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短編

救国の英雄の救世主

作者: 守野伊音

 扉を開けた先にいたのが、鬼気迫る顔をした、どう控えめに見ても村人ではない人だった。

 ああ、23年の人生さようならと思った私に罪はないはずだ。





 私の住む村は国境近くだ。

 だから、村から少し離れた場所に砦がある。その砦では騎士達が隣国と睨み合いをしていた。基本的に彼らと付き合いはない。騎士達の食料は物資として帝都からやってくるし、娯楽を求めるのならばここよりもう少し離れた場所にここいらにしては大きな街があるので、皆そこに行く。街は砦の騎士達を客に大きくなったのだ。

 いま砦に来ているのは、先の戦で凄まじい戦績を上げたという、救国の英雄と呼ばれる騎士達だった。 だからといって、この砦が国にとってそれほどに重要という場所ではない。

 騎士は入れ替わりでやってくる。ずっと同じ隊がいては、慣れや癒着であまりいいことがなかったらしい。だから、彼らのような遠い世界の英雄さんでもこんな片田舎に配属される。任期を終えたら帝都に帰り、次の戦に出るなり配属先に行くなり、帝都で留まるなり、王からの命で動く。


 私はあまり騎士を見たことがなかった。一度、こんな小さな村でも砦から一番近いからと、隊長さんが村長に挨拶に来ていたそうだが、薬草を取りに村を離れていて見ていない。

 だから、急患が入って出かけた父を見送り、一人診療所で過ごすいつもの夜に、まるで扉を壊さんばかりに叩きつけるその人が騎士だと思い至らなかった。なんら疑問を持たずに強盗だと思った。

 基本的には平和な村だし、ここは村唯一の診療所。てっきり急患かと相手を確かめずに扉を開けた私にも非はある。それは反省している。寧ろ猛省している。

 しかし、家が診療所であることの確認と、私に医学の心得がある確認を取った瞬間に、有無も言わせず抱え上げて馬で連れ去るのはどうなのだ。

 


 買い出しも移動も、急ぎでない限り驢馬を使う私には、戦に出られるような気性の荒い鍛えられた軍馬の背はきつかった。舌を噛まないようにするのが精いっぱいだ。振り落とされる心配はない。何故なら、私を連れ去った人が逃がさないとばかりにきつく抱きしめているからだ。

 私だって未婚の娘。逞しい異性と二人乗り、しかも密着ときたら恥ずかしいけれど、この時ばかりはそんなことは思考の端にも思い浮かばない。がくんがくんと揺れる馬上で、捕まっているから出来る不安定な体勢で何とか振り向き、彼の職業が分かった。

 騎士服を着ていたのだ。それまで外套に包まれていてちゃんと見えなかった。顔立ちだって端正だ。こんな状況でなければこの距離でいるのも憚られるくらい、貴族の騎士様だった。宵闇でも分かる金髪が風に靡いて美しい。年の頃は大体二十代後半だろう。

 とにかく何かを言わなければと必死に口を開いた私は、またしても訪れた激しい衝撃に舌を噛んだ。噛み切らなくてよかった。本当に良かった。

 その様子に気づいた彼は、歯を食い縛り、鬼気迫る表情でつらそうに私に謝罪した。

「手荒な真似をして本当にすまない! だが、頼む! 今はとにかく砦に来てくれ!」

 脂汗を滲ませてつらそうにする彼に、私はようやく事情が呑み込めた。誰か、怪我をしたのか。それとも病か。砦には当然従軍医師がいるはずだ。それなのにこんな小さな村の診療所に助けを求めるくらいの緊急事態なのか。

 彼も自身も、何らかの不調を来している可能性が高い。そうでなければ、こんなつらそうに歯を食い縛り、明らかに尋常でない汗を流しているはずがない。時々呻き、私を捕まえる手の力が強くなる。その度にはっとなり、謝罪する彼に首を振る。患者である彼が、治療者に謝罪する必要などない。

 私は、噛んだ舌の痛みを飲み込み、にこりと笑った。

 彼は再度つらそうに謝罪し、とにかく馬を走らせる。何があったのかは分からない。けれど、私に出来ることがあるのならなんだってしよう。彼ら騎士は国を民を守ってくれる。守られる私達は何もできない。けれど、手助けならできる。それを求められるのなら、伸ばされる手を躊躇う理由などない。お役にたちます、騎士様。いつも国を守ってくれる貴方々に、片田舎の医者の娘ではありますが、ちっぽけな恩返しが出来るのでしょうか。

 私はどきどきする心臓で、まっすぐに進行方向を見つめた。

 


 砦につくや否や、私を抱えてきた騎士様は頽れるように馬から落ちた。当然、抱えられていた私もだ。彼が背から落ちたおかげで潰されることはなかったけれど、かなりの衝撃だった。

「隊長!」

 わっと走ってきたのは門を開けてくれた人だ。そして、私を連れてきたのはこの隊の隊長らしい。まさしく国の英雄だったわけだ。

 隊長に駆け寄った彼もまた、支えようとして膝をついた。

 よく見ると、砦内はそんな人で溢れている。つらそうに歯を食い縛り、呻きながら蹲っていた。私はざっと血の気が引いた。怪我ではないのか。病。それも、恐ろしい感染力を持った、伝染病。

 がくがく震えそうになる私の足を誰かが掴んだ。傍で蹲っていた男だった。鍛え上げられた大きな身体をぶるぶる震わせ、藁にも縋るように、溺れるように私に縋る。

「助けてくれ……」

 か細い声で、彼は啜り泣く。

「頼む、助けてくれっ…………!」

 引きずり倒されるように私も膝をつく。大の大人が、それも厳しい訓練を日常とする騎士達の心が折れてしまう病。そんな強力な病だと、この砦に訪れた時点で私も既に感染している可能性が高い。村は大丈夫だろうか。

「お父さん……」

 泣きそうになる。村の皆から頂くお礼は、お金より物が多い。それでちょっとだけ太ったお父さん。彼はいつも言っていた。

『誰かを救う術を持っていることが、私はとても嬉しいんだよ』

 そうだ。お父さんはいつも言っていた。そして、彼が誇りに思う術を、私は教えてもらったのだ。いつか彼のように誰かを救いたいと、誰かの役に立てることを誇りに思うような人間になりたいと。父の大切な知識を、大事に大事に教えてもらった。

 今が、その時なんだね、お父さん。

 

 私は、滲んだ涙を拭って腕を捲った。出来ることをしよう。仮令私が死んでも、私がお父さんから教えてもらったのは、ここで彼らを見捨てて逃げる事じゃないから。

 震える手で蹲る男に触れる。

「どう、しましたか?」

 どんな症状が出ていますか? どこが、痛みますか?

