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黒姫の魔導書 作者:てんてん

第2章 表と裏は未確定

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第04話 見知らぬ扉に在りしもの

 ダイル商会を後にしたレネは、いつも通り迷宮に向かう。試験はまだ先のことなので通う必要はないのだが、今のうちから少しずつ魔導書の力を回復させるために続けるつもりであった。

 現在レネが居る場所は第七階層である。第六階層までは出現数が増えるだけで魔物は変わらないので、炸裂氷針を使いこなせるようになったレネは簡単に到達することができた。

 そしてここからは大広間で出現した灰色狼の領域となり、他の探索者も見かけるようになる。毛皮が良い値段で売れるのだ。但し、レネは炸裂氷針を主に使っているので素材は諦めている。

「とりあえず、今日は貰った杖の性能を確認しよう」

『そうだな。いきなりで不具合が出るとまずいからな』

 杜人は彗星の杖を複製してレネに渡す。ついでにタマを白珠形態で召喚しておく。

「こっちを使うの?」

 意外そうなレネに杜人は安心させるように笑いながら頷く。

『今の魔力供給量なら問題無い。レネは一度に使える魔力量が小さいだけで、総魔力量は多いから連発しない限り大丈夫だ。連発は三回まで大丈夫だが、二回までで始末するように頑張ってくれ』

 初級魔法六回分を一気に使っても、六回発動するだけの時間が経過すれば回復する。考えて使えば十分運用可能なのだ。

「一回は緊急用だね。分かった。初めは一回だけだったからまだ楽かな。……それじゃあ、出発!」

『おー!』

 当初は一回撃つだけで逃げなければならないときもあった。それに比べれば実質六倍である。魔物が出現する数も増えているが、杜人が操作しているタマもいるので安心感はまるで違う。

 そんなわけで、レネと杜人は元気よく迷宮の奥へと歩いて行ったのだった。





 しばらく警戒しながら歩いていると、前方に四体の灰色狼がうろついているのを発見した。向こうも同時に気付いたようで、一斉にレネに向かって走り始めたところだった。

「……炸裂氷針」

 慌てることなく構築した魔法陣が彗星の杖にて複製され、三つの魔法陣が並んで輝きを放つ。そして迷うことなく魔力を注ぎ込んで発動させると、三条の軌跡を描いて外れること無くそれぞれの獲物に吸い込まれていき、一瞬後に炸裂して血濡れの惨状を周囲にばら撒く。

 そして残った一体は素早く近づいたタマが捕食し、危なげなく最初の戦闘は終了した。しばらくすると散らばったものは溶けるように消え去り、魔石のみが床に転がっていた。

『良い感じだ。これなら七体までは安心して戦えるな』

「そうだね。魔法書で連射するより早いし、個別制御が簡単になってるから凄く便利。確かにこれなら欲しくなるよ」

 レネは感心しながら彗星の杖を眺める。星天の杖の弱点である個別制御不可の部分をきちんと修正している辺り、この杖に対する本気具合が垣間見える。杜人が言った通り、片手間でできるものではないと納得した。

『お褒め頂き光栄の至り。その部分は俺が改良しているんだ。元のままだと時間がかかるから、星天の杖を改良して得た技術を使ったのさ。その分消費魔力は増えるが、遅れて死ぬはめになるよりは良いだろう?』

 杜人はタマを操作して魔石を回収しながら上機嫌に一礼する。そしてどうだと言わんばかりに胸を張って説明をした。

「へえー、そうなんだ。後で教えてもらえるかな?」

 そんな杜人の行動を一切気にせず、レネは未知の技術を前にきらきらと光る瞳で杜人を見る。見つめられた杜人は少しだけ引きつり気味に笑うと目をそらしてしまった。

『魔導書の理論を応用しているからレネ単独では難しいかもしれない。だから気にするな』

 嘘ではないが、本当でもない。レネは興味を持ったものには寝食を忘れて没頭する癖があり、短い間に触ると危険だと分かるくらい酷い目にあっているのだ。凡人としては巻き込まれるのは御免である。

