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世界を跨ぐ力学の判例・織田信長 作者:青山曜三
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平手政秀について

ところで平手政秀の存在を抜きに信長の青年時代は語れないだろう。信長の傅役(養育係)だったのだから当然である。信長はかれの担当中にうつけと見られるようになっていた。だとすると、平手が傅役でなければこのような羽目(こと)にならなかったという見方が成り立つことになる。平手の養育が不十分だったことを示す証拠は無く、手を焼いていたかも定かでない。平手というと「爺」のニックネームで親しまれているが、これは史料に無い想像の産物に過ぎないのが実情である。

自刃の件も注意を要するだろう。平手は信長の養育係であってこれ以上の者でも以下の者でもない。その平手が信秀の死後信長が実直でないのを苦に自殺したという。これが自刃の理由なら信秀の生前の方が深刻だったはずである。なのに信長が家督を継いでしばらくしてから(役目を終えたから)自害している。守り立ててきた甲斐がないといって死んだというが、一人で守り立てていたとは考えられない。「一人で」という慢心が死を招いたのだろうか。まるで親であるかのように思い詰めているが、信長は傅役の自惚れに付き合うほどおぼこでなかったはずである。この理由では人並みに罪悪心を覚えることがあっても、号泣はありえないだろう。これは明らかに信長のキツイ性格を無視した不合理な解釈である。ではいったい何が起きたのだろうか。私の推理は以下のとおりである。

まずは平手の年譜を載せるので一瞥してほしい。

明応元年(1492)   誕生
明応三年(1494)    斉藤道三誕生
永正七年(1510)   信秀誕生。なお永正八年、九年説の諸説あり
享禄三年(1530)    信秀家督を継ぐ諸説 信秀の家老となる
天文元年(1532)   信秀、今川氏豊から那古野城を奪う
天文二年(1533)   公家の山科言継が政秀邸に泊まった際政秀の人物と屋敷を称賛する 和歌会の際には文芸の造詣の深さを示している
天文三年(1534)   信長誕生 信長の家老となる
天文二十年(1551)   信長家督を継ぐ諸説あり
天文七年(1538)   信定死去 諸説あり
天文九年(1540)   伊勢神宮外宮造営のための寄進に尽力する
天文十二年(1543)  信秀が皇居修理のために四千貫文を搬出したとき信秀の名代として上洛し献上している
天文十五年(1546)  信長元服 
天文十六年(1547)  信長初陣。
天文十八年(1549)  信長と道三の娘(濃姫、帰蝶)の婚姻のために奔走、成立させる
同年秋          清須守護代織田信友と信秀との和睦を成立させる
天文二十一年(1552) 信秀死去。信長が家督を相続。諸説あり
天文二十二年(1553) 自刃する 享年六十二

この年譜を見ると、道三より約二歳上、信秀より約十八歳年長だったことがわかる。父は経秀といい、祖父は英秀であり、いずれも春日井郡小木村・志賀村両城主であったという。横山住雄氏は所在地が史実と合わないとして勝幡城のすぐ北の長福寺付近に居宅を構えていたという説を唱えている(『織田信長の系譜』/横山住雄著/教育出版文化協会)。所在地の件は置くとして、信定(信長の祖父)、信秀、信長の三代に渡って織田弾正忠家に仕えた生え抜きの忠臣だったことは確かなようである。一般的には、信秀・信長の二代という見方が為されているが、信秀より十八歳上であることをおもうと信定の代から仕えていたとみるのが自然である。穿った解釈をすると、信秀の信頼が厚いのは信長同様信秀の面倒を見た時期があったからかも知れない。まさに織田弾正忠家一筋の「爺」的な存在だったにちがいない。

