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タウと自転車

作者: 楪羽 聡

「そうそう、次、右足蹴ってぇ」



 トキコが息子のタウに声をかける。

 小学校四年生のタウは、母親の声援にこたえるように、地面を蹴った。




 タウはまだ自転車に乗れない。

 生来の慎重さが――といえば聞こえはいいが、つまるところ非常にビビリな性格のためなのだ。


 僕もそうだった。妻のトキコは僕とは正反対で、小さい頃から男勝りだのおてんば過ぎるだの言われていたらしい。

 タウは僕に似たのだろう。



 「あ! あぶない!」



 僕は咄嗟にタウの自転車を押さえた。


 肩に力が入り過ぎていたため、ハンドルを上手く扱えずに、倒れ掛けたのだ。



「えへへ。ありがとうパパ」

 タウがニカっと笑顔で僕を見上げる。



「もー、パパったら、そんな程度で手を貸すことないよぉ」

 追い付いたトキコが、腰に手を当ててふくれる。


「危ないって時に、自分でどうにかしなきゃいけないんだから」


「でも、タウが転んだら……」

「転んだら転んだで、それにも慣れなきゃいけないでしょ?」



 トキコは「それも練習のうちでしょ」と素っ気ない。


 僕はトキコとタウの顔を見比べて、困ってしまった。



「パパは過保護過ぎ。タウだってもう赤ちゃんじゃないんだから――」





 過保護という自覚はあった。


 タウは他の子よりもほんの少しだけ成長が遅かったから、僕とトキコは懸命に彼をフォローして育てていた。



 その甲斐があったのか、お世話になった方々のお陰か、徐々にタウは『変わってる子』から『ちょっとおっとりしてる子』程度にまで成長した。



 だがやはり他の子と比べると、色んなことにおいて出だしが遅いように思う。


 自転車もそのひとつだ。




「パパだって、自転車に乗れたのは四年生の時だったって言ってたじゃない」

 ある時、タウがまだ自転車に乗れないことを危惧した僕に対して、トキコは呆れた顔を向けた。


「あたしは、幼稚園児の頃から補助輪なしで乗り回していたけど」とトキコは付け加える。



「僕の場合は……練習場所がなかったから」

 男らしくないだろうが、僕はいつもの言い訳をしていた。






 僕が子どもの頃に住んでいた所には、近くに自転車の練習ができるような公園がなかった。


 両親は共働きで、「事故に遭ったら困るし、勝手にひとりで練習しないようにね」と言い、言いつけを馬鹿正直に守っていたため、僕の練習は両親の休日に限られていた。



 両親が選んだ練習場所は近所のお寺の境内だった。だがそこはあまり練習に適した場所ではなかった。


 田舎の寺なので、参拝者もまばらでその点はよかったのだが、地面に敷いてあるのが玉砂利ではなくバラスだったのだ。



 鋭角な石が、ただでさえ危うい自転車のバランスを更に悪化させ、転べば即流血沙汰――そこへ来て、根性論のスパルタで練習させられる僕は、初日にして自転車へのトラウマを植えつけられることになったのだった。



