村は真冬を迎えた。
山頂から吹き下ろす風が家々の合間を始終吹きすさび、村人たちを凍えさせた。
村人は細々と暖を取りながら寒さをしのぎ、冬が通り過ぎるのを辛抱強く待っていた。
そのさ中、村では二人のお産を控えていたので、ルイザは臨月を迎える妊婦のもとへ足しげく通う日々が続いていた。
三人目の子を産むサロメが月満ちた。
出産の日、セネカは手伝いのためにと、赤ん坊を取り上げるルイザに同行してサロメの家へと向かった。
上の二人の子どもたちは、お産の手伝いをするのには歳が足りなかったので、家の片隅へと追いやられていた。
セネカと同い年のオリビアと三つ年下のターナの二人姉妹だ。
姉妹はお喋りをしながら藁の束を撚り合わせたものを固くねじり、薪の代用になる焚きつけをこしらえたり、乾いたトウモロコシの実を挽いたり、こまごました家の仕事を片付けていたのでセネカも一緒に手伝った。
「ねえねえセネカ。なんであんたは男の子みたいにしてるの?」
小さな手で藁の束を撚りながら、妹のターナが無邪気にたずねた。
「セネカはなんでそんなに肌が黒いの? どこから来たの?」
ターナはセネカの答えを待たずに質問を連発した。
「およしよ、ターナ。セネカが困ってるじゃないか」
オリビアが姉らしくたしなめた。
しかし、オリビアにとってもセネカは興味の的だった。
カルラを一喝した井戸での一件は人づてで噂となり、セネカの評判は子どもたちの間でも高かった。オリビアもそんなセネカを慕い、崇拝する一人だった。
セネカは年下のあどけないターナの問いにきちんと答えた。
家族のことを聞いてこないのは、サロメから言いつけられていたのだろう。大人たちの間にもセネカが孤児だということは既に伝わっていた。
「おいらは浜で生まれて、浜で育ったんだ。だから、日に焼けて肌がこんななんだ」
「はま?」
「海の近くってことだよ」
「へええ。うみ? うみってなあに? どこにあるの?」
ターナは興味深げに質問を繰り返し、その度にセネカは丁寧に答えた。
海は山をいくつか越えた西の方にあること――。
海は川よりもうんと大きくて、その水は塩辛いこと――。
海で獲れる魚は、川で獲れる魚と違うこと――。
セネカが答える一つ一つに、ターナは目を丸くして聞き入った。
一通り答え終わったセネカはオリビアが何か言いたげにこちらを見つめているのに気がついた。
セネカは藁を撚る手に力を込めながら言った。
「ああ――おいらが男みたいにしてるのは――女が、面倒。だからだ」
「ふううん……」
オリビアは神妙な顔つきでうなずいた。
「まあ、確かにあるよ。面倒なことは、さ。私もそんな時、あったなぁ……。でも、すぐに飽きちゃったけどね」
言いながらオリビアがもっと詳しく聞きたそうに、ちらりとセネカの方を見やったが、セネカは黙々と藁の束と格闘するばかりだった。
藁をねじった焚きつけが家の隅に小高い山を作る頃、サロメは無事に元気な男の子を産んだ。
姉妹は小躍りして喜び、代わる代わる頬ずりするやら撫でるやら、大騒ぎだった。
セネカは、そんな姉妹の様子と、生まれたての赤ん坊を抱くサロメと傍らに寄り添う夫の姿を羨望の眼差しで見つめていた。
村でもう一人出産を迎えたのは、初産のテオドラだった。
テオドラの夫はオリンポス城下に働きに出ていたが、とうとうこの日までに戻って来ることはなかった。
お産の手伝いはテオドラの姑しかいない。
手が足りなかったのでセネカもいっぱしの働き手として用事を言いつけられた。
釜戸に火を焚いて湯を沸かしたり、家の中が冷えないよう囲炉裏に絶え間なく薪をくべたり、いよいよという時にはテオドラの額の汗を拭ったり、口に含ませる水を瓶から汲んできたりした。
「ねえ、セネカ? あんた――たまには髪を鋤きなさいよ」
「え?」
陣痛と陣痛の狭間、汗びっしょりのテオドラの額を布片で拭っていたセネカは突然、そう言われて驚いた。
「だって、とても綺麗な髪をしてるんだもの――伸ばすといいよ」
テオドラは絶え間なく喘ぎながらにっこりほほえんだ。
