第7話:「悪意を書き殴る」
エレベーターホールから直進する廊下には2対のドアが並ぶ。廊下の真ん中で身を寄せるように隣り合う造りになっているのは、奥行きのある長方形の間取りのせいだろうと察せた。蛍光灯の照らす廊下の突き当りには、非常階段が夕陽を赤く浴びる。
右手の壁の、奥のドアノブ――プレートは空白――に尋絵の取り出したカギが挿し込まれる。
がちゃり。
ドアを引いた尋絵が、玄関に入ってすぐの壁にあるすいっちを押した。果たして暖色系のオレンジ色の証明が灯る。
「ゆっくりしてってよ」
「って、おまえんちじゃねーだろ」
石張りの玄関に木製の靴箱。スリッパスタンドには4足のスリッパが差されている。そこから尋絵は2足抜くと1足を突っかけ、スタスタと上がり込んで行った。
「猫に小判」
靴箱の上に置かれた、招福と書かれた小判を首から下げた招き猫をチラ見し、麻生もスリッパに履き替えた。起毛のスリッパはフカフカしていて、履き心地は良かった。ピンク色なのが気に入らなかったのだが、残る2足のスリッパはと言うと、緑と紫――消去法でピンクをキープ。
廊下を進んで左に折れると居間だった。キッチン、食器棚、テーブルにテレビ。壁にもたれた本棚にはマンガ本が前後2段構えでぎっしりと身を詰めていた。
「――わっ!」
「どした?」
居間の向こう――カーテンで仕切るその奥を覗いた尋絵が、しきりに手招いていた。きれいに整頓された部屋を突き進み、促されるままにカーテンの向こうを覗き込んで、
「うおっ!」
麻生も驚いた。
大きな猫がいた。
もとい。玄関の招き猫をそのまま大きくしたヌイグルミがベッドの上に鎮座し、こちらを見つめていた。
「何だこりゃあ……」
見たところ麻生の胸元まであるであろう身の丈の、招き猫のつぶらな猫目に圧倒される。クローゼットが2つ並ぶ寝室に、そいつはあまりにそぐわない。
「そーだ」
恐る恐る踏み入った麻生の背中に、尋絵の声がかかる。
「梨香って招き猫が好きなんだった」
「どんだけ福に貪欲な女だ」
小奇麗な部屋をぐるりと見回す。出窓に招き猫のペア、枕元に招き猫の目覚まし時計、招く腕にリングをかける置物もあった。思い出してみれば、居間のテレビやケーブル、キッチンにも招き猫の姿があった。
考えてはいけない事を考え、口にしたくない言葉を口にする。
「ひょっとして……カレシさん、あまりの不気味さに逃げたんじゃ」
招き猫の隣に腰掛ける。ダブルベッドはいいスプリングだった。
「2人そろって招き猫が好きみたいよ。2人で招き猫片手に仲良く撮ったプリクラ、私もらったし」
「もう突っ込みようがねーな」
丸く膨らむ猫の後ろ頭を撫でていた麻生は、ふとベッドに転がっている物を見つけた。
「2人が幸せならいいじゃない。――さ、早く梨香の服を持ってってあげよ。替えの下着もないんじゃかわいそうだ」
クローゼットからブランド物のバッグを取り出し、尋絵は荷造りを始めた。もう1つのクローゼットはカレシの物だと聞いた事がある。しかし今、その戸を開くべき人間は目下消息不明。どこで何をしているのかわからない。
もしも。
このまま彼が帰って来なかったら――その時、梨香はどうするのだろう。以前の尋絵がそうであったように、今の梨香は恋人にべったりだ。皆の前でこそ明るく振る舞っているが、胸中に侵食している不安を少しでも忘れようと努めているのが、尋絵にはわかる。
鬼気迫る声音での留守番メッセージ。
それを聞いた直後の彼女の取り乱しようを、麻生たちは知らない。
得体の知れない恐怖と不安が混濁し混乱する脳は悲鳴と狂乱しか指令しない細胞の塊に成り下った。涙なのか、鼻水か涎か汗なのかも判別が付かなかった。すがる声は悲鳴で、すがる腕は暴力でしかなかった。水平を維持している天秤から片方の分銅を取れば、当然その腕は傾ぐ。唐突に片割れを見失った梨香の精神もまた、均衡が幻となった。
――でないの電話に出てくれないの、どーして出ないの出てよ出てよ出てよぉぉぉ!!
