ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  Sena 作者:コウミ
第16章 悪夢
[3]
 聞こえてきたのはアリオンの呻き声だった。
 アリオンは上掛けを体に巻き付かせ、悶えるように喉の奥から声にならない荒い息を吐いていた。
 セネカは慌てて幕を撥ね上げると寝台へと駆け寄った。
 アリオンの目はしっかりと閉じられていた。
夢に? うなされている――!?
 しかし、それは明らかに何かに怯え、逃れようてしている様子だった。
 セネカは大急ぎで水の入った瓶を脇に置いた。あんまり急いだので中の水を威勢よく飛び散らしてしまった。
「あにィ! あにィ!」
 セネカはアリオンにすがりつき体を揺さぶった。
「どうしたんだよ!? 起きて! 起きてったら!!」
 アリオンが大きく息を呑み込み、目を見開いた。その瞳は恐れを含み、緊張していた。
「あ――。セネ……カ?」
「どうしたんだよ。大丈夫かよ」
 セネカはアリオンがすぐに目を覚ましたので、ホッと胸をなでおろした。
「悪い夢でも見たのかい?」
「あ……ああ。夢……?」
 硬くこわばっていたアリオンの表情からふっと力が抜けた。
「夢……か。そうか……」
 アリオンは詰めていた息を大きく吐き戻した。
「毒草に……からまれて――」
「え? 毒草?」
「ああ――いや。何でもない」
 言いながらアリオンはそっぽを向いた。
「あにィは陣営の兵隊ン中でも一番強くて怖いもの知らずなのに。よっぽどだったんだな。その夢に出てきた毒草ってさ」
 実際セネカはアリオンを脅かすほどの草というのが――夢の中とはいえ、どれほどのものなのか見当もつかなかった。
 セネカはアリオンを気遣うように覗き込んだが、アリオンはあえてその視線を避けるように顔を背け、何も答えようとしなかった。
「……。あ――そうだ。水! 飲むかい?」
 セネカは、アリオンが気だるそうに体を引き起こすのに手を貸した。
 そして、汲んできた瓶の水を器に注ぐと、アリオンに手渡した。
「にしてもさァ。ここの連中は、よっぽどドンチャン騒ぎが好きだよな? 今日もあっちこっちで呑みまくってるんだから。あ――この水は、さ。あにィが寝ている間にちょいとひとっ走りして汲んできたんだ。もちろん誰にも会わなかったぜ。サイラスのおっちゃんにだって。イレムにだって――」
 セネカは、アリオンがゆっくりと器を傾けて水を飲んでいる間ずっと、あれやこれや賑やかに喋り続けた。聞かれもしないのに必要以上に喋るのは自分でも不自然極まりないとは思ったが、口が止まらなかった。
 セネカは無意識にアリオンから何か言われるのを――何かを聞かれるのを避けていた。
「セネカ?」
 水を飲み終えた器を返しながら、アリオンがぼんやりとした表情で首を傾げた。
「君は――」
 セネカはたちまち、ぎくりとなった。
「君は――何か食べる物を持って来なかったのかい?」
 アリオンの問いかけに、セネカは心から安堵の息をもらした。
「あ――。なんだ……そんなことか。ええーと――そっか! お腹が空いたんだ! じゃあおいら、もう一走りして何か持って来るよ」
「いや。僕はいいんだ」
 立ち上がり行きかけたセネカをアリオンは制した。
「僕は何もいらない。お腹が空いただろう? セネカ? 何か食べておいでよ」
 セネカはアリオンの優しい言葉かけが心にずきんと響いた。
 騙している――。
 欺いている――。
 軽蔑する――。
 セネカの脳裏に、先ほどのイレムの辛辣な言葉が浮かんで、消えた。
「……。おいらは……いいよ。その辺に朝の残りがあるから。それよかさぁ――人のこと心配するより、自分のことしたらどうだよ。まったく――」
 ようやくセネカは言葉を返したが、気持ちとは裏腹に口調がとげとげしくなってしまった。
「そうするよ」アリオンは再び、寝床に横になった。
「明日は討って出るから、十分に休ませないと」
「む――無茶だよ! そんな体で! ポセイドンのおっちゃんに言って休ませてもらえよ!」
 セネカは思わず声を上げたがアリオンの眼差しには迷いが無い事を見て取った。
 きっと明日は這ってでも出陣するつもりなのだろう――。
「ありがとう。でも君こそ――人のことばかり心配してるよ?」
「……」
心配するに決まってるじゃないか! バカ――!
 セネカは心の中で毒づいた。
 やがて傾きかけていた陽もとっぷりと暮れ、宵闇がゆるやかに陣営の天幕を包み込んでいった。
 いつもなら夜通し呑み明かす勢いの兵士たちも、明日の出陣のためにと早めに切り上げ、各々の天幕へと戻って行った。
 まもなく陣営は静かな夜を迎えた。

