1476話
マリーナに頼んで、精霊魔法でいざという時にイルゼの危機を察知出来るようにして貰った翌日、レイはいつものように増築工事現場で行われる様々な仕事をこなすと、イルゼを伴ってトレントの森に向かっていた。
「きゃあああああああああっ! ちょっ、落ちる、落ちる、落ちます! 落ちますって、レイさん!」
「グルルルゥ」
自分の足下――文字通りの意味での――から聞こえてくる悲鳴とも泣き声ともつかない声に、セトが振り向き、背中に乗ってるレイにいいの? と喉を鳴らす。
レイはそんなセトを落ち着かせるように首を撫でてやり、口を開く。
「大丈夫だって。イルゼも冒険者だ。数分くらいセトの足に掴まっているくらい、問題ないさ」
「あります! ありますってばぁっ! 私は冒険者ですけど、身体能力には自信がないんですから!」
半ばパニックになっていても、レイの声は聞こえたのだろう。セトの右前足に掴まっているイルゼが、普段の冷静さをかなぐり捨てたかのように悲鳴を上げる。
そう、セトがその背に乗せて飛ぶことが出来るのは、レイのみ。
正確にはレイ以外にも子供が一人か二人程度であれば乗せて飛ぶことも可能なのだが、レイ以外に大人を乗せて飛ぶのは無理だった。
高い場所から滑空していく……というのであれば可能なのだが、そもそもイルゼを乗せたままで滑空出来るような高度まで上がることは出来ないし、それだけの高さがある建物もギルムにはない。
結果として、イルゼはマリーナやヴィヘラがやっていたようにセトの前足に掴まって空を飛ぶということになったのだが……元々、戦闘力――正確には身体能力――にはあまり自信のないイルゼだ。
だからこそ、冒険者としての活動も討伐依頼ではなく採取依頼を主にやって来たのだ。
そんなイルゼが、何故セトにぶらさがるような真似をしてるのかといえば、単純にトレントの森まで移動するのに、地面での移動だと時間がかかりすぎる為だ。
一応イルゼも馬には乗れるらしいが、それでもやはり空を飛ぶセトと地上を走る馬では、前者が圧倒的に速い。
また、トレントの森まではセトの速度なら数分掛かるかどうかといった程度なので、その短時間を我慢すればいい……ということで、レイはイルゼをセトで運ぶことに決めた。
最初はレイと別々に行動したいと主張したイルゼだったが、イルゼに付けられている風の精霊は、レイから魔力を貰うようにとマリーナが言い聞かせてある。
つまり、レイの側にいればそれだけマリーナが使った精霊魔法の効果が長持ちするのだ。
出来るだけマリーナに負担の掛からない方法はということで試された今回の試みだったが、幸いにもそれは上手くいった。
もっとも、マリーナの頼みを聞いてくれる精霊がいることと、その精霊がレイの魔力に魅力を感じるか、というかなり難易度の高い条件をクリアしなければ出来ない裏技だったが、幸い今回は上手くいったのだろう。
ともあれ、そのような理由でイルゼは出来るだけレイの側にいる必要があり、それが今の状況になっている理由でもあった。
また、マリーナやヴィヘラであればセトが飛ぶ速度でも問題なく前足に掴まっていることが出来るのだが、身体能力に自信のないイルゼではそうもいかない。
結果として、セトはいつもより大分飛ぶ速度を遅くしていた。
(飛ぶ速度が遅くなれば、その分セトの前足に掴まって空中にいる時間も長くなると思うんだけどな。まぁ、イルゼがそれで納得してるなら、別に文句はないんだけど)
そう思っているレイは、周囲の景色を見る。
空を飛ぶのはいつものことだが、今日は高度も低い。
いつもは高度百m程度の高さなのだが、今は五十m程度と、いつもの半分なのだ。
これもまたイルゼからの要望だったのだが……
(落ちた時のことを考えれば、高度百mでも五十mでも変わらないような)
そもそも、レイやエレーナのように空中を足場に出来るスレイプニルの靴があったり、もしくはマリーナのように精霊魔法でどうにか出来るのでなければ、高度五十mの場所から落下した場合、まず助かるのは無理だろう。
