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黒姫の魔導書 作者:てんてん

第4章 似たもの同士の大行進

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第11話 急を要す出来事

 杜人の朝は早い。眠る必要が無いので夜は魔導書内で研究や開発を行い、まだ薄暗い早朝に外へ出てくる。そして座卓の上にて日課の体操を行う。

『今日も元気で快調、快調』

 本体が魔導書なので体操しても意味は無いのだが、杜人は気にしない。気にするような性格ではないのだ。体操が終わったところで行儀良く正座をし、レネの目覚めを待つ。

 最近のレネはジンレイの日本風屋敷に寝泊りしているので布団で寝ている。レネいわく、慣れたので朝までぐっすりだそうだが、眠れないときがいつあったと聞かないであげるのが杜人の優しさである。ちなみにシャンティナは隣室で眠っているので、居るのはレネだけだ。

 屋敷内部の時間は外と連動しているので、しばらくすると柔らかな日差しが差し込んで部屋内が明るくなる。そうすると布団が動き出し、寝巻き姿のレネが寝ぼけ眼で這い出てくる。

『おはよう』

「うん……、おはよう……」

 這い出てきたレネに、杜人ははっきりとした声で挨拶をする。レネも返事をするが、この時点で目が覚めていたことは一度も無い。とにかく寝起きが悪いのである。だが杜人は気にしない。挨拶をきちんと行い、返事があることが大切なのである。レネが杜人の存在を認識したという事実があれば良いのだ。形式をないがしろにしてはいけないと杜人は思っている。

 起きてきたレネはいつも通り、寝ぼけたままのろのろとした動作で寝巻きのボタンを外して着替え始める。やがて朝日に照らされて白い肌が露わになると、朝日に照らされたつややかな黒髪との対比に『実に良い』と頷きながら、杜人は拍手を打ってにこにこと拝む。これもいつも通りである。

『今日は天気が良さそうだぞ』

「そうだ……ね」

 この時点でようやく目が覚めたレネは、ぎこちない動作で座卓に顔を向け、正座して満面の笑みを浮かべている杜人と目を合わせる。

『どうした? 着替えな……』

「ば、ばかぁー!」

 首を傾げて尋ねている最中に、瞬時に構築された対杜人専用魔法が放たれ、室内は一瞬青白い光に満たされる。光が収まったときには、座卓の上に透明な結晶で固められた笑顔の杜人が製作されていた。最近は霊気系放出魔法の腕前も上がっているため、直接攻撃の割合は減っている。

 こんな状態ではあるが、痛みはほとんどない。何度も繰り返したので、その辺りの調整はもはや神業の域である。

 やがて効果時間が過ぎて結晶から解放された杜人は、ぽてりと座卓に横たわる。たいして痛くないので、もちろんわざとである。レネはといえば、固まっているうちに見えない位置に移動して着替えを済ませていた。

「おはようございます」

「おはよう。調子はどう?」

 そうこうしているうちに制服に着替えたシャンティナも部屋に入ってくる。正確には装備したが正しいが、レネも杜人も細かいことは気にしない。そしてシャンティナは寝るときには脱ぐだけで着替えないので、一緒の部屋で眠らないのだ。

 レネは杜人を放置してシャンティナの身体に異常が無いか確かめる。しなくてももう大丈夫なのだが、念のための確認である。それを見ながら杜人はのっそりと起き上がり、小さく微笑む。

『まったく、困ったものだ……』

 レネは何も言わないが、杜人の居ない部屋では眠ろうとしない。だからこの光景がいつもの朝であった。





 レネは指導教官を行う傍ら、迷宮探索もきちんと行っている。そして今日は初めて第四十階層に到達していた。手にはいつもの彗星の杖を持っている。周囲には探索者の姿がちらほら見られ、視線も感じるが無視である。そして本日は教え子達が動けないので、自習という名の臨時休暇にしている。そのため夜まで居るつもりであった。