「ふうん……、まあ良いや」

『う、うむ』

 仕方が無いから勘弁してあげようという感じでレネは鷹揚に頷いた。普段は杜人にやりこめられている分、反撃できてとても気分が良いのだ。それにもう聞かないとは言っていない。こうして墓穴を掘った杜人は、後日大変な目に遭うことが決定してしまったのだった。




 そんなことをしながらも順調に道を進み、中ほどにある大きめの部屋に入った。ここは通路の合流地点で、十字路のようになっているところだった。

「ん? 誰か来る……、灰色狼の鳴き声も聞こえるから逃げているのかな?」

『そういう場合は助けるものなのか?』

 レネは左側の通路から近づいてくる音に耳を澄ませている。左側は通路がすぐ曲がっているので確認はできないが、そんなに遠くないことは分かった。

「一応乞われるまでは手出し無用とはなっているけれど……。このままだとどのみち巻き込まれるよね。逃げられるか分からないから、共闘する準備だけはしておくつもりだよ」

『それが良いだろうな。魔法使いが準備していると分かれば、一緒に始末しようと思うだろう』

 知識だけ知っているレネと知識すらない杜人は己の常識によって助ける判断を下し、魔法陣を構築しながら相手が来るのを待った。やがて走りながら飛び込んできた者は、革の鎧を着込んだ若い男女二人だった。二人とも必死の形相である。

『近接職二人だけでこの階層は無謀と思うのだが……』

「来られないわけじゃないよ。こっちにぃ!?」

 飛び込んで来たときにレネが構築している魔法陣を見た男は、ためらわずに懐から煙玉を取り出して床に叩きつけ、そのまま女を連れて本人達の左側の通路に走り去って行った。その予想外の行動に、レネは呼びかけの途中で固まってしまい、魔法陣も霧散してしまった。

 そこに灰色狼の集団が飛び込んできた。灰色狼は煙幕の臭いに顔を背け、煙の無い場所に居たレネを見つけた。当然狙いはレネに変更され、一斉に走り寄ってきた。その数、十八体。

『無理だ逃げろー!?』

「うわわわわぁぁー!?」

 三連射しても最大で九体しか倒せず、その後はしばらく無防備になる。そのため杜人はすぐさま戦闘は無理と判断した。

 杜人の大声で我に返ったレネは、踵を返すと全速力で逃走を開始した。それを追いかける灰色狼の集団。タマの特攻によって多少の時間は稼げたが、いかにレネの逃げ足が速くても永遠に逃げ切れるものではない。

「わあぁーん、信じられないよぉ!」

『とにかく逃げろー!』

 レネが逃げているうちに杜人は後ろに魔法を放って何体か倒している。しかし、一向に数が減らないことにいぶかしんで集団をよく見てみると、集団の後ろに魔法陣が浮かんだかと思うと灰色狼が飛び出してきていた。そして数えた結果、いつの間にか集団の数が二十四体まで増えていた。

『増えてるぞおい!?』

「もういやー!!」

 もはや来た道など関係無しにレネは逃げ続ける。まだ罠が無い階層だから無事だが、そうでなければ確実に何個か引っかかっているくらい逃げ続けた。そしてもう少しで追いつかれそうになったときに、大きな金属製の両扉がレネの目に飛び込んできた。扉は片方が通路側に半分ほど空いていている。

「あ、あそこ!」

『良し、行け!』

 杜人は後方にありったけの炸裂氷針を放って最後の時間稼ぎを行った。その間にレネは扉にぶつかるようにして中に逃げ込むとすぐさま扉を閉める。後は開かないように押さえるだけで精一杯だった。しかし、予想していた衝撃も、ぶつかる音も聞こえなかった。

