「いつまで金にならない事をやってるんだ? お前は」
その男は俺に向かってそう言った。
まるで天下を取ったように……。
「大体それやって幾らになるんだよ? ……はあ? その程度の稼ぎでどうするんだ? 俺なんかな、毎月かなりの額を稼いでるんだぜ?」
それがどうしたって言うんだ……。
お前が幾ら稼ごうが、俺には何の関係も無いだろう?
それにどうしてお前にそこまで言われなけりゃならないんだ?
お前に何か迷惑をかけたか?
世話になったか?
「どうだ、俺が使ってやってもいいぜ? おれはその内、ここらにでかいビルを建てる予定なんだ。 そうしたら年収は億単位になる」
……きっとこいつは馬鹿なんだな。
ビルを建てただけで、どうして年収が億単位になるなんて思えるんだろう?
仕事が入らなきゃ一銭にもならないだろうに。
その仕事が必ず入って来るっていう確証はどこにあるんだよ。
「俺はあちこちに顔が利くからな。 ま、人望ってやつさ」
それは大したもんだね……。
でも、そんな話を延々と俺に聞かせるのはやめてくれないかな?
聞いてるだけで疲れるんだよ……。
「ま、その気があったらいつでも言えよ、使ってやるからさ。 何なら仕事の口利きしてやってもいいぜ?」
「いや、遠慮するよ。 俺には出来そうも無い」
「そうかい。 じゃあな」
そんな事を言われても、俺には言い返すだけの物が無かった。
ただ黙って言われるままに、それを聞いているしかなかったんだ……。
奴との付き合い自体は結構長い。
だが、それはあくまでも繋がりがあったというだけの物であって、決して好んでこちらから繋がっていようと思っていた訳では無い。
けれど、それは突然の電話から始まった……。
「ちょっと仕事を手伝ってくれないか? なあに大丈夫だ、簡単な入力作業だからよ。 こんなもん、馬鹿でも出来る」
奴は電話口でそう言った。
どうやら仕事が忙しく、人手が欲しかったらしい。
皮肉な事に、俺の方は仕事も無く、毎日ブラブラしているのをたまたま奴の女房が知ったらしく、それを奴に話したのだろう。
滅多に顔を合わせる事など無いのに、偶然、買い物帰りに出会ってしまったのがいけなかったなと思った。
何しろ俺と来たら、無器用な上に無愛想だ。
おまけに運も悪いのか、何をやっても上手く行かない。
今までどんな仕事も続かなかった……根気が無いのとは違う。
捨て切れない夢にしがみついているのも諦めが悪いってだけじゃなく、それ以外に出来る事が無いからなんだ。
それだけは二十九歳になった今でも 『続けよう』 として続けてるんだ。
正直に言って奴の事はあまり好きではないが、多少でも金が手に入るのは悪い事ではないと思い、俺はその話を承諾した。
「……少しは俺も頑張らないとな」
俺は部屋の隅に置いてある、蘭の花に向かって言った。
これは隣の部屋に住んでいた人が置いて行った物だ。
何でも突然、夜逃げ同然で姿を消してしまったとかで、処分に困った大家が俺に預けた……と言うか押し付けた。
まあ、俺もいい加減殺風景だった部屋に花があるのも悪くないと思い、貰う事にしたのだ。
色々調べてみたのだが、何という種類の蘭なのか判らなかった。
茎の部分に小さなコブが一つあるのが変わっている。
「家賃も払えずに夜逃げなんて、カッコ悪いしな」
けれど……。
バイトを始めて三日ほど経った或る日……。
「自分で計算しろよ」
「いや……でも、どこをどう計算したらいいんだ? 俺はこんな事した経験が無いんだから判らないよ」
「ったく……お前さ、出来ないと思ったら早めに辞めるって言ってくれよな。 俺も忙しい中、こうやって教える時間を割くんだから。 いちいち訊かれてたんじゃ仕事にならねえよ」
ちょっと待てよ……何だよそれ。
お前が手伝ってくれって言って来たんじゃなかったか?
俺は最初に出来ないって言っておいた筈だぞ?
「……おい、ここの計算、違ってるぞ」
「え? でも、そこは教わった通りにちゃんと……」
「違うんだよ。 あのな、データを信用してそのままやったんじゃ駄目なんだよ。 データ自体が間違ってる事が結構多いからな」
何だそれは……。
じゃあ、俺は何を頼りに仕事をしたらいいんだよ……。
「俺はこんな物、生まれて初めて見るんだから判りゃしないよ……」
「だからよ、これはここが百五十になって、で、それで計算するとだな……」
「……データには百って記されてるのに、何で突然百五十にしちゃうんだ? その五十はどこから出て来たんだよ?」
「ま、経験と勘だな。 見りゃあ大体察しが付く」
……それじゃ俺には絶対に不可能だろ?
お前、自分で何を言ってるのか理解出来てるか?
だいいち経験と勘だけで作る物なら、わざわざコンピューターを使う必要なんてあるのか?
「それからよ、カタログ値とは違って記載されてる場合があるから、とりあえずそこにあるカタログの品番と型は頭に入れとけ」
おいおい……どう見たってタウンページよりも厚いぞ、そのカタログ……。
それが一体、何冊あるんだよ?