『おおー、見渡す限りの荒野か』

「ここが開放型の階層だよ。これ以降こういう階層が増えるからね」

 目の前には黒みがかった硬そうな地面があり、そこに岩山や丘が存在していた。空にはきちんと太陽が輝いているので、空の穴からのびる通路と入り口にある巨大水晶がなければ外と勘違いしそうであった。

 物珍しそうに周囲を見渡す杜人とは異なり、レネは初めてなのに落ち着いたものである。これは詳細な資料が揃っているため、脳内で景色を構築していたからだ。シャンティナはいつも通り無口だが、リボンがぱたぱたと動いているので内面は杜人と変わらないと分かる。

「ここは真銀の産地なんだよ。だから探索者も多いんだ。大抵は活動できる時間いっぱいまで使って帰るけれど、中には泊まりがけの人もいるみたいだよ」

 一応第三十階層到達で一人前扱いだが、ここまで来ないと本当の意味で一人前とは言えない。なぜならば、ここから国を支える素材の採取が始まるからである。

『なるほど。ここは泊まりがけで踏破するのか?』

 今までの階層は朝から夕方まで歩けば余裕で踏破できる距離に次の階層への入り口があった。だが、この階層は見渡す限りの荒野である。辿り着ける距離にあるようには見えない。

「んー、そうする人も居るけれど、ほとんどはここまで一度来て、帰って馬を連れてくるみたいだよ。魔法具の費用を考えると、そのほうが良いんだって。それにここの魔物は移動速度が遅いから、逃げるだけなら余裕なんだよ」

 本からの情報だが、対処方法は変わっていない。杜人は馬を連れて大丈夫なのかと思っていたが、それなりに考えられているのだなと感心した。

『ではさっそく行ってみようか』

「うん、出発進行!」

「おー」

 レネは笑顔でいつも通りの掛け声を上げ、楽しそうに歩き始める。それを周囲の探索者達は、少し頭の中身が可哀想なものを見る目で見つめていた。




 そしてすぐに第一魔物と遭遇する。それは白珠粘液と似た、黒珠粘液である。個体としての違いは一回り大きな黒光りする身体と、酸性の体液を吐きかけてくるだけである。しかし、状況に関しては大きな違いがあった。

『さすがに集まり過ぎだろう……』

「みんな放置するからね……」

「ぷよんぷよん」

 少し呆れた声の杜人に、レネも賛成する。嬉しそうなのはシャンティナのみである。

 杜人の視線の先には黒珠粘液の集団がうごめいている。その数、約二十体。それが身体を震わせて近づいてきているのだ。正直に言って、見たくない光景である。そのためレネは彗星の杖を向けると、迷うことなく魔法を放った。

「炸裂氷結槍」

 放たれた三条の光が集団に吸い込まれ、次の瞬間に爆音と氷の華が咲き乱れた。黒珠粘液は柔らかいので、固まっていれば数が居ようと一撃で終わりである。そこに杜人がタマを動かして魔石を回収した。

『これは放置しても困らないのか?』

「動きが遅いから簡単に逃げられるし、大きいから見逃すことはまずないからね。粘液を採取するなら白珠で十分だから……」

 倒しても利益が無いので完全放置なのである。粘液生物を愛する杜人にとっては涙ものの理由であった。

『くっ、いつかみておれ。必ずや目にものをみせてやろうぞ』

「……頑張って」

 憤る杜人にレネは乾いた笑みを浮かべると、次の獲物を探し始めた。この辺りの対処はもはや慣れたものである。

 そんなことをしながら進んでいくが、出会うのは黒珠粘液のみで探索者すら見かけない。これはおかしいとレネと杜人は首を傾げる。

『魔物はともかく、探索者はどこに行ったのだろうな』

「入り口には居たのにね」

 レネは記憶から情報を呼び出して、現在の状況と似た出来事がないかを検索した。そして発見するとなるほどと頷いた。

「これ、たぶんどこかで泥大亀の大量発生か集団移動が起こっているんだと思う。だからみんなそっちに行っているんじゃないかな」

 泥大亀は、大人が三人手を回しても余るくらいの甲羅をもつ陸亀である。高さもレネの倍はあるため取れる素材も多く、一体狩ればその日の狩りは終わりとなる。特徴として周囲の地面を浅い泥沼のように変えてしまう能力を持っていて、泥沼に居る間は傷ついてもそのうち回復してしまう。倒すのには工夫がいる魔物であった。