 聞かなければならないことは沢山ある。

 男もまた、震える手で必死になってブーツを指さす。落ちた鏃や折れた刃先を踏んでも踏み抜かないよう、ごつくしっかりとした戦闘職の人の為の靴。途中で脱げたりしないよう、固く幾重にも通された紐で、膝下までしっかり止められている。

 彼の手があまりに震えるので、私が彼のブーツを脱がす。炎症を起こしているのだろうか。手足の先から腐り落ちていく奇病も知っている。

 私はごくりとつばを飲み込んだ。

 しかし、私の心は彼の足を見た瞬間、折れた。


「い、いやぁああああああああああああああああああああ!」




 チョイワル

 アクニン


 そんな段階を既に通りすぎ『ゴクワル』段階にまで移行した、強大な水虫が、そこにはいた。






「本当に、面目ない」

 私の前では、私を拉致に近い形で連れてきた隊長さん、またの名を救国の英雄が頭を下げていた。開いた膝の上に握った拳を置き、深く頭を下げている彼の足元では、薬草漬の桶がある。そこに素足を入れて頭を下げる姿は、言うのもなんだかちょっと間抜けだ。だって、夏の暑い時期に涼を求めて足を浸す光景に似ている。それ自体はとても気の抜けた光景なのに、頭を下げる彼は本当に礼儀正しいので、そのギャップがちょっと可愛い。


 結局、砦全ての騎士が水虫に苦しんでいることが分かった。従軍医師はどうしたのだと問えば、なんとその医師が隊の皆に水虫を移した張本人だという。彼は自分が水虫であることに気付いたが、時は既に遅かった。砦中に水虫の気配が溢れ、男達の足には例外なく水虫の片鱗が見え始めていたという。彼は逃げた。

 その結果、取り残された騎士達は、激しい痒みと終息を見せない水虫の侵略にもだえ苦しむ事となったのだ。

 


 数種類の薬草を鉢の中に入れ、ごりごり擦りながら話を聞く。医務室には帝都から運ばれてい来る豊富な薬草や薬、医学書なんかもあって楽しい。今は読む暇もないけれど、隙を見つけて絶対読んでやる。

「いえ、皆さんお辛かったでしょうね。あそこまで進行しては……」

 思い出しただけでも痒くなる。今は桶に浸してだいぶ楽になっているはずの隊長さんも、思い出したのかぐっと喉を詰まらせた。

 いま砦にいる男達は、例外なく素足を桶に浸し、久方ぶりに訪れた安寧に恍惚とした表情を浮かべている。いま攻撃されたら、この砦は落ちる。私は確信した。

 父が一旦村まで戻り、掻き集めてきた草鞋が彼らの靴だ。あまり刺激を与えないように指の間に通る部分には布を巻いたが、ブーツは全面禁止である。ちなみに、草鞋はある程度使用したら焼却処分予定だ。

 家に帰ったら、留守を守っていたはずの娘が騎士らしき人に連れ去られたと聞き、血相を変えて砦までやってきた父と一緒に、大量の薬草漬を作って数時間。なんとか全員に行き渡った。隊長である彼に、自分は一番最後でいいから部下達を助けてやってくれと苦しげに言われてしまい、凄く急いで作ったのだ。だって、横でずっと苦しんでいるのだ。とりあえずブーツは脱がしたけれど、今度は掻くな触るなという指示に苦しみぬいていた。そんな人が横にいるのに、他の人の分の薬を延々と作っているこっちだってつらいのだ。


 彼の部下達もつらかったことだろう。動くと血の巡りが良くなり、余計に痒くなる。村まで一人早掛けでやってきた彼が一番痒いだろうに、彼は耐えぬいた。隊長が先に、お願いですから隊長と涙を垂れ流しながらの懇願を受けても、彼は気高かった。あくまで自分は最後で、部下達を救ってくれと言い募る。それは麗しい騎士道精神だった。救国の英雄に相応しい、気高く尊く美しい精神だ。

 水虫だけど。


「しばらくブーツはやめてくださいね」

「…………善処する」

「治りませんよ」

「ぐっ!」

 それほどに気高い水虫、じゃなかった騎士様にとって、着衣の乱れは心の乱れと言わんばかりにつらいものらしい。まあ、騎士服を着用できる人は厳しい訓練を得て、尚且つ厳しい鍛錬を日常とする水虫、じゃなかった人達なのだから、騎士服は誇りだろう。

 しかし、水虫にブーツは自殺行為だ。


「蒸らさず、清潔に保つ。忘れず薬を塗る。湯の共用はしない。これでちゃんと治りますよ」

 数種類の薬草を鉢から直接彼の桶に投入する。数が多すぎて移しかえる容器もないのだ。

「新しい医師がくるまで、私が泊まり込みますから、それまでに出来る限り治しましょうね。治ったらすぐにブーツも履けるようになりますよ。ブーツの消毒を終えてからですが」

 彼は眉間に皺をよせ、苦悶の表情浮かべている。

「しかし、未婚の娘を、騎士とはいえ男所帯に寝泊まりさせては君の名に傷が」

 私は苦笑した。

「水虫薬自体は難しい薬ではありませんので私にも作れますし、いま村ではちょっと容態を見ている患者さんがいるんです。急変もあり得るので、出来れば父にいてほしいのです。それに、行き遅れですし、どうぞお気になさらないでください」

 貴族になればなるほど、地方に行けば行くほど女の結婚は早まる傾向にある。こんな辺境のど田舎では、10代後半でも行き遅れなのに20代ともなると女として終了といわれる。田舎は特にそうだ。それまでに結婚して子どもをたくさん産まなければならないからだ。