平手政秀は、和歌・茶湯に長じるインテリで、経済や外交にも明るい万能的な教養人であった。皇室との交渉役を果たしていることからコネと作法の知識があったことがわかる。尾張の守護代の重臣の家臣の身分にしては稀有なスキルといえるだろう。特に濃姫と信長の婚約を取りまとめた件が有名である。このときは信秀の方が分が悪かったにもかかわらず見事に大任を果たしている。たいへんな資産家でもあり、生真面目な性格であったという(『織田信長の系譜』/横山住雄著/教育出版文化協会)。武功が見当たらないことから官僚タイプの事務方専門の重臣のように映りがちだが、信長の初陣の補佐役を務めているところをみると軍師の面も具えていたようである。個人的には米内光政タイプの「偉大なる凡人」的な人物(武士)として捉えている。

※ある部下の証言によると、米内光政は、ああしろ、こうしろ、ということは一切言わず、あれをしてはならない、これをしてはならない、とも言わなかったそうである。

次に両者の関係についてふれることにする。
次のくだりを読むと、平手が気弱な爺ではなく信長に協力的な傅役だったことがわかる。

信長は十六・七・八の頃までは特にこれといった遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、また、三月から九月までは川で水練をした。

また、市川大介を召し寄せて弓の稽古、橋本一巴いっぱを師匠として鉄砲の稽古、平田三位を絶えず召し寄せて兵法の稽古、それに鷹狩りなどをした。

養育係の平手を無視してこのような日課が組めるとは考えられない。また当時の信長に一存で決められる力があったとも思えない。当然信秀の許可を得てから平手が手はずを整えたはずである。織田家の顔的な外交官でもあった平手が信長のためにすべてを仕切ったと捉えないと傅役の用がなくなってしまう。信長の考えに反対したり、おろおろしてばかりいる無能で目障りな養育係を信長が許すはずがない。逆に信長を理解し、協力的でかつ有能な味方だったからこそ慕っていたのである。うつけの素行にしても理解がないと衝突するのは必至である。よって理解を示していたとみるのが妥当である。

改めて平手について。
平手がいかに献身的な傅役であったかは信長の多彩なスキルから窺い知ることができる。信長も平手同様、経済、外交、茶湯、軍事等の広い才能を示している。この背景に平手の指導と鞭撻が無いかのような見方は平手に酷である。バカ殿とバカ殿に仕える健気な老臣の関係の方がアレキサンダーとアリストテレスの小型的な小難しい見方をするより面白いかも知れないが、「生真面目な性格」という両者の共通点を考慮すると後者の方が史実に近いと思う。

以上のようにシビアに考察すると、信秀の生前には、問題はないようである。信長はあくまでも信秀の後継者候補のひとりに過ぎず、平手も信秀の家臣のひとりであることから互いに理性を働かせて信秀の逆鱗に触れぬよう努めていたからにちがいない。

では何が起爆剤となったのだろうか。
私は天道思想がそれであったとみている。天道思想と「人生五十年」という敦盛(幸若舞)の台詞(せりふ)が両輪となって「天下人になる」という思いも寄らない志を抱かせる羽目になったのだと思う。

天道思想はカリスマとともに信長の「力学」を知る重要な要素である。端的にいうと、信長は桶狭間の勝利で己のカリスマの顕現に成功した後、そのカリスマ像と数々の実績を武器に天皇と天皇のカリスマ性に取って代わる「天下人」という新たなカリスマ的指導者となって世直しをする野望に燃えていた(抱いていた)。そしてこの野望を正当化する大義として天道思想に着目し、これを独自の思想に取り込むことで名文化を図り、それを正義として標榜することで公私の折り合いをつけていたのである(カリスマと自身の折り合いも含まれる)。つまりいたずらに侵略戦争を推し進めていたわけではなくこの考えに基づいて「天下布武」の実現を目指していたのである。

