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遥かなる、
作:木立久美子



追憶


「どうして、わかんないんだよ」
 突き放すのではなく、ただ悲しげに彼は言った。
 大空のように澄んだ眼が、切なげに歪む。
「…そんなに俺が憎かったのか」
 掠れるような声で零れ落ちた、相手の呟き。
 それを聞いて、いつのまにか冷笑を浮かべている自分に気がついた。
「何を今更」
 どんなに叫んだって、その言葉が自分の心に響くことはない。
 君は大空。遠い、遥かな大空。
 だから、手を差し伸べることも、その手を掴むことも自分には出来ない。
 足掻いたって届きやしないのだ。

 ―――…だって自分は、地べたを這いずる霧だから。






「本当に君は愚かだね」
 何の感情もこもらない声が、無機的な響きで耳朶を叩いた。
 そのまま無視をして通り過ぎても良かったのだが、あいにく目が合ってしまったものだから仕方ない。骸は小さく息を吐いて、その歩みを止める。
 廊下の片隅。背を壁にもたれて佇む人影を見据えて、ゆっくり口を開いた。
「いきなり何を言うんですか、雲雀恭弥」
 しんと静まりかえった広い廊下には、自分と相手以外の姿はない。高い天井に設置された照明は鈍い光を放ち、かえって周囲の薄暗さを際だたせた。建物そのものが古いせいかもしれない。ところどころに飾られたアンティークも、それに拍車をかけている。
 ボンゴレ内でも、上層部の限られた人間しか立ち入ることを許されない奥の奥だ。
「いきなり、ってわけでもないんだけど。まさか、気づいてなかったとは言わないだろう?」
 その、限られた人間の1人である雲雀は淡々と続けた。
「君が愚かだと、そう言ったんだよ。とうとう頭だけじゃなくて耳もおかしくなったのかい」
 切れ長の眼を僅かに細め、雲雀の表情はいっそう冷ややかになる。
 それを見た骸は唇の端を歪めて、うるさいですよと言い返した。何故そこまで言われなければならないのか、理由が分からない。雲雀が自分から骸に話しかけてくること滅多になかったし、それだけでも充分訝しく思っていたのに、そこから放たれた言葉はあまりにも意味不明だった。唐突すぎて、まともな反論さえも出来やしない。
 ただ、自分にとってあまり気分の良い話ではないことだけは解った。
 骸はフッと冷笑して、完全に相手の方へ向き直る。正面から雲雀の顔を見据え、彼が嫌いだと言っていた挑発するような微笑みを、わざと浮かべてみせた。
「まったく心外ですね。体の機能は至って正常です。…君の方こそ、一体どんな気まぐれを起こしたんですか?」
 僕とはもう口をきかないと言っていたくせに。
 そう付け加えてやると、雲雀は眉を寄せて溜め息を吐いた。
「何年前の話をしてるの。それに僕だって、好きでこんな役回りを引き受けたわけじゃないんだよ」