「俺は現場の経験もあるからな、自然と頭に入ったぜ」
いや、お前の自慢話はいいから……。
じゃあ経験の無い俺は、その本にかじりついて憶えないといけないって事か……。
自慢じゃないが、俺はこういった作業が苦手なんだ……。
「今お前にやらせてる物なんか初歩の初歩なんだぜ? その程度の事はまともにやってくれよ」
無理だ……俺にはすぐに解った。
これは基礎も何も知らないまま出来るような事じゃない。
工場の流れ作業とは違うのだ。
「俺なら一時間もかからずに出来るぜ、その程度の事はよ」
こいつの目的は何なんだ?
俺に仕事を手伝わせる事じゃなかったのか?
さっきから俺の耳に聞こえて来るのは、どれもこれもみんな、俺に対する 『無能』 という評価のようにしか聞こえないのは、俺の僻み根性のせいなのか……?
「済まん……俺には出来そうもない……」
「そうか、無理か。 でもよ、少しだけどお前が働いた分の金はやるよ」
「いや、いいよ。 俺は結局、何の役にも立てなかったから……」
俺は、やっとの事でそれだけの台詞を搾り出すと、そのまま奴の事務所を後にした。
どうやってアパートまで戻ったのか全く憶えていない。
「結局、俺には何も出来ないって事なのかな……?」
妙に自虐的な気分になった。
そんな気分になるのは珍しい事じゃないが、何故か今回は特にそれが酷いように感じられる。
「自殺する奴って、こんな気分になったりするんだろうか?」
それとも犯罪に走る奴かな?
などと、一人考えて苦笑した。
馬鹿な事を考えるもんだ……それをしたからってどうなる?
田舎の年老いた親が泣き、俺を馬鹿にしてた連中はそれ見た事かと笑い、何も知らない無責任な世間の人間は、また一人馬鹿が出たと一瞬思うだけじゃないか。
下らない……。
「なあ……」
俺は蘭に話しかけた。
植物は人の言葉を理解すると言うけど、俺はそんな物を信じはしない。
植物は植物だ。
けれど、こんな気分の時には無性に誰かと話したくなるものだ。
人間の話し相手がいないのだから、植物が相手になっても仕方ないだろう。
無機物に話しかけるよりは余程正常だ。
「こんな人間でも、この世に必要なものなのかな? 何も出来ないような、こんな無様な生き方を晒してる、俺みたいな人間がさ……」
答えは無い。
まあ、当たり前だ。
返事が返って来る方が怖い。
「いい加減疲れたよ……。 なあ、楽になりたいって考えるのは悪い事なのかな? みんな言うんだよ、もっと頑張れってさ。 でも、そんなに頑張れない人間だっているんだ。 お前達植物には、そんな奴はいないのか?」
静かに佇む蘭の花を見ながら、俺は何故か自分が泣いているのを感じた。
切なかった……今の自分が悔しかった……。
他の誰に言われるよりも、自分で自分が駄目な人間だという事を解っているのに、それを打破出来ない事が情けなかった……。
「逃げる事は悪い事だと教わって、今日までそう思って生きて来た……。 でも、もう疲れたんだよ……逃げ出したいんだ、この現実から……」
こうあるべきなんだと人は言う……こうならなければいけないのだと……。
けれど、そうなれない人間はどうしたらいい?
そうなりたくてもなれない人間もいるのだという事を、どうやって解ってもらったらいい?
どうやって……。
「俺は疲れたんだよ……」
「まったく……これで二度目ですからね」
大家が下膨れた頬を更に膨らませて言った。
不機嫌な様子を隠そうともしていない。
「こんな物ばかり残して行かれたって、私が勝手に換金する事も出来ないし、困るだけなんですよ本当に」
「申し訳ありません……。 そんなに無責任な子じゃなかったんですけど……」
母さん……。
昔はこうやって、よく抱いてくれたよね……。
懐かしいよ、とっても……。
「もういい! いなくなった奴の事など忘れろ! こんな恥曝しな真似をして……親戚中の笑い者だ!」
父さん……。
昔からそうやって、いつも俺を悪者にしてたよね。
でも、全部俺が悪かった訳じゃないんだよ……解ってよ……。
「捜索願を出さなきゃ……」
「そんな物は必要無い! ……あいつは死んだと思え」
「そんな、お父さん……」
「さあ、帰るぞ。 東京になぞ、二度と来ん!」
俺も一緒に帰れるんだ……帰ったら何をしようかな……。
「ああ、ちょっと。 その蘭は置いて行って下さいよ。 それはあの人の持ち物じゃないんだから」
「え? でも、息子の部屋に置いてあった物ですよ?」
「前に住んでた人の持ち物なんでね。 お宅の息子さんに預かってもらってただけなんですよ」
「そんな物、置いて行け。 あいつの物も全部ここで処分して行くんだ」
「……はい」
母さん、待ってよ……置いて行かないで……。
一人は嫌だよ……母さん!
『一人じゃないわ……私がずっと一緒にいてあげる……』
蘭のコブが二つになっていた……。 |