儒学が天道思想の源流にあり、禅宗とも密接な関係にあることは天道思想の基本である。したがって天道思想を説くには禅の知識が不可欠となるのだが、私は禅の経験がなく、またする気もないのでこの教義について語る資格がない。このことは専門書を読むだけで弾いたことのない初心者からギターを習うのと理屈は一緒である。護摩を焚いたことのない者に空海の秘教がわかるだろうか。私は個人的にこの手の実証的でない試みは馬鹿げていると思っている。むろん思考実験は大事だが、経験がそれ以上に大事なことは鉄則である。要するに私も信長同様仏教が嫌いなため、読みたくも、知りたくもないのだが避けて通れないのが現状である。

幸い戦国時代の天道思想については石毛忠氏の優れた著作がある。奇しくも石田氏はその書の中で「織豊政権と『天道』思想」という項目を設けて鋭い洞察を利かせている。特に信長の「肉声(「天」と「天道」について語った史料)」を取り上げている点が貴重である。このほかにも小島毅氏の研究も挙げられるが、石毛氏の次のふたつのくだりを引用すればこの難所は押さえられると思う(私は信長を意識して要点だけを言うよう心掛けている)。それらの解説は平手の死とも大きく関わってくるので重要である。子供染みたことをいって恐縮だが以上の次第なのでこの点を留意して以下のくだりを通読してほしい。

室町幕府の政治原理にはふたつの側面があった。それは撫民仁政主義と故実礼治主義であり、両者とも室町幕府の政治要綱である『建武式目』にはっきりと謳われている。まず撫民仁政主義は「天下」思想―儒教の敬天思想(天意の反映である民意の支持を為政者たるの有効要件とし、為政者を交替する放伐革命を是認する)に立脚し、天下は天下の天下であると主張して、安民・保民を政治の要訣とするー基づくもので、承久の乱以来超越的な「王土」思想―天下も天下の民もすべて王土・王民であるから、王土に孕まれた王民たる者は王(天皇)に絶対服従すべきだと主張するーと対決し、武家政治を正当化してきたものである。一方、故実礼治主義は公武社会における先例・典拠を重んじる精神に支えられるもので、これによって、故実に依拠し、儀礼を重視する室町時代特有の故実的政治世界が形成された。

承久の乱以来、武家政権が正当化してきた「天下」思想=「天」の思想―超越的な「王土」思想を退け、撫民仁政を求め、政権ないし主権者の交替をジャステイファイするーと、南北朝内乱期以降顕著になった双務契約的な主従観念こそ下剋上正当化の論理を構成する二大要素であり、両者がいわば共鳴しあいながら、形骸化した室町的故実世界を崩壊に導き、新秩序の胎動を促したということができよう。実力主義の精神に支えられていたであろうが、その下剋上の正当性を主張する場合には、どうしても上述した「天下」思想=「天」の思想に頼らざるをえなかったのである。 「戦国・安土桃山時代の倫理思想ー『天道』思想の展開―」(体系日本史叢書23 思想史Ⅱ/山川出版社、『日本における倫理思想の展開/日本思想史研究会/吉川弘文館)

以上のくだりを読むと、王土思想と天道思想の違い、撫民仁政主義と故実礼治主義の違いがわかると思う。要約すると、王(天皇)の利己的な独裁体制に絶対服従を強制する政治原理が王土思想であり、民意(天意)に支持された為政者がその意を実現する(司る)政治原理が天道(天下)思想である、と区別できる。撫民仁政主義と故実礼治主義については文字通りに解釈すればよいので説明は不要と思う。

さて先の石毛氏の文章を読むと、故実礼治主義と信秀・政秀の考えが似ていることに気づくのではなかろうか。公家を尾張に招いて和歌や蹴鞠や指導を受けたり、巨額な献金をしたりと皇室に比重を置いた政策をとっている。実力では斯波氏を凌ぎながら下剋上に踏み切らないのもこの一貫と見なすことができる。

これに対し信長は真逆の道を採っている。血で血を洗うような内紛の火付け役となって力でこの火をもみ消している。信秀の考えがしょせん理想でしかないことに気付いていたからにちがいない。天道思想に目覚めてからはもはや反面教師でしかなかったはずである。

