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こぼれる

作者: 渡辺律

「周防芹香を婚約者から外し、斉藤陽菜を婚約者とする」

 その一言がどれだけの威力を持つかなんて、知りもしないで。








「はぁ?んなわけないでしょーが。そんなこと本気で言ってんのなら、俺、辞職しますよ」

 半眼でこちらをにらむ秘書に、言葉が詰まる。口調こそ軽いけれど、辞職するとの言葉は本気なのだろう。辞められては困る、が。


「だがな、陽菜が厳しすぎると。嫌われてるんじゃないかと落ち込んでいるんだ。そりゃ、私情でお前たちが陽菜につらく当たっているとまでは思わんが…。でも、陽菜はこういうのに慣れていないし」

「慣れていないから大目に見ろ、と?」

「うっ、いや、もうちょっと優しく教えるとかだな、いろいろあるだろ?」

「そうですね、翔様がもうちょっと考えて発言していたのなら、ゆっくりやさしくお教えすることもできたと思いますよ?ですけど、わかってます?お披露目は二週間後に迫っているんです。あなたは芹香を婚約者から外したことを小さく見過ぎです」

「それは…もちろん俺にも非はあるだろうが。だが、高遠、お前が陽菜につらく当たるのは芹香がお前の従妹だからじゃないのか?」


 それは不用意に出していい言葉ではなかったはずだ。

 言った後で、まずい、とあわてたが後の祭り。三つ下の有能な側近である高遠はふっ、と呆れた笑い声を吐いた。


「確かに、私と芹香は従妹という間柄ではあります。しかし、芹香は周防家の人間です。それに対し、私は高遠の人間。それがどういう意味なのかあなたはきっと知らないでしょう。芹香は言わなかったでしょうから。しかし、あなたが今まで順調に進めてこれたさまざまなことの裏には芹香の尽力があったのをお忘れではありませんか?別に、芹香はあなたに感謝されるためにやっていたわけでもありませんし、知らなくてもいいことです。ですが」


 と、そこで高遠はどこか遠くを見た。


「芹香にはシンパともいえるような人間がたくさんいます。その芹香を追い出してあなたの婚約者になった陽菜様は少なくとも芹香と同等でなければ、この後辛い思いをなされるのは間違いなく陽菜様です。あなたの隣に立つということは芹香がこなしていたことをやっていただかなければならない、ということでもあるんです」

「しかし、できなくても俺の評判が落ちるだけでは?」

「あなたの評判が落ちようがどうしようが知ったこっちゃありませんがね」

 二人の言葉を遮るようにして会話に入ってきたのは、高遠の部下である石田だった。どこか飄々としたところがある男で、真面目な高遠とは正反対に見えるのだが、二人の仲は良かった。


「わかってないっすねぇ、旦那。芹香嬢が旦那の婚約者だったことはみーんな知ってますよ。でも今回の騒動はいってみれば旦那のわがままでしょ?芹香嬢には別に問題があったとかじゃなかったっすよね?」


 言い返したいのだが、本当のことなので言い返せない。そんな翔の心のうちがわかったのか、石田は苦々しい顔で続けた。


「旦那の婚約者になりたいっていう人間は多かった。でも醜い争いにならなかったのは、ひとえにそのポジションについたのが芹香嬢だったからです。そうじゃなかったら、旦那はもっと苦労してると思いますよ。なのに、今回のこれだ。だったら周りが新しい婚約者は芹香嬢より素晴らしいんだろ、という目で見ても仕方なくはないですか?」

「芹香の人脈を舐めない方がいい。今度のお披露目にくる人間の殆どが芹香の味方と思っていただきたい。ならば陽菜様がこれから快適に過ごされるためには、芹香以上の女性だと示す必要があるんです」

