第百五十一話「穏やかな時間」
椛のことは驚いたけど……、いや、それはもう忘れよう。俺は何も見なかった。それがいい。それなら誰も不幸にならない。それよりもっと楽しいことを考えよう。
菖蒲先生やマスターの緋桐さんとクッキーを焼いたのはとても楽しかった。椛も泣くほど喜んでくれていたし、今度は薊ちゃんや皐月ちゃんや皆にも何か作って配ってみようか。
マスターも今度はパウンドケーキでも、と言っていた。俺は料理もお菓子作りも初心者だからよくわからないけど、緋桐さんがそう言うのならそれほど難しくないのかもしれない。
スポンジを使ってデコレーションケーキを作れとか言われても出来る気はしないけど、パウンドケーキなら俺でも作れるのだろう。でなければ緋桐さんがいきなり無理なことを言うはずもない。人に教えてもらいながらやれば初心者でも案外出来るものだ。特に捏ねたり、混ぜたり、捏ねたり、混ぜたりするだけなら!
女の子にはお菓子の方がウケが良いかもしれないけど、やっぱり料理も良いかもしれない。今度は誰かに料理も習ってみようか?椛もメイドさんとして最低限の料理は出来るみたいだしな。まぁうちでメイドが料理をすることはない。いや、俺達に出すことはない、が正解か。
家人やメイドの賄いとしてメイド達が料理することはあるだろうけど、俺達に出される料理は全てシェフ達が作っている。専属の料理人が何人もいるのに、素人であるメイドに料理をさせるなんてことがあるはずもない。
ただ俺が考えてるのはそんな本格的な料理じゃなくて、もっとお手軽な……、家庭料理みたいな……、そういうものを想定した話だ。別に将来コックになろうと思ってるわけでもない俺が、そこまで本格的な料理を習う必要もないだろう。
皆に手料理とかを振る舞ったら喜んでくれるかな?男に手料理やお弁当を作ってあげる女の子達もこういう気持ちなんだろうか……。
…………って、ちょっと待て。
待て待て待て!おいおいおい!俺は今何を考えていた?完全に思考が女の子になっていなかったか?
落ち着け。俺は男だ。俺が皆に手料理やお弁当を振る舞ってもらってウハウハするんじゃないのか?俺が皆に手料理を出して、おいしく食べてくれるかな?なんて赤くなってどうする!
俺は男だ!俺は男だ!俺は男だ!
………………
…………
……
でもさ……、男でも料理くらいするよね?最近は料理やお菓子作りをしたり、むしろ女性より得意な男だっているよね?
じゃあさ!じゃあさ!何もおかしくないんじゃない?俺が手料理を作って皆に食べてもらっても何もおかしくないどころか、むしろ男なのに料理が上手で彼女達に手料理を振る舞うとか高ポイントなんじゃない?好感度アップ?
…………ふ~~~っ。ちょっっっと落ち着こうか……。俺が知らぬ間に乙女思考になっていて相当動揺しているようだ。
まずは冷静になろう。まず……、男が料理したりお菓子を作っても何もおかしくはない。近年ではそういう男子も増えている。むしろ彼女や奥さんの負担を減らして喜ばれる。
それに別にそういうことを抜きにしても、人間誰でも新しいことにチャレンジするというのは楽しいものだ。趣味でもスポーツでも、何でもいい。新しいことにチャレンジしたり、出来なかったことが出来るようになったら誰でも楽しいはずだ。だから何もおかしくはない。
そう、これが普通……。だから俺が女の子になりかけてるんじゃない。絶対違う。そんなことはない。
「まぁ……、どちらにしろお母様に知られないようにしなければならないのですから……、そう何度も機会自体がないですよね……」
今回はたまたま夏期講習というタイミングを利用して、しかも講習をサボるという荒業のお陰で出来たことだ。また機会があればやってみたいけど……、今度はいつこんなことが出来るかもわからない。
「お嬢様っていうのも……、大変なんだな……」
お金持ちのお嬢様なんて好き勝手に生きて贅沢し放題かと思っていた。でも……、その立場になってみればその立場なりの苦労というものがある。少しだけ……、俺は咲耶お嬢様の気持ちがわかった気がした。
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八月に入り、そろそろ父も盆休みで家族旅行の時期が近づいてきた。盆休みの終わり頃に近衛家のパーティーがあるためにあまり時間のかかる遠方には行けない。冬休みや春休みは短いし、夏休みも途中で近衛家のパーティーが入るために最近はあまり海外へはいけなくなってしまった。
もちろん俺はどうしても海外に行きたいわけじゃない。国内だって素敵な所もまだ見たことがない所もたくさんある。ただ近衛家のせいでこちらが自由に思った通りの家族旅行を楽しめないのが腑に落ちないだけだ。
付き合いが大事だというのはわかるけど……、そもそも近衛家のパーティーの日取りが悪いんじゃないのか?何で盆休みの終わり頃に開くんだよ。盆休みなら皆旅行や帰省してるに決まってるだろ?それなのにそんな真っ只中に自分の所のパーティーに来いというのが、偉そうで傲慢に感じてしまう。
折角親も盆休みで家族旅行とかに行けるというのに……、近衛家のパーティーのせいで帰省出来なかったり、旅行の日程がキツイ人も多いはずだ。それをわかった上で、旅行に行くのか、近衛家のパーティーに出るのか、どっちを選ぶんだ、と言わんばかりに踏み絵をさせようとしているようにしか思えない。
「今度の旅行ですが……、日程を変更します」
「…………え?」
食事の席で母が急にそんなことを言った。一瞬意味がわからずポカンとする。旅行の日程変更?まさかもっと短くするとでも?