かけどもかけどもつながらない携帯電話を振り回し泣き叫ぶ梨香は、それでもリダイヤルを推し続けた。マニキュアの剥げた爪が白く、指先が赤くなるほど強く。
髪を振り乱す彼女を、必死に抱き締め続けるしかできなかった。
彼女の力になりたかった。友人を支えたかった。梨香を救いたかった。
そして、麻生に救いを求めた。
かつて尋絵を救ってくれた麻生に。
「――――――ね、アソー」
こんなもんだろうと衣類をまとめ終え、先程から黙り続けている彼を振り返った。
――ウイ〜ン、ウイ〜ン……
尋絵に背を向け、手にしたバイブと同じように首を揺らす麻生を見た。
「黒くて太くて、な、何じゃこりゃあ」
凝視しながら呟いていた。
「あんたは何してんのォォ!?」
即座に背中を蹴っ飛ばす。
「いって!」
「他人んちに上がって勝手に遊ぶな!」
「ちょっと待て! 俺はこれが何なのかと……!」
慌てる麻生の手が何の拍子にか、バイブのダイヤルをMAXに回した。
――ウィンウィンウィンウィンウィンッ!
「おぉぉぉ! 手が痺れるぅぅぅ!」
ベッドでのた打つ麻生。
「うるさい!」
激しく揺れるバイブを放そうともしない手から、強引にもぎ取った。スイッチ、オフ。
「梨香さん……あんたはスゲー。スゲーよ」
興奮で息も絶え絶えな麻生へ一言。
「本気で死んだ方がいいよ、あんた」
――入院生活に必要だと考えられるものをバッグに詰め込んだ後、2人は早々に部屋を出た。まさか主のいない家でゆっくりとくつろぐには気が引ける、目的さえ遂行すれば長居する必要もない。
「犯人は現場に2度現れるっつーけど」
予想通りバッグを持たされ荷物持ちと化した麻生は、ドアをロックする尋絵に何ともなく言った。
「それらしいヤツなんて見なかったな」
「自分で刺しといて、それでも家を張る理由なんてある?」
「井延耕佑が戻ってくるかもしんねーじゃん」
「梨香をホテルに移動させてんのに?」
「犯人がそこまで知ってっかよ」
「あそっか」
肩を並べてエレベーターに乗り、1階に降りるとオートロックの自動ドアをくぐり――――異変に気付いたのは尋絵だった。
「腹へったー。メシ行こーぜ、メシ」
「アソーのオゴリなら」
「うわー、搾取って言葉知ってる?」
「上納って言葉なら知ってる」
「ソープ嬢ってのはみんなそうなんかい」
「……何あれ」
「腹へったー」
なおも空腹を訴える麻生の手を引っ張る。
「あんだよ?」
足を止め振り返った数歩前で、尋絵が指差したのは――
「……あれ」
呆然とする彼女の指先を辿った視線――2列×5列の郵便ポストだった。アルミ製の光沢にピンクが混じった……ピンク?
麻生の目が見開く。
『FUCK YOU!』
スプレーで書き殴られたピンクの文字。ポストだけで収まり切らず、暴れ回るように壁にまではみ出していた。陰湿な悪戯にも思えたが、露骨なまでの敵意を隠そうともしない文字。
――カランッ!
2人の首がドアの向こうに引っ張られる――夜の帳が迫る夕闇の中で、何かが動いた。
「頼む!」
言うが早いか麻生が駆け出す。道路に出てすぐ右折――はるか前方を走るスーツ姿を追った。距離は5メートルほど。足の速さは……追い着ける!
何の目的でここにいる?
あのスプレーはおまえか?
投げ付けたい質問を頭の中で繰り返し駆ける。スーツの人影が脇道へ飛び込んだ。麻生は体ごと体重を横に倒し――
――キキィッ!
「っとお!」
目の前に飛び出した車に慌てて身を引く。
迷惑な視線をあからさまに残して――おまけに舌打ちしたのも窓越しに見えた――学生と思しき男の駆る車は走り去った。左ハンドルだったのが気に食わなかった。
「…………あーあ」
なおかつ、追っていた人影を見失うという失態付き。住宅街を抜ける道では、先のスーツ姿が律儀に待っていてくれるような事もなく。
「――くそっ!」
電信柱を蹴っ飛ばした。
おまけに。
「……………………」
マンションに戻った麻生を待ってくれていたのは、スプレー缶とバッグと、尋絵の携帯電話だった。
道路に転がるスプレー缶――振り向くきっかけとなった物音の正体なのだろうが――衝動と力に任せ蹴り上げた。縦回転で放物線を描きながら草むらへと消える缶を背に向け、マンション入り口に放置されたままのバッグへと歩み寄る。程よく膨らんだその上にご丁寧に載せられた携帯電話が――
――♪〜♪
鳴った。
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