信長と撫民仁政主義との関係は、信長が自国民を虐げた記録が見当たらないことによって民意を尊んでいた証拠として見なすことができるし、天道思想との関係も「天下」という概念に異常なこだわりをもっていたことから推論が可能である。

このように信秀と信長の考えが違っていたのであれば死ぬまで家督を譲らなかった理由も読めてくる。その糸口となるのが初陣以後一度も信長に出陣を命じていないという史料上の事実である。庶兄の信広はちゃんと戦に出て戦っているのに嫡男の信長にはその形跡が見当たらない。また青山与三右衛門と内藤勝介という二人の家老らも出陣して武功を立てているのに城主の信長にはそれが無いのである。信長が役立たずの怠け者ならいざ知らず、その反対であることはこれまで述べてきたとおりであり、才能を認めていたにしてはこの扱いは理不尽というほかない。

むろん嫡男の身を案じての配慮であろうが、信広を人質交換に応じて救っていることや、信勝(信長の弟)に本城(末森城)に譲っていることからいたずらに優遇されていたのでないことがわかる。家督相続の件にしても本来なら道三に大敗した時点で責任を取って譲るのがこの時代の常識的な考え方なのである。年齢的な問題も二十歳前に当主となる例が多分にあることから理由にはならない。事実信秀自身信定の生前に二十歳の若さで家督を継いでいるのである(因みに今川義元は十八である)。因習を重んじるタイプにしてはこの信長への対応は奇妙といわざるを得ない。

結論からいうと、答えはいたって単純で、要するに、信長に武功を立てさせたくなかったのである。信長が大功を挙げるようなことにでもなればこの「危うい関係」が崩れる懼れがある。才能を認めれば認めるほどこの危険が増すのである。織田家協調路線と故実礼治主義に拘る信秀にすれば信長の考えこそ浮世離れした甘い理想であり、織田家を破滅させる掟破りの背信としか映らなかったにちがいない。信秀が大人であればあるほどこの思いが強かったはずで、とても容認できることではなかったはずである。

にもかかわらず信長が家督を継いだのであればこの間に何らかの動きがなければ不自然である。信秀の死が頓死でないことは信長が信秀に代わって証文を打っていることから明らかであり(『織田信長の系譜』/横山住雄著/教育出版文化協会)、また病名が不明では信秀抜きでの継承であったとは納得できない。療養中に急死したとも考えられるが、これは憶測に過ぎず、黙って死んだ証拠にはならないだろう。

ここで参考となるのが武田氏の例である。信玄は勝頼に遺言として次のふたつのことを申し渡したという。自分の死を三年間秘密にしておくこと、そして重臣らと協調してやってゆくこと。武田氏のような大勢力でさえこの有様なら織田弾正忠家程度の勢力となれば事態(こと)はもっと深刻だったはずである。事実「武功夜話」にこれを裏付ける記事が載っている。

織田上総介(信長)様がお世継ぎとなられたころは、美濃方は川並衆を取り抱え、加賀の江や墨田辺りへ乱入しては上郡を窺う、といった尾張にとっては危ないこと、この上もない状態であった。
(「武功夜話 信長編」/加来耕三訳/新人物往来社)

このような状況で家督を譲るのであれば独りでなんとかしろというはずがないだろう。道三は信秀でさえ倒せなかった強敵(あいて)なのである。いくら非凡であっても実戦経験がないのは致命的である。気位と才能だけでは乗り切れない厳しい現実がこの親子の前に立ちはだかっていたのである。

とはいっても信長以外にこの難局を乗り切れる跡取りがいないのであれば信長に家督を譲るほかない。両者の立場を考えれば信玄的な教訓を受け入れることが家督を譲る絶対条件となるはずである。これを信秀の深謀とはいわないまでも、長年信長を鎖につないできた苦肉の策が最悪の状況で実を結ぶような事態となっていたのである。