(いや、アンブリスを吸収したヴィヘラなら、何とかなりそうな気がしないでもないけど……とにかく、イルゼの場合は高度五十mどころか、高度十mでも死んでしまうような気がする)
未だにセトに掴まりながら悲鳴を上げているイルゼの声を聞きながら、レイは視線の先にあるトレントの森を確認する。
樵や冒険者が頑張っているおかげで、森も多少は減っている。
今もレイが見ている先で、樵が切ったのだろう木が倒れるのが見えた。
木の倒れ方で、その木を切ったのが樵なのか冒険者なのか、レイには大体理解出来た。
勿論、あくまでも大体であって、確実にという訳ではないのだから。
樵が切った木は、本職だからだろう。人が通る場所の邪魔にならない方に向かって倒れる。
周囲に生えている他の木にぶつからないようにといった風にも調整されていた。
それに比べると、やはり冒険者の切った木はどうしてもその辺りが雑になる。
人が通る場所に倒れたり、以前は近くに生えている木にぶつかって、その木が折れたといういうこともあった。
「ひぃっ! 早く降りましょうレイさん!」
イルゼにとっては、木が伐採されている光景がどうのといったことよりも、とにかく早く地上に降りることが優先されるのだろう。
ギガント・タートルが移動した跡を見ても、それより早く地上に降りたいと、それだけを告げているイルゼの様子を見ながら、レイはセトに合図する。
「セト、降りてくれ」
「グルゥ!」
やっぱり速度を出してもっと早くここまで到着した方がよかったのでは?
イルゼの様子を見て、改めてそう思ったレイだったが、イルゼ本人がそれを拒絶した以上、どうしようもない。
それにレイとセトにとっては、ゆっくりでもそこまで大きな時間差がある訳でもないのだから、と。取りあえずその辺は今は考えないことにする。
何しろ、こうしてトレントの森に……イルゼの仇と思われる、アジャスがいる場所にやってきたのだ。
そうである以上、レイもイルゼもいつまでも空を飛んでいる時の気分のままではいられない。
……もっとも、今のイルゼはとにかく早く地上に降ろしてと、それしか考えることが出来なかったが。
そうしてセトが地上に向かって降りていくと、イルゼは地上一m程の高さで手を離し、地面に着地し……
「きゃあっ!」
着地した時の速度に合わせて足を動かすことが出来ず、そのまま地面に転ぶ。
そんなイルゼの様子を見ながらも、レイはセトの背から飛び降りる。
こちらは元々の身体能力が違い、何度もセトの背から飛び降りるという経験をしている為か、いつも通りに着地する。
そして二人を下ろしたセトも、そのまま地面に着地した。
「グルゥ?」
そのまま踵を返して立ち上がったイルゼの側に行き、大丈夫? と喉を鳴らすセト。
イルゼはそんなセトに大丈夫と頭を撫で、レイに向かって歩き出す。
転びはしたが、足を捻るといった怪我はしていないことに安堵しながら、口を開く。
「……行きましょう」
そう告げるイルゼの表情は、つい先程まで悲鳴を上げていたとは思えない程に真剣なものだ。
当然だろう。家族の仇がいると思われる場所が、すぐそこにあるのだから。
そんなイルゼの様子に頷いたレイは、そのまま一人と一匹を引き連れてトレントの森に向かう。
トレントの森の前では、モンスターを警戒しているのだろう。何人かの冒険者の姿がある。
その冒険者達は、もの珍しげにレイと一緒にいるイルゼを眺めていた。
当然だろう、レイと一緒にグリフォンで空を飛んできたのだから。
……実際には空を飛んでいる間中悲鳴を上げていたのだが。
また、地上に着地した時も、上手く着地出来ずに地面を転がる羽目になった。
とてもではないが、レイと一緒に行動するような冒険者ではないと、そう思いつつ……また、かなりの美人だったことも影響しているのだろう。
「お疲れ様です。頑張ってください」
冒険者達に向かって小さく頭を下げると、それを受けた冒険者達の方も、満更ではない様子で頭を下げる。
(こいつらで、本当に護衛は大丈夫なんだろうな?)
