何の前ぶれもなく黒の獅子王が姿を現すのは初めてではない。
さほど面くらいはしなかったものの、獣面の奥の眼差しがあまりにも険しく光っていたのでセネカは少しぎくりとした。
ギドもそんな黒の獅子王の緊迫した様子を察知したようだった。
「いつでも出発できるよう、旅支度を整えておきなさい」
黒の獅子王は低く短く言った。
ギドがすぐさま腰を浮かせたが、セネカは思わず驚きの声をあげた。
「えっ? 旅に、出るの?」
「オリンポスがエリヌースの七人衆を放った。この居場所を嗅ぎつけられるのも、そう先のことではないだろう」
「……エリヌース? 七人?」
「エリヌースは、オリンポスの王ゼウスの直属の手下で――亡者共だ」
「もう……じゃ?」
「そうだ。既にその身は滅んでいる。だがゼウスの呪術により奈落の底から甦り、霊体としてこの世にとどまっているのだ。復讐の神々と称してな。もともとはアルカディア王族だったが――オリンポスの確立により祖国を裏切り、ゼウスの側についた。そして今もなおオリンポスに居座り続け、ゼウスに与みする――」
「ええ……っと」
黒の獅子王の説明を聴きながら、セネカの眉間にますますシワが寄った。
話がとてつもない次元に及んでいたので、理解が追い付かず頭がくらくらしていた。
「エリヌースは強力な幻術を使う。恐ろしく、そして手ごわい相手だ。狙いはアリオン……。ひとまず連中の目を逃れねばならん――」
しかし、黒の獅子王から、アリオンがオリンポスに付け狙われていると聞かされても、セネカにはピンとこなかった。
「でもさ。なんでオリンポスの奴らに狙われるんだい? おかしいよ。ポセイドン軍の奴らから追いかけられるんならともかく――」
「父殺しはティターンにとって最大の禁忌だからだ。そのような大罪を犯した者をゼウスはみすみす見逃しはしない。然るべき裁きを受けさせるためにエリヌースを遣わせたのだろう。それに――ポセイドン軍は全滅した。もう、追われることはない」
黒の獅子王は重々しい口調で付け加えた。
「え……っ!? ぜ、全滅!?」
「そう――」
息を呑むセネカに、黒の獅子王は更に声を落とし、諭すように続けた。
「真夜中にあの騒ぎだ。アテナ軍の偵察隊が不審に思うのも当然。おそらく陣営に尖兵を潜りこませたのだろう。ポセイドンが討たれたとの報はアテナの側にもオリンポスにも伝わった」
黒の獅子王の口調は語りべのように淡々としていた。
「主を失ったポセイドン軍の兵士たちは戦意を失い、総崩れとなった。兵士たちは皆ちりぢりになって退散した。船を駆って祖国クレタへと取って返す者共もいたが――アテナ軍は反撃は容赦がなかった。ピレウスの浜は今や船の残骸と屍の山だ。生き延びた者はいない――」
「全滅……」
セネカはまだ信じられなかった。
ラザレやゴルバノスのゴツい輩の強面が目に浮かんだ。
あの厳つい兵士たちが――あの屈強で、無敵とさえ思われた強靭な兵士たちが全員やられるなんて……。
「それじゃ……あ、あにィも殺されちゃうの? その……エリヌースとか言う、ヤツらに見つかったら……」
セネカが、どもりながら怖々とたずねた。
「いや――まずゼウスはアリオンをオリンポスへと連行するつもりだ。親殺しの大罪を犯した者として裁きを受けさせるためにな。しかし、下される判決は分かりきっている」
「……」
黒の獅子王の言わんとする意味を理解したセネカは、しばし言葉を失った。
ギドがクズクサの蔓を編みこんでこしらえた大ぶりのズタ袋に、がちゃがちゃと音をたてながら道具を放り込んでいた。
