「セナ! セナ!!」
……誰かが呼んでる……だれ?
「もお、セナったらどこにいるの? セナ!」
……なあんだ姉ちゃんか
「セナ!! もうじき父さんが帰って来るんだよ! 聞こえてるんなら――」
……父ちゃん? そうか! やった――!
波間から水しぶきとともに潮焼けした小さな顔が飛び出した。
セナはすぐさま息を継ぎ、再びざぶんと海に潜ると、まるで魚のような見事な泳ぎで浅瀬まで辿り着いた。
「また潜ってたの!? もお――呆れた!」
全身びしょぬれで水面をかき分けながら陸にあがってくるセナの姿を見つけたシンシアは半ば安堵の表情を浮かべたあと、しかめっつらをしてみせた。
「いいじゃん! ほら! 大漁!」
そう言うと、セナはしっかり中身の詰まった牡蠣の殻を二つ、姉に押しつけるように手渡した。
セナは岩場の深みに潜っていたのだ。
「父ちゃんの船は?」
髪の毛から滴る雫を払い除けながらセナが息せき切ってたずねた。
「まだだよ。でも、もういつ着いてもおかしくない。あんたにも手伝ってもらわなきゃならないんだから、急いで――あ!」
セナはシンシアの言うことをみなまで聞かず、波打ち際を蹴った。
「セナ!」
「手伝いはするさ! そんなこと、分かってる。それより早く父ちゃんを迎えに行かなきゃ!」
「セナ! 風邪ひくといけないからちゃんと服を着替えてから――分かったの!? セナったら!」
姉の忠告など、どこ吹く風でセナは跳ねるように駆けて行った。
何日も時化が続いたあとの穏やかな海だった。
海辺の村の男たちは、待ってましたとばかりに早朝から漁船をくり出し、やがて陽が南の空に上がりきる頃には漁を終えた船がひしめきあうように浜辺に寄せていた。
「よお! セネカ」
「やあ! 今日はでっかいのが二つも採れたんだぜ!」
「すっげェ! 場所教えろよ」
「さあねー。超穴場だらな。それよかさァ――」
浜辺で同じ年頃の子どもたちに囲まれたセナは、親しげに言葉を交しあった。
「セナ。おいで」
やがて追いついたシンシアがセナの襟首を掴み取り、引っ張った。
「じゃあなー!」
セナは友人たちに手を振ってその場を離れた。
「セナ。あの子たち今、あんたのことを『セネカ』って呼んでなかった?」
シンシアはややこわばった顔つきでセナの頭から布きれを被せると、ごしごしと頭と体を拭きつけた。
セナは「そらきた!」と言わんばかりに肩をすくめた。
「呼んでたさ。『セネカ』はおいらの愛称なんだ」
布きれを体に巻きつけながら、セナは当たり前のように、さらりと言った。
「男名じゃないか――それに、もう! またそんな言葉遣い! あんたは女の子なんだよ? 男の子みたいな"ふるまい"はもうおやめって言ってるのに――」
「だって性に合ってるんだもん」
シンシアが嘆くのを物ともせず、セナは無邪気に受け流した。
「あ――! 父ちゃん!」
やがて二人姉妹の父親が、漁で捕えた獲物を大きな網ごと担ぎ揚げやって来た。
「今日の稼ぎだ。悪くない。トマスのところの若い衆がよくやってくれたからな」
父親のムラトスは網を広げると、これは干しものに、これは塩漬けにと、シンシアにあれこれ指示を与えた。
ムラトスは穏やかな鳶色の瞳をした青年のように若々しい父親だったが、やや影のある面持ちはどこか近寄りがたく、めったにゆるむことのない引き結んだ口元は頑固そうな印象を与えた。
「ね。父ちゃん! 次に漁に出る時には、絶対連れてっとくれよ? 約束だよ!」
せっせと獲物の選り分けをするシンシアの脇で、セナは魚籠に小魚を押し込みながら、黙々と網に絡まる魚を外す父親に甘えるように話しかけた。
しかし、ムラトスはちらりと一瞥を投げただけでむっつりと口を結び、言葉を返さなかった。
セナは先ほど見事な牡蠣を採ったことを嬉々として父親に語った。
「――それでさ、もう少しでみっつ目がとれるとこだったんだ。いっちばん大きかった! でもあんまり深かったから息が続かなくて――」
「一人でそんな深みに潜ったのか?」
おもむろにムラトスが面を上げた。
「え?――う……うん。ひとりで……」
「これからは一人では海に入るんじゃない」
ムラトスはいつになく厳しい口調だった。
セナは黙りこくった。
「貝を採るんだったら、これからは浜と岩場の水際だけにするんだ」
