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黒姫の魔導書 作者:てんてん

第4章 似たもの同士の大行進

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第12話 未だ届かない場所

 数日が経ち、ようやくレネの噂は一段落し普通の生活を送れるようになった。ダイルに頼んでおいた主の分配は何事もなく進み、レネは巨大な魔力結晶と分配金を手に入れることができた。

 今回の分配はすんなり行かない理由がいくつかあった。まず、現れたのは集団で狩りを行っているときであり、生き残った者はそれまでの収穫や重い装備をすべて捨てて逃げている。

 次に、倒したのはレネひとりの功績であり、レネは集団に属していない。そのため本来は他者に分配する必要が無い。

 しかし、結果として逃げる探索者達がおとりのような形になったために楽に倒せたと言えなくもない。そして、彼らはかなりの財産を失っている。このため正論を言えばすべてレネのものであるとなるが、探索者達の心情としては自分達にも権利があると思ってしまうのだ。

 もちろん探索者達にも誇りがあるので寄こせとは言わない。しかし、これは感情に起因するものなので、理屈ではどうにもならないのである。

 そこで全権代理となったダイルはレネの取り分として魔力結晶を確保し、その他の部位を商会が全て買い取る形にして現金化した。後は狩りに参加した探索者達に対してレネからの共闘見舞いという名目で現金を支払い、素材を求める者には買い取り金額で交換したり、装備を格安で融通したのだ。

 これによって装備を整えられて少しだけ儲けが出ることになったので、生き残った者達の不満は出る前に消え去り、死んだ者達にも同様に支払ったので血縁や仲間からの理不尽な恨みを回避することができた。

 支払われた総金額は探索者達が予想していた主の金額と変わらないか少し多い程度だったため、誰もレネが儲けを独り占めしたとは思わなかった。むしろ取り分が無くなったのではと思う者も居たほどだ。そのため『殲滅の黒姫』の名は探索者の間で一気に高まることになった。

 ちなみにからくりはこうである。普通の探索者は商人に売って利益を得る。商人は買い取った物を売って利益を得るので、商店での販売価格より買い取り金額が安いのは当たり前である。そのため探索者達が予想する手取り額は、販売価格よりずっと低くなる。

 今回の素材は滅多に討伐されない主の物。しかも劣化していない最上級素材。そしてダイルは色々な伝手を持つ大商人である。儲けはやりようによっていくらでも変動するのだ。

 結果、探索者達は大金を手に入れることができて喜び、レネも魔力結晶を手に入れることができたのだ。当然ダイルもたっぷりと利益を得ている。損をして名を取る程度では商人として半人前なのである。

 もちろんダイルはレネに隠さず報告し、レネと杜人は感心しながら『商売は無理』と改めて実感したのだった。





 騎士学校ではいつも通りの訓練が繰り返し行われている。しかし、予想通り成果はなかなか上がらない。そんな中で、これまでの成果を確認する試合が行われることになった。

 レネは整列したノバルト達を前にして、資料をめくりながら真面目な表情で問いかける。

「今回の試合は、指揮官である魔法使い抜きの四対四です。それを組み合わせを変えて何度か行います。現状でどこかに勝てると思う人はいますか?」

 問いに対して、全員が身じろぎすることなく無言を貫く。勝てると言いたいところだが無理と理解してることと、無理とも言いたくないためである。

『良かったな。これで勝てると言われたら困っていたところだ。それではそのまま行こうか』

 レネは小さく頷くと、事前に杜人と打合せしていた内容を思い出しながら淡々と話し始めた。

「他の班の状況を確認したところ、不安定ではありますが基礎魔法は半数程度使えるようになっているようです。そして私達の現状はレンティが武技を少し使えるようになっているだけで、他は未だ最初と変わっていません」

 ここでの重要なところは、さりげなく『私達』を強調しながら言うところである。このように言うことによって、レネにとっても他人事ではありませんと刷り込むのだ。

 ちなみに例年ならば、教える側も教わる側も真剣に行わないため結果は惨憺たるものなのだが、今回は結果が比べられるので少なくとも学院生側は真剣である。そのため騎士側の上層部はほくほく顔となっていた。

