昨日に比べると、船は大きく波に揺られていた。
時化が来るんだ――。
セネカは、そう思いながら上掛けの束を抱え込んだ。
案の定、船外は強い風にさらされており、その船体は波に揉まれて不安定に傾いでいた。
上を見上げると、光陽が差し込む隙間もない程、どんよりとした分厚い雲が空を覆っていた。
鉛色の上空からは今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。
「第一団! 急げ! 天候が崩れる前に水場の確保! 天幕の設営!」
「荷は乗せ過ぎるな! 転覆のおそれがある!」
命令とも怒号ともつかぬ大声が飛び交う中、イレムは従者たちを呼び集めた。
セネカはイレムに仕えるかのようにぴたりと張り付いていた。
「全員いるな? 上陸については昨日の説明通りだ」
イレムはこれまでにない険しい顔つきで皆を見渡していた。
「上陸したのちは、然るべき部所に速やかに移動。ただし炊事班は、支度が整うまでは救護班の補佐にまわるように。行動は迅速に! それから荷の運び出しについて――」
ここでイレムはセネカの方をちらりと垣間見た。
「運び出しは慎重に。特に陶器類は貴重だ。うっかりぶつけたり落としたりして壊すことのないように」
セネカは緊迫した空気にすっかり気圧されてしまい、イレムが送った皮肉めいた眼差しの意味が汲みとれなかった。
しかし、緊張していたのはセネカだけでなかった。
集まった従者たちは全員、顔をこわばらせ、口元を固く結んでいた。
「今日はヤケにしおらしいじゃないか。拍子抜けするな」
殿を務めるイレムは、随行していたセネカに向かって意地悪く言った。
当たり前だ。戦なんてそうしょっちゅう経験するモンじゃないんだから――。
言い返す代わりにセネカはイレムにたずねた。
「戦は……いつ始まるんだい? もしかして、もう――」
「ああ。始まっている。明け方のほら貝の音が合図の筈だ」
「……」
大丈夫だろうか――。
セネカの顔つきがみるみる硬くなった。
「なあに、心配は無用だ。我が軍の攻撃力は最強。守りも強固だ。オリンポスの軍勢など恐るるに足らん! 一日でケリがつくさ!」
イレムは鼻息荒く言い放った。
ポセイドンに対する揺るぎない信頼と勝利への確信がありありと見て取れたし、気持ちもこの上なく高揚しているようだった。
きっと寝不足が祟っているに違いない――。セネカはやや冷めた目つきでイレムの横顔を眺めた。
戦の勝ち負けよりも、セネカにはアリオンの安否の方が気がかりだった。
各々が乗船した小舟は、搬送を繰り返すため人と荷を陸に揚げると、再び軍船へと折り返し漕ぎ出していった。
上陸した者は順々に内陸に向かって歩みを進めていた。
浜には荷物を抱えた者たちの長い列ができた。
「兵の誘導に従って進みなさい! 急いで――! 雨の降り出す前にすべて備えないといけません!」
サイラスも、普段の柔和な顔つきを何処かに置き忘れたかのように厳しい面持ちで声を張り上げていた。
遠くから不気味に雷鳴が轟き、海からは生暖かい風が流れてくる。もはや雨が降るのは時間の問題だった。
セネカは下働きたちが恐るべき速さで設えた天幕の入口をくぐり、中へと入った。
太い柱と梁で組まれた天幕は、かつてルイザと住んでいた村外れの小さな家ほどの広さがある。
セネカはもの珍しげに天幕の中を見回していた。
ちょっとした建物並の造りだ。
セネカ初めて見る立派な天幕にしばし時を忘れて見いっていた。この天幕はアリオン専用のものだという。
「何をしている! ぼやっとしている隙はないんだぞ!」
たちまちイレムから一喝された。
「わかってるよ! 雨漏りしそうなすき間がないかどうか点検していただけさ」
「ふん。どうだか」
天幕へは寝台や箪笥などの家具類、敷物など、粗方のものは運び込まれていた。
イレムとセネカは両手いっぱいに抱え込んでいた上掛けや着替えの衣服、寝間着などの束をどさりと置いた。