一連のやり取りを見ていたレイは、微妙に心配になる。
だが、実際今までこの面子でやってきて大きな騒動が起きていないというのも事実である以上、レイはそれ以上何を言うでもなくトレントの森に入っていく。
「あ、レイさん!」
樵の一人が、レイを見ると嬉しそうに声を上げ、手を振る。
樵の中にはレイを嫌っている者も何人かいるが、大半の樵はレイに対して好意的だ。
当然だろう。伐採した木をレイが運んでくれるおかげで、樵は木の運搬について何も考えなくてもよく、ただ木を伐採していればいいのだから。
「伐採した木はどんな感じだ?」
「はい、それなりに多くあります。それで、その……そちらは?」
樵もイルゼの存在に疑問を抱いたのか、そう尋ねてくる。
「イルゼといいます。今日は、レイさんの仕事を見学する為に一緒に行動させて貰っています」
「へぇ……レイさんの? また、随分と大変なことをしてるんですね」
「あはは。まぁ、これも冒険者としての経験と思えば」
イルゼと樵が言葉を交わしている間に、レイは近くにあった伐採した木をミスティリングに収納する。
「イルゼ、奥に向かうぞ」
「あ、はい」
レイの言葉に軽く言葉を返すイルゼだったが、もし樵がもう少し観察力があれば、イルゼが緊張しているのが分かっただろう。
笑みを浮かべて樵と話しながらも、その手は握られており、力が込められている。
イルゼの力がそこまで強くない為、特に問題はなかったが……もしイルゼが普通よりも力が強ければ、恐らく爪が掌の皮を破って血が流れていてもおかしくなかっただろう。
「落ち着け」
そんなイルゼの様子が分かったからこそ、レイは森の中を進みながら自分の隣を歩くイルゼにそう注意する。
「あ、あははは。分かっては……いるんですけどね。でも、どうしても……」
これから自分は家族の仇に会うのだ。
勿論、今ここで攻撃を仕掛ける訳にはいかない。
だが、それでも……と。
そう思いながら、イルゼはレイと共にトレントの森を進む。
途中で何人かの樵や冒険者と遭遇しては、一瞬反応するイルゼだったが、違う相手だと判断してすぐに笑みを浮かべて挨拶をする。
そうしてトレントの森を歩くこと、十分程……
「あれ? レイ? また今日もきたのか」
そんな声を掛けられる。
その声に、イルゼは動きを止めた。
聞こえてきた声に、聞き覚えがあったからだ。
父親、母親、兄……イルゼの家族が殺された時、イルゼはその声を聞いた。
何年も前の……それこそ、普通なら記憶に埋まってしまっても不思議ではないような声だったが、家族の仇の声をイルゼが忘れる筈もない。
我知らず、奥歯を噛みしめる。
だが、そんなイルゼの様子には気が付かないのか、レイに声を掛けてきたアジャスは笑みを浮かべて言葉を続ける。
「うん? そっちの女は誰だ? また、随分な美人を連れてるじゃないか?」
「ああ。ギルドの方からイルゼに仕事を体験させてやって欲しいと言われてな。それでこうして一緒に行動している」
「へぇ。……まぁ、レイの仕事を見ても、普通の冒険者が参考に出来るかどうかは微妙だけど……うん?」
そこで一旦言葉を止めたアジャスは、イルゼの顔をじっと見つめる。
イルゼもまた、アジャスの顔を睨み付けないようにしながらじっと見つめていた。
ただし、お互いが抱く感情はまるで違う。
「なぁ、あんた……イルゼって言ったっけ? 俺とどこかで会ったことがないか? 何だか、見覚えがあるような気がするんだが」
普通に聞けば、それは口説き文句と思われてもおかしくはないだろう。
だが、それを聞いたイルゼは叫び出したいのを何とか堪える。
今、この場で自分が誰なのか……あの時に生き残った人物だと、知られる訳にはいかない為だ。
両親が殺された時に比べれば、随分と成長して大人っぽくなっているイルゼだったが、それでも以前の面影は残っている。
行商人をやっていたイルゼの家族は、移動中の護衛を頼んだアジャスに襲われて殺されたのだ。
幸いにもイルゼは両親が殺された時には少し離れた場所にある花畑で遊んでいる……ということになっていたので、殺されることはなかったのだが。
「そうですか? 私はアジャスさんと会うのは初めてですけど」
「……んー? あれ? うーん……そう、なのか? 俺の勘違い?」
「だと、思いますよ?」
自分の中にある復讐心を何とか押し殺しながら、イルゼは不思議そうな表情を浮かべるアジャスと言葉を交わすのだった。