「……あれ? 体当たりされると思ったんだけどな」

『迷宮の決まりか何かではないのか?』

 不思議そうにしているレネに杜人が質問する。それに対してはレネ達の背後から落ち着いた声が答えた。

「この場所に外敵は決して侵入できませんのでご安心ください。そしてお帰りなさいませ旦那様、お嬢様」

『は?』

「はい?」

 思いがけない声に驚いて振り向くと、そこには落ち着いた色合いの服を着た初老の男性が一礼しながら佇んでいた。杜人の第一印象は、お話などに出てくる家令である。着ているものも似ているし、何よりへりくだり方がそれっぽかった。

「お、お嬢様?」

『と言うことは、旦那様は俺か。……見えているのか』

 部屋の中をよく見てみると、どこかにある豪邸の玄関と言われてもおかしくない作りをしていた。床には絨毯が敷かれ、壁には質素な絵が飾られていて、天井には煌くシャンデリアが吊り下がっていた。そして杜人を認識していることから、この場所が普通ではないと悟らせるのには十分だった。

「お疲れでしょうからお部屋でお寛ぎください。こちらへどうぞ」

『……分かった。行くぞ』

「え、う、うん……」

 杜人はなんにしても休憩は必要と判断しておとなしく従うことにした。レネは戸惑っていたが、杜人が慌てていないので幾分安心し、老家令の後を静かに付いていった。




 案内された部屋は大きめの客室で、隣室には寝台もあった。ここでレネは高級そうなソファに埋もれながら、落ち着かない様子で辺りを見回していた。レネの目にはあるものすべてが高級品に見え、壊したら大変だととても落ち着けなかった。

 杜人はというとテーブルの上であぐらをかいて、顎に手を当てて考え事をしていた。テーブルの上には水とお菓子が置いてあるが、食べないようにと杜人が指示を出している。

『レネ、読んだ本の中に似たような言い伝えや物語、報告は無かったか? 迷宮の扉の向こうに豪邸があった類の話だが』

「う? ……あるよ。『彷徨う扉』の話」

 呼びかけられて杜人に視線を向けたレネは、しばらく唇に指を当てて考えていたが、やがてひとつの物語を記憶から探し当てた。

「迷宮では確かにそれまで無かった扉が出現するときがある。それが彷徨う扉。中には煌びやかな屋敷があり、ひとりの老人がそこを守っている。老人は来訪者を主人としてもてなすが、帰ろうとすると豹変して襲い掛かってくる。帰る方法は唯一つ、老人を殺すこと。そうすれば閉ざされた扉は崩れ去り、外に出ることができるようになるだろう……だって。けどこれは別の迷宮の話だよ?」

 レネの話を聞いた杜人は肩を竦めると頭をかいた。

『だが見事に当てはまっている。そう考えたほうが無難だ。そしてな、この屋敷はすべて一つのものだ。あの老人も含めてな』

 杜人は見ただけである程度の判定を行える。そしていくつかの品を取りこもうとしたところで、周囲すべてが同じ存在だと分かったのだ。

 真剣な杜人の表情を見て、レネは唾を飲み込んだ。

「じゃあ……、あの人は……お化け?」

 身体を震わせて怯えを見せるレネに、杜人は笑顔で手を振った。

『違う。どちらかと言えば俺と同じような存在だろう。俺は魔導書で、あっちは迷宮に出没する魔物だ。違いはそれだけだ。決して理不尽な存在ではない。だから安心しろ。だいたい、レネはもう攻撃手段を持っているだろうが。あんなことをされれば、痛みに慣れていないお化けは驚いて逃げ出すぞ?』

 杜人は指を弾く動作をしながら片目を瞑って微笑む。それでやっとレネは安心することができた。

『話を戻すぞ。帰る方法は示されている。だがそれは俺達には無理だ。あの老人に勝つにはこの屋敷をすべて破壊できるだけの力がいるかもしれないからな。別の手を考えよう』

「封印を解放しても無理?」

 レネの小声の質問に、杜人はゆっくりと首を横に振る。

『壊しきる前に魔力か解放時間が無くなる。あれをあまり過信するな。瞬間的な攻撃力は増大するが、持続力はまだまだだ。第一章が完全に修復されれば常時解放が可能だが、今はまだ使い所を誤れば死ぬと思ってくれ』