「……」
「波も潮の流れも気まぐれな時期になる。さらわれたらどうする。厄介事を起こすんじゃない」
「……うん。わかった。もう潜らない」
セナはうなだれ、しゅんとなって頷いた。
「父ちゃんはあんたが無茶をするから心配して言ってんだよ」
シンシアがそっとセナに耳打ちをした。
そうかもしれない。しかし……。
ムラトスは時折セナに、必要以上にきつく叱りつけることがあった。
その度重なる父親の態度にはセナも薄々気づいていた。
差別とまではいかないにしても、姉とは明らかに"あたり"が違う。これは物心つく頃からおぼろ気に抱いていた疑問だった。
セナは浜育ちの娘だった。
母親を早くに亡くし、父親と姉の三人家族で慎ましく暮らしていた。
根っからのおてんばであったが、更に輪をかけて男まさりでもあった。
女の子同士よりも、男の子に混じって遊ぶ方を好み、おとなしい磯遊びよりも素潜りや魚釣りを選んでは日の暮れるまで男の子たちと戯れていた。
姉のシンシアは、セナが男の子のように振る舞うのを快く思っていなかった。
しかし、セナはそれを承知で盛んに男言葉を使い、髪の毛を短く削ぎ、身なりも男の子を装った。
姉に対する当てつけではない。セナがこうすると何となく父の受けがよいことを心得ていたのだ。
これはセナが自ら学んだ“父親の気を引くコツ”だった。
男の子のように振る舞うこと。そして、亡き母のことを口にしないこと。
「あんたはね、セナ――母さんにとても似てるんだよ。だから父さんは、辛いんだ。母さんのことを思い出して」
セナは幾度となくシンシアに聞かされた。
姉のシンシアには母親の記憶があったが、セナにはない。母親はセナが赤ん坊の時に亡くなっていたからだ。
セナは父親に一度だけ母が何故死んだのかをたずねたことがあった。
ムラトスはぶっきらぼうにこう言った。
「サンゴノヒダチが悪かったんだ」
セナは村の大人から――セナの母親ナタリはセナを産んですぐに亡くなった――ということを聞いたことがあった。ナタリは体がたいそう弱く、病気が元で死んだとも聞かされたがそれ以上は誰も詳しく教えてくれなかった。
ムラトスは妻を失ってからも後妻を迎えることなく男手で二人の娘を養ってきた。だから父親は母親のナタリを忘れられずとても愛していたのだということはセナにもわかる気がした。
実際ムラトスは娘たちを大切にし、慈しみをもって接していた。が、セナに対しては、なぜか時々態度がきつくあたることがあった。
セナの歳が十を越える頃には、度々父親に相手にされなかったり、あからさまに視線を逸られるのをセナはかなり気にしていた。
もしかしたら恨まれているのかもしれないと、思うことさえもあったくらいだ。
しかし姉のシンシアは勘ぐり過ぎだと言って受けあおうとしなかった。
そんなある日のこと。セナは村の子どもから耳を疑うような事を聞かされた。父親のムラトスが赤ん坊だった頃のセナを海に投げ捨てようとしたというのだ。
「カロロスんちの爺ちゃんが言ってたんだ」
常々仲の良い遊び友達のビルだ。
「大声でワケのわからないことをわあわあ叫んで、それで赤ん坊だったお前を引っつかんで岩場から海に投げようとしたんだってさ! 村の大人たちが寄ってたかって止めに入ってようやくおとなしくなったんだと! お前オヤジはよっぽど酒癖が悪いか、お前が相当嫌われてるかのどっちかだよな?」
牡蠣の穴場をセナから聞き出せなかった腹いせもあったのだろう。ビルは一昔前の村の一大事を知り得たとばかりに得意げな様子でまくしたてた。
セナは嬉々として喋りまくるビルの横面を思い切り殴りつけた。
「嘘だ!! ハッタリ抜かしやがって! 承知しないぞ!!」
セナが声を震わせながら叫んだ。
「嘘なモンかよ! それに、お前んちのオヤジ、お前のこと嫌ってるじゃないか! なあ?」
いきなり殴られたものの、血の気の引いたセナの顔を見て言葉が過ぎたと思ったのか、張られた頬を押さえながらビルはやり返すのをやめた。
かたわらにいた数名の子どもたちはあっけにとられながらも目と目を合わせて、こくりと頷いた。村の子どもたちの間でもセナに対するムラトスの素っ気ない態度は密かな噂の的だった。セナはいたたまれなくなりその場から駈け出した。