「そんなことを言われてしまうと、私など迎え遅れもいいところです。もう30になるというのに、結婚のけの字もない」

 男の色気を醸し出す隊長さんは、苦笑のように励ましてくれる。ありがとうございます、隊長さん。

「励ましてくださってありがとうございます」

 社交辞令に礼を言うと、彼は急に真顔になった。

「騎士団は総じて迎え遅れに悩んでいるのです。若い騎士など、迎え遅れに脅えてなかなか都を離れようとしない。近衛騎士と守護騎士への倍率が年々跳ね上がるばかりです。それもこれも勤務地が安定せず、共にいる為には一緒に国境まで移住するしかないという仕事だからですが。騎士は貴族が多いですし、貴族の相手は貴族の御令嬢が多いのが常です。そんな過酷な状況に彼女達は耐えられず、如何に恋愛結婚したとはいえ、離縁される騎士の多いこと多いこと。騎士の職務として、有事の際は家族よりも任務優先であることも理由の一環だとは思いますが、離縁理由として圧倒的なのは距離です」

 近衛騎士は城に詰める騎士で、守護騎士は帝都やそれぞれの主要都市を守護する騎士だ。つまり、移動はあまりない。しかし、騎士の大半はこうやって各地を回り、砦に詰めるのが一般的だ。

「そ、そうなのですか」

「または、都に帰還したら三年帰っていないはずの妻の腹に子がいるなどですね。あ、これは、当時の私の隊長が経験した修羅場です。任期中に奥方は執事と、娘は冒険者と駆け落ちされた者もいます。当時の私の副隊長でした」

「ご、ご愁傷様です。私、騎士の職は憧れの花形だと思っていました」

「見た目は派手ですし、肉体仕事ですので目につくのは若い男が多い。そういった意味で女性に人気は頂いています。ただし、伴侶には見てもらえないというだけです」

「そ、そうですか」

「そんな職場です。新人以外は、女性への夢が打ち砕かれた猛者ばかりが残っております。そんな男ばかりの巣窟に、女性をと思うとっ……!」

 哀愁に満ちた隊長さんは、私を励まそうとしてくれた言葉で自らがダメージを受けたようだ。男前なのに、悩みは多そうだ。確かに、勤務地が固定されていないと何かと大変そうだ。ただでさえ男女のことは一本筋ではいかないものなのに、遠く離れてしまってはいざというときに間に合わない。かといって、住んでいる人間でさえも田舎と思っているような辺境の地に、貴族の御令嬢が耐えられるはずもない。ここより大きな街までいったとしても、帝都で流行の物は数年後にやってくるレベルだ。

 遠い目になってしまった隊長さんに、私は慌てて自分の傷を曝した。傷のなめ合い上等だ。

「わ、私は大丈夫ですよ。なんせ、男性の身体は見慣れていますから! 寧ろお尻までばっちりです!」

 泣きそうだ。

 涙目になって笑う私に、隊長さんは不思議そうな目を向けた。

「尻?」

「あ、はい。以前村の若い男性衆が、一度帝都に行ってみたいと全員出掛けてしまい、一か月後に帰ってきたときは全員痔になってしまってまして。治療しました。乗り慣れない馬で遠出をするからですね。しかも、一か月では帝都についてすぐに帰ってきたと思うんですが、辛い物を食べすぎたのかもしれません。まあ、そのおかげで、村中の若い衆のお尻を見た娘として、嫁の貰い手が消滅しました!」

 泣きそうだ。

 隊長さんを見ると、憐れんだ目で私の肩をぽんぽんと叩いてくれた。

「仕事とは、尊いものですから…………」

「ええ……人生を捧げるものですからね…………」

 雲の上の存在と思っていた救国の英雄と、この時の私は心から分かりあえた気がした。


「まあ、そんな私ですので、今更傷がついて狼狽えるような無傷の場所なんてありません。どうぞお気になさらず、存分にこき使ってください」

 私の言葉に、隊長さんは深いため息をついてもう一度頭を下げた。

「宜しく頼みます」

「はい。承りました」

 砦外への巡察も通常業務の彼らだ。早く治るに越したことはない。このままでは巡察どころか見張りも侭ならない。

 今は桶につけて落ち着いているけれど、足を出したらまた痒くなる事だろう。とろみのある塗り薬も用意しなければならない。

 隊長さんは、自分の足が浸かっている桶を見つめた。

「しかし、やけに効きますね」

「あ、それはこの地域ではどこにでも生えている薬草を使っているんですよ。何故か水虫に対して異様に効くんです。なのに、他の何にもからっきしの謎の薬草です。帝都の方には珍しいかもしれませんが、それらは砦内で採取したんですよ?」

「え!?」

「えーと、ちょっと待ってください」

 私はすり潰す前の草を彼の前に出す。この村ではそこいらに生えている、レア度ペンペン草並の雑草だ。彼はそれを手に取ってまじまじと見つめている。そりゃ、幾度も目にしただろう。だって本当にその辺に生えているのだ。

「こ、こんな傍に、あの地獄の苦しみを脱する手掛かりがあったとは!」

 わなわなと奮える手で雑草を掲げる救国の英雄。

 水虫とは、国を救う偉業を成し遂げた騎士様の心をも蝕む、恐ろしい病だ。

 またごりごりとすり鉢ですり潰す作業に戻っていると、ばたばたと集団が走る重たい音が近づいてきた。

「た、隊長!」

「何事だ」

 きりっと返した隊長の両手がそっと持っているのは雑草で、素足の足は桶から出やしない。痒いですもんね。ちなみに駆け込んできた騎士達も、両手で抱えた桶をそっと下ろし、草鞋を脱いだ足をそこに浸ける。そして、直立不動で騎士の礼を取った。凄く、間が抜けています。痒いですもんね。


「伝令が戻りました!」

「何!?」

「いま、治療所の方におります! 医師様もお願いします! お早く!」

 素早く立ち上がり、私の手を引いて早足で歩きだす隊長さん。片手には桶。痒いですもんね。

「伝令さんですか?」

「はい、この状態と逃げた従軍医師の報告を帝都に送っていたので、その返事を受け取りに行かせました。奴は比較的症状が軽かったので」

「そ、それなら街で薬を求められたらよかったじゃないですか!」

 動ける人がいたのなら、それこそ伝令士が来ている街まで行けたのならそこで薬なり医師なりを用意できたはずだ。それを伝えると、隊長さんは難しそうな顔をした。

「砦内のほとんどの者が不調だなど外部に洩らせません。特に近隣ではそうです。どこで誰が聞いているとも知れない。ここからなら敵砦まで情報が伝わるのにそう時間はかからない。ただでさえ、ここ最近の巡察が簡単なものになってしまっていた自覚がありますので」