今年は国内の北へ行くことになっている。別荘じゃなくてホテルだ。高級別荘地の別荘は管理もそう難しくないけど、今年行く北の大地は別荘を持っていても管理が難しい。冬の間に雪かきをしなかったから家が潰れてました、なんてことになるかもしれないからな。
だからうちでは北の大地には別荘を持っていない。管理人に任せるとか、誰かに住んでいてもらうという方法もあるだろうけど、うちではそこまでしていない。
「今年は前までと同じようにお盆明けまで旅行します。近衛家のパーティーには出席しませんのでそのつもりでいなさい」
「えっ!?」
どういうことだ?母が……、近衛家のパーティーを断った?父や兄を見ても平然としている。もしかして今知らされたのは俺だけか?
「えっと……、ホテルの部屋は大丈夫なのでしょうか?」
旅行シーズンだし、避暑地として人気の場所だ。急に予定変更しても別荘ならともかくホテルだと部屋は大丈夫なんだろうか?
「貴女は私を何だと思っているのですか?部屋の確保もせず言うと思っているのですか?」
「あっ、いえ、そのようなことは……」
そうだな……。母が予定も立っていないのに言うはずがない。ただ恐らく何ヶ月も前から埋まってるであろうホテルの部屋を、どうやってこんな急に確保出来たのかということだ。汚い手や悪いことをして確保したんじゃなければ良いけど、もし誰かの予約をキャンセルさせたとかだと悪い気がして楽しめない。
「はぁ……。何か心配していそうですが……、当家が借りる部屋は滅多に完全に埋まらない最上級の部屋です。空きを確認した所、私達が出た後は全て空きだというので追加で予約を入れただけです」
「そうでしたか……」
それならよかった。まぁそうだよね。いくら旅行シーズンでも一泊何十万もする部屋が全部満室なんてことはないだろう。まだ空きがあったから予約を増やしただけなら何も気にせず楽しめるというものだ。
「何だか……、家族旅行が楽しみになってきましたね!」
「ははっ、咲耶は現金だね」
近衛家のパーティーには行かなくて良いらしいし、久しぶりに家族旅行の日程も前まで通りのフル日程だ。折角の夏なのに涼しい避暑地に行くから夏らしい楽しみはないかもしれないけど……、今年は家族旅行を目一杯楽しもう!
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はい!というわけでやってきました北の大地!見渡す限りの広い大地!青い空!まさに北の大地!
「わぁ!ここが泊まるホテルですか」
「咲耶、随分ご機嫌だね」
そりゃそうでしょうとも。誰でもテンション上がるよ!ホテルの目の前には湖!そしてホテルは超高級!温泉に室内プールまである!
……まぁ正直意味がわからないけどね。
何で暑い季節に涼しい地域へやってきて、室内の温水プールに入らなければならないのか……。金持ちの感覚は未だに俺にはわからない。夏にプールに入りたければ、地元の市民プールでも近場の海水浴場でもいいんじゃないのか?
