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名も無き者達の幸福

盲目

作者: くる ひなた




 少女は美しかった。

 緑なす黒髪は華やかな着物によく映えて、彼女の夫はそれを結い上げるよりも長く背に垂らす様を好んだ。

 士族出身の夫は若いながらも財をなし、政界に打って出て先頃ついに自分の席を手に入れた。

 少女が十五で彼と祝言を上げ、広い邸宅へと移り住んでから二年後のことである。

 少女の生家は華族であったが、放蕩の限りを尽くした父の代で家は大きく傾いた。

 それを立て直そうと奮闘した年の離れた兄によって、彼女は幼い頃から現在の夫に嫁ぐことが決められていた。

 つまりは、売られたのだ。

 けれど、彼女はそれでもかまわなかった。


「愛しているよ、僕の可愛いお姫様」


 夫はいつもそう言って、少女を本当の姫君のように大切にしてくれたのだ。

 その身を飾る着物や装飾品を惜しげもなく買い与え、蕩けるように甘い菓子で彼女の小さな唇を喜ばせた。

 西洋から取り寄せた天蓋付きの豪奢なベッドの上で、夜毎彼女の身体を隅々まで愛でつくし、その黒髪に埋もれて眠るのが夫の常であった。

 手指が荒れるといけないと水仕事も針仕事もさせず、少女の仕事といえば、どれだけ閨で激しく乱された翌朝でも身支度を整えて、夫の望む美しい姿で彼を見送ることだけだった。

 彼が出かけてしまえば、することは何もない。

 何もしなくてもいい、のではない。

 何も、してはいけないのだ。

 外出など、もってのほか。

 夫は愛情豊かな一方で、ひどく嫉妬深い男でもあった。

 平素少女が一緒に過ごす女中とさえも、気安く接することを嫌うのだ。

 一度など、少女がうっかり下男に労いの言葉をかけてしまったばっかりに、夫は用心棒に命じて彼をひどく折檻した。

 そんなこともあって、屋敷に仕える者は誰一人として少女と言葉を交わそうとはしない。

 女主人として大切に扱いはするものの、それは主人の大切にしている高価な人形と同じ扱いである。

 人として少女と向かい合う者は、誰一人としていなかった。

 彼女がこの世で言葉を交わす相手は夫ただ一人であり、仕事で忙しい彼が帰れない日などは、結局一言も発せぬまま眠りにつくことさえあった。

 けれど、彼女はそれでもかまわなかった。

 寂しく思うことはあるが、夫が自分だけを愛していると盲目的に信じることができていたから。

 彼には、自分だけが必要なのだと、思い込んでいられたのだから。

 

 しかし、やがて少女の瞳は真実を映し出すことになる。




「わたくし、ややを身籠りましたの」


 そう言って、あでやかな笑みを浮かべたのは、洋装に身を包んだ美しい女だった。


「旦那様が認知してくださいましたので、本日はこうして奥方様にもご挨拶に参りました」


 女は堂々と夫の愛人であると名乗り、まだ膨らみの気配もない腹を撫でて紅いルージュを引いた唇をつり上げた。

 

「正妻の座を寄越せと言うつもりはございませんのよ? 華族出身の奥方様は、旦那様のお仕事にとって必要ですもの」


 ふふと毒婦のごとき笑みをこぼし、女は顎の下で真っ直ぐに切り揃えた黒髪を揺らした。

 それは、少女に日本人形のような奥ゆかしい姿を望む夫の好みとは合致しないはずの、昨今流行りのモダンな髪型であった。


「ただ、わたくしが奥方様より先に男子を産むようなことになれば、このあと少々面倒なこともございましょう。それは、どうぞご覚悟くださいまし」


 続いて少女が知ったのは、夫の愛人はこの女だけではないということだった。

 彼女の他に幾人も情婦を囲い、中にはすでに十年以上の付き合いの者までいるという。

 愕然とする少女の顔を見て、女は呆れたように言った。


「何を驚いていらっしゃいますの? ご自身お一人で、旦那様を満足させられているとでも思っておいででしたのかしら。そうだとすれば、なんと自惚れ屋でお目出度いお姫様なのでしょう」