「ってことが家人にもわかってるから厳しくなっちまうだけですぜ、旦那」

 そばに控えていた側用人の志藤が小さく頷いていることからも、二人の話は本当なのだろう。

「だが…」

 それではあまりに陽菜がかわいそうではないか、と言いかけてやめた。そんな立場に陽菜を置いたのは間違いなく翔であったから。


 翔の沈黙をどう思ったのか、必要以上には口を開かない志藤が苦い面持ちで切り出した。

「翔様が陽菜様を大事に思っていらっしゃる気持ちはわたくしどもも十分承知しておりますし、そのことに否を唱える家人はおりません。しかし、わたくしどもにとって芹香様もまた大事な御方であったのです。翔様を非難するわけではありませんが、陽菜様を婚約者にするという宣言は家人にとっては青天の霹靂であり少し戸惑いがあるのです。ですから大目に見てはいただけないでしょうか」

「そうそ。どうしていいかちょっと俺らもわかんないとこがあるんだよ。それは芹香嬢がそんだけ努力してた、ってことでもあるんだぜ?」

「芹香が努力?」

「っそ。旦那の隣にふさわしくあるための努力ってやつ?芹香嬢は俺らにとっても理想の主だったんだよ。陽菜様が戸惑ってるのもわかるけど、陽菜様も努力してもらわなくっちゃ困るんだ」

「陽菜も努力はしてるだろう?そのためにマナーやら礼儀作法やらいろいろとやってるわけだし」

「うーん、そういう表面的なことじゃなくてさ」


 苦りきった顔で頭をがしがしとかく石田を見やって、高遠がつまり、と続けた。


「つまり、我々だとて最初から芹香を諸手を挙げて歓迎していたわけではない、ということですよ」

「え?」


 まさかの言葉だった。誰もが芹香との婚約を歓迎していたと思っていたのに。


「そーゆーことっす。そりゃ表面上は歓迎してましたけどね。でも心の底から彼女を歓迎した人間なんていなかったと思いますよ?」


 あんたの見てないとこで、いろいろあったんです、と石田は言う。


「そりゃ礼儀作法とか芹香嬢はもともと身に付けてましたけど。そういう部分じゃなくて、もっと、こう、人間の生身みたいな部分で芹香嬢は努力してたっつーか」

「わたくしどもがあの方を敬愛する主だと認めたのは、あの方の努力があってこそです。わたくしどももただ何も考えずに動いているわけではありませんから」






 翔は一人、ベッドの上で考え込んでいた。

 最初は軽い気持ちだった。好きでたまらない陽菜が「あたし、みんなに嫌われてるみたい」と泣き言を漏らしたから、ちょっと優しくしてやってくれ、とそんな気持ち。別に志藤たちを疑っているわけではない。彼らのことは信頼している。ただ、今回のことは本当に翔のわがままだから陽菜には無理させたくなかった。それだけ。

 ところが。ふと思い出して口にした言葉に返されたのは、予想外の反応。苦笑して仕方ありませんね、なんて言われると思っていたのに。


 周防芹香。

 彼女が何の文句もないくらい素晴らしい婚約者だったことは認める。彼女は翔にとって理想の婚約者つなぎだった。

 周りがうるさくて婚約者を置いたけれど、翔は陽菜以外と結婚する気なんて到底なかったし、陽菜以外の女性を嫌ってすらいた。

 でも、陽菜をいきなり婚約者に据えるにはいろいろ問題があった。必ず陽菜を婚約者にするためにいろいろ動いてはいたけれど、力が足りてなくて、どうしても別の女性を婚約者として立てる必要があったのだ。

 そこで白羽の矢が立てられたのが芹香だ。

 彼女はちょうどいい駒だった。

 他の女性たちみたいに翔にあれこれ我侭をいうこともなければ、頭の固いじじいどもが文句を言うこともない。婚約を破棄したときに多少は傷がつくかもしれないけれど、多少は配慮するし、少しの傷があっても彼女であれば結婚相手に困ることもないだろう。

