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scene10 覇王別姫
覇王別姫・1

 源龍ら一行が華山に赴いている間に、広武山でにらみ合っていた楚漢両陣であったが。決着のつかない、泥沼化する長引く戦況に両軍ともに疲労は甚だしく、和睦のやむなきにいたった。
 項羽は香澄を、虞姫を待ち焦がれつつも、和睦がなったことで楚に、ふるさとに帰ろうとした。 
 劉邦の漢軍も、一旦は広武山を下り四川に帰ろうとした。
 だが、途中で止まった。
「今こそ天のときでございます」
 張良が劉邦に強く言った。
「やむなきことにて一旦は和睦をし、休養をとり力をふたたび蓄える事ができるといえども、それは楚とて同じことでございます。楚が力を得れば、漢に勝ち目は万に一つでもなく。思い出してくだされ漢王よ、あの項羽の鬼神のごとき凄まじさを」
 劉邦は負傷の身をおして、軍師の進言に強く頷き、項羽の苛烈さを思い起こしていた。いままで、数十万という人間を殺し、戦場においてはまさに鬼神のごとき強さをいかんなく発揮し戦場に血の雨を降らせた。
 なにより、劉邦を目の上のたんこぶと、憎悪していた。
 そんな男と、共存できるはずがない。
「この和睦で、最期に利するは、楚となりましょう」
 最初こそしぶっていた劉邦だったが、張良がそう言い終えると、意を決して、
「やれ」
 と命じた。
 和睦の約を破って、楚の背後を突くのだ。卑怯であろうがなんであろうが、項羽という人間を相手に、そんなきれいごとなど、構っていられるものではなかった。
 それと同時に、韓信に斉王の位を与えるとともに出兵を要請し。韓信はこれに応えた。
 諸侯もこれぞ天のときと、漢に組し、一斉に打倒楚の旗を揚げた。
 虚を突かれた楚軍は混乱をきたし、ただひたすらに追い立てられ、討ち取られ。
 項羽血路を開かんと大薙刀を振るうも、奮戦空しく、戦友とたのむ楚の兵たちの数は減る一方であった。悲しいかな、項羽覇王といえどその少年の心、己に慢心してか相手の和を信じすぎたか。
 覇王として天下に君臨したのも、昔のこと、思い起こしたところで夢の如し。
 時とともに移ろいゆく、この己の変わりように、歯噛みする思いであった。
(なぜだ)
 楚の伝説的将軍、項燕の孫として生まれ。倒秦の旗頭であり、秦に代わって天下に君臨し覇王となった。
(この俺が、どうして)
 そんな問いかけも空しく、今はただ、血路を開くより他はなかった。
 とはいえ、さすが戦場においては鬼神のごとき項羽である。立ち塞がる者、ことごとく大薙刀に打ち払われ、血風渦を巻く。
 されど項羽の勇も無限ではない。討っても討っても、後から後から食らいつくように敵兵が迫りくることきりがない。
 項羽は大薙刀も自身も朱に染まりつつ、恨めしげに天を睨んだ。空は憎たらしいほど澄んで、太陽は光り輝いている。
「そうか、天が俺を殺そうとしているのか」
 覚悟を決めた。
 しかし、名残り惜しさがある。
(虞よ、最後にひと目会いたかった)
 ふるさとに帰りたい、と言った虞は、今どこで何をしているのであろうか。
 頭上で光り輝く太陽。虞も、今はふるさとでこの太陽を見上げているかどうか。
 だが感傷にひたる暇などなく、ひたすらに大薙刀はうなりをあげる。
 そのころ、左腕を香澄に断たれた源龍は羅彩女の手当ての甲斐あって、ようやくにして落ち着きを取り戻していた。が、目には光と陰がしきりに交差していた。
 死屍累々たる死の町の中にありながら、腕一本を断たれてしまえば、すぐに動けるわけもなく。家屋を一軒拝借し、そこで仮住まいをしながら静養につとめていた。
 羅彩女といえば、町の離れに穴を掘り。それに水朝優に麻離夷、貴志のなきがらを土葬して、木を掘った簡単な墓標を立てて弔った。
 凄惨な夜であったが、過ぎてみればまるで夢のようだった。