火を熾す道具や石包丁、器、土鍋、そして獲物のケナガイタチなど、そこらじゅうのありとあらゆる物全てを収め終えると、最後にアリオンの剣をカタビラクサの中から取り出し、大事そうに荷のかたわらに立て掛けた。
「……。アリオンはどうした?」
黒の獅子王の問いかけに、セネカはためらいがちに、アリオンはまだ洞窟の中にいることを告げた。
「あ! 待って! 獅子王」
セネカは行こうとする黒の獅子王を引きとめた。
「あにィからは……その……会いたくないって、言われてるんだ。そう伝えてくれって。顔も……見たくないからって」
セネカがためらいながら声を落した。 アリオンの、あの憎しみのこもった眼差しがちらっと脳裏をかすめた。
「大丈夫だ。二人とも、ここで待っていなさい」
黒の獅子王はしばらく黙考してから穏やかに言った。そして、ゆったりと洞窟へと向かって行った。
セネカも慌ててその後を追おうと立ち上がった。が――。
「――ッ! な、なんだよっ!」
いきなり息が詰まり、セネカは大きくのけぞった。 ギドの指がセネカが羽織っている更紗布の端をしっかりと掴んでいたのだ。
ギドは厳めしい顔つきでジッとセネカを見つめていた。その目は明らかに「行くな」と言っている。
「離せよ! お前だってあにィのこと気になるだろ!?」
ギドは大きくうなずいたあと、大きく首を横に振った。
「……。んだよ。もお! 分かったよ!」
セネカはこれ以上ないというくらいのしかめっ面を返したあと、ふてくされたようにその場に座りこんだ。
それでもギドはセネカの布の端を掴んだまま離そうとしなかった。
「……ちぇっ。信用ないんだなァ」
セネカは不服そうに鼻を鳴らした。
振り返ると黒の獅子王が洞窟の入口をかいくぐるところだった。
気を揉んでも仕方がない。ここは黒の獅子王の采配に任せる他はないだろう。
アリオンも命の恩人に励まされ諭されて、普段の落ち着きを取り戻すだろうし、陰気くさい穴ぼこからも出てくるはずだ――と、セネカは思っていた。
なので、洞窟の中から突然、怒号のような大声が聞こえてきた時には、座り込んだまま飛び上がるほど驚いた。
声の主はアリオンに間違いなかった。明らかに喧嘩腰で怒鳴りちらしている。
ギドの顔色が変わった。
その、うろたえ動揺した隙をつき、セネカはギドに掴まれていた布の端を引っ張った。更紗布は造作なくするりとギドの指をすり抜けた。
自由の身になったセネカは我を忘れて地面を蹴った。
洞窟の中からはアリオンの声しか聞こえてこない。明らかに黒の獅子王に食ってかかっている。
(ケンカしてるんだ――!)
セネカが洞窟の入口に辿り着くと――光の届かない穴の奥、おぼろげな二つの黒い影が見えた。アリオンと黒の獅子王だ。
暗闇に目が慣れるのがもどかしかった。
セネカは何度も瞬きを繰り返しては目を凝らし、前方に佇む二つの人影を見つめた。
「――満足してるんだろう。すべてあなたの思い通りに事が運んで。え? 獅子王!? あなたは――僕が父さんを――ポセイドンを殺すように――仕向けた。次は誰だ? アテナか? ゼウスか!?」
アリオンは洞窟の壁を背に立ち、湧きあがる感情を抑えきれない様子で一方的に喚いていた。
狂気を含んだその目は黒の獅子王をじっ見据え、セネカの存在に気付いた様子はない。
「運命とか何とか言って――ワケの分からない〝まやかし〝を使って夢に現れて、偽善者ぶって――」
突然――アリオンがヒステリックに笑い出した。
セネカは、アリオンは気が触れてしまったのではないかと小さく息を呑んだ。
「僕は、さぞ動かしやすいコマだったろうな。え? 獅子王!!」アリオンは今や猛り狂ったように声を荒げていた。