 私ははっとなった。そうだ。さっき自分で思ったではないか。今の砦が襲われたら、あっさり落ちそうだと。痒みで夜も眠れなかったであろう騎士達が憔悴していないはずがない。常に痒みと戦って精神だって消耗している。出来るだけ周囲に隠すべきだ。

 彼らは皆揃って水虫だと。



 簡易治療所は、私が最初に水虫に悲鳴を上げた広場だ。そこでは今も、桶に足を浸した騎士達が恍惚の表情を浮かべていた。何故ここが治療所になったかというと、桶に足を浸した彼らが一歩も動かなくなったからである。


「痒い痒い痒い!」

「落ち着け! すぐに先生が来てくれるからな!」

「だったらその桶俺にくれよ!」

「嫌っ! あ、違う! ほら、あれだ! 移るから! 共有は駄目だって先生がだな!」

 確かに共有は駄目だとくぎを刺した。けれど、最初の拒否は明らかに自分が桶を失いたくなかったからだと思う。痒いですもんね。

 私は小走りで伝令に行った騎士の元に向かった。彼はまだ年若い少年だった。既にブーツは脱いでいたが、掻き毟らないように他の騎士達に腕を押さえられている。その騎士達の足先は勿論桶だ。

 私は慌ててさっきすり潰した薬草を桶に入れ、水の中で念入りに混ぜる。

「どうぞ!」

 少年は悲鳴にも似た声を上げて桶に足を突っ込んだ。この薬草は確かによく効くけれど、即座に痒みを取ってくれるわけではない。街から早馬を走らせた少年の身体は、若さも相まって大層血流が良くなっているのだろう。彼は足を突っ込んでも痒い痒いと暴れた。

「駄目です! 掻いちゃ駄目ですってば!」

「だって見てたら痒い!」

「じゃあ見ないでください!」

「だって見えるんです!」

 桶をひっくり返しそうになり、泣きべそをかく彼の頭を慌てて抱え込む。

「これで見えませんね!?」

 全力で胸に押し付けていると、少年の動きはぴたりと止まった。薬草が効いてきたのだろうか。

「ふかふか…………」

 何か聞こえた。少年の顔を覗き込もうとすると、あちこちで野太い声が上がる。

「うおおお! 先生! 俺も痒い!」

「さっきまで平然としてましたが!?」

「先生! 俺も痒くて痒くて止まらない!」

「何故両手をわきわきさせてらっしゃるのか!」

 せっかく沈静化していたのに、突如ぶり返したらしい水虫の脅威。しかし、痒みに悶えているはずの皆さんは、何故そんな期待に満ちた目をしていらっしゃるのか。

 すると、隊長さんが無言のまま桶から出た。何ということだ。自らの意思で水虫の痒さを克服したというのだろうか。流石救国の水虫!

 私の尊敬の視線を背中に受けながら、隊長さんは最初に野太い声を上げた騎士さんと、その隣で両手をわきわきさせている騎士さんの前に立った。そして、流れるようなアイアンクロー。

「ギブ! 隊長ギブ!」

 鍛え上げられた騎士二人をそのまま持ち上げる驚異の腕力&握力。そのまま桶から出してしまった隊長さんは、にこりと笑う。

「喜べ、お前らの班には今から巡察を命じてやる。ここ最近ちゃんとできなかったからな。念入りに頼む」

「殺生な!」

「ああ、安心しろ。草鞋で許してやる」

「後生ですから――!」



 泣き縋る二人を無視して隊長さんが戻ってくる。彼らは同じ班と思わしき人々にボコボコされていた。手当に行くべきだろうか。腰を浮かせかけた私の肩を押さえ、隊長さんはそれはいい笑顔を向けてくれる。ちょっとくらりとした。逆光も相まって、カッコよさ倍増だ。面食いと呼んでくれて結構だ。

「大丈夫です。あれは元気になった奴らなりの挨拶ですから」

「は、はあ…………ん?」

 隊長さんが言うのならそうなのだろう。とりあえず曖昧な笑顔で返していると、腕の中の温もりの重さが増している。首を傾げながら視線を落とすと、私の胸元が真っ赤になっていた。吐血!?

 慌てて引き剥がすと、少年は大量の鼻血を噴いて気を失っていた。きっと痒さを我慢して早駆けしたことで逆上せたのだろう。そんなに必死だったのだと思うと涙を禁じ得ない。街まで行ったということは、ブーツでだろう。さぞや痒かったことだろう。水虫は、彼の心をも蝕んだのだ。

 そっと涙を拭っていると、隊長さんが何だか憐れんだ目を向けている。私に。

 何故少年に向けていないのか。

「…………純情なんですね」

「水虫が…………」

 水虫に純情があるとは。ということは、情熱派もあるのだろうか。

 医者の娘なのに知らなかった。勉強はとても大事だ。

「訂正します……鈍感なんですね」

「水虫が…………」

 どうやら、あるのは鈍感派らしい。



 ある程度の人数が短時間でも桶から巣立ちできるまで待って、砦一斉消毒が始まった。脱衣所、風呂場は特に念入りに、誰かが素足で歩いたことがある場所は徹底して消毒された。二度とこの悲劇を許してはならぬ。誰もがそう固く誓っていたため、騎士の本職ではないはずの掃除は、それを職業とする人々より徹底された。桶は常に彼らの傍らにある。誰のか分からなくならないよう、桶には持ち主の名前が書かれていた。『ジョセフィーヌ』だの『マリア』だの『エリー』だの、桶に名前を付けている人もいた。見なかったことにした。



 私は、何はともあれ薬を作る。ずっとゴリゴリやっていたので手首が痛くなってきたので、ちょっと材料を拝借して湿布を作った。それを見た隊長さんは申し訳なさそうに頭を下げるので、慌てて訂正する。