赤ん坊を海に投げ入れたらどうなるか、小さな子どもでも分かる。
父親が自分の子に対してそんなことするなんて――。セナには信じられなかったし、信じたくもなかった。
どうしても誰かに問いただして事の真相を知りたかったセナはトマスの家を訪ねた。
家に帰ってシンシアに聞いたとしてもどうせ父親のことをかばうに決まってると思ったからだ。
赤ん坊の時に母を亡くしたセナはトマスの女房のニコラからもらい乳をして育てられた。なので、いわばニコラは育ての親と言ってもよかった。
子だくさんでてんてこ舞いしていたニコラだったが、セナの母親代わりを進んで買って出てくれた。
そんな彼女をセナはずっと自分の母親だとばかり思っていたので、ニコラから実の母親ではないと告げられた時のあの奇妙な感覚は今でも忘れることができない。
「セナ? どうしたね? そんなところに突っ立って」
ニコラは家の入口に黙って立ちつくすセナに声をかけた。
トマスと倅たちは漁に出ていたため家の中にいたのはニコラと、姑のドルカの二人きりだった。
セナの硬くこわばった顔つきに何かを察したニコラは裁縫の手を止め「おいで」と、セナをかたわらに呼び寄せた。
セナはしばらくニコラのふくよかな胸に顔をうずめたあと、先ほどビルから言われた事をぽつりぽつりと話し始めた。
ニコラが口を開く前にカヤで蓆を編んでいたドルカが言った。
「天命を受け入れられんかったんじゃ」
「……?」
「ムラトスもあん時は突然嫁を失のうて、心が荒んだんじゃな。だが、過ちは過ちじゃ。きちんと詫びねばならんて」
「ドルカ婆ちゃん、本当なの!? それじゃ、父ちゃんは本当に――」
「セナ。お聞き」
ニコラが声をうんと低くして穏やかに言った。
「村のやんちゃ坊主が言ってたのは半分はあってる――ああ、そんな顔をするもんじゃないよセナ。半分だけだよ。まさかナタリがあれきり体が持ち直さずに死んでしまうなんてムラトスも、村の誰もが思っちゃいなかったんだ。でも……」
ニコラがふっと顔を曇らせ悲しげに目を伏せた。
「でも、ナタリは逝ってしまった。私も最初は信じられなかったさ。だって『また可愛い女の子が私の所に来てくれた』って、笑っていたんだからね」
ニコラの話を聞きながら、セナは実際に会ったことのない母親の笑顔を思い描いていた。生まれたての赤ん坊の傍らで、やわらかで優しいな笑みを浮かべる母の姿を……。
「魔がさしたんだよ。あんたの父ちゃんは取り乱して赤ん坊のあんたに手を挙げただけだ。たったそれだけなんだよ。ひと昔前の話っていうのはどうも大げさになってしまっていけないね」
一旦は荒れ狂ったムラトスも、村の衆に諭され宥めすかされたのち心が元に戻ったかのように穏やかになった。それ以降は一触れした反動もあってか、セナをまるで失ったナタリの分もと言わんばかりに――まるでナタリの生まれ変わりのように可愛がったという。
「シンシアがまだあんたくらいの歳の頃にはやきもちを焼いていたくらいさ」
ニコラが思い出したようにくくっと含み笑いをもらした。
「でも……」
セナは反論せずにはいられなかった。
今のムラトスはやはり自分のことを、どこか避けているように思えてならなかった。
「ああ――それは、きっとあんたがナタリに似ているからだね。顔かたちもそうだし。こうして……目を閉じて聞いていると声もそっくりだ。だから――」
だからムラトスはきっと過去の過ちを思い出して、辛くなって申し訳なくて、それでよそよそしい態度を取るのだとニコラは断言した。
「ようし! ここの繕いが終わったらあんたんちに行ってムラトスに言ってやるよ。可愛い娘にこんな思いをさせるなんてね」
ニコラにそっと背中を押されて、セナは育ての親の家をあとにした。来た時とは打って変わり、心の曇りはすっかり拭い去られていた。
セナは家路を急いだ。シンシアはそろそろ漁から戻る父親を迎えるために支度を始めているはずだ。
今日の漁の出来はどうだったのだろうか? あとでニコラが来てくれるというし、獲物を煮込んで何か振る舞えるといいな――。
セナは心を弾ませながら砂地を駆け通した。
しかし――。
この日、ニコラはセナの家を訪れることはなかった。
前方に黒煙が立ち昇るのが見えた。ちょうどセナの家のある辺りだ。
(まさか――火事?)
