「――しっかし、扉を潜ったら、一瞬で宿屋に移動したなんて……俄には信じ難い話だな」
「無理もないですよ。私自身、まだ、信じられないでいますから――で、貴方は鍵を閉めた筈の部屋に私がいて、ビックリしたと言うことですよね?」
「ああ、そうだ」
「だからと言って、いきなり人を襲うのもどうかと思いますが……何か狙われるような心当たりでも、あるんですか?」
「俺、剣の腕じゃ、結構有名でな……あんたにゃ、悪かったと思ってるよ」
「もしかして……私、厄介な相手と知り合ってしまったんでしょうか?」
「はは……言ってくれるぜ。そうかもなあ」
男は、決まりが悪そうな声で言った。
見ている感じでは、根は良さそうな人物だ。
いきなり、暴行に及んだ相手と気安く喋っているのが、亜希自身も不思議に感じているのだが、違う形で出逢っていれば、最初からこんな雰囲気になっていたような気がした。
あの険悪なムードから、今に至るきっかけとなったのは、亜希が自分の持ち物を男に見せたことであった。
鞄を提げたまま本を探していたので、荷物丸々、こちらの世界に持ってこられたのである。
男は鞄と財布のチャック、シャーペンやボールペン、腕時計等の造りに感心し、特に携帯電話と電子辞書を熱心に眺めていた。
そうして、気が済むまで見た後、
「俺、お前が異世界から来たってこと、信じるわ」
と述べたのである。
「……それにしても、これからどうしたら良いものか……私って今、天涯孤独の身の上状態ですよね。しかも、一文なしだし」
「ああ、なら俺がここの女主人に掛け合ってやるよ。この宿屋は贔屓にしてるからな――住み込みで働かせてもらえば良いんじゃねえか?」
「それは助かります……ありがとうございます」
「礼は要らねえよ。手首、酷い痣作っちまったから……その詫びだ」
男が目線を逸らしながら言った言葉に、亜希ははっとして自分の両手首を見た。――見事に、青紫色になっている。
痛みがないので、今まで気が付かなかったが、確かに見た目は少々、グロテスクだ。
「……後で、教会に連れて行って治してやるから、それで勘弁してくれ」
「良いですよ。まあ、かなり怖い思いをしましたけど、あの状況だったら誰でも不審に思うでしょうから」
「……あんた、あっさりしすぎてないか?」
「はい?」
「普通、襲われた相手なら、もっと警戒するだろう――罵倒されても仕方がないかと思っていたんだが……」
「うーん……そもそもは誤解から始まった訳じゃないですか。貴方と話していて、根は良い人だと感じましたし、ちゃんと反省している人を、それ以上非難したって、意味がないでしょう」
「大した奴だな、お前……いきなり異世界に飛ばされた直後、暴行されるなんて目に遭ったのに、もう立ち直ってる。俺があんたの立場なら、とてもそんな風には振る舞えねえよ」
「まあ……前向きで、気持ちの切り換えが早いことだけが、私の長所ですから」
「――本当にすまなかった」
男は重ねて謝った。
余程バツが悪かったのだろう。
「もう、良いですってば――そう言えば、貴方の名前をお聞きしても? 私は、四条亜希。亜希が名前で、四条が姓です」
「俺はアーク・ウォレス。この世界じゃ、名前を前、姓は後ろにして名乗るのが普通だな」
「そうですか。じゃあ、亜希・四条になりますね」
「そうだ。よろしくな、アキ」
「よろしくお願いします、ウォレスさん」
「そっちで呼ばれると、ムズムズするな……アークで良い。さん付けも要らん」
「えっと、アーク――みたいな感じで良いですか」
「ああ――それじゃあ、まずは教会行って、お前の痣を消すぞ」
アークに続いて階段を降りる。
ゆらゆらと、彼の赤い髪が目の前で揺れていた。
腰まである長い毛が、手櫛で適当に整えたのだろうか、雑に三つ編みにされている。
しかし、それが不思議と似合っていた。
ぼんやりそんなことを思いながら歩いていると、いつの間にか出入り口の扉の前まで来ていた。