 愛らしいだけで他に取り柄もない華族の娘。

 言われるままに床の間に収まっただけの少女に、人形以上にどんな価値があるというのか。

 夫の愛人は出されたお茶を飲み干すと、優雅な足取りでさっさと引き上げていった。

 その後、少女はどのようにして自室に戻ったのか、よく覚えていない。

 ただ、もともとよそよそしかった家人達の態度が、より腫れ物に触るようになったのだけは分かった。


 今夜は、夫は帰るのだろうか。

 愛人がこの屋敷を訪ねてきたことを、彼は知っているのだろうか。

 その存在を知った少女に、一体どんな顔を向けるつもりなのだろうか。


 ――すまない、許してくれ


 そう、切なく懇願し、少女の裸の足に口付けるのだろうか。


 ――何を今更


 あるいはそう言って、少女の衝撃など歯牙にもかけず、いつものように彼女の膝を割るのだろうか。


 そのどちらであっても、少女の心にぽっかりと開いた空虚が埋まることはないだろう。

 目の前に用意された美しいものだけを見て、それが全てだと思って生きてきた。

 家の再興を望む兄の手駒として育てられ、嫁げばただ人形のように床の間に飾って気まぐれに愛玩されて。

 それが幸せだったというのなら、少女はこれからも用意されたものだけを見ていればいい。

 夫の優しい笑顔の裏も、甘い言葉に隠された毒も何も知らぬまま、ただ盲目的に従順に。

 そうでなければならない。

 誰かの思惑に庇護されていなければ、何もできない少女などどうやって生きていけるというのか。


「目を瞑ってしまえばいい」


 少女は一人、そう呟いた。


 何よりも、鏡に映る自分を見ないように、目を瞑ってしまわなければならない。

 夫の不貞を知って絶望したはずなのに、一滴の涙も零れぬ自分の顔を見てはならない。

 彼のことなど最初から愛してさえいないのだから、嫉妬や憎悪が湧くわけもないなどと、気づいてはいけない。

 夫を愛し従順な妻であることこそが、少女に望まれた全て。

 本当の自分の心など、知ってはいけないのだ。


 それならば、自分の意志ではもう何も見なければいい。

 そうすれば、きっと生き易い。


 そう思ったとたん――



「――きゃっ……!?」



 間近に迫っていた夕闇が、突如彼女に襲いかかって飲み込んだ。



 真っ黒い闇は、底なしのようだった。



 上も下も分からぬが、凄まじい速さで落ちていることだけは知れた。


 