 話を聞いているノバルト達は少しだけ悔しそうに顔を歪める。レネは気が付かない振りをしながらここでにっこりと場違いな笑みを浮かべた。

「そこで、皆さんに課題を与えます」

 予想外のことにノバルト達は虚を突かれた表情になる。観察している杜人は上出来だとレネに手を振る。

『良いぞ。そのまま押しこめ』

「出す課題は『相手を攻撃することなく、実戦で武技が使用できる隙を探す』です。今回、私達は勝つことを目的とはしません。むしろ、全て負けることにします。勝つことを考えるよりも、実際に戦ってみて何をどのときに運用できるかを確認するほうがずっと役に立ちます。丁度良く機会を作ってもらえたのですから、正々堂々たっぷりと利用させてもらいましょう」

 本当は少し腹黒に聞こえるように話せれば良いのだが、そこまではまだ出来ない。そのため次善の策として、杜人は内容と表情との差によってもたらされる感情を利用した。

 そして予想通り、笑顔で他人を利用すると言いきったレネに、ノバルト達は冷や汗を掻きながら頬を引きつらせていた。レネが言った内容は、他の騎士見習い達が真剣に挑んでくるので、これ幸いとその相手を練習台にするというものである。

 底辺とはいえ騎士としての自負を持つノバルト達には考え付かない発想だった。そのため少々反発する心が見て取れたが、レネは無視する。

 ここで『届かなくても正々堂々ぶつかりましょう』とか、『胸を借りて実力を試しましょう』は双方気持ちが良いかもしれないが、現在のノバルト達には悪手なのだ。なぜならば、普通に戦って負ければ無意識の領域で『今まで通りの訓練をやっても無駄』という意識が根づいてしまう可能性があるからである。そうなると、思い込みが大切な武技は絶対に習得できなくなる。

 だから杜人は最初から勝負をさせないことにして、勝負ではなく訓練の一環と思わせる方法を組み立てた。

 人を育てようとするならば、時に嫌われることを覚悟しなければならない。杜人はそれをレネに教え、レネも自身の体験から納得してこの方法を選択した。こう言っておけば、ノバルト達は納得できなくても命じられたからと自分に言い訳ができ、悪いのはレネと明確になる。

 なんとかしたいと思ったのも、なんとかしようと決めたのもレネである。だからレネは杜人が自身に見せてくれた通り、最後まで笑顔でいると決めた。

「分かりましたか? 後で報告書を提出してくださいね」

「了解しました!」

 レネの確認に揃って答えがあり、方針は決定されたのだった。





 家に帰ってからレネは慣れないことをしたために座卓に突っ伏し、杜人は汗を掻きながらも明るく振るまう。決断を委ねるのは早かったかなと思わなくもなかったが、成果としては十分と考えていた。

『上出来だったぞ。あれなら怪しむことはない。なに、最後には泣いて感謝されるのだから、後で盛大にからかおう。きっと楽しいことになるぞ? 残りはどんなことになっても本番で俯いたりせず、自信ありげに顔を上げて微笑んでいるだけだから楽なものだろう?』

「うん……、ありがとう。責任や覚悟ってさ、言葉ではあっさりしているけれど、とても重くて痛いんだね」

 レネは身体を起こすと杜人を見つめる。物語などでは格好良く決断したりする場面に使われるが、実際体験すると重くて痛くて堪らないことだった。この重みと痛みを今までは杜人がすべて担ってきたのだと、改めて杜人に感謝した。

『その通りだ。そして本来は、誰にも教わらずに何度も失敗して憶えていくものだ。その辛さをとりあえず回避できるのだから、もっと盛大に感謝するのだ!』

「……ばか」

 回転してポーズを決める杜人に微笑みながら、レネは軽くつつく。

『ふっ、照れ屋さんめ。仕方が無いから今のところはそれで勘弁してやろう。それでは約束の頑張ったで賞だ』

 杜人がぱちりと指を鳴らすと、いつものようにジンレイが現れて座卓におやつを置いた。

「どうぞ、ショコラトルテです。少し大きめに切り分けました」

「えへへ、ありがとう」

 レネは丸いホールの四分の一の大きさに切られたショコラトルテを見てご満悦である。そしてさっそく食べ始め、相好を崩しながらうっとりしていた。これは今回は辛いことになると予想した杜人が、事前に約束していたご褒美である。そのため遠慮なく食べていた。

