。骸にとっては、それでも苦痛に違いないだろうけど…でもどうか式典の間だけでも我慢して、俺に、」
「違う」
「えっ?」
骸は淡々と続けた。自分でも驚くほど冷たい声だった。
「僕が憎んでいるのはマフィアだ。取るに足らない、この世界そのものだ。君じゃない」
「…骸」
「そのことを言いに来たんです」
真っ直ぐに見据えるその先には、強く焦がれた空が在る。
いつからだろう。本当は、とうの昔に気がついていた。変化しないものなど存在しない。その証拠に、自分と彼の関係もこんなにまで変わってしまった。いや、ある意味では変わっていないと言えるのかもしれない。おそらく変わったのは、その関係に対する自分や彼の考え方だ。
めまぐるしい変化に、息をつく暇もなかった。
成長する彼。幼く弱々しかった少年は、しなやかな強さを持った心優しい青年へと変貌を遂げた。その瞳の色は深さを増し、奥に秘められていた光も相俟って、よりいっそう手の届かない宝石のように輝いた。
“全てに染まりつつ全てを飲み込み包容する大空”とはよく言ったものだ。指輪に刻まれたその使命のとおり、彼は全てを受け止めた。ボスとして、自分や他の守護者達の過去も、これから訪れるであろう未来も、全て。
骸がかつては敵の立場にあったのだということも、綱吉にしてみれば、抱え込んだ多くの過去のうちのたった1つにしか過ぎないのだろう。もちろん忘れたわけではない。忘れることは絶対にしない。ただ抱きしめるのだ。その大空のような心で、全てを抱きしめ受け容れる。そして再び笑うのだ。まるで何事もなかったかのように。
「どうして、君は」
声にならない。どうすれば伝わるのだろう。この感情を言葉にすることは難しい。
骸は右目を押さえた。なぜか微かに、鈍い痛みを感じていた。
「そんなにも、遠く」
住む世界が違うだなんて、いったい誰が言ったんだ。
彼はいる。そこにいる。同じ世界に立っている。だって姿が見えるから。声を聞くことも出来るから。
なのに、どうして、そんなにも遠い。
手が届かないからこそ希求する。手に入らないから壊したくなる。手が届かないから壊せない。
遠い大空。遥かな大空。
(ああ何てこと。それでは、いつまで経っても終わりなんか来ないじゃないか!)
ぐるぐると、めまぐるしく廻る。それはまるで輪廻。
終わりのない想いがループのように回り続け、骸に目眩を覚えさせる。どうしようもなく苦しかった。
いっそ全て終わらせられたら、彼の前から消えることが出来たらと、強く願った、次の瞬間だった。
「遠くなんかないよ」
唐突に、彼の手が頬へ触れた。
あたたかい。
骸が驚いて目を見開く。大空の瞳が、目の前にあった。
彼の目に自分の姿が映っているのを、骸はどこか信じられないような気持ちで見つめた。
「遠くなんかない。こんなに近くにいるじゃないか。触れることだって出来るよ。言葉を交わすことだって出来るよ。お前が逃げない限り、俺も目をそらしたりはしない」
―――…強い目だった。
骸が無言でいると、綱吉は困ったように眉を寄せ、やがてくしゃりと破顔した。
「なあ、骸。俺はお前が好きだよ。お前が俺を嫌いでも、憎んでいても、お前は俺の仲間だよ。守るとか、守られるとか、そういうの関係なく、ただ一緒にいることは出来ないのかな」
「…甘いにも程がある」
「ほんとにな。…でもさ、ちょっとくらい、信じたっていいじゃないか」
大空は、穢れを知らないわけではなかった。世の中全てが美しく、理路整然と並んで居るだなんて思っちゃいなかった。ただ、穢れも憎しみも理不尽もすべて飲み込んだうえで、まだ信じたいと、信じさせてくれと言っているのだ。お前も共に信じてくれと、骸や、他の仲間に願っているのだ。
「―――…!」
それがどんなに難しいか、骸もよく知っていた。でも、綱吉の言葉を真っ向から否定することなど出来ない。ようやく、目が覚めたところだった。
自分は、変わることを恐れるあまり、大切な何かを忘れていたのだ。
最初から分かり切っていたこと。失うことも、それにともなう変化や衝動も、自分には縁遠いものだった。
だって、自分はまだ“それ”を手に入れてすらいない。手の中に無いのなら、失うことなど不可能だ。それなのに自分は、あるはずのない未来を恐怖していた。
滑稽すぎて、もう笑うしかない。
「…どうして、気づけなかったんでしょうね」
「え、何が?」
「簡単なことですよ」
綱吉の手を握り返して、骸も苦笑した。
「遠いなら、近づけばいいだけのことだったのに」
風が吹けば、霧だって空へと昇るだろう。
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