セナは足並みを速めた。
燃え盛っているのが自分の家をも含めた隣近所の集落だった。
突然――目の前に大勢の人影が現れた。
兜と甲冑で身を固めた見知らぬ男たちだった。
「ジタバタするな! それ以上暴れる腕をへし折るぞ!!」
ただならぬ気配を感じ、とっさに身をひるがえしたセナだったが、すぐさま甲冑を着けた男に捕えられた。
力の限り抵抗したものの、殴られた揚句きつく二の腕をねじ上げられた。
セナは縛めから逃れようと必死に抗いのたうったが、男はその手を全くゆるめようとしない。セナはたまらず悲鳴を上げた。
その時、どこからかムラトスの怒声が聞こえてきた。
血相を変えてこちらに向かって来る父親の姿を視界の隅に認めたセナは、次の瞬間ひきつけを起こしたように体を硬直させた。
男たちの手にしていた槍がムラトスの胴体を貫いていた。
槍を引き抜かれ、よろよろと後ずさったあと父親はその場に力なくくず折れた。
血まみれで仰臥し虚ろに見開かれたままの鳶色の瞳を見た時、セナは頭の中が痺れたようにぼうっとなった。
遠くでシンシアの甲高い悲鳴を聞いたような気がしたが、それきり何も分からなくなった。
ただ、いつまでも耳に残っていたのは父親の怒り狂ったかのような叫び声だった。
「貴様ああ!! 俺の娘からその手をはなせ――!!」
気がつくとセナはシンシアの腕の中にいた。
シンシアは血の気のない顔で固く唇を噛み締め、父親の死を目の当たりにして気を失った妹をずっと抱き寄せていた。
「姉ちゃん……。父ちゃんは?」
妹の問いに、姉はすぐには答えることができなかった。
「ねえ……姉ちゃん。父ちゃんは?」
「父ちゃんは」
シンシアは低く声を落として言った。
「父ちゃんは……殺された。ろくでなしのティターンの奴らに殺されたんだ。村には火がつけられて……みんな燃えちまった。何もかも滅茶苦茶だ――」
セナは先ほどの惨状がまだ信じられなかった。
だからシンシアが「悪い夢でもみたんだろ?」と、笑って答えてくれたらいいのにと、心の底から思っていた。
後で分かったことは――村に住む未成年から働き盛りまでの男子が強制的に徴兵させられたことと、若い女たちが同じく無理矢理連れ出されて馬車の荷台に乗せられ、村をあとにしたことだ。
抵抗したものは容赦なく殺された。
老齢の者や年端のいかない子どもたちの行方は定かではない。
がたがたと揺れる馬車の荷台は女たちでひしめき合っていた。
「どこに行くの? これからどうなるの?」
不安に駆られたセナは誰ともなくたずねたが、答えられる者はいなかった。
もしかしたら奴隷として売られるのかもしれないという不安が漣のように口伝えで荷台に詰め込まれた女たちの間に広まった。
やがて陽も落ちた頃。女たちは荷台から下ろされ、その中の何人かは寝ぐらとして設えた天幕に連れて行かれた。
そんな中、女の躯に満たないセナにも戯れで手が伸びた。
父親ほども歳の差のある輩だった。
「こいつはどうだ? チンケだが、生娘に間違いない」
セナは抵抗する術を知らなかった。
周りの男たちのはやし立てるような笑い声がこだました。
セナは冷たい地べたに押し倒された。
村の女たちは、男たちからの仕置きを恐れて固く目を瞑るしかなかった。
しかし――。
「この下衆な性悪野郎!! その子から手をおはなし!!」
女たちの制止を振り払ってシンシアが猛りながら立ち上がった。
シンシアは平素では考えられない口汚い言葉を選び、セナの上に覆い被さっている輩に向かって激しく罵倒を浴びせかけた。
セナにはすぐ分かった。
シンシアは、あえてけしかけている。自分から目をそらせるために――。