 奇妙な性質だが、気にするのは学者の仕事である。だから探索者は誰も気にしない。気にするのは泥状の地面では戦いにくいということである。そのため本来ならば魔法使いが重宝され、単独で来たならば見逃されるはずがない階層なのだ。

『ほう、ということはお祭り騒ぎが起きているのか。……まあ、仕方ないか』

 魔法使いなのに入り口で声を掛けられなかったため、戦力外とみなされたか取り分を減らさないように黙っていたのだろうと推測した。実際は頭が足りない子と思われたために敬遠されたのだが、幸いレネ達は気が付いていない。

 ちなみにレネの姿形は広まっているが、頼りない見た目と二人組であったことで、知っている者達も無意識に除外していた。噂が独り歩きしているので、特徴的な星天の杖を持っていなければ中々判別できないのである。

「交流もないからね。仕方ないから私達ははぐれを狩ろう。モリヒト、乗せて」

 レネは特に気にせずに方針を決めた。出てこないのであれば、歩いて探すには広すぎる。そのためタマに乗って広域を探索することにしたのだ。

『そうだな。……では行こうか』

「行け行けぇ! あはははは!」

 白狼型になったタマにレネとシャンティナを乗せ、速度を上げて疾走する。レネはもはや慣れたもので、実に楽しそうである。そして走り回りながら黒珠粘液の殺戮を繰り返し、ようやく一体の泥大亀と出会うことができた。

『大きいな。何が弱点なんだ?』

 泥大亀の周囲は泥沼になっているので、槍でも届かない。そして甲羅はうっすらと銀色の光を反射している。これは真銀を含んでいるため魔法の効きがとても悪く、首や手足も細かい銀色の鱗と厚い皮膚に覆われているため生半可な武器では歯が立ちそうにない。

「火だよ。火系の上級魔法以上を使えれば簡単に倒せるんだって。その代わりその部分の素材が劣化するから取り分が減るけれど、そこは腕のみせどころみたいだよ。土系や風系は無効化されるし、水は半減されるね。氷系は威力が足りないみたい。光と雷系は反射されるね」

 解説するレネは実に生き生きとしている。

「という訳で、実験。……氷結檻」

 レネはにこやかに魔法を構築すると、氷系上級範囲魔法の氷結檻を泥大亀に対して放つ。すると泥大亀を中心とした地面に三重の魔法陣が現れ、泥大亀の表面を氷が覆っていく。泥大亀は逃げようともがくが、既に泥沼が凍り付いているので身動きが取れなくなっている。

『ほう、凄いな。これでは駄目なのか?』

「普通はね。だから実験なの。……氷結檻」

 レネは続けざまに氷結檻を放った。こちらも同じように地面に魔法陣が現れ、身動きできない泥大亀は更に厚く凍り付いていく。そしてその後も更に追加し、効果時間が過ぎた後には元通りになった地面と絶命して力なく首を横たえた泥大亀のみが残されることになった。

 そしてそれをいつも通りジンレイの領域に放り込む。後はジンレイが素材ごとに分けてくれるのだ。一家にひとりは伊達ではない。

 レネは回数を数えて結果を記録している。これを使って後で改良を行うのである。ちなみに泥大亀は死ぬと地面が元に戻るので、それを見れば倒せたか分かる。

「四回だね。つまり、連続十二回かな?」

『確かに効率が悪いが、俺達にしてみれば楽だな。他の魔法使いではそれだけの魔力を一度に使えないだろうから、広めるなら要改善だな』

 彗星の杖は一度に二つ魔法を複製し都合三つ魔法を発動できるが、消費魔力は約六倍になる。今回の方法は効果時間が切れる前に追加して相乗効果を持たせないと回復されてしまうので、休みながらは駄目なのだ。そしてレネの魔法は消費魔力が低いので、他の魔法使いはレネが連続十二回行った以上の魔力を必要とする。不可能では無いが、無駄が多くて使えない方法であった。

