どれくらい時間が経っただろうか。誰かの手が、突っ伏してるセネカの肩に触れた。
また、あいつだ――。
セネカはぴたりと泣くのをやめた。
涙にぬれた顔を見られまいと、うずくまったままの姿勢で涙を拭い、セネカは起き上がりざまに怒鳴りつけた。
「あっちへ行けって言っただろッ!!」
しかし――。
「びっくりした。私だよ?……誰か来てたのかい?」
そこにいたのは、レダだった。
レダはセネカの様子を見に、村外れ家へとやって来たのだ。
セネカはまた、言葉を失った。
いぶかしがるレダの視線をさっとかわすとセネカは急いでかぶりを振った。
「なんでも……ない」
セネカはようやく言葉を喉の奥から引っ張り出した。
「……ふうん」
レダは刺すような視線をセネカに向けた。
セネカは焦りと疾しさでどぎまぎした。
「あああ……もお、なんてざまだろう」
レダはまじまじとセネカの顔を見るや、悲観的な声をもらした。そして物干し綱に掛けてある布を一枚取り上げ、セネカの顔を拭った。
セネカは涙と血の跡を拭き取ってもらう間、おとなしくされるがままでいた。
「いいかい? セネカ。あんたは女の子なんだから。取っ組みあいの喧嘩なんて真似はもうおよしよ?」
それはらレダの説教が始まった。
「もうカルラたちと付き合うのはおやめ。いいね?」
何も好き好んで付き合っていた訳じゃない――。絡んできたのは向こうだ――。
セネカは心の中で反論した。
「これからはサロメんとこの姉妹と遊ぶんだよ。ああ、それから乱暴な男言葉も、もうおやめ。今日からだよ。分かったね? それから――」
レダが説教を繰り返すあいだ中、セネカは気が気ではなかった。
レダはいつまで居座るつもりなのだろうか。
あの少年は――姿が見えないところをみると、納屋に戻ったに違いない。
レダがわざわざ納屋の中を覗き込みに行くことは、まずないと思うが――この家に見ず知らずの少年がいるところを見つかったりでもしたら……。
セネカはレダに気取られないように時折、ちらちらと上目使いで家の入口の方を垣間見た。しかし、セネカがどこか上の空なのはレダにはお見通しだったらしい。
レダはおもむろに振り返り、入口の方を見た。
「あ! そ、そうだ。サミュエは? サミュエはどうしてる?」
セネカは、何か言いたげなレダが口を開く前に慌ててたずねた。
レダの顔がさっと翳った。
「……セネカ、何があったんだい? 林の中で。サミュエは、今は、家にいるよ。ミダイは……あんたとカルラが取っ組み合ってるとこしか見ていないというし。サミュエの説明はアテに出来ないし……。カルラたちからは、取りあえず話は聞いたけど」
レダは眉根を寄せながらためらいがちに言った。
カルラたちが本当の事を話すとは到底思えなかった。セネカはレダに、雑木林での一部始終を話し始めた。
レダはしばらくの間、黙って聞いていた。
セネカはサミュエが今回の騒動にほんの少し加担したことを包み隠さず伝えた。話を濁してもしょうがないと思ったからだ。
「カルラは、ひどいことを言ったんだ。おいらに対してだけじゃない。サミュエやミダイにも――あいつ、人をバカにするような事を平気で言いやがった。許せない!」
セネカは憎らしげに拳をぎゅっ握り締めた。
「それで?」
レダが床の一点を見つめるセネカの顔を覗き込んだ。
「え?」
「それで、あんたは何を言ったんだい? カルラに」
「ああ……」
セネカは億劫そうに口を開いた。
「村で流れているウワサのことを言ってやったんだ。あいつ、歳をごまかしてオリンポスの呼び出しを逃れたんだ。正直モンはバカだって言ってるようなもんだ。それに、悪くもないのに耳が聞こえないなんて――ウソばっかし! 汚いよ!」
セネカはいまいましげに顔を歪めた。
「……」
レダはセネカの剣幕がおさまるまで待ってから、残念そうに言った。
「カルラは歳の割に小柄だからね。それで撥ねられたんだよ。歳をごまかしたわけじゃない」
「え!?」
「それに――」レダは続けた。
「カルラのところは親父さんと二人暮らしだ。母親は病気で亡くなってる。このことは知ってるね? セネカ? もしも、カルラがオリンポスに取られたら、親父さん一人っきりになっちまうんだよ。それで――」
「でも! それだからって!」
「耳が不自由だから働き手としては相応しくないって言ったのは親父さんの方だよ。カルラじゃない」
「……」
セネカは押し黙った。
「親父さんはカルラを取られたくないばかりに、オリンポス兵に嘘をついたんだよ。だからカルラに非があるわけじゃない」
レダは静かに言葉を結んだ。
一方のセネカはやや血の気の失せた顔で、黙りこくっていた。
「それで?」
レダは出来るだけ素っ気ないふりをしてセネカにたずねた。
「カルラは、あんたになんて言ったんだい?」
セネカは唇を強く噛んだ。
「先に手を出したのは、あんただったよね? カルラはどんなこと言ってあんたをそんなに怒らせたのか、言ってごらん」
「……言わない」
「セネカ。あのね……」
「言いたくない」
セネカはかたくなそう言うと、そっぽを向いた。
レダは溜め息を一つついた後、声を落として言った。
「カルラは……ね。まぁ、あんたに殴られたのがよっぽど悔しかったと思うんだけど……」