「ハン! あんたなんか人間以下だ! 畜生に膝まづいて教えを乞いなよ! どうぞ獣並の生き方をお教え下さいってね! もしかしたらお情けで爪の垢でも恵んでくれるさ!」
輩は遂にセナから離れた。
怒りで顔を真っ赤にした輩はシンシアに詰め寄り、激しく頬を打った。
倒れ込んだシンシアはそれからも容赦なく打たれた。
めちゃめちゃにされる姉の姿を見てセナは狂ったように男に組みついたが、たちまち振りほどかれ跳ね飛ばされた。
セナは輩が短剣の柄に手をかけるのを見た。
殺される――!
セナはたちまち恐怖に駆られ、後ずさりした。
「お逃げ!」
その時、シンシアが金切り声をあげた。
「逃げるんだ!! セナ!! 早くお逃げ!!」
シンシアがもう一度、叫んだ。
セナは姉のその言葉に弾かれたように駆け出した。
夢だ――。
悪夢だ――。
こんなことあり得ない――。
きっと――きっと悪い夢に違いない――!
暗い夜道を、月明かりだけをたよりにひた走りながらセナは自分自身に言い聞かせた。
父親が殺されたことも、姉が荒くれた男たちに酷い目にあわされたことも、さっきの虫唾が走るようなあの感触も、全て夢の中の出来事だ。
そうだ。これは夢だ。悪い夢なんだ。
今こうして走っているその先が夢の出口だ。
夢はいつかは覚める。
こんな嫌な夢は二度とごめんだ。
早く出口にたどり着いて目覚めたい。
お願い――。はやく――。はやく覚めますように。
セナはそう祈りながら、喉が枯れ、息の根が止まりそうになるまで走り詰めに走った。
幾度となく転び、膝小僧をいやというほどすりむいた。
草の葉が肌をなぶり、むき出しの皮膚には細かな切り傷が幾筋も刻まれた。
セナは精根が尽き果てるまで疾駆し、力尽き、とうとう地面に倒れ伏した。
そうして、夢ではない非情な現実に引き戻された。
セナは気がつくと一人ぼっちだった。
「なんだあ――? お前。生きとるのか? 死んどるのか?」
木の洞で夜を明かしていたセナは、顔中毛むくじゃらの大柄な男に揺り起こされた。
セナは最初、野生の獣のように警戒心を露わにしたが、その男の人懐っこく純朴な人柄を感じ取り、固く閉じていた心をほんの少し開いた。
男は自分の弁当をセナに分け与えてくれた。
焼きしめた麺麭と皮袋に入った水をあてがわれ、セナはわき目もふらず貪るようにそれらに喰らい付いた。
逃げ延びてから何日もの間、川の水と木の実や木の根で飢えをしのいでいたセナにとって、このうえないご馳走だった。
男はセナに名をたずねた。
セナは麺麭の最後のひとかけらを飲み込み、ひと心地ついたあと、ぽつりと呟くように言った。
「……セネカ」
セネカは砂浜に座り込み、膝を抱えながら目の前に広がる海の彼方を見つめていた。
遠浅の海は優しく、穏や波立っていた。
潮騒の音が心地よく耳に届き、甘い潮風がセネカの髪をふわりと巻き上げた。
「セネカ! ほら見てごらん」
先ほどまで波打ち際で波と戯れていたアリオンが、両手一杯の貝を手にして戻ってきた。
覗き込もうとするアリオンの視線を避けるように、セネカは下を向いた。そして鼻の辺りをごしごし擦り、無性にむず痒くてしょうがないという振りをした。
「……? どうかしたの?」
「……別に」
セネカは、今度はぷいと横を向くと短く答えた。今はアリオンとは目を合わせたくなかった。
アリオンはばらばらと貝を砂地に置くと、セネカの横に腰をおろした。
「きれいだねえ。海……」
「……そうかい」
セネカはくぐもった声を気取られないように、言葉少なに答えた。
「セネカは海へは来たことがあるの?」
「……」
セネカはしばらく黙っていたが、うつ向き、砂地に生えている浜草をいじりながら「ある」とだけ答えた。