信長は自分が損することは絶対にしない男である。このことは生涯狡猾なまでに徹底している。このときも拍子抜けするほど素直に認めたはずである。見栄や面子より実利を重んじるポリシーは道三との会見でも色濃くあらわれている。信秀はおそらく隠居してすぐに死んだのだと思う。急死でなければこのように考えざるを得ない。結局この強制的なやり方が後に裏目となって最悪のかたちで平手を見舞うことになるのだが、まずはこの一連の推移を平手の死の付箋として押さえておくことが肝心である。

いよいよ平手の自刃について述べることにする。
この後の平手の胸中は察するに余りあるだろう。平手の事件は信秀の死の翌年に起きている。この間になにが起きていたかといえば、信秀の葬儀での信長の悪態があり、赤塚の戦いが勃発し(年に諸説あり)、信長が信秀との約束を守らないという事態が起こり、そんな信長に家臣が愛想を尽かし始めていたという忌まわしい事件がたてつづけに起きている。生真面目な平手には堪え難い現実だったにちがいない。

ではこれが自刃の理由かというと、この見方は早計といわざるを得ないだろう。この状況で自刃すれば信長を見放したのと同じである。一番力になってほしいときに自刃してさっさと去ってしまうというのでは「見捨てた」と受け取られても致し方ない。では苦言を弄していたかといえば、これも当らないだろう。信長が話して分かる生易しい相手でないことはわれわれでも分かる程度のことなのだから信長を知り抜いていたはずの平手がこの轍を踏むはずがないからである。

ではなぜ自刃したのだろうか。
『信長公記』は平手の死を伝える唯一の史料である。この答えは典拠に求めるのが筋である。事件のくだりとこれまでの推理を活用すれば納得の行く理由が見つかるはずである。まずはそのくだりを転載するので通読してほしい。

平手政秀の息子は、長男五郎右衛門・次男監物・三男汎秀という兄弟三人がいた。総領の平手五郎右衛門は優れた馬を持っていた。それを信長が所望したとき、「私は馬を必要とする武士でありますので、お許しください」と小憎らしいことを言って、献上しなかった。信長の恨みは浅くなかった。たびたび思い出して、次第に主従不和となったのである。
三郎信長は、上総介信長と自分から官名を名乗ることにした。
間もなく、平手政秀は信長の実直でない有様を悔やみ、「信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない」と言って、腹を切って死んでしまった。

この中で注目すべき点は信長と平手の総領が「不和」となったという点である。このとき平手は62で、役目を終えていた。となると、年齢的にみてこの総領(長男)が当主であり、平手は隠居していたとみるのが自然である。この点は平手と事件との位置関係(立場)を知るうえでも重要である

馬の件は主従関係が不和となった「きっかけ」に過ぎないことから平手家が信長から離れようとしていたことの隠喩と見なすことができるだろう。些細な不和でないことは平手が自刃していることから明らかである。また両者が一歩も譲らずに反目していたことは文面から読み取ることができる。このくだりはそれまで諦観していた平手の身にも忌まわしい機運が及んでいたことを物語っている。

さて仮に平手家が主従関係を断つような真似をすれば、信長はかれらを討つにちがいない。信長は逆らえば身内や兄弟であっても情け容赦なく裁く男である。平手であっても例外ではないだろう。だが名代の平手と平手家の実力を侮るのは危険である。反信長勢力になびくようなことになれば一大事である。ならば「火は熱いうちに打て」の箴言ではないが、事前に処理することを考えるはずである。信長は自衛的なことに関しては極めて危険な男なのである。

