レシート
「す、す、す……」
山下は小さく呟きながら、人差し指と視線を泳がせる。背の高い本棚には“作家名あいうえお順”に、沢山の文庫本が収まっていた。
「……あった」
お目当ての場所には、本一冊分の隙間。
ここイチヂク書店で働き始めて三年目になる山下は、手にした“スリップ”をもう一度見た。先ほど売れた本が、そこに収まっていたであろう本であることを確認する為だ。
――“スリップ”とは商品である本に挟まった、短冊のように細長い紙のことである。
この紙には本のタイトル、出版社名や著者名、値段といった、その本に関する情報が細かく書いてある。折りたたまれ、ちょうど本の真ん中辺りに挟まっていることが多いので、立ち読みする時に抜いたり、ずらしたりした経験のある人もいるだろう。
書店員はそのスリップを見て売れた本を確認したり、注文したりするのだ。
山下は本棚の下の引き出しを開け、在庫を確認する。
(……あった)
そこには、彼の持つスリップに書かれた書名と、同じ本。
それを取ると、本棚の隙間に差し込む。売れた本はすぐこうやって確認しなければ、“売り損じ”が生じてしまう。
「ありがとうございましたぁ」
奥のレジで、二ヶ月前に入ってきた新人、河野が言う。目の前の本棚の向こうで、コツッ、コツッ、とヒールの高い靴特有の足音が鳴っっていた。
左手から――右手へ――。足音は通り過ぎ、山下は出口の方を見る。
身長の高い女性だった。長く艶のある黒髪は肩甲骨の辺りまで伸び、綺麗に背中に流れていた。つばの大きな帽子をかぶり、ロングコートを着ている。その下には真っ白な足が伸び、予想通りヒールの高い靴を履いていた。モデルをしていると言われても全く疑わないプロポーションだ。
山下は、そちらから目を離せなくなってしまっていた。全身真っ黒な衣類を纏い、そのせいで強調されているのか、肌はやけに白く見える。
彼はその神秘的な美しさに、未亡人という単語を思い浮かべた。モノトーン調のスタイルに、喪服のようなイメージを感じていたのだ。
自動ドアが開き、女性は出て行った。二十三時前の闇に黒が溶けてゆき、次第に白い肌も消えてゆく。
山下は女が見えなくなるまで、その場に立ち惚けていた。我に返り、河野がいるレジに戻ると、スリップを引き出しにしまった。
「……腹減りましたね」
河野が力無く言う。
「あともうちょい」
山下が返す。閉店時間まで、あと数分だった。
河野は「腹減ったァ」と呟きながら、レジ前のレシート入れに手を伸ばした。プラスチック製の、小さな箱。中に入っていた数枚を取り出す。レシートは全部で、四枚あった。
山下はふと疑問に思う。十分ほど前に掃除をし、その入れ物に入っていたレシートをまとめて捨てたのは山下自身だった。たとえ駅前という好立地といえども、個人経営の小さな書店で、閉店間際の二十三時前。客は少なく、掃除をしてから来た客といえば先ほどの女性と、サラリーマン風の男性という二人だけだったはずだ。
山下の疑問を感じ取ったのか、河野が言った。
「さっきの綺麗な女の人が、財布の中から捨てて行ったんスよ」
あぁ、と言って、山下は頷いた。渡したレシートと一緒に、財布の中に入っている不要なレシートをまとめて捨てて行ってしまう客は珍しくない。それならば、と合点がいった。
それよりも山下は、女性を正面から見られなかったことを悔やんだ。やはり、顔も綺麗な人だったのか。女性の美しい顔を、想像した。
「米、人参、ジャガイモ……カレーっスかね」
河野は、女性が捨てて行ったレシートの内の一枚を読み上げていた。
「玉ねぎ……カレー粉! ほら、やっぱカレーだ!」
河野は楽しそうに笑った。山下も、つられて笑う。
「やめろよ。趣味悪りィ」
言葉に反して、山下も楽しそうだった。河野とは二つ歳が離れていたが、笑いのツボが似ていることをこの二ヶ月間の間で感じていた。それに、美しい女性の残していったレシート。いけないことだとわかっていても、興味が湧いてしまうのは抑えられなかった。店内に客の姿は無く、閉店間際ということもあって、もう気が抜けていた。
カレー食いてぇ。バイト終わったらカレー食いに行きましょうよ。などと言いながら、河野は二枚目のレシートに手を伸ばす。
「ホームセンターっすね……鍋……。……急に食いたくなって、材料も道具も買い揃えたんスかね」
河野はレシートに載っている商品に目を通す。
「包丁…………“ノコギリ”……?」
眉間に皺を寄せ、解せない、といった表情をする。
「“ノコギリ”……で、野菜とか切るんスかね」
「んなわけねぇだろ」
二人には意味がわからなかった。「カボチャとかならあり得ますよ」とか言っている河野の手から、山下はレシートをもぎ取る。突然の“ノコギリ”の文字が、レシートから浮いて見えた。
「薬局……“ドリプル”。これ、睡眠薬ですよ」
河野が三枚目のレシートを渡してくる。確かに、“ドリプル”とある。これは、普通にテレビコマーシャルでも宣伝している、ポピュラーな睡眠導入剤だ。
「ほんとだ」
そう言って、河野の方を見る。先ほどの楽しそうな笑顔から打って変わって、怯えた表情をしている。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような、そんな表情だ。
「……どした……?」
山下は少しおどけた様子で、河野に聞く。ここまで見てきて、そこまでおかしなことは、無かったはずだ。河野は何に怯えているのか。山下は四枚目のレシートを見た。それはこの“イチヂク書店”のレシートで、書籍を二冊買っていることがわかる。レシートには、書名は出ない。
「これ、見てくださいよ」
河野が引き出しを開け、先ほど女性に売った本のものと思われるスリップを山下に渡した。
その二枚のスリップにはそれぞれ、
『カレーのキホン!』
『人体解剖学入門』
とあった。
山下は、河野の言わんとしていることを理解し、青ざめた。背筋に冷たい汗が流れる。
「偶然……だろ」
必死に笑みを作り、絞り出すように言う。すると、河野は一枚目のスーパーのレシートを見せてきた。
「だって……“肉”、買ってないんすよ……?」