「楽しいのか? そうやって僕をもてあそぶだけもてあそんで、僕がメチャクチャになっていくのを見るのが、そんなに楽しいのか!?」
「落ち着け。アリオン――」
「〝落ち着け〝だって!? 落ち着いてるさ! 僕は冷静だ。あなたの事だってすべて見抜いているぞ! 僕の命を救ったのだって、そうやって恩を売ったからだ。恩を売って、そうやって僕を信用させたかったからだ!」
獅子王がぴたりと押し黙った。
セネカはこの諍いの結末がどんなことになるのか気が気でなかった。
もしもアリオンが自らの剣を携えていたならば、間違いなく取り返しのつかないことをしでかすに違いないと思った。そう思わざるを得ないほどアリオンは荒れていた。
黒の獅子王は、まくし立てるアリオンの前に佇みながら静観していた。
「もうあなたの思い通りにはならない。なるもんか! 僕は――僕は自由だ。誰も、僕の事に何も口出しさせない! もうあなたが何をしようと何を言おうと動かない。そうさ――僕は僕だ! 自分の意志で生きていくんだ。この命だって僕が――この命こそ僕だけのものだ! なんならここで命を終らせることだってできる。そうさ! そうなればあなたは、もう僕を利用することができない――そうだろう!? え? どうだ!? 獅子王――」
刹那の出来事だった。
セネカは、黒の獅子王が剣を抜き払うのを見、アリオンが大きく息を呑むのを聞いた。
一瞬、閃光が流れるように宙を走ったが、黒の獅子王は変わらずその場に立ち据え、その後ろ姿は微動だにしない。
アリオンはというと――向かい合わせに立つ黒の獅子王の影に隠れていたのでセネカからはその様子を窺うことはできなかったが、先ほどまでの威勢のいい喚き声はぱったりと途絶えていた。
その代わりに、アリオンはあえぎながら、不自然に、切れ切れに息を吐いていた。
「……?」
何事が起きたのかセネカにはさっぱり分からなかった。
セネカは恐る恐る洞窟内を進んだ。そして、黒の獅子王の後方から斜め向こう側をそっと覗きこみ、目の前に飛び込んだ光景にぎょっとなった。
アリオンは洞窟の壁を背にし、磔に遭ったかのように動くことも、喋ることすら出来なかった。
なぜアリオンがそんな状態になっているのは、すぐに分かった。
黒の獅子王の手には抜かれた剣が握られていた。
しかも、それはまっすぐアリオンに向けられている。
その切っ先は――寸分違わずアリオンの喉笛を狙い、今にも貫かんばかりだ。
「ならば証してもらおう」
黒の獅子王の重々しくも低い声音が響いた。
「簡単なことだ。ほんの半歩ばかり前に踏み出せば、お前は確実に死ねる。造作もない」
アリオンは喉元に突き付けられた剣の鋭い切っ先から逃れようと、ちぎれんばかりに首をのけ反らせていた。
セネカはどうすることも出来ず、ただ立ちすくむばかりだった。
「ちょっとした〝意志〝と、それをひねり出す〝自由〝。そのくらいは、むろん――持ち合わせていよう。どうした? アリオン。今のはただの強がりか?」
(正気の沙汰じゃない――!!)
セネカにはワケが分からなかった。フっかけられてヤキがまわったのか、売り言葉に買い言葉なのか――それでも、獅子王のこの行動はあまりにも度を超している。
父親を手にかけ、悲観していたアリオンは迷わず死を選ぶ。こんな分かり切ったことなのに、黒の獅子王はなぜそれが分からないんだ!? これでは何のために剣を隠してきたのか分からない!
セネカは矢も盾もたまらず、跳び出そうとした。
ところが――。
(……!? 体が――動かない!?)