事実、信長はこの危険な性格をむき出しにして平手家に迫っていた。これを表すのが次の一節である。

三郎信長は、上総介信長と自分から官名を名乗ることにした

この前後の脈略を無視した突飛な文章は平手家に対する最後通告的な警告を意味している。織田弾正忠家と何の縁のない官名をこの碁になって急に名乗り出すからには平手と平手家に対し「過去との決別」を意味する警告と受け取らないと、この直後の「間もなく、平手政秀は信長の実直でない有様を悔やみ、『信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない』と言って、腹を切って死んでしまった」という結びの文章との因果関係が成り立たなくなるからである。特に「間もなく」の語が重要で、こう受け取らないとこの間もなくが、何を受けての間もなくなのか見当が付かなくなってしまう(諍いだけが原因ならこの文章を入れる必要がないだろう)。

ここまでくるともはや自刃の理由は解けたも同然である。
この状況での打開策は、平手の総領が自刃して事を丸く収めるか、それとも、主従関係を断つか、のいずれかになるはずである。信長の怒りが尋常でないことは子供染みた嫌がらせをしていることから明らかであり、相手が「子供」とあっては詫びても通じるとは思えない。

ところが実際は第三者的な立場に居た平手が自刃することで丸く収まっている。このことから次の見方が成り立つのではなかろうか。つまり、息子たちには信長を信じてこれまでどおり仕えるよう死を以て諭し、信長には自分が自刃することで息子たち(平手家)を許して欲しいと頼むかたちで事態の収拾を図ったのであると。

ここで信長の身になって考えてみたい。
当然、信長は、平手は息子らの側に付くと思っていたはずである。当時の武家社会の常識からすれば当り前のことであって、主従関係を結んでいるといってもしょせんは他人なのである。さらに信秀の死後の傲慢な態度や平手家への仕打ちを考えれば快く思っていると思うはずがない。

ところが平手の自刃には多分に信長を救う意図が含まれている。平手がその気になれば信長を負かすのも夢ではないだろう。たとえば誼のある道三(もしくは斉藤家)と結託し、さらに反信長連合と組めば信長が窮地に立つのは必至である。平手の方が、人望・人脈・経験のすべてで勝っており、さらに信長を知り抜いているのであれば、信長がたとえ当主であっても不人気であることから平手に分があるのは明らかである。

にもかかわらず自刃を選んだのであれば信長を立てるのが目的だったとしか考えようがない。信長の危機は織田弾正忠家の危機であり、その危機を自分の家が作っているのであれば(正確には信長が作っているのであるが)、平手が消えてなくなればこの危機を回避できるからである(むろん長男の命を守る意図も含まれている)。

要するに信長は平手が最後まで自分を「裏切らなかった」と受け取ることで完膚なきまでに打ちのめされたのである。信長の思いとは裏腹に信長の怒りと誤解を解くために黙って忠義を立てて死んだからである。信長が驚いたことは童子のように号泣したことから明らかである。つまりこの驚きがやがて衝撃となって号泣というかたちで爆発したのである。

しかしながら自刃しても思いが伝わらなければ意味がないだろう。伝わらなければ犬死と一緒である。ではなぜ信じることができたのだろうか。その答えはいたって単純で、信長が真面目な男だからである。信長は平手の行為を軽く見るほど不真面目な男だろうか。平手を見損なっていた自分を恥じたであろうことは疑いの余地がないと思う。

実はこの生真面目さが信長の強さの秘密なのである。事実信長は休むことなく努力をしている。甘えを嫌い、怠惰を憎み、正義を愛し、勇気を尊び、弱者を認め、見栄や体面に頓着せずに、常に極限の精神状態の中で神や仏がつけ入る隙がないほどの厳しい努力を己の頭脳と肉体に課している。その精神構造はまるで精巧な機械のようにおそろしく真面目(緻密)である。機械であれば扱い方さえ心得ておれば動かすことができる。平手は信長の操縦法を心得ていたのである。だからこそ死ねたのであり、信長も平手の意思を受け入れたのである。生真面目な性格であるがゆえにだれよりも平手の生真面目な性格を尊び慈しむことができたからである。


以上が私の推理である。

次は、いよいよ「桶狭間の戦い」である。
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