 セネカはアリオンの介抱を続けていたが、熱は一向に下がる気配がなかった。
 アリオンは眠りから覚める度に、まるでうわ言のようにセネカに労いの言葉をかけた。
「もう大丈夫だから――君も――おやすみよ」
 切々にそう言うと、また眠気に負けたように意識が混濁し、眠る。そんな事を幾度となく繰り返していた。

 寝台脇の棚に置かれた灯火がゆらゆらと揺れていた。
 明かりはその小さな火だけだったので、セネカが優勝杯に張った水に巾を浸すためには、ほとんど手探りで行わなければならなかった。
 セネカの頭の中は不安と心細さで一杯だった。
 アリオンが不意に息を荒げる度に、セネカの心臓はどきりと跳ねた。
 少し離れた隙に、またさっきのような酷い状態になったら――。
 そう考えるて、アリオンのそばを離れることなど、とても出来なかった。
 しかし、かと言ってこのまま一晩中アリオンを看病し続ける自信はセネカにはなかった。
 セネカは先ほどから激しい睡魔と闘っていた。
 気を抜くとたちまち瞼が塞がり、がくりと首を落としそうになる。
 眠気を振り払おうと思い切り両目を瞬かせたり、体のあちこちをつねっていたが、それももう限界だった。
 せめて、誰か来てくれたら――。セネカは天にも祈る気持ちだった。
 イレムは――あの剣幕では、とても様子を見に来てくれるとは考えられない。
 せめてサイラスがひょっこり現れてくれないだろうか。こうなったらラザレでも構わない――。
 セネカは、アリオンの言いつけを破ってポセイドンに知らせに行こうかとも考えた。
 しかし、アリオンはきっと咎めるだろう。
 セネカはアリオンに嫌われるかもしれないと思うと、とてもそんなこと出来なかった。

 セネカはかつてルイザの看病をしていた時の事を思い出した。
 村でセネカを養ってくれたルイザは発熱のために体が弱り、やがて……。
 セネカはすうっと血の気が引いていくのを感じた。が、思い浮かんだ忌まわしい考えをすぐに打ち消した。
 ルイザが死んだのは――それは高齢のためだ。それにルイザは寿命とも、迎えが来たとも言っていた。
 アリオンのような若者が急な熱のために命を落とすなど、あり得ないことだ。
 セネカは新しく冷やした巾をアリオンの額にのせた。
 アリオンは眠りながら、心なしか安堵の溜め息をもらしたような気がした。
 ほの暗い灯火がゆらめくだけの中、微かに喘鳴を帯びたアリオンの息遣いが、静かな天幕内に響いていた。

「セネカ」
 いつの間にかアリオンが目の前に立っていた。
 セネカは驚いた。
 アリオンはなぜか悲しげな様子だった。
あ――! あにィ? 体は? もう平気なのかい? 楽になったのかい――?
 しかし、アリオンはセネカの問いかけには答えなかった。
「君は女の子だったんだね」
 アリオンは一段と声を落として言った。
え――!? なんで、それを――?
「イレムから聞いたよ」
イレムから――? そっか、イレム、喋ったんだ――。
「女の子は戦場にはついて来れない。君は村に帰るんだ」
村に……って――? 今さら――。帰れるわけないじゃんか――。それに、どうやって帰ればいいんだよ――?
「ゴルバノスが護衛についてくれる。彼は、今は僕の家来だ。何でも言うことを聞く」
 アリオンは当たり前のようにきっぱりと言った。
ち、ちょっと待ってくれよ――! 
 セネカはあまりのことに狼狽した。
「ゴルバノスでは不満なのかい?」
そういう問題じゃない――!
「じゃあ、何が問題なんだい?」
ああ……もう――。あ! じゃ、約束は? 約束はどうなるんだよ――?
「約束? ああ――。あの約束か。それもゴルバノスに任せた。彼が面倒をみてくれる。もちろんオリンポスで君のお姉さんを見つけたら、一緒に村へ送り届けさせる」
い、いらないよ――! あんなヤツに面倒みてもらうなんて真っ平ごめんだ――!!
 セネカは血相を変えて叫んだ。アリオンの言葉が信じられなかった。
「とにかく、これで僕は君に落とし前をつけたことになる。僕は君の命を助けたんだし。これでおあいこだ」
 アリオンがゆっくりと踵を返し、その場を立ち去ろうと行きかけた。
あ! 待って! 待ってったら――!! どこに――。
「君は僕を騙していた。君のような嘘つきとは、これ以上一緒にいられない。さよなら」
 アリオンがまた、ゆっくりと振り向いた。
 先ほどの表情とはうってかわって、眉をつり上げ、怒りを露にしている。
 いや。怒っているどころではない。みるみる顔つきが歪み、体格もいかつく変貌していく。
 広い肩幅。りゅうりゅうとした二の腕。せりだした顎に不精髭。やがてアリオンはゴルバノスに変貌した。
 ゴルバノスは片頬を醜くつり上げ、にたりとうすら笑いを浮かべてセネカを見下ろした――。
 セネカは閉じていた瞳を無理矢理こじ開けた。
 いつの間にか寝台につっ伏して眠りこんでいたのだ。