 ――ああ、自分はこのまま奈落に落ちて死ぬのだ。



 少女はそう思った。

 不思議と恐怖は感じず、むしろ心は凪いでいた。


 それなのに、襲いかかった時と同じく、闇は突然彼女を解放した。

 とたんに目に突き刺さる眩しさに、少女はぎゅっと両目を瞑った。







 魔術というのは数式のようなものだ――と、それを生業にする男は思う。


 魔術の式は最初から決まっていて、それは誰にだって唱えることのできる単純明解なものだ。

 例えば、“リンゴが一つ欲しい”という願いを叶える式がある。

 また、“風を起こす”という式もある。

 これらを組み合わせると、“風を起こして木になったリンゴを一つもぐ”という式を作ることができる。

 ただし、ただ二種類の式を順番に唱えるだけでは、風を起こすこともリンゴを手に入れることもできない。

 では、どうすればただの式を魔術に変えることができるのか。

 まず知っておかなければいけないのは、魔術は一つの式だけでは発動しないということだ。

 魔術は、いくつかの式を組み合わせることによって乗じる摩擦が発火剤となり、ようやく効果を現すのである。

 つまり、いかに効率よく、かつタイミングよく多くの式を組み合わせられるかによって、大きな魔術を発動させられるか否かが決まる。

 これには血の滲むような鍛錬と、膨大な種類の式を覚える記憶力と、あと生まれもっての才能も必要であると男は思っている。

 さらに忘れてはならないのは、魔術の式はかけ算や足し算でなければならないということだ。

 何故なら、割り算ではしばしば割り切れない半端な答えが生じることがあり、引き算では時に最初の数よりマイナスになってしまうことがあるからだ。

 大きな魔術を使おうとするならば、迷いを持ってはならない。

 例えば、戦場で敵の足を止めたいとする。

 この時、自分の魔術が発動すれば、一体幾人の命が失われるのだろうなどと考えてはいけない。

 もしかしたら、味方を巻き込んでしまうのではないかなどとも、案じてはならない。

 迷いは割り算であり引き算だ。

 それが混じると、いかに完璧な式であろうと意味をなさないばかりか、最悪の場合暴走して手がつけられなくなる。

 ゆえに、優秀な魔術師というのは冷酷で、自分の力に絶対の自信を持つ高慢さも必要なのだ。

 

『血も涙もない悪魔』


 いつしか自分につけられたそんな二つ名を、男は「上等だ」と鼻で笑った。

 魔術師の自分にとって、それは褒め言葉以外のなにものでもない。

 実際彼は、先頃の戦で魔術によって先陣を切り、敵国の兵士の骸を山と積んで、祖国を完全勝利へと導いたのだから。

 おかげで、平民の出でありながら将軍補佐の地位まで上り詰め、魔術師としては最高の栄誉である“賢者”の称号を与えられた。

 ただし、それと引き換えに失ったものもあった。

 彼ともあろうものが、迂闊にも僅かな迷いを持ってしまったがための失態である。


 






 ――ぽすん……





 底なしの闇に落ちたと思っていた少女を受け止めたのは、固い地面の感触ではなく、血の通った人の温もりだった。



「……ふん。えらく頼りない手触りのヤツを呼び寄せてしまったな」


 そう降ってきた声に、少女はきつく瞑っていた両目をおそるおそる開いた。

 彼女は見知らぬ男の腕に横抱きにされた状態で、見たこともない場所にいた。


「おい。生きているなら、うんとかすんとか言ってみろ」

「は、はい。あの……」

「おう、女か」


 男は、外国の絵本に出てきたような、幾分古めかしい洋装に身を包んでいた。

 それに、少女がまだ夫と祝言を上げる前、一度だけ兄に連れていかれた異国館で見かけた西洋人のように、白い肌と濃厚な蜂蜜色の髪をしている。

 彼らの瞳の多くは青や緑といった煌めく宝石のようであったが、この男も東洋人とは違う明るい色の瞳をしているのだろうか。

 一瞬少女は興味をそそられたたが、それを確かめることはできなかった。

 何故なら、男の両目は白い包帯で覆われていたからだ。


 魔術師の男は、先頃の戦で両目を失っていた。


「目が見えずとも、魔術で大体はどうにでもなるので生活には困らない。そもそも、他人に世話を焼かれるのはどうも好かん」


 そう吐き捨てながら、男は魔術でもって自分の望みに見合う存在を呼び寄せたのだと、矛盾したことを言う。

 魔術と聞いて、少女は手品や奇術のことだと思ったが、それはもっと摩訶不思議で彼女には理解できない特殊な能力のことであった。

 ただし、魔術は万能ではない。

 死んだ者を生き返らせることや、失ったものを再生させることはできないのだ。

 ゆえに、男がいかに優秀な魔術師であろうと、潰れた両目を元に戻すことはできなかった。

 男は少女を自分の前に立たせると、一方的に話し始めた。

 

「炊事洗濯掃除どれも魔術で補える。そもそも、何もできないヤツに的を絞って探索したのだから、それで選ばれたお前に何も期待しない」

「……」

「お前の容姿が美しかろうが醜かろうがどうでもよい。馬鹿でも、俺の言葉が理解できるなら、それ以上は望まない」


 随分な言われようだが、確かに自分は満足に家事一つできないだろういう自覚があったので、少女は腹は立たなかった。

 男が望んだのは、求める以外のことをなさず、ただただ従順に自分の望みを叶えるだけの生き物。

 その条件に適うのならば、女であろうと男であろうと、あるいは人間でなかろうともかまいはしなかったのだという。

 ――煩わしいしがらみの一切ない者を。

 そんな存在を現実の世界の中で見つけるのは、簡単なようでいて実はとても難しいことだった。

 だから、彼の完璧な魔術は世界を越えて条件に合う存在を探索し、少女を引っ張ってきたのだろう。

 