「そうか……僕は生まれて初めてなんだ。海は」
アリオンはそれ以上何も喋らなかったしセネカに何もたずねなかったが、やがて思い付いたように前方に広がる海原を見据えて言った。
「泳げない、かな――?」
「……? え?」
セネカが面を上げた。
「この海で泳げないかな? セネカ」
「……」
「気持ちいいだろうね。きっと」
「あにィは……泳ぎは?」
「うん、川で泳いだことがある」
「……分かってないなぁ」
セネカは少しあきれ顔で小さなため息をついた。
「川と海は違うんだ。海はあっという間に深くなる。それに、波も来るし――潮のうねりもある。ぼんやりしていると波にさらわれて沖に流されることだって……」
「へええ。そうか……セネカはとても詳しいんだね」
「……」
二人の間にまた沈黙が流れた。
アリオンは、しばらくの泡立つ波打ち際を眺め、寄せては返す波の音に耳を傾けていた。
ふと隣を見ると――セネカが膝を抱えながらうずくまっていた。その様子は苦しげに膝頭に何度も額を擦りつけているようにも見えた。
「セネカ? どうしたの?」
「……なんでもない」
「だって――。お腹でも痛いんじゃ――」
「なんでもないって言ってんだろ。ほっといてくれよ」
セネカは平静を取り繕おうとしたが、声の震えはどうにもならなかった。
「あっちへ……行けよ。もう……おいらに構うな!」
やっとそれだけ言うと、セネカは押し黙り、喉に突き上げてくる熱いかたまりと格闘した。
そして今、自分が泣いていることは、きっとアリオンに知れてしまったのだろうと思った。
アリオンは「火を熾してくる」と言い残し、散らばった貝を拾い上げ行ってしまった。
ひとり残されたセネカは固く目を閉じ、唇を噛みしめ、懐かしくも哀しい郷里での思い出を頭の中から追い払おうと必死になっていた。
アクセスありがとうございます。
『Sena』も、この章でようやく大きな区切りを迎えました。
当初予定していたよりも長く、文字数もかなり多くなりましたが、イメージしていたことは心置きなく書き綴ることができたと思っています。
『アリオン』というお話のセネカという愛すべきキャラクターに色んなエピソードを加え、かなり膨らませました。
振り返ってみると…キャラがそれぞれとてもよく動いてくれて、こちらもかなり楽しんでいます。
アリオンは…かなり天然?な感じになってしまいました(汗)
でも彼を崩すつもりは全くありませんので。念のため。
ここで少し反省…
タイトルである『Sena』について。
物語も中盤近くの第十章までその詳細が明らかになされないというのは、読んでくださる方に不親切ではないだろうか…ということに最近になって気が付きました。
『セナ』って何? 誰? と、疑問に思われた方もおありかと思います。
判っているのは作者のみ。読者はおいてきぼりであったかな…と。
『Sena』完結後には、分割した章をとりまとめたものをUpする予定です。
その際に、序盤で『Sena』のことに触れる内容の加筆を検討しています。
お知らせです。
師走に入り気ぜわしくなってまいりました。
年末年始ということで『Sena』はしばらく冬お休みをいただきます。
次の投稿は2009年1月9日(金)を予定しています。
次回は第十一章『囚虜』
気長にお待ちいただけたら幸いです。
それでは、よい年をお迎えください。
感謝をこめて
コウミ
※以下は追記です
2009年3月27日更新の時に、第一章でセネカの口からSenaについて触れる箇所を加筆しました。
☆☆☆
2011.3.10
本文改訂
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