『これはチョコ以外本物だったか?』

「はい。その通りです。甘さも増量しています」

 おとなしく控えているシャンティナにも出しながら、ジンレイはにこやかに答える。すべてジンレイが作ったものはおいしいが、食べた後で消えてしまうため食後の満足感が長く得られにくい。そのため今回は本物の材料を用いて満足感を得られるようにしたのだ。

 そのため杜人は食べすぎないように注意しようかと思ったのだが、幸せそうなレネを見て言うのをやめた。

『……まあ、良いか』

 レネはおかわりをしそうな勢いで食べている。それを見ていた杜人は、たまには良いかと笑ったのだった。





 レネからまともな試合をすることを禁止された面々は、レネが帰ってからしばらく無言で佇んでいた。全員の胸中は複雑なものだったが、それに対して最初にけりをつけたのはノバルトであった。




「良し、それではどうすれば上手に隙を探せるか考えてみよう!」

「……まさか、そのまま言うことを聞く気ですか?」

 元気なノバルトにセラルは尋ねるが、逆らおうと思っているわけではない。まだ気持ちの整理がうまくついていないだけである。

「ああ。命令ということもあるが、少なくともレネ教官は今まで俺達のために知恵を絞ってくれていた。普通ならとっくに見捨てているのが当然なのにだ。それで困るのは俺達でありレネ教官じゃない」

「そうだね。今日の命令も、私達の不興を買ってまでする必要はないよね」

 冷静になったレンティもノバルトに賛成する。諦めたのなら残りの期間中適当に教えれば良いだけである。使えるようになるかどうかを考慮する必要は成績や評判を無視するなら学院生側にはないのだ。そしてレネは十分実績を残している。

 それは全員が分かっているので、今回の命令が不可解なのである。

「今回だって、どうでも良いなら何も言わずに戦わせるさ。俺は頭がそんなに良くないから真意は分からないが、やれと言われたことは全うするつもりだ。その結果どうにもならなくても、それは俺達が不甲斐ないだけだ」

 既にレネの指導によって、レンティが武技をひとつ使えるようになっている。それまでは無理と言われていたのに、やれば習得できることがもう証明されているのだ。

「……それもそうですね。こうなったら最後まで突き進みましょう」

「賛成」

 ノバルトは胸を張って言いきり、それによってセラルとミアシュはやっと感情の整理ができた。普段はレンティの尻に敷かれているノバルトではあるが、ここぞというときはいつも先頭に立って全員を引っ張ってきた。だからこそ、この班のリーダーはノバルトなのだ。

 意見が一致したところで、レンティが微笑みながら手を叩いた。

「それじゃあ、役割からね。観察の主体はミアシュで良いよね。全体をよく観察する役割。だからミアシュが観察しやすいように行動するのが私達の主な役割。良いよね? じゃあ次ね。たぶんすぐ倒されるけれど、その短い時間でできることを考えましょう」

 こうしてノバルト達も自らの意思でレネに最後までついていくことを決断し、動き始めた。




 そして色々な想いが交差しながら試合が行われ、全敗という結果が残った。最下位になることは騎士見習いや教員全員が予想していたのだが、その負けっぷりまでは予想していなかった。

 ノバルトとレンティはまるで標的になるように突出し、セラルは正面からの戦いを避けていた。ミアシュに至っては戦うことすらせずに、ひとりになった時点で降参している。

 その戦い方から勝とうとしていないのは見て取れたので、本来ならば厳重注意が行くはずであった。しかし、観戦していたレネがずっと顔を上げたまま恥じることなく微笑んでいたため、教員達は何か意図があるのだろうと今回は不問にした。

 ところが大部分の騎士見習いはそこまで観察していないので、注意を受けないことに憤慨したり教員達がレネに迎合したと考えたりと、より一層ノバルト達に負の感情を抱くことになってしまった。

 中には直接不満をぶつけた者もいたが、ノバルト達は何も言わずに沈黙を貫いた。そのため孤立は更に深まり、もはや誰も話しかける者は居なくなっていた。





 そして試合後の休日を挟んだ次の日、レネは訓練場にて渡された報告書を読み進めていた。目の前にはノバルト達が整列しているため、表情は微笑みで固定されていた。

『良くできている。各自の得意分野や立ち回りを理解しているようだ。俺は実行しても良いと思う』

 杜人とレネは試合を見たとき、予想以上の動きにノバルト達の本気さを感じていた。そしてその後に向けられた視線などから立場を悪くしてしまったことを悟り、そこまで考慮しなかった自分達の考えの浅さに揃って落ち込んだ。