「……わたくしは、何をすればよろしいのですか?」


 少女がそう尋ねると、男は「見ろ」と言った。

 彼女が「何を?」と首を傾げると、男は「全てを」と続けた。


「お前はただ、見ればいい。俺の前に広がる世界を俺と同じ目線で見て、それを余すことなく俺に伝えろ」

「同じ目線で、見て?」

「そう、それだけだ。見えずとも生きるのには困らないが……つまらん」


 男はそう言い訳のように呟くと、少女をひょいと抱き上げた。

 そうすると、確かに彼女の目線と包帯を巻いた男の目線が平行になった。


「さあ目よ、教えろ。俺の目には今、何が見えている?」

「……窓が」

「ほう」

「……窓の向こうの山際に、日が顔をのぞかせています」


 少女は問われるままに、彼の包帯に遮られた視線の先にあるものを教えた。

 すると、男は目が見えていないなどと思えないほどのしっかりとした足取りで窓辺に寄り、外へと顔を向けて満足げに口端を引き上げた。


「なるほど、東に日か。では今は朝であり、この時点では晴れているというわけだな」


 その言葉に、少女は彼に倣って窓の外の世界を見た。

 太陽は山肌に沿って光の尾を這わし、麓に広がる田畑を、そして街を照らし出した。

 それは、少女が生まれ育った街とは随分と様子が違う。

 それこそ、外国の絵本に描かれていたような建物が並び、その間を行き交う人々の様相も見慣れぬものだった。

 どこからかゴーンと響いてきたのは、朝を知らせる鐘の音だろうか。

 少女は何故かひどく穏やかな気持ちでその音を聞きながら、「朝……」と呟いた。

 そして、自分を軽々と片腕に抱いている男に向かい、そっと言った。


「おはようございます」

「ああ」


 返った声はぶっきらぼうで、少女に甘く愛を囁き続けた夫のそれとは随分と違っていたが、よほど心に深く染み込んだ。

 これほど、爽やかな気持ちで朝の挨拶を口にしたことは、少女は初めてであったかもしれない。


「――名は?」


 理不尽で身勝手ともいえる突然の召還に、少女が少しも不満を漏らさないことを不思議に思ったのか、男はようやく彼女自身に興味を持ったかのように尋ねた。


「これから俺の目となるお前に、名があったのならば聞いておこう」


 ついさっき、少女は自分の意思ではもう何も見まいと決めたのに、見知らぬ世界の盲目の男は彼女に見ることを望んで、それ以上を望まぬという。

 少女はこのまま、男の望むように彼の目としてだけの存在で終わるのだろうか。

 それとも――目で見える以上のものを、彼に与えていくのだろうか。


「わたくしは……」


 少女が自分の名を告げると、長らく誰にも呼ばれていなかったそれが、男の口からおうむ返しに紡がれた。

 それを聞いた少女の表情を、ようやく山際から飛び立った朝日が照らす。

 その顔に、久しく浮かんでいなかった笑みがあることを、盲目の男はまだ知る由もなかった。





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[良い点] 不幸を不幸と思わない不幸が、召喚された後なくなって、これからたくさんの幸せがあるんだろうなと思える感動的な終わり方でした! 無駄に話を広げると、不幸が際立たなくなってしまうと思うので、僕は…
[良い点] 面白かったです。 主人公が去った後、旦那と愛人達がどうなったのか気になります。 続きが読みたいです!
[一言] 最後に幸せになれたようで良かったです。 だってせっかく生まれてきたのに前半は可愛そうでしたから… これからもずっと幸せだといいなあ…
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