なんてイヤな夢……。悪夢だ……。
 セネカは身を起こすと眠気をぬぐい取るようにごしごしと目を擦った。
 夢の中とはいえ、アリオンに「嘘つき」と言われたのにはかなり堪えた。
 少しためらわれたが、セネカはそっとアリオンの方を窺い見た。
 小さな灯りに照らし出されたアリオンは穏やかな顔つきで寝息をたてていた。
 セネカは静かにその首筋に手の平を押し当てた。
 熱が少し下がったようだ。この様子ならもう心配はいらないだろう。
 安心感から再び眠気が襲ってきた。
 セネカは半分呆けた意識の中で上掛けを体に巻きつけると、蓆の上にごろりと横になった。
少し休んで、それから――。 
 セネカの意識はすぐに遠のいた。
 やがて心地よいまどろみの中にとけこんでいった。

 どのくらい時間が経っただろうか――。
 天幕の内部を覆っていた静寂な空気が、いきなり破られた。
 それは人の叫び声だった。まるで恐ろしい拷問を受けているかのような――。
 眠りの淵から(うつつ)に引き戻されたセネカは一瞬、もしや夢の続きなのでは――? と思った。
 しかし次の瞬間、寝台の上で激しく身をよじらせ、狂ったようにのたうっているアリオンの姿が目に飛び込んだ。
夢じゃない――!
 セネカは転がるようにして寝台に駆け寄った。
 顔面の皮膚を硬くひきつらせ、全身をがくがくと痙攣させながらアリオンは何事かを叫んでいた。
 セネカ即座にアリオンの腕にしがみついた。
 その手の爪が、今にも引き裂かんばかりに胸元を掻きむしっていたからだ。
「ど――どうしたんだよ! あにィ!!」
 じっとりと汗ばんだ腕を捉えながらセネカがありったけの大声で叫んだ。
 だが、アリオンの耳に届いている気配はない。
 アリオンは更に身をこわばらせ、抗うように暴れた。
 いきなりアリオンの手がセネカの手首を捕らえた。途端に、物凄い力で締め上げられた。
 セネカは堪らず悲鳴を上げた。
 振りほどこうとしても、アリオンの手はぎりぎりときつく強く握り返してくる。
「は、はなして!――はなしてよ! あにィ! い――痛い!!」
 セネカは半狂乱になった。
 しかし、手の指を引き剥がそうとすればするほど、一層強く握り締められた。
 アリオンの手の爪は深く食い込み、肉が今にも千切られそうになる。
 セネカは恐怖と苦痛のあまり、泣き叫んだが、アリオンの力は少しも弛むことはなかった。
腕が折られる――。
 セネカがそう思った時――。
 天幕の入口の幕が撥ね上がった。
「アリオン殿!」
「どうされましたか!?」
 サイラスとイレムだ。
 二人は共に事情を察するや否や、揃ってアリオンに取り付いた。
 サイラスがアリオンに覆い被さり、じたばたする身体を押さえ付けた。
 イレムは、セネカの手首を握って離さないアリオンの腕を掴み取り、用心深く指を一本一本引き剥がした。
 セネカはようやく自由の身になった。
「舌を噛むと厄介です。イレム、そこの布を――」
 アリオンの顔が押さえ付けられ、口に無理矢理布きれが押し込まれた。
 アリオンは声にならない叫び声をあげ、逃れるようにのけぞった。
 寸でのところで握り潰されるところだった手首を擦りながらセネカよろよろとあとずさった。
 セネカは目の前の状況に芯から怯え、肩を震わせていた。
「ああ――ダメです――正気に戻るまでは、仕方がありません。イレム! 縄を取って! 寝台に縛りつけないと――」
 遂にサイラスが根を上げた。アリオンは相変わらず物凄い力で抵抗し続けていた。
「アリオン殿! お気を確かに!!」
 我を忘れたイレムが声をからして叫んだ。
 二人がかりで押さえ付けられ、その腕に荒縄が巻き付けらる様子を見ていたセネカは我に返った。
 このまま狂い死んでもおかしくない。一刹那、そんな考えが頭をよぎった。

 気がつくとセネカは駆け出していた。
 天幕の入口の垂れ布を撥ねると、一心不乱に走った。
 夜の闇に包まれた陣営を、篝火の明かりを頼りに、セネカはひた走った。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。