「これなら素材は劣化しないんだけどね。特に血は滋養強壮の薬として珍重されているんだよ。おいしいのかなぁ」

 レネは味を想像して嬉しそうに笑う。それを聞いた杜人は真面目な表情である。

『間違っても、男の前でそんなことは言わないようにな』

「え、どうして?」

 分かっていないレネは不思議そうに首を傾げる。予想通りの表情に、杜人は真面目に頷いた。

『滋養強壮、言い換えると精力増強。男が飲むと夜に大活躍するための薬にもなるんだよ。女が男に話題を振れば、要するに今夜どうですかという隠語になる』

「んー? ……あ! あうぅ……」

 分からなかったレネは言われた単語と言葉を検索し、ようやく答えに辿り着いた。そして耳の先まで真っ赤になって恥ずかしそうに俯いた。一緒に聞いていたシャンティナはもちろん分かっていない。それを見ている杜人はにやつきながらレネの前に浮かぶ。

『分かってもらえてなによりだ。意外とこういうのは多いから気をつけろよ? ……ああ、使うなとは言わないから安心してくれ』

「うぅ、ばかぁ……」

 杜人のからかいにも不意打ちだったため反撃する余力がなかった。そんなレネを愛でながら、杜人はタマを軽快に走らせたのだった。




 その後も休憩を挟みながら狩りを続け、今は太陽が沈みかけて夜の帳が空を覆いかけていた。そのためそろそろ帰ろうかと思った頃に、我先にと逃げてくる探索者の集団に出会った。最初の集団は馬などで駆け抜けていき、その後ろに徒歩の集団が続いていた。全員が必死の表情である。

『何だ?』

「群れの誘い込みに失敗したのかな? あの! どうしたのですか!」

「主が出たんだ! 早く逃げろ!」

 レネの大声に近くにいた探索者は手短に答え、そのまま走り去った。その他もレネを放置して逃げている。レネはタマに乗っているので、普通に走るだけで大丈夫と思われているのだ。

『主とは何だ?』

「大広間の罠のときに大きな個体がいたでしょ? あれのことだよ。こういう開放型の階層には極稀に単独で発生して暴れるんだって。何もしなければ三日程度で消えるから、その間はその階層に誰も近寄らなくなるらしいよ」

 レネの解説に杜人は頷くと、逃げてきた方向を見る。まだ逃げてくる探索者がいるが、小高い丘になっているので見通せなかった。そのためレネと杜人は無言で頷くと、丘の上まで駆け上がって見下ろした。

「うわぁ、大きい……」

『山だな。これは』

 そこには通常の泥大亀の五倍はある巨大な泥大亀が、泥沼を掻き分けながら逃げる者達を追いかけているところだった。動きそのものは速くないのだが、とにかく大きいので普通の泥大亀より移動速度がずっと速い。そのため最後尾はもう少しで泥沼の領域に追いつかれそうになっていた。

「……ねぇ」

『うむ。了解だ』

 杜人は星天の杖を取り出してレネに渡す。レネは彗星の杖と交換し、取り出した魔法薬を一気に飲み込んだ。

「たぶん特級なら一回で大丈夫なはず。駄目なときは逃げる。それで良い?」

 星天の杖を使っても、特級魔法なら一回は魔法を発動できることは分かっている。但し、二回できるかは分からない。だから駄目な場合は逃げる。時間稼ぎにはなるから一回だけでも後続は逃げられるはずと計算した。杜人もできるという計算結果をはじき出し、承認した。