 そのため想いに応えるために、報告書を確認してから札を切るかどうかを決めることにしていた。そして見事に纏められた報告書を確認し、レネも小さく頷いた。

「大変良くできています。試合で皆さんの覚悟を確認したのですが、これなら次の訓練に入っても問題無いでしょう」

 レネは嬉しそうに笑みを深めると、まるで最初からそれを確認するためだったかのように告げる。もちろん大嘘である。当初は変な思い込みをしないようにするのが目的だったわけだが、見込みの甘さとノバルト達の覚悟を理解したので、杜人が計画を練り直しレネは懸命にそれを憶え練習したのだ。もちろん付け焼刃でしかないので、背中には緊張の汗が滝のように流れていた。

 そんな状態になっているとは思う訳がないノバルト達は、いつの間にか試されていたことに驚愕していた。そして言われたことに対して全力で挑んだことに安堵し、手を抜いていたら見捨てられていたと考えた。今の全員の心は『恐ろしすぎる!』である。

 その様子を観察している杜人は浮遊しながら頬をかいた。何も無ければ見込みの甘さをまず謝るのだが、ここで指導を間違えましたとは絶対に言ってはいけないのだ。それは不信につながり、せっかくの試合を無駄にすることになる。だから杜人としては罪悪感があるが、それは全て飲み込んで考えた方法がこれであった。

『良さげな反応だ。レネも悪よのう、ふふふ。そのままゆっくりで大丈夫だぞ』

 杜人はレネが緊張しすぎないように笑いながら明るい声で漂う。そして演技を確認できるだけの余裕がないレネに、今のところ問題無いことを伝える。たとえ笑みが固まっていようが棒読み気味であろうが、それを指摘してはならず、悟らせてもいけないのだ。そのため杜人にとっても自分が行うより気を張る必要があったりする。

 レネは杜人の声に少しだけ微笑み、慌てないようにゆっくりと呼吸をする。そのおかげで身体の力が多少抜け、表情も少しだけ自然なものに近づいた。そしてそのまま報告書を鞄にしまい、代わりに取り出した書類を一人ずつに手渡した。

 受け取った四人は最初なんだろうという顔で読んでいたが、徐々に手に力を込めながら興奮気味に読み進めていき、最後の箇所で目を見開くとそのまま固まってしまった。

『よしよし、順調だぞ。このまま進めよう』

 杜人は固まっている素直な四人に苦笑している。レネもそうなるよねと思いながらも表情は崩さずに説明を開始した。

「それはいま練習に使用している魔法具を、皆さん専用に作成した場合の効果予測と必要な費用です」

 レネの声に揃って顔を上げるが、全員が葛藤を帯びた表情になっている。

 提示した書類には最初に図案が示され、次に効果と使用した場合の予測が使用しない場合と比較した図で大きく示されている。もちろんその差は歴然としたものにしてあり、妥協できる差にはしていない。そして最後には費用として数字の羅列が書き込まれているのだが、その総金額は即答できる金額ではない。

 今回の書類は求める部分を最初に強調して表示し、その後に小さく書かれた金額を見るように作ってある。不思議なもので人は同列の良し悪しを天秤にかけたとき、悪い部分を見てから良い部分を見るより、良い部分を見てから悪い部分を見たほうが妥協しやすくなる傾向がある。そして欲求が強くなればなるほど妥協が成立しやすくなる。

 欲しいと思ってから諦める場合と最初に諦めてから見る場合、結果が同じでも抱く感情まで同じではないのだ。

 もちろん書類を作ったのは杜人である。金額を見て即断できない時点で最早逃れられない罠にはまったようなものであり、これだけで済ますような手抜かりはしない。レネは詐欺に遭ったときの自分もこんな感じだったのだろうと、複雑な心境で観察していた。