「年ですので!」

 泣きそうだ。

「貴女が歳だったら、私は爺ですよ」

 優しい。

 あまり自虐ネタは出さないほうがよさそうだ。この優しい高潔な水虫は、私の自虐に自らを落として付き合ってくれるから。

 彼は何故か医務室で薬を作る私の横で書類を片づけている。足は勿論桶の中だ。

 執務室に戻らなくていいのかと問うと、危険が去るまではとにこりと微笑まれた。確かに水虫の危機はまだ去っていない。いつ痒みがぶり返すかと不安なのかもしれない。

 隊長さんは、ある手紙を開いて、ぐっと眉間に皺を寄せた。

「あの野郎…………」

 舌打ちが聞こえてびっくりする。びっくりした私に、彼は慌てて謝ってくれた。

「い、いえいえ、救国の水虫だって人間ですから、苛立つこともありますよ」

「え? 水虫?」

「英雄さんですものね!」

 つい口から出てきた水虫に慌てて誤魔化す。水虫は人の思考にも巣食うのか。なんて恐ろしい。

「この手紙は私の友人からなのですが…………彼もまた水虫で。それもずいぶん昔から」

「それはまた……」

「身分ある人間なので、人目のある場所で靴を脱ぐわけにもいかず、いつもつらいと言っていた彼は、今回私達の事件を受けてこう言ってきました」

 地を這うような声になり、私はごくりと唾を飲み込んだ。

「『私の苦労が分かったか。ついでにお前らも禿げろ。腹も出ろ。加齢臭を撒き散らせ』と」

「四大苦を網羅されているとは…………」

 苦行に満ちたご友人さんの明るい明日をお祈りしよう。

「まあ、国王なんですが」

「さらりととんでもないこと暴露なさらないでください!」

「当然返事はこうです。『お前一人で勝手に堕ちろ』と」

「なんという友愛と労りの無さ!」

 英雄の意外な一面を見てしまった。



 しかし、確か国王様は四十代だったはずだ。随分歳の離れたご友人である。

「でも、歳の離れた方とご友人になれるのは凄いですね。私は、いつまでも子ども扱いされてしまいます」

 村だからということもあるのだろうが、いつまでも嬢ちゃん呼ばわりされるのは複雑な気分だ。友人の子どもがおばちゃん呼びしてきた時は、夜通し酒を飲んだものだが。ばばあ呼ばわりされたときも飲んだ。飲み干した。

 彼はちょっと意外そうに片眉を上げた。

「身分のことで言われると思いました」

「え!? 隊長さんのご友人事情に口を出す権利を得ていたなんて初耳です! いつの間にそんな事態に!」

 そこまで言って、私は真っ青になった。寧ろこれ、聞いてよかったのだろうか。

「あ、あの、私、誰にも言いません。誓って誰にも。墓場まで持っていきます」

 国家秘密とか言わないはずだ。そんなことをあっさりばらされた挙句、一族郎党処刑とか言われたら化けて出てやる。水虫を供に末代まで祟ってやる。

「誰彼構わず他言されると少々困りますが、貴女はそんなことをしないでしょう?」

「はあ」

 私の仄暗い決意に気付かず、彼はさらりと言った。

「俺は人を見る目はあるんですよ」

「ど、どうも」

「まあ、何の説明もなく人攫いも真っ青な押し入り強盗をしたにも拘らず、特にこれといった謝罪も要求せず、伝染病の類である可能性もあるのに病名どころか病状を聞く前から治療するとお返事くださった貴女に、私が勝手に親愛と敬愛の念を感じているだけです」

「それだけ聞くと、まるで私が馬鹿のようです!」

 事実なのが悲しいところだ。結果として敵は水虫だったのは、よかったとは思っている。


 隊長さんはにこりと笑って私の前に片膝をついた。なんと、足元は両足とも桶から出ている。流石救国の水虫。並の精神力ではない。あ、桶をちょっと移動させた。すぐに入れるようにですね。

「ありがとうございます。貴女は私達の救世主です」

「きゅ、救国の英雄にそう言われると照れますね。それに私は、医に携わる者として、国民として、当たり前のことをしただけです」

 医を学んだ者として病に苦しむ人の要請に応じ、国を守ってくれる騎士を手助けしただけだ。

 そう言ったら、隊長さんはふわりと笑った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 当たり前のことをしただけだけど、やっぱりお礼を言われると嬉しい。私もにこにこしていると、彼は私の手を取った。その動作が自然で、それこそ当たり前に繋いだようで、私が驚いたのは一拍どころか三拍ほど開いてからだ。

「え」

「貴女に敬意と感謝を」

 絵本の中の騎士様のように、流れるような動作で私の手に口づけた救国の英雄は、ぎしりと固まった私ににこりと笑った。そして、ようやく事態を理解し、身体の底から羞恥がじりじり湧き上がってきた頃、彼は桶の中に足を浸して気持ちよさそうに息を吐いていた。

 それを見た私の赤くなった顔は、今度は青褪めた。

 水虫とは本当に恐ろしい。救国の英雄と呼ばれるこの人に、こんな当たり前のことで敬意を称してしまわせるとは。



 それからの日々は概ね穏やかだった。痒みに支配されなくなった彼らは、巡察を強化し、今まで手薄だった地域まで足を延ばすことができるようになった。睡眠も十分とれるようになったし、掃除も鬼気迫る勢いで砦を磨き上げていつでもぴかぴかだ。

 ただ、身体の傷はいつか癒えても、心の傷はいつまでも根強く残る。騎士達は自分の名前を書いた桶を肌身離さない。もともと水虫の侵略度が軽微だった人は、十日もすれば随分良くなり桶に足を浸す必要が無くなったにも拘らずだ。

 隊長さんも例に漏れず、今日も今日とて医務室で桶を傍らに書類を捌いている。ちなみに、窓から見える鍛錬所でも、騎士達の上着と剣の鞘、そして桶が綺麗に並んでいるのが見えた。


 それらを眺めながら、私は常備薬のストックを煎りがてら、医務室に常備されている薬術書を読みふける。幸せだ。偶に父が様子を見に来て、本を借りて帰る。本を借りたら一直線で帰る。明らかに、娘の様子見より本が目当てだ。ちょっと太目のお尻をぷりぷり揺らしてご機嫌で帰っていく父の背中を思い出して、私はそうだと声を上げた。

「隊長さん、私、村に帰りますね」

 がたがたがた。

 黙々と書類を読んでいた隊長さんが、立ち上がろうとして桶を蹴っ飛ばし慌てて桶の安否を確認している。もしかしてちょっとお昼寝していたのだろうか。確かに、昼食も終えた昼下がり、今日もぽかぽかいい天気だ。ちょっとくらいうとうとしても仕方がない。寧ろお邪魔して申し訳なかった。