セネカはどぎまぎしながらテオドラを見つめ返した。その手が無意識に髪の毛を撫でつけた。
こんな風に容姿を誉められたのは初めてだった。顔がみるみる赤らんでいくのが分かる。
テオドラは、櫛を持っているかとセネカにたずねた。セネカは小さくかぶりを振った。
セネカは自分の櫛を持っていなかったし、ルイザが苦心して髪の毛の手入れをさせようとしても、他人事のように知らん顔を決め込んでいたのだ。
「古いやつだけどさ、あんたにあげるよ。何本か歯が折れてるけど。持っておいきよ。あとで――」
「まだ下りてこんかね?」
テオドラの姑がじりじりしながらルイザにたずねた。初産のせいかお産が長引いているのだ。
「ふむ……輪もよう軟らかくなってきとるし、強くていい"いきみ"もきとる……心配ないじゃろう。何せ若い躰だしの――赤子はゆっくり下りてきておるぞ。心配するな」
ルイザのこの最後の言葉はテオドラに対してだった。テオドラは小さく顎を引いてそれに応えた。
それから――テオドラは夜通し唸ったり、走りこんだあとのように息を荒げたりしていたが、ついに土壇場を迎えたようだった。
セネカが囲炉裏端でうとうとと船を漕ぎ出した頃――およそ人が発するそれとは思えないほどの、低く押し殺したような唸り声が家中に響いた。
声の主はテオドラだった。
セネカがびっくりして飛び起きると、テオドラは今まさに赤子を産み落とそうとしているところだった。
「これでしまいだ! 気張っていきめ! あと少し! あと少しだ――」
ルイザのこんなにも必死な形相を見たことがない。
テオドラの姑は妊婦の背後にまわりこみ、その体を支えている。
「もうじきだ! もうじきに産まれるよ!」
テオドラは、今や目蓋が頬に食い込むほどに固く目を閉じ、歯を食いしばっている。
セネカはどうしていいか分からず、ただおろおろと立ち尽くしていた。
ルイザの声色が変わった。
「おお――もうよい。そこまでだ! もういきんではいかんぞ! 力を抜け! 力を抜いて――」
テオドラの目が見開かれた。空を仰ぎ、口から大きく大きく息を吸っては、吐いた。
「そう。ゆっくり――ゆっくり息を――」
セネカは興味と好奇心に打ち勝てず、思わずルイザの手元を覗きこんだ。
その時テオドラが、あっと声をあげた。セネカも、あっと息を飲んだ。
セネカはテオドラの膝頭と膝頭の間から小さな体が、するりと引き出されるのを見た。
「セネカ!」
いきなり名前を呼ばれてセネカは跳び上がった。
「釜の湯を桶に入れて持ってこい。ああ、その前にそこにある巾を取るんだ」
ルイザはきびきびと指図した。
セネカは慌てて釜の湯を汲み入れようと手桶に手を伸ばしたが、ルイザの言葉に応えて反対方向へと一歩踏み出し体を捩った。
あんまり急いだので、足がもつれ膝をついた。持ち損ねた手桶は派手にはねあがり、もう少しで釜の湯ごとひっくり返すところだった。
「慌てずともよい。湯浴みはあとだ。まず赤子の体を拭うだけだて――まずは巾を――」
ルイザはセネカから巾を受け取ると、赤ん坊の顔と背中とを丹念に拭いた。
ややあって、口の中から何やら吐き出した赤ん坊は泣き声をあげた。
「やれやれ」ルイザが安堵の息をもらした。「一時はどうなるかと思ったわい……」
テオドラの赤ん坊の産声は、サロメのところで聞いたそれよりも心なしか優しかった。
「おなごじゃ」
ルイザが愛しげに言った。
「なんて可愛い子だろう……早くあの人に見せてあげたい」
テオドラはルイザから赤ん坊を受け取ると感極まった様子で、涙を浮かべてた。
セネカは恐る恐るテオドラの胸元を覗き込んだ。
とても可愛いとは思えないくしゃくしゃの顔をした小さくて真っ赤な子が、甘えるように鳴き声をあげていた。
そこへレダが駆け込んできた。
「ああ――何もかも終わっちまったんだね!」
レダは戸口を用心深く閉じると残念そうに言った。
外は風がひどく吹き荒れていたのだろう。防寒のため、レダは獣の毛皮をしっかりと体に巻きつけていたが、髪の毛はひどく乱れていた。
「サミュエが調子悪くてね。ずっとむずかってたもんだから……」