「そう、なんだ……」

 窮地をそれで脱出したのでそれなりに頼りにしていたレネは、杜人の警告に肩を落とした。杜人はその様子にやはり過信していたなと小さくため息をつく。完全版ならともかく、現状はざるに水を入れているような状態なのだ。無駄が多すぎてレネの負担も大きい。杜人としては、どうしようもない状況以外では使いたくないのが本音だ。

『それは置いておくとして、なんとなくいびつなのは分かったか? 旦那様と言いながら休む部屋に案内をし、辿り着いたのは客をもてなす部屋だ』

「そう言われれば……そうかも。他の伝承では、元は滅んだ国の貴族に仕えていた人物で、冤罪によって殺されそうになった主を守るために、攻め込んできた敵に対してひとりで扉の前に立ち塞がって死守していたんだって。けれど、そこ以外から入り込んだ敵によって屋敷は燃え落ち、呆然としたところを扉に縫い付けられて死んだんだって。他には主君に裏切られて捨て石にされたってのもあるよ」

 レネは記憶の中から類似情報を呼び出して話す。

「後は、なぜかその扉だけが無傷で燃え残って、不気味だからと迷宮に捨てたら彷徨う扉となって甦ったと言う伝承もあるよ。記録された年代はばらばらだから真偽は不明。はっきりとした年代の特定はどれもできないよ」

『ふむ? そんなに古いのか……。ここにあるものは特に古臭いとは思わないが』

 エルセリアの部屋に行ったときに寮の内部を観察したが、華美の差はあれどそんなに違うとは思えなかった。

「何度か倒されて甦ったり、主を何度か迎えるうちに何らかの方法で情報を得ていたりするのかもしれないよ。こういう現象は理不尽なものが多いから……」

 言外に考えるだけ無駄と言う意味を持たせてレネはため息をついた。知りたいことだが解明できそうにないので残念に思ったのだ。

『となると、ひとつのことに凝り固まっているわけではないかもしれないな。それなら少し試してみるか』

 もし伝承通りなら不変を求めても不思議ではない。だが実際は変化していると推測できる。それなら話が通じる可能性があるし、通じるなら説得も可能かもしれない。そこに希望を見出した杜人は、脱出のための作戦を練り始めた。そんな杜人をレネは黙って見つめている。

『レネ、ひとつ聞くが、魔物は嘘をつけないとか、約束を破れないとかの伝承は無いのか?』

「ううーん? ……似ているかどうか分からないけれど、魔物を使役するときは必ず名をつけるの。魔物は名前を持っていないけれど、名付けた者に対してだけは絶対に逆らわないんだって。問題は、言葉が通じない、理解できない魔物にどうやってそれを自分の名前と認識させるかなんだってさ。後は特にないかなぁ」

『いや、十分だ。さすが歩く図書館だ。頼りになる。これからも頼むぞ』

「そ、そうかな。えへへ」

 レネは顔をほんのり朱色に染めて照れ笑いをした。杜人はいつまでも素直なレネで居てくれと心の中で願いながら、また作戦の検討に戻っていく。

 やがて考えがまとまった杜人は顔を上げるとレネに笑いかけ、脱出の手順を説明し始めた。

『待たせたな。それでは作戦を伝える。といっても難しいことは何も無い。レネは無言で戦闘の覚悟だけしていてくれ。説得に失敗した場合は、最悪そのまま突入するからな。ま、最後の最後だからそんなに緊張しないでいてくれ』