何でわざわざ真夏でも水に入るのが結構冷たい場所まで避暑にやってきて、そんな中でわざわざ室内温水プールに入らなければならないのか?全てが無駄すぎて乾いた笑いも出ない。
まっ……、まぁ……、今回は別にプールに入りに来たわけじゃない。それに俺のテンションが上がってるのはホテルの目の前に綺麗な湖が見えているからだ。ホテルの窓から見ればさぞ綺麗な景色が一望出来るだろう。
「それじゃ行こうか、咲耶」
「はい!」
車を降りてホテルに入る。夏の避暑地のはずだけどそんなに混みあっているという感じはしない。やっぱり夏より冬の方がシーズンなのかな?
チェックインを済ませて、初日は簡単に湖まで行って軽く散策するだけで済ませる。戻ってから温泉に入った。
夏に温泉ってどうなんだとも思ったけど、こちらは涼しいためかそんなに悪くない。いや、むしろ良い。まぁ前世で俺は真夏に本州最南端の県まで行って温泉に入ったりしたこともあるけどな!
湖が見渡せる貸切露天風呂に入って、おいしい食事を堪能して、見晴らしの良い部屋で眠る。とても素敵だ。前世でこのレベルのホテルに泊まるのはかなり勇気のいることだっただろう。でも今生ではこのクラスが当たり前。とても素晴らしい。
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朝、ついいつものように早くに目が覚めてしまった。眠気覚ましがてら散策に出掛ける。ヒンヤリしていて肌寒い。人間というのは勝手なもので、真夏に25℃の空調の効いた室内にいると肌寒いくらいに感じるのに、真冬に20℃の暖房の効いた部屋に入ると暖かいと感じる。
こちらもいくら北の大地とはいっても気温的にはそれなりに高いはずだけど、自分達が居た場所から突然これだけ気温がぐっと下がっているとヒンヤリ肌寒いくらいに感じる。
「咲耶、大丈夫?寒くない?」
「大丈夫です」
俺はこうなるだろうと思っていたから薄手とはいえカーディガンを羽織ってきている。それに百地流は真冬の水が凍るほどの気温の中でも窓も扉も開けて、足が霜焼けになりそうなほどの中で裸足で修行だ。これくらいで音を上げていたら百地流ではやっていけない。
「お兄様こそ寒いのではありませんか?私のカーディガンに入りますか?」
ちょっと悪戯っぽくそう言って笑う。でも……。
「そうだね。少し寒いかな?それじゃ咲耶のカーディガンに入れてもらおうかな?」
「ちょっ!ちょっ!」
兄が俺のカーディガンの中に手を入れようとしてくる。驚いて俺が下がると兄は笑い出した。
「あははっ!嘘、嘘。冗談だよ。そんなに慌てなくてもいいだろう?」
「くっ!」
やられた!たかが中学二年の子供に!くそぅ!くやしいのぅ!くやしいのぅ!
その後何とか仕返ししてやろうかと思って狙っていたけど、結局仕返しする暇はなくホテルに戻ってきてしまった。
その日からお盆休みが明けるまで何日も、ただホテルから景色を眺めたり、周辺を散策したり、温泉に入ったり、やっぱりたまには温水プールに入ってみたり、何もしていないかのような穏やかな時間が流れた。
普通ならこんな何もない場所にいたら一日か二日で飽きそうなものだけど……、たまにはこうしてのんびり過ごすのも良い。何より景色は綺麗だし、温泉は気持ち良いし、何にも縛られずただのんびりと過ごす時間というのが、こんなに素晴らしいものだということを長らく忘れていた。
最初はすぐに飽きて暇になるかと思っていたけど、振り返ってみればあっという間に二週間以上もホテルに滞在し、お盆休みが明けてからゆっくり自宅へと戻ってきた。
「たまにはあのようにのんびり過ごすのも良いですね」
「そうでしょう?」
この旅行を企画した母はちょっと得意そうな顔になって胸を張っていた。母でもこういうことをするんだな。何だか安心した。
こちらにいる時は俺は常に時間に追われている気がする。ずっと何かをしていなければならず、常に時間がない。いつも忙しなく何かに追われている。
でも……、そういうことを全て忘れて……、ただぼーっと過ごす日々も悪くなかった。何ヶ月もずっとだったら我慢出来ないかもしれないけど、たまにだったら気分もリフレッシュだ。
もしかして……、母は俺のためにあんなプランにしてくれたんだろうか?いつも忙しい俺のために?
それはわからないけど……、ただ……、俺は勝手に心の中で母に感謝したのだった。