セネカはなぜか一歩も前に踏み出すことが出来なかった。それどころか、前傾姿勢のまま体が硬直したようにぴくりとも動かなかった。
まるで見えない腕に抱きすくめられたように。
黒の獅子王がさらに凄んだ。
「さあ絶ってみせい! 運命の糸を!」
セネカはいたたまれなくなり、かたく目を閉じた。
アリオンが命を絶つ瞬間など――見ていられるわけがない。
しかし――。
アリオンは大きく喘ぐと、観念したようにうめき声をもらした。
うっすらと目を見開いたセネカは、黒の獅子王がアリオンに突き付けていた剣をすばやく引くのを見た。
アリオンは壁を背にしたまま、そのままずるずると地面に滑り落ちた。
黒の獅子王が静かに剣を鞘におさめた。
「……そういうものだ。己の自由なぞ――自由がゆえにままならぬもの」
アリオンは喉元を手で押さえ、うつむき、力なくうずくまっていた。
「私を忌み怨み、それで心を晴らすのを由とするかどうかは、己の胸に問うてみなさい。 いずれにせよ、自棄に陥るのはよくない。何も変わらぬ。そればかりか、前途を閉ざすことになる。お前にはまだ果たすべき――約束が残っておろう」
黒の獅子王がゆっくりと諭すように言葉を継いだ。
「くじけるでない、アリオン。強うなれ。もっともっと――強うなれ」
だしぬけに、セネカは目に見えない束縛から解かれた。
膝ががくんと折れ、あやうく地面に倒れそうになるのを寸でのところで持ちこたえた。
アリオンがうずくまりながら肩を震わせていた。
それは必死で嗚咽をこらえているようにも見えたし、忍び泣いているようにも見えた。
「ここは暗くて、狭くるしい――息がつまりそうだ。少し外の風の当たりなさい。気分も晴れよう。それに――お前の仲間たちも、お前が出てくるのを待っている」
黒の獅子王が先ほどとは打って変わった穏やかな口調で言った。
セネカはハッとなった。
自分は今、ここにいてはいけなかったのだ――。もしもこの一部始終を、つぶさに見ていたことがアリオンに知れたら……。
セネカはそろそろと後ずさりした。
何としてもアリオンに見つかってはならない――。
そんな気持ちに急かされ、焦ったせいか用心深く踏み出した一歩が小さなゴロ石をよけ損ねた。
体が大きく傾いだ。
その拍子にセネカは思わず「あっ!」と声を上げてしまった。
洞窟の奥でアリオンが小さく息を呑むのが分かった。セネカも反射的にそちらを振り返った。
アリオンが面をあげていた。
まっすぐにこちらを向いている。
お互いの目と目が合った。
アリオンの瞳が驚きと戸惑いに揺れ動き、そこにサッと嫌悪の色が浮かんだ。
セネカは転がるようにして洞窟を飛び出した。
呪縛のようなアリオンの視線からどのように逃れたのか、どのようにして駆け戻ったのかは良く覚えていなかったが、とにかく来た時と同じように駆け戻り、焚火を前に胡坐をかいているギドの背中に取り付いた。
ギドが振り向き、こちらを見ていることは分かっていたが、セネカはその顔をまともに見ることができなかった。 セネカは後悔で打ちのめされていた。
行かなければよかった――。
見なければよかった――。
黒の獅子王とギドの指し示した通り、ここに止まっていればよかったのだ。
また余計なことをしてしまった……。
これでアリオンには確実に嫌われた。セネカの心が鉛のようにずしんと落ち込んだ。
「驚かせてすまなかった」
いつの間にか黒の獅子王がセネカの面前に立っていた。
セネカは打ちひしがれながらも小さく小刻みに首を横に振った。
どうしても顔を上げることができなかった。 自責の念で心がくしゃくしゃになっていた。
「時間を要するだろうが、アリオンは必ずや立ち直る。私はそう信じている。もうしばらく――そっとしておこう」
黒の獅子王の言葉には強い信念がこもっていた。
ギドは「同意した」とばかりに大きくうなずいたが、セネカ無言のまま背中を丸め俯いていた。
それからのち黒の獅子王は、「すぐ戻るから、皆それまではここを動かないように」と言い残して姿を消した。
残されたセネカとギド は何をするでもなく、山間を流れる風に吹かれながらぼんやりと時を過ごしていた。
焚火の熾きがぶすぶすとくすぶっていた。焙られた獲物の肉は黒く焦げつき、硬くなって金串にはりついていた。
セネカはギドと背中合わせのまましゃがみ込み、膝を抱えていた。
頭の中ではアリオンに対してどのように謝ったらいいものか――と、想いをめぐらせていた。
と――。
砂利を踏みしめる足音がした。
セネカがゆっくりと面をあげると、そこにはアリオンが立っていた。
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