『ふふふふふ、迷え、もっと迷え。それではレネ先生、どうぞ』

 負担を軽くするために冗談を言うように杜人はレネに促し、レネもこれは悪いことではないと己に言い聞かせた。

「実はそれ、この間の主の討伐で出た素材を卸した商会にお願いして、かなり頑張って頂いた金額なんです。ですから、その金額で買えるのはおそらく今だけです」

 レネはダイルに主を卸しているし、魔法具は頑張って金額を下げた品にしてもらっている。そして相場は変動するものなので、時期によっては同じ金額で作れなくなるのは当たり前である。見積りは討伐前にもらっているので魔法具と主との関連はいっさい無いが、嘘はついていない。

「……」

 そしてノバルト達はにこやかなレネの言い方から『後で買うともっと高くなる』と解釈した。しかし、購入するには借金をしなくては無理なので、徐々に諦めの感情が現れ始める。

『良し、止めだ』

 観察していた杜人はそれを逃さず笑顔で指示を出し、レネも確かに止めだと思いながら言葉を紡ぐ。

「あ、それとそこの商会とは懇意にしているので、迷宮に入ったときに素材をここで売るなら、今回だけは利子無しの信用貸しをしても良いと言っていました。それと、術式の封入は私がしますので、その金額には封入費用は含まれていませんし、私以外に調整した専用術式を作れる人がいるかは分かりません」

 最後に「たぶん他の人は無理じゃないかなぁ」と内心が思わず漏れたように装いながら、聞こえるように小さく呟いて笑顔のまま待機する。

『完璧だ! さて、どうなるかな』

 杜人は宙を舞いながら拍手で讃えた。ここは重要な部分なので何度も繰り返し練習を行ったのだ。その甲斐あって演技は完璧であった。

 商品を買う場合、一見の客はその場での一括取引が基本である。後で払うは通じない。そこで杜人はダイルに対しての支払いはレネが一括で済ませ、ノバルト達の支払窓口をダイル商会に委託する方法を提案し、了承を取り付けていた。もちろん手数料分レネが損をすることになるが、それは余計な迷惑をかけてしまった分とした。

 今なら安い。今ならレネの信用で分割後払い可能。そしてレネは名が轟いている魔法使いであり、魔法に関することで疑う理由はない。そのため今なら無料で封入しますよという甘い囁きと、もうこんな好条件はありませんよという声が、ノバルト達の耳にははっきりと聞こえていた。

 真剣に迷い、一度は諦めさせ、そこに諦めなくても良い理由を今回だけ特別ですよと提示する。それをはね退けられる人なら、そもそも最初から迷わない。この説明を杜人から聞いたとき、レネは自分のことを思い出し、恥ずかしさで顔を上げられなかった。

「買います!」

 笑顔のレネが見守る中、しっかりと罠にかかった獲物たちは我先にと購入を決めた。その様子を見ているレネは微妙に笑みを引きつらせ、杜人は自慢げに胸を張った。

『ふふふふふ。どうだ、分かっていれば意外と簡単だろう。万人には通じないが、攻める点を分かっている者を選べばこの通りあっさりいく。だから観察が重要というわけだ。それでは我に返る前に契約書を交わそうか』

 レネは交渉時にダイルから契約書を預かって来ていた。何事にも必要なのは勢いであり、間を置いて冷静に考える時間を与えてはいけないのである。そのためレネは素早く契約書を渡し、ノバルト達は明るい未来を妄想しながら喜んで記入した。

「それでは私も手伝いますので、休日は迷宮探索をたくさん頑張りましょう」

「よろしくお願いします!」

 記入された契約書を素早く回収し、レネは当然のように休日返上を自主的に約束させた。後は頃合いを見て金策作戦を実行すれば良いだけである。こうしてレネは杜人の指導を受けて、なんとか難所を乗り切ったのだった。




 そして指導が終わった後に契約書を届けて発注をすぐに行った。全てが終わってからの夕日に照らされている帰り道、レネは伸びる影を見つめながら小さくため息をついた。

「気楽に生きたいよ」

『そうだなぁ。今日は頑張ったからおやつを増量しよう』

 単なる愚痴であるが、普段であれば思うことすらしないことなので、慣れないことをして精神が疲労しているとよく分かる一言であった。そのため杜人は何も言わずに同意した。

「えへへ、ありがと」

『なに、たまにはな』

 少し前にもあったとは言わない。それはそれ、これはこれである。笑顔になったレネを見ながら、杜人もよく頑張ったと微笑んだのだった。
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