新国立劇場のプレイハウス、エルランゲン・フィルの東京公演で舞は……
第139話 デビュー
巨大な神殿を思わせるロビーの構造、荘厳な芸術空間―――NNTT。
レコード大賞の会場として知られ、1,038席のキャパを誇る中劇場。
68人のオーケストラ、その指揮台には金澤奏子が立っていた。
幻想的な光に彩られたステージ、黒光りするスタインウェイのフルコンサートピアノ、その荘厳な輝き。
耳の肥えた聴衆で埋め尽くされた二階席に、舞の名前がコールされる。
薄暗い舞台の袖、心臓がバクバクと早鐘を打つ。
背筋を伸ばし、鼻筋に力を込めて顔をあげる。
係の女性にエスコートされ、カーテンの向こう側、スポットライトの真下へと足を踏み出す。
エルランゲン・フィルの東京公演に客演ピアニストとして参加する―――それが舞のデビューだった。
どよめきが会場全体に波のように広がり、それに拍手が続いた。
迷うことなく一直線にピアノへと進み、そこからオーケストラ団員に会釈を送る。
そして、奏子へ。
奏子は無言のまま目で頷いた。
着席とともに潮のように引いてゆく客席の喧騒。
やがて、それは舞台と二階席との間に横たわる、底知れぬ闇へと吸い込まれて消えた。
譜めくりの女性が傍らにつき、緊張した面持ちで合図を待つ。
弦の序奏がホールの空気を静かに震わせる。
揺れ動く感情のざわめき。
次第に高ぶるそれが、刹那、時が止まったように途切れ、美しいピアノの旋律がそのベールを脱ぐ。
こみあげる感情を、想いを―――
それらを押し殺すようにして、音の宝石たちが次第にスケールを増すオーケストラのうねりを切り裂いて、狂おしい“ハルカ”のメロディを歌い上げる。
極限まで張り詰めた緊張、最高音まで上り詰めたピアノのそれが感情の行き場を失って、最後の白鍵をもう一度打ち鳴らす。
畳み掛けるオーケストラの総奏が沈黙したピアノを押し流そうとする。
譜めくりがスコアをめくる。
疾走する管弦楽がストリングスに収斂し、ニ調の美しい開放弦の音色が澄みわたる。
穏やかな時がよみがえる。
駆け抜ける激しい想いもまた刹那のきらめきのように。
赦しを、そして救いを求め、再び動き始める感情、鼓動―――愛。
その場の誰もが息をのんだ。
その八分間がまるで一瞬の夢のように―――
その儚くも美しい最後の夢に身を委ね、舞の指先は力強く、精確に最後の一音を奏で終えた。
嗚咽にも似たため息がホールに響き、間髪入れずに万雷の拍手が中劇場全体を揺るがした。
ヴァイオリン奏者に促され、舞は立ち上がって賛辞に応えた。
胸のすくような今の気持ち―――
身体の奥から力が湧いてくるようだった。
恍惚、陶酔、自信……
映画のヒロインになったような、そんな気持ち。
そう、ヒロイン。
ヒロインを演じる自分。
次第に変わってゆく自分。
自然と微笑がこぼれる。
つつましく、優雅なそれ。
割れるような拍手を全身に浴びながら、舞はこれまでに感じたことのない快感に打たれていた。
見られることの快感―――忘れかけていたミスコン時代の記憶。
それが心の中で首をもたげてゆくのがわかった。
アンコールはリストが編曲の『タンホイザー序曲』。
オーケストラをバックに、中間のバッカナーレを省略したアレンジで、「巡礼の動機」を高らかに奏であげる。
それが初めてのコンサート、ヒロインとなった一夜の全てだった。
第139話 終
※【用語解説】NNTT……新国立劇場の略称。NEW NATIONAL THEATRE, TOKYO
大成功に終わった舞のデビュー。次第にこみあげる実感、手応え……
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