 どうやら桶は無事らしい。大事そうに抱えながら、そっと返事くれる。

「何故、と、お聞きしても?」

「はあ。先日来た父が、本にかまけて私の着替えを持ってくるのを忘れたからですね。取ってきます」

「成程」

 隊長さんはすくっと立ち上がった。騎士服は本当に人を凛々しく格好良く見せる。服マジックだけでなく隊長さんは顔も声もいいから格好いい。足元は草鞋だけど。

「送りましょう」

 桶を片手の申し出に慌てて両手を振る。

「歩いて帰れます!」

「ちょうど切りもいいですし、少し休憩したいのですが、隊長ともなると部下への示しもあります。私に息抜きの理由を頂けませんか?」

 まるでいたずらっ子みたいな顔でウインクされて、思わず苦笑する。まるで村のやんちゃ坊主みたいな顔だ。いたずらをしかけて期待に満ちた目でキラキラ見てくる無邪気な子どもを思い出して、つい頷いてしまった。その子どもはもう十五歳になり、『おい、ばばあ。いい加減嫁にいけよ。ま、まあ、よ、嫁の貰い手がないならもにょもにょ』と最後は良く聞こえない暴言を真っ赤な顔で吐いてくれた。おむつを替えた頃からの付き合いの子どもに、ばばあ呼ばわりされてショックだったような、大きくなったなぁと妙に納得した気持ちになったものだ。

 その晩は、勿論飲み明かした。父の秘蔵の酒を飲み干した。美味しかった。



「では、参りましょうか」

 何故か手を引いていく隊長さんは、私のことを子どもだと思ってないだろうか。ないだろうな。この年でそう思うのは図々しいな、私。おむつを換えてくれた村の人達に嬢ちゃん嬢ちゃん呼ばれすぎて、ちょっと麻痺していた。

 自分の中でその話題を振り切って、私の手を引く隊長さんを呼ぶ。当たり前みたいに振り向いてくれるので、何だかずっと昔からこうしていたような錯覚に陥ったりする。麻痺って怖い。

「あの、こんなこと私が頼むのは図々しいかもしれませんが、着替えてもらえたり、しますか? いきなり騎士さんが来ただけでも驚いてしまうような村ですから」

 その騎士が救国の英雄と呼ばれる人だと知ったら、年配の何人かはぎっくり腰を発症し、子どもは興奮してその晩熱を出すかもしれない。入れ歯を飛ばすのは本当に勘弁してほしい。入れ歯技師はこの間街を離れたばかりで、次に訪れてくれるのは来年なのだ。


 騎士たることを誇りとし、職務中であり、しかも送ってくれようとしている人に図々しすぎたかもしれない。言ってから後悔した。彼が親しく扱ってくれるのは、それだけ水虫がつらかったからで、私はそんなことを言えるような何かをしたわけではないのに。

 ぎしりと固まってしまった私に、隊長さんは苦笑して私の頭をくしゃりと撫でた。

「貴女はこの砦を救ってくださったのに、少々謙虚が過ぎますね」

「隊長さんは優しいですね。それと、そんなに水虫がつらかったんですね」

 あ、涙出そう。水虫は本当に恐ろしい。

 壮絶な痒みを思い出したのか、隊長さんの口元がきゅっと締まる。

「そうですね。本当につらかったです。ですが今は、水虫より鈍感が脅威だとしみじみ感じております」

「ドンカン。それは、どういった病気ですか?」

 あのゴクアク水虫より脅威なんて! なんて恐ろしい病だ!

 知らないことのほうが恐ろしいと何度詰め寄っても、着替えてきますねという優しげな笑顔で逃げられてしまった。

 家にお父さんがいたら聞いておこうと、私はぐっと握り拳を作って決意した。



 腰に剣、尚且つこの辺では絶対見ないような高そうな服ではあるものの、全体的には装飾品少なく色も大人し目のシンプルな服で現れた隊長さんは、いつもと何も変わらず格好良かった。草鞋だけど。

 草鞋が脱げないよう、普段は前に通してある紐を足首に巻きつけた隊長さんは、当たり前のように私に手を差し出してくれた。砦内では毎日何度も差し出してくれるので、いつの間にかこの手を取るのが当たり前になってしまった私がいる。なんとも贅沢で本来なら一生あり得なかったことに慣れてしまった私は、もしかすると相当図太いのかもしれない。



 私を先に乗せた後、一息で馬に跨ってしまった隊長さんは、今度は私を捕まえない。その代り凭れるように指示をして、鋭い声で馬を走らせた。

「わあ!」

 初めてこの砦に来た夜は、時間と切迫度で全然見ることができなかった景色を改めてみることができた私は、思わず声を上げていた。

 景色がどんどん流れていき、私の身体は風を前から受けているのに、ぐんぐんと進んでいく。驢馬か馬車しか乗ったことのない私には見たこともない景色だ。

「凄い! 凄いですね! 速い!」

 年甲斐もなくはしゃぎっ放しで煩い私を疎ましがることなく、隊長さんは馬を走らせてくれる。スピードがあり声が聞こえにくくなると、大声で話してくれるのも新鮮だ。彼が声を張り上げるところなんて、鍛錬で部下さん達をしごいている時くらいなので、私は受けたことがない。

 彼は本当に優しいので、時々、私とは遠い世界にいる英雄さんだと忘れてしまいそうだった。

 部下さん達の痒みがぶり返して、見たら痒いと叫び、両手を広げると決まって彼は現れる。そして、その痒さを忘れさせてやろうと微笑むのだ。彼の姿を見ると、部下さん達は両手をぶんぶん振って滅相もないと遠慮する。なんて謙虚なんだろう。彼の顔を見ると、部下さん達は痒くなくなると言うのだ。なんという信頼感、なんという結束。

これが剣に生きる高潔なる騎士達の絆なのだと、私はいつも感動する。


 はしゃぐ私に、彼も子どもみたいに破顔した。

「良かった! あんな連れ去り方をしたので怖がられてしまうかもしれないと思っていました!」

 聞こえやすいように耳元で叫んでくれる彼に、嬉しさのあまり振り向いて詰め寄ってしまう。速度の出た馬上で推進される行動じゃなかったのに、その時の私は子どもみたいに大はしゃぎで、そんなことにまで頭が回らなかった。