 そうして申し込んだ縁談。

 鳥羽家の申し入れを周防家が断るわけない、と知ってのことだった。



 縁談の申し込みを受けた周防家は当然喜んだ。

 周防家もそれなりに由緒ある家ではあるが、鳥羽家とは格が違う。鳥羽家の縁談申し込みを周防家が断れるはずがなかった。



 そうして、芹香は翔の婚約者となったのだ。






 翔が芹香のことを単なる駒にしか見ていないということを、直接芹香に伝えたことはなかったけれど、それとなく遠まわしには何度か言葉にしたことがあったし、態度で芹香には興味がないのだ、ということを割かしはっきり示してきたつもりだ。その証拠に、芹香に婚約を破棄させてくれ、と言ったときに、芹香は何一つ文句を言うまでもなく、淡々と承諾の意を返した。あまりのあっけなさにむしろ翔の方が気が抜けたくらいだ。

 だから、家人らに対して芹香を婚約者から下ろし、陽菜を婚約者とすると宣言したときも、すんなりいくものだと思っていた。家人らがあるじたる翔に何か苦言を呈すということは今までなかったし、芹香を婚約者から外したことがそれほど影響を与えるものだとは予想もしていなかったから。

 だからこそ、気軽に宣言した。

 芹香の気持ちなんて、彼女が置かれていた立場なんてまったく省みることもせずに。



 芹香が素晴らしい女性だ、ということはわかっている。

 まさに彼女は理想の駒だった。誰からも文句が出ないばかりか、彼女は理想の婚約者としての振舞いをごく自然にしてみせた。翔が婚約者を必要としたのは、鳥羽に連なる長老たちが結婚を、とせっつくのが面倒だったという理由のほかに、実際に鳥羽当主の嫁になりたいと願う女性たちからの積極的なアピールにうんざりしていたためでもあった。

 婚約者ができた、と発表したとき、一時は騒然としたものの、すぐにその騒ぎも収まり、わずらわしいことから開放された翔は、これならばもっと早く彼女を婚約者として発表すべきだったとすら思ったくらいだ。

 だからこそ、翔にしてみれば家人は最初から芹香を主人の伴侶として認めているのだと何の疑いもなく信じていたのだ。今日、志藤らの言葉を聞くまで、は。




 何か自分はとてつもない大きな間違いを犯しているのではないか、と心のどこかで思いつつも、それでも自分が一生の伴侶にしたいのは陽菜なのだから、何も間違っていないと、そう硬く目をつぶった。






 お披露目の日。

 鳥羽と周防は婚約を破棄したとはいえ、つながりがないわけではない。したがって、パーティーを開くにあたっては周防を招待しないわけにはいかず、芹香にも招待状を送ってある。しかし、パーティーには来ないだろうと高をくくっていた。自分が芹香の立場なら、何かしら当たり障りのない理由で欠席するからだ。

 だからこそ、パーティーが始まってしばらくしてから姿を現した芹香に翔は驚きを隠せなかった。しかも芹香をエスコートしているのは、翔のよく知る男だ。



「よぉ、遅くなってすまなかったな。ちょっと仕事が立て込んでて」

「来てくれただけでもありがたいよ。お前は来ないかと思ってたから」

「はは、親友のめでたい姿を見られるってのに、行かないなんて馬鹿のすることだ。仕事を無理したって来るさ」

「ありがとう」

「ところで、新しい婚約者を紹介してはくれないのか」


 翔の親友であり、若手医師のなかでも随一の技術を誇るとされている東晴一あずませいいちは心なし、新しいという言葉にアクセントを置きながらちらりと視線を横にずらした。

 白々しい、と苦々しく思いつつも、紹介しないわけにはいかない。表面上はにこやかな笑顔のまま、陽菜の背中をそっと押す。


「こちら、都築陽菜。陽菜、こちらが親友の東晴一と周防芹香嬢だ」

「おっと、一つ訂正な。芹は単なる付き添いじゃなくて伴侶。ずっと口説いてたんだけどさ、なかなかうん、って言ってくれなくて。この間ようやく口説き落として早速籍を入れたんだ。だから、周防じゃなくて東芹香、な」