 ――というのは多少大袈裟だが、練習が怖かったのは本当だ。


 その代わり、乗れるようになった時には、例えママチャリでも悪路をスポーツサイクル並みのスピードで突っ走れるようにはなったのだが。





 タウの練習が遅くなったのは、環境のせいではなく主にタウの性格によるものであった。だが、自転車に乗りたい、と練習に意欲を見せたのもタウ自身だった。


「サッカーの帰りにさ、トシローくんとハマちゃんが自転車だったんだよ」と、ある木曜日の夕食時にタウが切り出した。



 学校のグラウンドで放課後に開催されている、無料のサッカー教室の話だった。


「ほんとは自転車ダメなんだけど、乗って来てるのが多いんだ」とタウは言う。



 同じ方向に帰る友人の中の二人が、一度家に帰って、それぞれ自転車に乗って来たのだという。


 子どものことだから、徒歩のスピードに合わせるなどという気遣いもなく、一緒に帰路についた徒歩組は、軽いジョギングを強いられたというのだ。



 その日は「ズルしちゃいけないんだ」というような結論になって終わったのだが、次の週の木曜日には、話が急展開する。



「オレ……自転車、乗りたい。練習する」


「お? 珍しいな、自分からやる気を見せるなんて。さすがは四年生だなぁ」



 僕は少々大袈裟に褒めた。

 だがタウはいつもの得意気な表情ではなく、少し困惑していた。



「……何かあったのか?」


 僕は、味噌汁のお代わりを持って来てくれたトキコと、目配せをする。



「困ったことがあるなら、教えて?」



 両親が心配そうに見つめる中で、タウは言いにくそうに切り出した。


「今日のサッカー、トシローくんとハマちゃんだけじゃなくて……センタもマエバシも自転車に乗って来てた」




 今日は徒歩組が三人しかおらず、既に過半数が自転車だったことになる。

 当然、来週はタウを除く残りの二人も自転車で来るだろう……と、彼は予想したのだ。



 ルールを順守することも大事だが、友人との付き合いもある。


 また、サッカー教室に自転車で来ることは厳密にいえばルール違反になるのだが、どうやらその辺りは学校側も黙認しているらしかった。



「すぐ乗れるようになる?」

 両親を見つめるタウの眼は真剣だった。



 そして、翌日から彼は自転車の練習を始めたのだった。





 初日はとりあえず自転車にまたがって、両足で地面を蹴って進んでみた。

 だがペダルで何度も脛を打ったため、トキコがペダルを外してしまった。


それ(ペダル)ないと、こげないよ?」とタウは困惑していたが、トキコは「まず蹴ってバランスを取れるようになってからね」と、笑顔で息子を諭した。



 僕もたまたま代休を取っていたため、彼らの練習に付き合ったのだが……やはり僕は『付き合い』でしかないと思わされる。



 その日の晩酌時に僕は「自転車の練習は、トキちゃんに任せるよ」と気弱な台詞を吐いたのだが、彼女は譲らなかった。


「そうじゃないよガンちゃん。タウにしてみれば、パパもママも見守ってくれてる、っていう安心感が重要なんだよ。ガンちゃんもいなきゃ駄目」



 目の縁をうっすらと染めつつ、彼女は僕のことをあだ名で呼ぶ。いつもは強気で頼もしい『ママ』だったが、タウが寝た後の僕たちは、付き合いの長い恋人同士に戻るのだった。



 土曜日は午前と午後の二回、練習に出た。


 一度の練習は一時間以内、というのが彼女(ママ)のルールだった。



「それ以上続けても、タウの集中力が続かないし、あんなにガチガチだったら身体(からだ)も疲れちゃうのよ」と、息子の後ろ姿を眺めながら彼女はつぶやく。


 その言葉通り、昼食を食べ終わったタウは、遊んでいる途中で寝てしまった。



 僕は昼食をつまみに昼ビーをキメていたが、午後の練習にもつき合わされた。

 と言っても、主なコーチはママで、パパは後から声援を送る係に徹していたのだけれど。




 そして今日は日曜日。


 トキコは、今日の午後には乗れるようになるはずだ、と宣言する。



 土曜までの練習で、ペダルなしで蹴って進む段階まではできた。今日はペダルをつけての練習をしている。


 だが、午前の練習では、ペダルに片足を掛け、もう片方で地面を蹴ってひたすら進む、という繰り返しだった。



 ほとんど車通りのない近所の道路で、(いち)ブロックごとに足を入れ替える。

 二周目は、ブロックの半分で足を入れ替える――五周目はひと蹴りしてからペダルに体重を掛け、そのままどこまで自転車が進むか――という『ゲーム』だ、とトキコは言った。




 ブロックの四辺目に入ったところで、タウは肩に力が入り過ぎ、バランスを崩したのだった。




「次は何をするの?」


 ふらついてひやっとしただろうに、タウは目をキラキラさせて母親を見上げる。褒めちぎりながら、応援しながら練習したこの三日間で、彼の技術もそうだが自信もかなり持ったようだった。



「そうねえ……午後は、ペダルを漕いでみましょうか」とトキコは言う。


 途端に、タウは不満を表した。

「オレ、まだできる!」



 肩も腕も、慣れない姿勢の連続で体幹も、疲労していると僕たちは考えていた。だが折角本人がやる気を見せたのだ。僕たちは目でどうするか相談した。


 まぁ、相談するまでもなく、意見は一致したのだが。

 できれば、僕たちも本人の主張を尊重したかったのだ。





「タウ、そう、蹴って蹴って蹴って!」


 トキコが声をあげる。



 僕らはあえて、彼のすぐ後ろにはつかなかった。



 走れば追い付ける距離、だが、転んだ場合には間に合わないかも知れない距離――僕は焦れたが、トキコに釘を刺された。



「パパも、練習よ」



 普段僕より身近でタウと接している母親の言うことだ。やはり僕は過保護なのだろう。



 タウは一所懸命、片足で地面を蹴る。充分にスピードが出てから、その足をペダルに乗せる――まだペダルは漕がなくていい、という母親の言葉に不満を抱きつつも、それを繰り返す。



 右足で蹴って蹴って蹴って――



 左足で蹴って蹴って蹴って――




 ブロックを一周回って更に二辺目に差し掛かる。

 散り始めた八重桜が風に舞う。




 ――あぁ。

 この瞬間は、きっと『現在(いま)』しかないんだ――



 そう思った時、僕は無意識にスマートフォンを取り出していた。



 タウは間もなく、自転車に乗ることが当たり前になるのだろう。

 桜は間もなく散ってしまうだろう。



 淡い感傷を抱きながら、カメラレンズをタウに向ける。


 八重桜の花びらが散る中、タウは懸命に蹴って進む。その、後ろ姿。




 ざあっと、風が吹いた。


 僕が四角く切り取った世界に、花吹雪。



 ――あぁ、綺麗だ――




 その時――傍らでトキコが小さな歓声をあげた。

 僕も思わず声をあげそうになる。



 タウは地面を蹴った勢いのまま、ペダルに足を掛け――ぐい、と力強く踏み込んだのだ。

 トキコが声を抑えたのは、僕がタウを撮っていることに気づいたからだろう。


 タウはその勢いのままペダルを二回漕ぎ、ハンドルが揺れたことに驚いて足を着いてしまった。



 だが振り向いた彼の顔は上気して、驚きと達成感に満ち溢れた笑顔だった。




「できた? オレ、できてた?」


 彼は満面の笑みで、両親に確認する。




 桜舞う四角い世界の中に、この世界で誰よりも一番タウを愛している母親が飛び込んでいった。


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『僕』とトキコの出逢いの話。 『僕と短冊 / 『僕ら』の数年前の話。 『トキコと花火
― 新着の感想 ―
[一言] 自転車の練習で一作ができるというのが斬新でした。最後の一文、いいですね。
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