『良いだろう。シャンティナ、先制して足を止めてくれ。その後すぐに離脱して戻ってくること。一撃で十分だから無理はしないように』

「はい」

 シャンティナは軽やかに飛び降りると、大地を抉り取る音を響かせながら突撃を開始した。

『行くぞ』

「うん!」

 杜人とレネも、遅れないように魔法の有効範囲内まで移動を開始した。





 今回の大量発生は久しぶりのことだったので、探索者達は連絡を取り合って即座に狩りに出かけていった。そして協力して行われた狩も順調に進み、切り分けた群れを始末し終えて今日は良い日だと思っていたとき、少し離れた場所に主が突然現れたのである。

 その後の行動は二つに分かれる。ひとつは少人数だが素材を少しでも持っていこうとした者達。彼らは逃げ遅れ、主の領域に飲まれ姿を消すことになった。

 もうひとつが荷物を捨てて即座に逃げ出した者達だ。彼らは主に立ち向かうことの無謀さをよく知っている。だから今日の収穫や財産を捨ててでも、逃げることを選択した。そのため長い時間逃げることができたのである。

「も、もう駄目……」

「馬鹿野郎! もう少しだから頑張りやがれ!」

 その集団のリーダーは最後尾で弱気になる仲間を叱咤しながら逃げているが、本当にそうだとは思っていない。なんといっても逃げるには小高い丘を登らねばならず、そんなことをすれば遅くなって追いつかれるのが分かりきっていたからだ。だからせめて足止めでもと思ったとき、それは視線の先にある丘の頂上から、黒い土煙を上げながら轟音と共にやってきた。

「んなっ!?」

「瞬転」

 暗くなり始めていたのでよく分からなかったが、一瞬のすれ違いのときに魔法学院の制服を着ていたように思えた。そしてそれは目にも止まらぬ速度で横を駆け抜け、すぐ後に硬いもの同士がぶつかった音が周囲に鳴り響いた。

「な、なにが」

「良いから走……れ?」

 立ち止まって振り返りそうになるのを堪えて正面を見ると、そこには白い狼の上に学院の制服を着た小柄な黒髪の少女がいて、大きな結晶体がはまった杖をかざしながら、無数の魔法陣を展開している光景が目に飛び込んできた。

 そのためもう暗いはずの周囲は魔法陣が放つ青白い光に照らされて、昼間のように明るくなっている。そして風に乗って少女の声が聞こえた。

「氷域嵐舞!」

 その声と共に展開していた魔法陣は消滅し、今度は後ろから眩い光が放たれる。同時に強烈な冷気と共に大気が動き始める感覚を得た。そしてリーダーは、幸いにもその不思議な感覚を知っていた。

「お前ら全力で逃げろ! 特級魔法に巻き込まれるぞ!」

 遅れているひとりの腕を掴み、残りの体力を全てつぎ込んで全力疾走を行う。いつの間にかその脇で黒髪の少女が両手に二人ほど引きずりながら走っていたが、今は驚く暇もない。後方では氷雪が渦巻く音が轟いていて、吐き出される息は真っ白になっている。

 すでに体力は限界であったが、それでも足を止めたら死ぬと気合いだけで走り続ける。そしてようやく白狼の居る場所まで辿り着くと、さすがに力尽きてへたり込んでしまった。

 そこに明かりが灯され、影が地面に映りこむ。

「怪我はありませんか?」

「あ、ああ……」

 上からの声に掠れた声で応えるが、頭を上げることができるまでには回復していない。それを見た少女は申し訳なさそうな声で謝った。

「ごめんなさい。特級魔法は使い慣れていないので、範囲設定が甘くなってしまいました」

「……いや、助かったからそれは良い。どのみち、あのままなら死んでいたからな」

 ようやく顔を上げ、恩人の少女を見つめる。そして後ろを振り向くと主が氷漬けになっており、端のほうから氷が霧散していくところだった。その信じられない光景に、噂は本当だったと納得した。