レダはとても言いにくそうだった。
「隠しておいても、いずれ分かることだから――カルラは……あんたに林に呼び出されたって。わけのわからない言いがかりをつけられて、反論したらいきなり殴りかかってきたって――」
「わけわからないのはカルラの方じゃないか!!」
レダの言葉が終わらないうちにセネカはすっくと立ち上がった。その顔色は赤く上気していた。
「私はあんたがそんなことするなんて思っちゃいないよ」
レダはセネカを落ち着かせようと、立ち上がって優しく肩を抱き、かつてルイザが使っていた寝台に腰を下ろすよう促した。
セネカの胸にはは再び、カルラに対する怒りがふつふつと込み上げてきた。
「……サミュエのことは、悪かったね。私からお詫びするよ」
隣に座ったレダレダがすまなそうに言った。セネカは首を横に振って応えた。
「カルラのことだから、村中にふれ回るかもしれないね。まあ、口八丁のカルラの言うことだもの。尾ひれを付けて話してるってことは皆、承知してるさ」
「……」
セネカは再び固く口を結んでいた。
「噂なんて気にしなければいいのさ。当の本人がしゃんとして、まっとうにしていれば、時が解決してくれるって」
レダは明るく言い放ったあと、少し声色を変えた。
「でもねセネカ。その前に……ここは一つ、人としての落とし前だけはつけないといけないね」
「落とし前? 人としての?」
「そう」
レダの目が凛々しく光を帯びた。
「カルラに謝りにいこう」
「な――な、なんだっ――て!?」
セネカはレダの無慈悲な宣告に驚きの声をあげた。そして、レダがこれを言うために村外れの家までやって来たのだということを、この時覚った。
「嫌だ」
セネカが憮然とした面持ちで答えた。
「あんたもやられたけど、カルラの方も相当なもんだよ。なにせ――」
「嫌だッ!」
セネカがもう一度、語気を荒げて言った。
レダはやれやれといった様子で、またため息を一つついた。
「あんたは大分村に馴染んできたけど……よそ者だ。つまらないことでこじれたら村八分にもなりかねないよ? そうなったら村で生きていかれなくなる」
「上等だ! だったらおいらは村を出ていく!」
セネカはきっぱりと言い張った。
「馬鹿なこと言うもんじゃないよ!」レダは呆れ声で言った。
「誰も一人で生きていけっこない。あんたもミダイに拾われるまでの事を忘れた訳ではないだろう?」
レダは続けた。
「明日の……そうだねえ。朝のうちがいい。さっさと謝ってしまうんだ。いいね?」
セネカは目を逸らせ、押し黙ったままだった。
「とにかく今夜一晩、頭を冷やして考えるんだよ。あんたは賢い子だから分かってくれると信じてる。さあ――言いたいことはこれだけだよ」
レダがいとまを告げ、立ち上がった。
「セネカ」
レダが穏やかに言った。
「そろそろ私たちと一緒に暮らさないかい? 私は、いつかあんたの方から言い出すんじゃないかと思っていたんだけど――なかなかそうもいかないみたいだしさ。あんたはしっかりしてるけど、一人だと村からの風当たりが何かと強いだろう? うちのことなら心配いらないよ。夏までにミダイが一棟建てることになってる。ミダイとサミュエには別棟で寝てもらうから。ね?」
レダは結局、セネカの事を気にかけ、慈しみ愛していた。
セネカにもレダの思いやりは痛いほど分かったし、これ以上ごねるのは心を尽くしてくれているレダへの不義理になるだろう。
しかし、一旦かたくなになった心はすぐには解けるわけでもなく――セネカは膝を抱えこんだまま身じろぎもしなかった。
「あ! そうだ! あんたまた髪の毛を削いだね?」
レダが思い出したように切り出した。
「せっかく結べるほど伸びてきたと思ったのに」
セネカはテオドラに髪の毛の事を褒められてから伸ばしていたものの、肩にかかる頃になるとうっとおしくなり、短く削ぎ切ってしまっていた。
「もうしばらくは削ぐんじゃないよ。一緒に暮らすようになったら、私があんたを女にしてあげるから」
レダはもうセネカとの同居を決めているような口ぶりだった。
「ああ、あと……これ。差し入れだよ。晩におあがり」
レダは一つの包みを指し示した。そして、言いたい事を全て言い尽し、さっぱりした様子で戸口をくぐった。
予感が走った。
セネカは即座に立ち上がると、戸口に取り付いた。
間一髪――!
レダは今まさに納屋の中をを覗き見ようと納屋の入口に足を踏み入れようとしているところだった。
「レダ!!」セネカは大声でレダを呼び止めた。
「行かないからな!!」セネカは更に大きな声で言った。
「絶対に、謝りになんか行かない! 絶対に――絶対に――行くもんか……」
レダの気を反らすために威勢よく発した声は次第に空しく、小さくなっていった。
結局、明日の朝カルラの家に謝りに行くことになる――レダ自信たっぷりの口元を見たセネカは、悔しかったが、そう認めざるを得なかった。
レダは踵を返して納屋をあとにした。後ろ向きのまま、ひらひらと手をかざしている。
セネカは――まずは、安堵の息を漏らした。
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