「そう言われて緊張しない人は居ないと思うよ……」

 今から緊張し始めたレネに杜人は真剣な顔で声を掛ける。

『それもそうだな。……そうだ、重要なことを伝え忘れていた。それは、この作戦が抱える致命的な弱点だ』

「な、なに?」

 レネも高まる緊張を抑えながら続きを促す。両の手は握りしめられ、汗をかき始めていた。

『うむ。実はこれを実行すると、俺が今までどれだけレネをからかって遊んでいたかがばれてしまう可能性があるのだ。そしてもうからかえないかと思うと悲しくてなぁ』

「……」

 遠くを見つめる振りをしている杜人に対して、レネは殴りたくなった衝動をなんとか堪えた。これがそのからかって遊んでいるやつだと唱えながら深呼吸を行って冷静さを保つ。そんなレネに杜人は感心したように声を掛ける。

『ふっ、成長したな。エルセリアには、俺がレネを立派な女にしてやったと報告しておこう』

 にやりと笑った杜人を見て、レネは悪い予感に襲われた。そのためすかさず記憶を検索し、似たようなことを杜人が過去に言ったことがあると思い出した。ついでに女にしたの意味も記憶から引きだして知った。

 そのため一瞬で真っ赤になったレネは手の平いっぱいに広がった魔法陣を瞬時に構築すると、目にも止まらぬ速さで杜人目掛けて振りぬいた。

『ぎょぺっ!』

「ばか、ばか、ばかー!」

 杜人はのた打ち回りながら真っ赤になって怒るレネを観察し、これなら大丈夫だろうと安堵したのだった。



 レネの興奮が収まったところで作戦の詳細を確認しあい、二人はさっそく玄関まで移動してきていた。

「まったくもう……。もう少し他に緊張をほぐす手段を知らないの?」

『普通の手段ではまた緊張して終わりだろうが。文句は本番に弱い自分に言いなさい』

 まだ少し根に持っていたレネが愚痴をこぼすが、しれっと言い返されて悔しそうに拳を握りしめる。しかし、まったくその通りなので杜人に文句は言えない。そして今現在に至ってもさほど緊張していないのも事実なのだ。これで怒ったら単なる八つ当たりなので、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。

 落ち着いたところでレネは指示された通りに扉に手をかけ開けようとしたが、扉は揺らぎもしなかった。そんなレネに背後から声がかかった。

「外は危険です。どうぞ部屋にお戻りください」

 レネが振り向くと、いつの間には老家令が玄関広間の中央に佇んでいた。その表情は柔らかく、声音も慮っているように聞こえた。レネと杜人は目を合わせると無言で頷き、杜人がレネの前に進み出て主としての演技を始めた。

『そうだな、確かに外は危険だらけだ。だが俺にはお前が居るだろう。お前が付いて来てくれれば、危険などあるはずも無い。さあ、一緒に行こう』

 遂に始まった脱出作戦にレネは唾を飲み込んで、鞄にしまってある魔導書を静かに取り出した。

 この作戦の要点は、敵対する言葉を言うことなく相手から必要な言葉を引き出すことにある。いくら変わってきているとはいえ、大きな条件付けが簡単に変わるはずもない。レネから伝承を聞いた杜人はそこから条件を推測し、流れを組み立てた。

 開幕はまず連れ出せるかの確認だ。これでうまくいけば良し、駄目なら次の段階へと進む。会話の要点は、一緒に来いという点だ。良いから出せという命令も、大丈夫だから安心しろということも言ってはいけないと杜人は推測している。