「今のうちに灯りを用意しよう。天幕の布に燃え移らないよう、火の扱いには注意して――あと置き炉を炊いて。暖を取るためにな」
おぼつかないながらも、セネカはイレムの指示を器用にこなした。
二人が天幕の主を迎え入れるための支度に奔走している頃――。
上空に稲光が走り、空を地を震わせるような雷鳴が鳴り響いた。
重く垂れこむ雲の塊からはぽつりぽつりと雨粒が滴り落ち、乾いた地面に降り注いだ。
雨脚は次第に強く、ぱたぱたと天幕の屋根を叩きつけ――やがて、陣営周辺は水煙に包まれた。
天幕の集落の中ほどに位置する広場には櫓が建てられ、そこからは銅鑼の音と共に前線から戻った伝令が戦の報を伝えていた。
「我が軍主翼は敵の中央を押し込みつつ前進!」
「右翼、左翼に展開する敵の騎兵も我が軍の魔人族の強襲による切り崩しで優勢! 敵は既に壊走を始めている!」
伝令が声をからして伝える度に辺りからはどよめきと歓喜の声が湧き起こった。
そんな中――。
一際けたたましく銅鑼が打ち鳴らされた。
「本営にてアテナ軍の副大将アレースを討ち取ったぞ!!」
「なんと!」
「副大将を? 本当か!?」
そこに居合わせた者、全員が色めきたった。
「で――誰が!?」
「若君、アリオン殿だ!」
「えッ!?」
セネカは頭から箕をすっぽりと被り、炊き出し用の薪の運び出しの最中だった。
少しでも雨に当たるまいと速めていた足並みがぴたりと止まった。
櫓からは伝令の報が続く。
「敵の副大将戦死により、本営は混乱している! しかしながら、アリオン殿の消息は不明――」
セネカの腕から薪の束が滑り落ちそうになった。
伝令はその後も何かを伝えていたようだったが、セネカの耳には入ってこなかった。
イレムが立ち尽くすセネカを背後からどやしつけた。
「ぼんやりするな! 戦果の報に耳を傾けて自分の仕事をおろそかになるようでは――」
「今、あにィが消息不明だって――。それって無事かどうか分かんないってことじゃ――?」
イレムの忠告には応えず、セネカは不安げな様子を露にした。
「ああ、そうだ――しかし、アリオン殿には護衛がついている。おそらく大丈夫だろう……。だが……」
「だが?」
「いいから――心配する暇があったら体を動かせ。戦でいちいち人の生死に気を揉んでいたら、身がもたないぞ」
「そんな――心配するだろ! ふつう!」
セネカは憤りのため声を荒げたが、それでもイレムの「大丈夫」という言葉に救われた思いだった。
「副大将をやっつけたって――あれ、すごいことなんだろう?」
薪が雨に濡れないよう、箕の中にしっかりと抱えこみながら、セネカは興奮を押さえ切れない様子で言った。
「ああ。第一等の戦果だ」
イレムは、なぜかにこりともしない。
「しかし、突出し過ぎではないだろうか……もしかすると、独断先行かもしれない」
歩みを進めながらイレムが思案顔で呟いた。
「――? 何が? どういうこと?」
セネカはイレムに追い付こうと早足になった。イレムの言っていることがどうも腑に落ちない。
「いいか? アリオン殿は主翼のポセイドン王の陣と共に動かれているはずだ。だのに、先ほどの報から推し量るに――中央突破の前に本営に取り付いたということになる」
茅で葺いた吹き晒しの資材置き場に薪を並べていたイレムは、手元がおろそかになっているセネカに注意の目配せをし、更に続けた。
「いくら若君といえど――まさか初陣の者を敵の真っ只中に討ち入りさせる命令など、王は――するわけがない」
「じゃ、あにィが自分勝手に飛び出した、ってことなのかい?」
セネカの問いにイレムは無言で応えた。
「敵の副大将が本営から離れて指揮を執っていて、そこを狙ったということも考えられるが……確実に言えることは、敵の只中にいて護衛のない状態は危険過ぎるということだ。いや――。それよりも……」
「それよりも?」
「問題なのは単身での無断行動だ」
イレムは今やセネカと面と向き合っていた。