アークが扉のドアノブを持ったまま、訝しげな顔でこちらを見ていたので、慌てて外に出る。
その瞬間――亜希は身震いした。
赤みがかった石畳。
煙突のついた、オレンジ色の屋根。
地球ではあり得ないような、バリエーション溢れる髪色の通行人。
見覚えがあるのだ……この風景には。
(……夢で見たのと同じだ……)
あの夢は、自分が近いうちに異世界にトリップすることを、示唆していたのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
「おい、どうしたんだ」
「あ……すいません。ちょっとぼうっとしてただけです」
「物珍しいのはわかるが、あんまりキョロキョロしてると、田舎者だと思われて、スリに狙われるぞ――まあ、今は俺が見張ってるが」
「以後、気をつけます……そうだ、一つ聞きたいんですけど、私の服装や容姿って、こちらでは変じゃないですか?」
「いや。黒髪黒目で黄色い肌の人間なんて、腐る程いるし、その服装も、世界に国家は無数にあるから、遠い国から来たとでもいやあ、誰も疑わないだろう」
それは有り難い話である。
夢でも、ちらちら自分と同じような容姿の人間を見かけたものの、彼等がマイノリティーだったらどうしようかと思っていたのだ。
しかし、それは杞憂であったらしい。
そうして、歩くこと十分位だろうか。
アークの話していた教会に到着した。
見た目は地球にあるそれと、よく似ていた。
強いて違いを述べるとするならば、中に十字架にかかったイエスの姿がないことだろう。
地球以外の惑星でも、人類が考え出すものは同じような形になるのだろうか。
中に入って、アークが連れである亜希の治療を頼むと、暫しの後、白い僧衣を纏った初老の男性が現れた。
「痣ですか。これは……酷いですね。どう言った経緯で?」
「ええっと……」
まさか、前に座っている男性は、怪我人の連れがその原因だとは思わないだろう。
言い淀んでいると、「何やら、複雑な事情がおありのようですね」と、訳知り顔で男はその話題を横に置いた。
斜め後ろに控えているアークを一瞥すると、どこかほっとしたような顔をしていた。
「――それでは、治療を執り行います」
その言葉に、亜希は果たして、どのような方法で直してくれるのだろうと、目を皿にして、男の一挙一動に注視した。
何と言っても、ここは異世界である。
もしかしたら、今まで空想の世界の話であった、魔法がこの目で見られるかもしれないのだ。
こんなにわくわくするのは何年ぶりだろう。
亜希が見つめる中、男は何度か深呼吸すると、手を組み、目を閉じた。
「主よ――その御光を与え給え。
主よ――我らの罪を許し給え。
我は主を信ずるなり……」
並べられた単語は、ファンタジーの呪文と言うよりも、祈りの言葉と言う方がぴったり来るだろう。
朗々と述べられた言葉は、石造りの壁やステンドグラスに反響し、辺りの空気を凛としたものに変えていく。
「彼の者の痣を癒し給え」
長く続いた言葉の締め括りで、そう述べられた直後――亜希の身体に変化が訪れた。
(何だろ……手首が温かくて、気持ち良い)
これは、お風呂に浸かっている時の感覚に似ているだろうか。
しばらくすると、温かみがすっと退いていき、それを名残惜しく思いながら手首に目をやると――綺麗さっぱり、痣が消えていた。
(はっ、しまった!……あんまり心地良いもんだから、ぼうっとしてて、決定的瞬間を見逃しちゃった。しかし、すごい……)
「――これにて、治療は終了です。お加減はいかがですか?」
治療済みの手首に見入っている亜希を、男の声が現実に引き戻した。
「あ……ばっちりです。触ったり、動かしても痛みはありません――ありがとうございました」
感謝の言葉を述べて頭を下げると、男は一瞬目を大きく見開いた後、にっこりと笑い、「貴方に主のご加護があらんことを」と呟いた。
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