「ええと、あれは私が運んでおきます。ただ、分配方法が分からないので、話し合ってから大通りのダイル商会まで代表者が来てください」

 よろしくお願いしますといって、学院の制服を着た少女達はもう動かない主の下へ走っていく。そして主の巨体を地面に沈め、そのまま丘の向こうに走り去っていった。それを無言で見つめていたリーダーは、しばらくしてから心の底から出てきた衝動に突き動かされて大声で笑った。

「あのう?」

「お前ら憶えておけ。あれが殲滅の黒姫だ。俺達が束になっても敵わない主を、一撃で倒す力を持つ大魔法使いだ。恩を仇で返す真似はするなよ」

 そういって静かに丘を登り始めた。





『危ないところだったな』

「うん。やっぱり練習しないと、厳密な範囲は分からないね」

 急いで迷宮を出たレネは、主をダイル商会に預けてから家に帰ってきた。話を聞いたダイルはいつもの笑顔で代理を快く引き受けてくれた。

 後始末をダイルに任せた格好になったが、取り分は減ってもレネがやるより上手に交渉してくれるはずである。レネの希望は魔力結晶と言っておいたが、無ければないでも構わないとも言ってある。

 本日の反省は、特級魔法の効果範囲を見誤って、危なく最後尾の人を巻き込みかけたことである。無事だったから良かったものの、放置はできない課題となった。

『仕方が無いから、これからは帰り間際に練習しよう。それとも特級用で妥協して魔法書を作ってもらうか?』

「うー。けれど、使ったらもうお金を貯められる自信が無い……」

 現在もこつこつと貯めているが、天級用の魔法書を作る金額には到底足りない。貯まる前に素材を採取できる階層に到達するほうが早いかもしれない。もちろん特級用も笑いだしそうな金額である。

 現状では特級魔法を使う場合、星天の杖を使わなければならないが、午後には指導教官としての業務があるので使いすぎて倒れる訳にはいかないのだ。そして毎回魔法薬のお世話になったら、貯金がどんどん消えていく。実に悩ましい問題であった。

 レネは畳に寝転がると、額に腕を当ててため息をついた。

「私もまだまだだなぁ……」

『それが分かれば大丈夫だ。慢心しなければ人はいつまでも成長するものだからな。それに今回は助けることができたのだから、まずはそれを喜ぼう』

 杜人が笑顔で指を鳴らすと待っていましたとばかりにジンレイが現れ、レネの前に新作のチョコレートプリンを置く。平皿に盛られて上に生クリームが乗せられているプリンは、震えながら輝いていた。

「どうぞ。今回は甘さを控えめにしています」

「わーい」

 レネは瞬時に身を起こし、幸せそうな笑顔で食べ始める。それを見ながら杜人は、ゆっくりと幸せをかみしめてくれと重々しく頷いた。

 そのうち主を一撃で倒した情報が広まるのは確実であり、それがどのようなものであれ『殲滅の黒姫』の名が高まるものであることは簡単に予想できる。もちろん杜人はそれに対して何かをするつもりはない。

『自分で選んだのだから、今回はさすがに大丈夫だろう。……たぶん』

「念のため慰める準備だけはしておきます」

 こっそりと話される内容を知ることなく、レネは幸せそうにプリンを味わっていた。




 次の日、レネは急用のため指導を休んだ。そのため武勇伝を聞こうとしていたノバルト達は肩を落とすことになった。主の出現は全体の脅威のため、情報の拡散が恐ろしく速いのである。

 そうして休んだ翌日。レネは笑顔で出て来て質問に答え、ノバルト達は感心しながらそのときの様子を聞いていた。

『まあ、悪評ではないから気にするな。なかなか上手な受け答えだったぞ』

「ありがと。……普通のことをしているだけなのになぁ」

 前日に涙目で受け答えの練習を行い大惨事を免れたレネだったが、しばらくはため息が友達になりそうであった。
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