「大きな手柄を立てたい者は、兵士たちの中にはごまんといるんだ。その者たちからしたら、アリオン殿の行動は"抜け駆け"以外のなにものでもない」
「なんで? どうしてだよ? 一番乗りがいけないっていうのかい?」
「和を乱してはいけないということだ。戦の最中に皆が皆、勝手に飛び出して行ったらどうなる? 主導者の指揮の元に進行してこそ、然るべきなんだ」
「……。そんなモンかなぁ」
「そういうものなんだ!――天幕に戻るぞ」
夕暮れ前――。
立ち並ぶ天幕の群れを縫って、下働きや従者、小間使いたちが忙しく行き交っていた。
天幕の入口にはそれぞれ支柱が立ち、夜に備えて焚かれた松明が赤々と燃えていた。
雨はいつしか小雨から細かな霧雨に変わっていた。
櫓からは幾度も戦況が伝えられていたが、あれからアリオンに関する報は伝えられていない。
「大将の首を取ったらこの戦はおしまいだ」
イレムがポセイドン軍優勢の報を受け、内に秘めていた闘志に火がついたようだ。セネカ相手に戦談義を繰り広げている。
「――もしくは敵側が降伏してきたら、だな。そうしたら大将であるアテナを捕虜にして、オリンポスに攻め入る。そして我が王は三界の王に君臨する」
「……そん時は、大将のアテナはどうなるんだい?」
「勿論、処刑だ」
「……。じゃさ、もし、こっちが負けた場合は、その逆……?」
「うむ。そうだな――しかし、縁起でもない事を口にするんだな君は。我が軍が負けることなどあり得ない」
イレムはきっぱりと言い切った。
セネカはうんざりしていた。
もうこれ以上イレムと話をしたくなかった。
何で好き好んで殺し合いの話をしなくちゃならないのだろう……。
「敵の大将はぬくぬくと本営にとどまり、戦闘の指示を下すのみの腰抜けだ。自ら率先して兵士と共に戦いを敢行されるポセイドン王は、最も勇猛な王だ!」
「でもさ、危ないじゃんか。大将がそんな戦の真ん前に出たら、討たれる場合もあるんだろ? 槍で突かれたりとか……」
「……。君はポセイドン王の事をよく知らないからそんなことが言えるんだ」
イレムは得意気に鼻の穴を膨らませ、セネカを見返した。
煙るような雨が上がり、雲間から光が差し込み始めた。
陽は既に大きく西に傾き、一日の終わりを告げようとしている。
戦線に進み出た陣も順々に帰還の途に就き、それを迎える側は、まさに戦乱のような忙しさだった。
「これはこれは! 養育係、ご苦労なことで」
軍船にいた監督兵のラザレがイレムに声をかけた。
イレムのかたわらにいたセネカはぎくりとして、身を隠すように先輩の背後に回った。
「我が軍は圧勝! 間違いなしだ! 祝杯の準備を早急に進めよとのことだが――畜殺場に手が足りず困っておると聞く。帰還した王や武将たちに新鮮な肉を振る舞わにゃならんしな。で――」
ラザレはわざとらしくイレムの背後に目をやり――「そいつを少しばかり貸してもらえんかな?」と、意地悪な笑みを浮かべた。
「いえ。ラザレさん。この者は、家畜を捌くにはあまりにも非力でしょう。それに鶏の血で汚れたまま若君の給仕させるわけにはいいませんので……」
「おお! それはごもっともで」
ラザレは大げさに肩をそびやかした。
「しかしながら、困ったことに我が軍の若君殿は戦の作法もご存知ないと見える。どうやら田舎暮らしが長かったせいでしょうな。そちらの――有望な従者殿の教育も大事ですが、若君殿の教育も多分に必要かもしれませんて」
ラザレは皮肉たっぷりに、こう言い放つと大股にかっぽし、行ってしまった。
自分もアリオンも酷くバカにされたような気がしてならなかったが、セネカはラザレの気勢に圧され、何も言い返すことが出来なかった。
セネカはイレムに感謝の眼差しを送ったが、イレムは妙によそよそしく淡々と仕事の指示をするのみだった。
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