 ぱちり、とウィンクする晴一は医者じゃなくて俳優になった方がよかったんじゃないか、というくらいきまっていたが、翔にしてみればそれどころじゃなかった。


「え、ちょ、ちょっと待て。芹香がお前の嫁だって?」

「芹香なんて呼ばないでくれよ。俺の大事な大事な嫁なんだから」

「お前、ずっと片思いしてるって言ってなかったか?」

「だからしてたよ、芹に。ずっと芹が欲しかったんだ。だけどどこかの誰かさんがさぁ」


 いわくありげな視線に、芹香がふ、と息を吐いて申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめんなさい、この男ちょっと浮かれてて。不快な思いをさせたでしょう?都築さんも、これから長い付き合いになると思うけど、こんな男は放っておいていいわよ」

「こんな男とはひどいなー。君のだんな様だよ?」

「そうね、うっかり入籍してしまったからだんな様ね。法律上は」

「ひどいっ!もてあそんだのね」

「遊ばれたのはどっちかというと私じゃないかしら。ってほら、あなたがそんなだから都築さんがびっくりしているわよ。私たちはもうお暇しましょう」

「そうだな、とりあえずめでたい面は見れたし。用もないからな。じゃあ、お幸せに」


 それだけを言うと、ふたりはくるりと踵を返しあっという間にいなくなってしまった。最後の最後まで翔は芹香にその存在を無視されていたような気がするが、気のせいだろうか。

 隣を見れば、陽菜が呆然として立っていた。まるっきり素の表情だ。彼女のその素直さが翔はたまらなく好きだったのだけれど、今はどこか忌々しかった。


 どんなに呆然としていても、パーティーは続く。

 いろんな人に挨拶をして、少し会話をしつつ、陽菜を紹介する。陽菜の態度は二週間の特訓によるものとは思えないほど上出来ではあったけれど、それでも付け焼刃でしかなく、翔は自分が内心、舌打ちしたくなっているのに気づいた。当然、そんな気持ちはおくびにも出さないけれど。




 ようやく気疲れのするパーティーから開放された翔は、いったん陽菜と別れて自室に戻った。ジャケットを放り投げ、ネクタイを緩めると、少しだけほっとできる。

 陽菜をようやく自分の伴侶として周りに認めさせるだけの力を翔は得たはずだった。それは間違いがない。だけれど、陽菜は芹香ではないのだとようやく思い知ったような、そんな気分だった。

 もちろん、陽菜は芹香ではないからこそ、翔は陽菜を求めたのだし、芹香を駒にしたのだけれど、芹香は空気のように翔の婚約者として存在していて、当たり前のように翔の希望通りに行動していた。彼女の振る舞いは常に翔の婚約者としてふさわしいものであり、何一つ文句はなかった。

 陽菜は芹香とは異なり、幼い頃から礼儀作法などを学んでいたわけではない。ゆえに芹香と同じような行動を彼女に求めるのは酷だと知っている。そして、そういうことを知らない陽菜だからこそ伴侶にしたいと思った。自分とは違う普通の家庭で育った陽菜がずっとまぶしくて、行儀作法なんて知らずに気ままに振る舞う彼女を好きになった。彼女なら「鳥羽」という家に惑わされず、翔だけを見てくれるから。


 陽菜をまぶしい、と思う。

 ずっと見ていたいと思わせる魅力が彼女にはあった。


 でも、それは本当に「恋」だったのだろうか。

 ただの「夢」ではなかったのか。








 どこかできらきらひかる思い出が黒く塗りつぶされていくのを感じた。


だいぶ昔に書いた記憶があるのを見つけたので。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かったです。 [一言] この主人公には、自分の伴侶となる相手に完璧を求める、不満がましいモラハラ男の兆候を感じます。 自分だけを愛してくれる優しい彼と婚約したはずが、早々にモラ…
[一言] 周りが家柄だけを見て自分と言う個人を見てくれなかったので庶民の彼女を本命として家柄のある女性は当て馬として(女性除けとして)駒扱いした男性の話、か 本人が「間違い」と気付かなかったのは 家…
[良い点] 男の身勝手さがよく描写されていて自業自得だと思いました。因果応報な結末で良かったです。
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