「申し訳ありません。私はこの屋敷を守らねばならないのでどこにも行けないのです。どうかお戻りください」

 老家令は静かに頭を下げた。予想通りの答えに杜人は小さく頷く。

『そうだった。なら仕方がないな』

「はい。申し訳ありません」

 ここで矛盾を突いてはいけない。して良いのは肯定することのみである。ほっとしたような老家令に、杜人は次の話題を振る。

『しかし、この屋敷はいつ見ても綺麗だな。お前が自ら掃除しているのか? この広さでは大変ではないのか』

「ありがとうございます。主の住まいを整えるのも私の役目。おろそかにするわけには参りません」

 微笑を浮かべて答える老家令をよそに、杜人は必要な言葉が出てきたことにこっそりと笑みを浮かべる。『この屋敷は主の住まい』。ひとつ確定である。

『そうか、俺のためにそこまでしてくれるなんて嬉しいぞ。何か欲しいものは無いのか? 多少のものなら褒美として与えても良いのだが』

「いいえ、主様が居てくれるだけで十分でございます」

 これまた想定した通りの答えに杜人は笑みを浮かべた。これでふたつ確定である。旦那様と呼ばれていても杜人は客である。そして主の名を貶めないために客を歓待するのは当然のことだ。だから『俺のために』は否定されるものではない。二重に意味が重なった『俺のために』を肯定させ、自ら『主の住まい』と結びつけさせた。

 これで杜人が主を名乗っても問題は無い。老家令が抱えるゆがみ、仕えるべき主であるはずなのに客人として応対している部分を矛盾無く通り越すことが可能になったのだ。

 通常『主』と『旦那様』は同じような用途で用いられるが、厳密には違う。『旦那様』のほうは仕える主以外にも使うことがあるのだ。老家令は矛盾を抱えながら意識せずにそれを使い分けていた。だからその矛盾を無視できる迂回路を構築したのだ。

『まあそう言うな。よく仕えてくれているお前には感謝しているんだ。だから感謝の言葉を贈りたい。主たる俺からの贈り物を受け取ってもらえないだろうか』

 ここが一番の分岐点である。ここで断られた場合は、また迂遠な方法でここまで持ってこなければならない。さすがにそれは遠慮したいところだが、さすがに完全には予測できない。だからここからはうまく行くようにと願うしかない。黙って聞いているレネも、緊張した面持ちで返事を待っていた。

 老執事は迷っていたが、やがて静かに頭を下げた。

「ありがとうございます。長年お仕えしてきて、こんなに嬉しいことはありません。ありがたく頂戴致します」

 その言葉に杜人は無言で拳を握りしめ、レネもほっと息をはいた。これですべての条件は達成され、後は仕上げをするだけである。頭を下げたままの老家令に向けて、杜人は静かに言葉を紡いだ。

『長い間よく仕えてくれて感謝している。お前の忠義と信頼は誰もが認めるところだ。だから主たる俺からお前に新たな名前を贈ろう。お前はいつも人を思いやり、敬意を持って仕えてくれた。これからはそれを意味するジンレイと名乗るが良い!』

 杜人の力強い宣言と同時に、周囲が眩い光に包まれて視界が白く染まった。

「きゃ……、う、なにこれ」

 思わずレネは声をあげたが、すぐに小声になって呟く。杜人は目を細めたがその視線はたった今『ジンレイ』と名付けた老家令を見つめていた。

 ジンレイはありがとうございますと答え、頭を上げた。その目には涙が光り、更に強まった輝きに包まれながらその身を光の中に溶け込ませていった。

 そしてすべてを塗りつぶした光が消え去った後は、レネと杜人は行き止まりの小さな小部屋の中に立っていて、その中央に抱えるほど大きな結晶体が淡い光を放ちながら落ちているだけとなっていた。

『レネ、魔導書を前にかざしてくれ』

「目がよく見えないよぅ……」

 そう言いながらもレネは素直に前にかざす。すると魔導書から光の帯が飛び出し、透明な結晶体を包み込むとそのまま魔導書の中に取り込んでいった。

『良し、これで終了だ。回復したら帰ろうか』

「はあい。もう少し待って」

 杜人は慣れない演技で力が入っていた身体をほぐし、目をこすっているレネに微笑む。そして待っている間にタマを呼び出して警戒にあたった。

 こうしてレネと杜人は、伝承に生きる魔物の中から無事脱出に成功したのだった。
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