「怖いだなんて! 隊長さんがいるのに、そんなはずないじゃないですか!」

 私があまりに大はしゃぎなので、彼はきっと疲れるか呆れてしまったのだろう。突然私の頭に額をつけてぐったりとしてしまった。

「あれ!? 隊長さん!? 大丈夫ですか!? 私診ましょうか!?」

「水虫より強敵です…………」

 ぼそりと耳元で呟かれて、私は首を傾げた。



 村につくと隊長さんはさっと馬を下りて、私に手を差し出してくれた。その手を取って馬上から降りる。予想外に力が入らず、かくんと折れた身体を笑って支えてくれる。

「ありがとうございます。とっても楽しかったです!」

「気に入ってくださったのなら何よりです。是非また行きましょう」

「いいんですか!?」

「勿論。貴女とならいつで」

 何かを言いかけた隊長さんの言葉は、「あー!」と大きな叫び声で遮られた。大きな口を開けて、同じように大きく目を見開いている少年は私をばばあ呼びしてくれる彼だ。泣けるね。

「ばばあ! お前何やってんだよ! 親父さん大変なんだぞ!?」

「え!? 何があったの!? 後、ばばあって言わないで!?」

 せめておばさんって呼んで!

 過去にお姉さんでもいいんだよと言ったら、顔を真っ赤にしてばばあの嵐を頂いた。あの時から私の目標はおばさんだ。

 事情を聞こうと慌てて詰め寄ったら躓き、彼の顔面を抱きこむように突進してしまった。咄嗟に支えようとしてくれた彼は、口は悪いけれどいい子なのである。

「ふかふか…………」

「え?」

 何か言ったかと問い返そうとした彼の身体が浮かぶ。驚いてそっちを見ると、隊長さんが彼の首根っこを掴んで持ち上げていた。部下さん達二人をアイアンクローで持ち上げる人なので、これしきのことは朝飯前なのだろう。問題なのは。

「きゃあああ! ごめん! 私がぶつかっちゃった所為よね!? ごめんね!」

「うっせ……黙れ………………ばばあ」

 鼻血が止まらない彼に、必死に自分の服で止血したら余計噴き出した。



 家の前まで駆けつけると人だかりができていた。たぶん、村中の人がここにいる。私に気付いた皆が一斉に振り返る。

「あれまあ! どこにいたのさ!」

「先生さっきからずっと頑張ってるぞ!」

 よく分からないまま、人波が割れていく。

 そこには、小柄で小太りな身体を威嚇するみたいに膨らませたお父さんが、鼻息荒く扉を塞いでいた。その前にいるのは、滅多に会うことはないが、確か父の知人という男の人がいる。たぶん、会ったことがあるのは片手で足りる人だ。

 その人に向かって、父は見たこともないほど険悪な表情で対応していた。

「帰れって言ってるだろ」

「お前こそ、嘘ついたな。半年前に言ってたことと違うじゃないか」

「うるせぇ。嘘だろうと事実だろうと、お前に娘はやらん!」

 二人の話かと思ったら私の話だった。初耳である。

「娘には将来を約束してる男がいるって言ってたくせに、まだ行き遅れのままじゃないか! だったら俺にくれよ! 金ならあるって言ってるだろ!」

「金はあるのに嫁が来てない時点でお察しだろうが! お前のとこ、40代の行き遅れ二人に、出戻り姉さんに、癇癪持ちの母親だろうが! その母親が足を悪くしたらいきなりうちの娘欲しがりやがって! 大体お前、俺より2歳も年上だろうが!」

 つるりと禿げあがった頭頂部に、伸ばした横髪を乗せた髪型。父を一回り大きくしたようなお肉の付き具合。どう見ても私と同年代ではない。父と学び舎が一緒だったというから、最初から分かっていたが。

「女房亡くして男手一つで育ててきた大事な娘を、お前なんかにやるくらいなら、帝都で自立した女性を目指させるわ!」

 何があったか大体察したけれど、本当に何も聞いていなかったのでびっくりした。きっと私がびっくりしないよう、父は内々で処理してくれたのだろう。でも、私だってもう大人だ。自分のことは自分で出来る。あの人も私が直接お断りするのが筋だろう。聞き入れてくれなかったら、水虫を拭った手拭いを用意して、武器にするつもりだ。段々水虫が万能に思えてきた。

 ぐっと拳を握って決意した私の肩を、大きく硬い掌が包むように覆った。驚いて見上げると、いつもの笑顔が降ってくる。

「では、参りましょうか」

「え? あ、はい」

 早く着替えを取ってこいということだろうか。そりゃそうだ。私は今日の分の薬を作り終わっているけれど、彼はまだ職務中だ。私の送迎で一旦砦を出たとはいえ、まだ仕事も残っているだろう。つき合わせてしまって申し訳ない。あの人との事はまた後日になりそうだ。

「あ、では裏から入りましょうか」

「いえいえ、このままで。君、少しの間馬を頼む」

 隊長さんは馬の手綱を、地面に座って鼻を押さえている彼に渡した。

「なっ……! 俺はあんたの小姓じゃねぇぞ、じじい!」

「私も彼女もまだ若いぞ、小僧」

 隊長さんに向かって何てことをと焦ったけれど、そこは救国の英雄さん。田舎の子どもに暴言を吐かれたくらいでは怒らなかった。私もその器の広さが欲しい。娘さんと呼ばれるとくすぐったくならず、ばばあと呼ばれても飲み明かさないような人間にならなければ。人間、幾つになっても向上心が大事である。

 もっと精進しようと決意している間に、私は玄関前まで来てしまった。私の姿を見つけた父は、始め小さく手を振って引き返せと言っていたのに、すぐに破顔した。すると、険しい顔を一変させ、そわそわとまるで恥じらう乙女のような顔になる。我が父ながら分からない人だ。