レダはテオドラに抱かれた赤ん坊を慈しむように見つめた。テオドラは赤ん坊に乳を与えようとしているところだった。
「手伝いが遅くなってしまって……でも、よくやったねテオドラ」
レダは母親がするように、テオドラの頭を撫でた。
「ありがとうレダ――ルイザもありがとう。それから。セネカも――」
テオドラはやや疲れた様子ではあったが、安堵と幸せを噛みしめているようだった。
それから三人の女の衆は、てきぱきと後始末をしてテオドラの身を清めた。
やがて赤ん坊は真新しい産着に包まれ、母親の腕の中ですやすやと寝息をたて始めた。
「サロメの産後の肥立ちはどうだ? 聞いておるか?」
ルイザが、振る舞われた暖かな飲み物をすすりながらレダにたずねた。
「……!?」
セネカはルイザの言葉に敏感に反応した。
「上々だよ。三人目だから何かと無理をしがちだけど、オリビアたちが手伝いになるからね。あの子たちすごくしっかりしてきた」
レダの言葉に安心したようにルイザは何度も頷いた。
その後、レダはサミュエの事が気がかりだからと言って、身支度を整えると早々に家へと帰って行った。
大きな役目を終えてルイザもホッとしていたし、テオドラの姑も無事に生まれた初孫を眼を細めては眺めていたので、誰もセネカが硬く物憂げな表情でうつむいていることに気がつかなかった。
夜が白々と明ける頃、テオドラの姑から丸焼きにした芋を一つずつ渡されたルイザとセネカは帰宅の途に就いた。
芋を布きれでくるみ懐に入れると、家までの道中、寒さがしのげるし、後で食べることもできる。
ルイザとセネカはひと塊りになって毛皮にくるまり、家路へと急いだ。セネカは芋と、テオドラから貰った櫛を大事に懐に収めていた。
村外れのルイザの家は冷え切っていた。
セネカは凍えながらも素早く火を熾した。
家の中が暖まるまでの間、ルイザとセネカは毛皮にくるまり丸くなってお互いの体を温め合った。
「どうした? 疲れたか?」
ルイザはセネカが先程からずっと押し黙っているのに気づいていた。
セネカは答える代わりにたずねた。
「婆ちゃん」
「んん?」
「サンゴノヒダチって、なんだい? 何かの病気かい?」
「……うむ。産後の肥立ちは、な。赤子を産んだあとの母親の体の調子の良し悪しのことだ」
「……」
ルイザは、囲炉裏の一点を見つめ身じろぎもしないセネカを気にしながらも続けた。
「赤子を産みおとすことは、おなごにとって一仕事以上の大仕事だ。産んだあとはしばらく体を休め、無理のないように努める。そうすれば、やがて体はやがて元通りになる。が――」
ルイザは一旦言葉を切ったのち、声を落として言った。
「稀に体が戻らず、弱っていくこともある。時として、命を落とすことも……」
言い終わるとルイザはセネカが口を開くのを辛抱強く待った。
ようやくセネカはぽつりと話し始めた。
「……おいらの母ちゃんは、おいらが赤ん坊の時に死んだんだ」
「んむ。お前が生まれてすぐに、だったな」
「父ちゃんからは『サンゴノヒダチ』が悪かったんだ、って聞かされてた。『サンゴノヒダチ』が悪かったから母ちゃんは死んだんだって。だからおいら、ずーっと病気のことだと思ってた」
「……そうか」
やはりな――と、ルイザは思った。セネカから母親のことを聞いた時からピンときていた。赤ん坊を産んですぐに亡くなるのは、たいていこの為なのだ。
「可哀想なことだが、これは寿命だったと思わねばな。お前の母はお前を生むことがお役目だったのだろう」
ルイザは諭すように言った。
セネカにはルイザの気遣がセネカにもよく分かった。しかし、その言葉の意味は、よく分からなかった。
それから数日もの間、セネカはふさぎこんだように寝床で伏せることが多くなった。
病気ではない。動きたくないだけだ、とセネカは言った。
ルイザは疲れが出たのだろうと思い、何も言わなかった。
そして、この子はきっと顔も知らない母のことを想い、憂いに浸っているのだろう――と、そっとしておいた。
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