「役回り?」
「そう。赤ん坊の頼みだから、仕方なく」
 その言葉に骸は眉をひそめた。
 雲雀の言う「赤ん坊」とは勿論、骸もよく知るボンゴレ専属ヒットマンのことだろう。今はもう成長して、昔のような赤ん坊の姿ではなくなっていたのだが、雲雀は相変わらず彼のことを「赤ん坊」と呼んでいた。他人に無頓着な彼にしてみれば、幼児も赤ん坊もそう大差ない存在なのかもしれない。
 だが、その「赤ん坊」が何故この男に頼みを?
 眉を寄せたまま考え込んでいる骸をよそに、雲雀は無表情で口を開いた。
「君さ、いいかげん認めたらどうなの」
「…何をですか?」
「自分自身」
「おっしゃる意味が、よく解りませんね」
「まだ、とぼける気なの。あんまりふざけてると咬み殺すよ」
「どうぞご勝手に。でも、本当に解らないんです」
「―――じゃあ、沢田綱吉のことは?」
 骸の表情が険しくなるのと、雲雀が唇に薄笑いを浮かべるのは、ほぼ同時だった。
「ああ。やっぱり、そっちの方の自覚はあるんだね。赤ん坊の言ったとおりだ」
 その視線から逃れるように、骸は彼から顔を背けた。かろうじて舌打ちを堪えた横顔に、雲雀は容赦なく言葉をぶつける。
「解っているなら話は早いよ。彼の言うとおりに、とっとと腹を括ればいいんだ。悪いけど、僕は君の気持ちなんか知ったこっちゃないから」
「わかってますよ。僕の方こそ、君に気遣われるくらいなら死を選びます」
「へぇ。嫌われたもんだね」
「お互い様でしょう」
 ばらばらと、仮面が崩れ、剥がれ落ちるような音がする。それは自分の内側から響いてくる幻に過ぎないのだと、骸は自覚していた。その音は暫く止まりそうにない。もうすぐ、素顔の自分が姿を現すのだろう。悔しいことにも、寄りによってこの男の前で。
「どうしたの。気分が悪そうだけど」
「本当に気分が悪いんですよ」
 吐き出すように応え、骸は額を押さえた。
「…アルコバレーノは陰険ですね。どうして、よりにもよって君なんかを寄越したのか、」
「僕もそう思ったよ。面倒だし、他に適任がいるんじゃないか、ってね。でも赤ん坊は、僕でなくては駄目だと言った」
「なぜ」
「さぁね。後で、自分で聞きに行けば」
「…」
 骸は感情を封じ込めるように、きつく目を閉じた。
 平静を装うことも、普段通りの表情でこの場を取り繕うことさえままならない。苛立ちは徐々に募り、このままでは感情が露わになってしまう。そうなる前に、相手の前から姿を消してしまいたかった。
 そんな、じわじわ浸食するような弱い心を、背中合わせのどす黒い感情で覆い隠す。
 骸は他人に弱みを見せるなど我慢が出来ない性分だし、もともと、他人の目にとまるような弱みなど持っているつもりはなかった。けれど今、これ以上この場所にいつづけることは、あまりにも耐え難く感じられる。そんな自分に驚いた。