 父の激変にぎょっとした知人さんは、後ろを振り返ってぱっと笑顔になった、と思ったら渋い顔になる。父世代のおじさん達の機微が全く分からない。

「どうも、お久しぶりです」

 当たり障りのない挨拶から始めて見たけれど、知人さんはそわそわと膨れたお腹を揺らした。

「あ、ああ。なあ、その横の人は誰かなー? おじさんにも紹介してもらえるかなー?」

「おじさんとか図々しい。爺が……」

 吐き捨てるような父の言葉に、知人さんはぎろりと父を睨んだ。

 隊長さんを何と紹介しようと考えていると、肩に置かれていた手がぽんぽんと動く。驚いて見上げると、またにこりと返された。

「挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。おとうさん」

「や、ヤアヤア! ヨクキテクレタ!」

「お父さん!? 口調がカチカチだけど!?」

「キノセイダヨ、ワガムスメヨ」

 全体的に見るとふっくらなお父さんが、口調だけカチカチ。一体何があったのだろう。

 お父さんはぎぎっと音を立て、ぎこちなく向きを変えて知人さんに向き直る。

「ふふん! 見ろ、彼が娘のいい人だ!」

「ええ!?」

「お前の娘が一番驚いてるじゃねぇか!」

 残念なことに、この場で知人さんが一番私の気持ちを代弁してくれていた。私は慌ててお父さんに詰め寄る。

「何を言ってるの、お父さん! 失礼でしょ!?」

「いいんだよ、彼とはまだ短い付き合いだけれど、何度か話もさせてもらった。いい人じゃないか。人柄も腕も、お父さんは彼、好きだよ。お前だって好きなんだろ?」

「なっ……!」

「見てりゃ分かるさ。伊達に父親を23年間もやってないよ」

 ウインクされて、ぶわっと熱が湧き上がる。誰にもばれていないと思ったのに、どうして偶に砦にやってくる父にばれているのだ。

 そりゃ、格好良くて、優しくて、真面目で、話しやすく、ちょっとお茶目で可愛いこの人と毎日顔を合わせて一緒に仕事をしていたら、好きにならないほうがどうかしている。

 毎夜、彼と出会わせてくれた水虫に感謝の祈りすら捧げてしまった。

 自分の両頬を隠すように掌で覆った私は、はっと気づく。そして、そろりと顔を上げると、満面の笑顔が降っていた。

「嬉しいです」

「いやぁああああああああ!」

「貴女と出会わせてくれた元凶に、今なら感謝すら捧げられそうです」

 同じようなことを言われた。あれ、もしかして私達似た者同士ですか?

 何だかもう、子どもみたいに泣き出しそうになった私の手を取り、彼はまるでお姫様にするみたいに膝をついた。

「あの地獄の日々が貴女と出会うための伏線だと思えば、私は甘んじて受けましょう」

「あ、あの」

「私達は出会ってまだ日が浅い。けれど、随分昔からこうしていたように思いませんか?」

「……まあ、それは」

 彼に手を取られることに抵抗が無くなっている。彼をこうやって見下ろすことも、見上げるなんて呼吸するより簡単だ。私の手を取る彼の反対側に抱えられた桶も、こうなると彼を形作る一つに見える。

「私は、たくさんの仲間達が失敗していくのを見てきました。あれだけ悲惨な目に遭って尚、どうして彼らは結婚するのかとさえ思っていたのです。ですが、貴女と出会って、彼らの気持ちがようやく分かりました。この先にどんな苦難が待ち受けていたとしても、それが貴女と共にいられる道ならば、挑まずにはいられない。先を恐れて立ち竦むには、貴女を好きになり過ぎました」

 草鞋が地面とじゃりっと擦れ、彼の唇が私の手に重なった。

「きっと苦労をさせます。けれど、必ず守ります。出来るならば赴任先を共にしてほしいですが、そうでなくとも必ず馬を飛ばして帰ります。浮気もしません、させません。ですからどうか、私と結婚してください」

 いつもの優しい声。優しい力。優しい感触。

 けれど、その瞳だけは射るように鋭く真剣だ。

 私にはもはや縁のないと思っていた光景が、まさかこれだけのギャラリーの元、現実になるなんて思ってもみなかった。どこか現実味がないのに、周りから上がる野次とも歓声ともつかぬ声に気を失うこともできない。

 真っ赤に逆上せていく私を見ていた真剣な瞳が、ちょっと楽しげに揺れた。この状況を楽しんでいる。私がそれに気づいたことに気付いたのだろう。隊長さんの口角がいたずらっ子のように少し上がる。

 私は、思わずくすりと笑ってしまった。そして、握られている手にもう片方の手を重ねる。

「はい、喜んで」

 わっと上がった歓声と同時に、隊長さんに抱え上げられてくるくると回される。腰から抱え上げられたおかげで、私の身体は彼の肩を越えている。慌てて彼の頭を抱きかかえて体勢を整えた。彼の髪が乱れてしまっても自業自得だ。

「ふかふか…………」

「え? 何か言いましたか?」

「いいえ?」

 にこりと笑う隊長さんが、楽しそうにまた私をくるくる回す。

「え、ちょ、落ちちゃいます!」

「落としたりしませんよ。式はいつにします? 私としてはこの地域にいるうちに済ませてしまいたいですが。帝都に戻るといろいろ煩いですし」

 本当に嬉しそうな、まるで子どものように声を上げて笑う様子に私も思わず笑ってしまう。くるくる回る視界の中で、お父さんが涙ぐみながら頷いている。それに対して彼も頷き返した。つまり、彼らの中では既に話がついていたようだ。

 私だけ知らされていなかったことにちょっとだけむっとしたので、彼の頭を抱えたまま耳元でぼそっと囁くことにした。

「水虫が完全に治ったら、式を上げましょうね」

「善処します」

 彼は苦笑して頷く。

「桶も浮気に見なします」

「……………………善処します」

 ちょっと意地悪だっただろうか。ひくりと引き攣った彼の頬に、ちょっとだけ反省する。

 でも、部下さん達が女性名をつけて大事に大事にしている様子を見ている身としては、将来『桶と私とどっちが大事なの!?』とは言いたくないのである。






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[一言] 読む前に作品情報確認「…桶…?」 読んだ後「桶だったわwww」
[良い点] 何回目か忘れましたが、久しぶりに再読。 毎回、大満足で読み終えます。 ラストの桶のくだりも良いですが、途中からずっと脳内で、隊長さんを救国の水虫と呼んでるところも爆笑でした。
[良い点] 長編も短編ももれなく面白い!先生、やっぱり大好きです。 最後ふかふか堪能できて良かった!
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