 ―――これほどまで余裕をなくしてしまうのか、あの名前を聞いただけで。

「…どこに行くんだい」
 雲雀はもたれていた壁からほんの少し体を起こし、その背に声をかける。歩き出そうとしていた骸はぴくりと動きを止め、振り返りもせずにうるさいと呟いた。
「どこだっていいでしょう」
「話はまだ終わってないんだけど」
「後で、ちゃんと聞きます」
「嘘つきは嫌いだ」
 その言葉に無言を返し、薄暗い廊下を歩き出す。絨毯が敷かれているせいか足音は全く響かず、2人の声さえ止んだ今、その場は不気味なほどの静寂に包まれていた。もちろん、恐怖は微塵も感じない。その代わり、得も言われぬ焦燥感に苛まれ、骸はそんな自分に吐き気を覚えた。
 背後で小さな溜め息が1つ。やろうと思えば全く不可能でもないのだろうが、雲雀は力ずくで骸を引き留めようとはしなかった。ただ一言、去り際にこんな言葉を投げかけただけだ。
「ねえ、霧。就任式は明日だよ」
 そんなこと、言われなくても解っている。




 ボンゴレ9代目がボスの座を退いたのは、綱吉たちが高校を卒業してからのことだった。
 直接的な理由は、9代目自身の持病の悪化と、体力の低下。彼も高齢だったから、そろそろ限界が来たのだろう。
 18歳になっていた綱吉はイタリアのボンゴレ本部に呼び寄せられ、そこで自分が次代を継ぐ旨を、9代目本人の口から伝えられた。急なことだったが、心の準備は出来ていた。
『わかりました』
 9代目の手を取り、跪いた綱吉はそっと微笑んでこう言った。
『ゆっくりお休み下さい、9代目ボンゴレ・ノーノ
 出会ったころの彼からは想像も出来ないほど、穏やかで落ち着いた、心優しい青年の姿がそこにあった。
 いつから彼は、こんな表情をするようになったのだろう。その横顔から、幼さが完全に消えたのはいつだっただろう。気づかぬうちに彼は大人になっていた。それこそ、自分の身に降りかかる全ての運命を受け容れ、それがどんな残酷なものであろうとも、自らの意思で歩むべき道へと変えてしまうぐらいに。
 9代目は、そんな綱吉を見つめて目を細め、どこか懺悔するように口を開いた。
『私を…恨んでいるかね、綱吉君』
『え…?』
『君は優しい子だ…マフィアのボスになど、なりたくなかっただろう。もっと、普通の幸せを手に入れられる人生があっただろう。それを…ねじ曲げてしまったのは、他でもない私だ』
『9代目』
 ゆるゆると首を振った綱吉は、違います、と静かに言った。
『確かに俺は…マフィアが嫌いです。誰かが傷つくのも、誰かを傷つけるのも嫌です。でも、』
 握った手は温かく、そのぬくもりを逃がさんとするかのように、綱吉は力を込めた。
『感謝してるんです。…9代目、俺はあなたに、心から感謝してる』
 老人は驚いたように目を瞠った。綱吉は、一言一言かみしめるように言葉を続けた。
『――…あなたがいなかったら、俺はリボーンに出会えなかった。一生ダメツナって言われ続けて、自分に自信が持てないまま、つまらない人生を送っていたに違いないんです。俺は仲間が…大切な人たちが出来て、初めて自分のことを好きになれました。あなたのおかげなんです、9代目。あなたが、俺に、この生き方を与えてくださった。…だから、』
 青年の顔が、初めて崩れた。
『だから、恨むだなんて言わないでください。お願いだから、言わないで』
 握りしめた手はいつのまにか震えていた。
 それはまるで、神聖な祈りのように。
『今ここにいる、俺自身の意思を、否定、しないで』
『綱吉君…』
 老人が弱々しい手を伸ばし、青年の髪をそっと撫でた。まるで、祖父が幼い孫にするかのような優しい仕草。このときばかりは、青年も小さな少年の姿に戻った。
 どれほど外見が大人びようと、心だけは出会ったころから変わらない。出会った頃のまま、まさに大空のような純粋さを胸に秘めた、若きボンゴレ10代目がそこにいた。
『そうだね。すまなかった…綱吉君』
 弱々しく、けれど嬉しそうに9代目が笑う。
『私は、今ほど君がボンゴレ10代目で良かったと思ったことはないよ』
『…ありがとう、ございます』
 そんな2人の姿を、守護者達は少し離れたところから、じっと見守っていた。
 今この瞬間、ボンゴレの未来そのものが、老人の手から青年へと受け渡されたのだ。自分たちはその立会人であり、これからは彼と共にその未来を守っていかねばならない。
 何千というファミリーの命が、たった1人のボスに委ねられる。それがマフィアだ。その重みを背負った綱吉の肩が、僅かに震えた。以前から小柄だった彼の背がいっそう華奢に見えた。
 唐突に理解する。これでもう引き返せないのだと。
 逃れられない運命が彼を覆っていった。明るい光の世界に戻ることなど、もう二度とない。決して越えることの出来ない境界線が、既に引かれてしまったのだから。
『みんな』
 9代目との面会を終えた後、部屋を出た綱吉は守護者達の顔をゆっくりと見回し、口を開いた。
 強い光が宿る、その目で。
『俺は、みんなを信じる。何があっても信じてる。…だから、みんなも俺のことを、信じて』
 あまりにも純粋な誓約。そして願望。
 迷いは微塵もない。静かに、穏やかに、青年は仲間を引き連れて、闇の世界へと足を踏み入れた。














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