 屍魔は、反魂玉がなくなり、かつ共食いもあって、知らないうちに皆屍に帰っていた。そんな屍魔の転がっている様を見ると、けったくその悪さと、やりきれなさが募った。無論趙高ら秦の旧臣たちのなきがらは、放っておいて腐るに任せている。誰がこんな奴らを、弔ってやるかってんだと、死体に鞭打つことも数度あった。
 仲間たちを弔ってからは、かいがいしく源龍の世話を焼いた。源龍はつんつんとはにかみつつも、傷の癒えまだ浅く、羅彩女に世話されるに任せざるを得ず。数日が過ぎた。
 そんな時に、貴志が韓信から賜った駿馬、回七が町に戻ってきた。水朝優の手からはなれ、屍魔たちから命からがら逃げ出した回七であったが、主が恋しくなって戻ってきたのかもしれない。
「こりゃあ丁度いいところに来たねえ」
 と羅彩女は今度は逃がさずとしっかりつかまえ、自分の愛馬にすることにした。当初は、主と違う人間につかまって戸惑う回七であったが、さすが匈奴の血を引く羅彩女、馬の扱いには長けたもので、すぐに乗りこなした。それから、
「あんたの主さまはねえ、死んじゃったんだよ……」
 と貴志の墓につれてゆき、墓参りをさせた。馬も人の言葉が、心が伝わるのか、鼻先を貴志の墓にちかづけ、さらに盛った土にも鼻先を近づけ。その中に眠る貴志に何かを伝えようとしているようだった。
 さすが羅彩女もこの時は下馬して手綱を指先で優しくつかんで、もう片方の手で回七の首筋を優しく撫でていた。
 すると、回七は今度は隣にある麻離夷の墓にも同じことをした。
「ふたりは好き合っていたから、今ごろは、魂で結ばれて、仲良く旅をしているんじゃないのかい?」
 回七のとった行為に驚きつつ、胸打たれる思いだったとともに、久しぶりに、優しい気持ちになれた羅彩女は空を見上げた。
 清々しい青空が広がり、太陽も恵みの光を降りそそぎ光り輝いて。心も同じように清々しくなるようだった。
 その清々しさと言ったら、嫉妬の入り込む余地などなかった。素直に、貴志と麻離夷の魂が結ばれることを願い、祝福した。
(冥福を祈るとは、こういうことなんだろうね)
 と、しみじみと思った。
 回七は知っていたのだろう。貴志と麻離夷のことを。 
 ほんとうなら、ふたりで回七に跨って長城の向こうへ旅をしていることだろうに。ひょっとしたら、回七もそれを楽しみにしていたのかもしれない。
 もう貴志はこの世にないと回七はさとったか、以後は羅彩女の愛馬として素直に従った。
 それからまたしばらく町にいたが、やはり死屍累々たる死の町は、腐臭に覆われそれを嗅ぎ付けた蝿の群れにたかられ、いい加減出てゆかざるを得なくなった。
 源龍もだいぶ回復し、隻腕ながら股夫剣も振れるようになった。
 羅彩女はそんな源龍に、何かを目で語りかける。その切れ長の目におさまる丸く黒い瞳は、じっと隻腕の源龍を映し出して、瞳の中の源龍に自分の気持ちをつなげようとしている。 
「行くか」
 源龍はうなずき、そう言うと、那二零に跨って。隣には回七に跨る羅彩女がつづき。ふたりと二頭は、項羽と香澄を求めて旅立った。

覇王別姫・2

 血で血を洗う追撃戦は続く。
 楚の兵が道々で屍をこぼすように残していけば、それを道しるべに漢の兵やそれに組する諸侯の連合軍が血に餓えた獣さながら追いすがって、また楚の兵たちを食らうように討ち果たしてゆく。
 楚漢の軍勢が通り過ぎたあとは、楚の兵たちの血が河をつくり屍が山をなす、悲惨な情景をかもし出してきた。項羽の奮迅あれど、それも滅びのときをすこし遅らせるほどのものでしかなさそうだったが。
 天が我を滅ぼさんとしようとも、ただ滅びを待つような優しさは、項羽は持ち合わせてはいなかった。
 大薙刀うなりをあげて、覇王項羽ひたすらに血路を切り開いてゆく。
 そのときであった。
 ぶつかり合う鉄甲の山や渦より、一輪の花が咲くのを見た。
(あれは)
 何かの錯覚か、と思っていたが。それを見たとき、項羽の心にも花が咲いた思いであった。
「虞よ!」
 項羽は叫んだ。あらん限りの声で、虞よ、と叫んだ。
「項羽さま!」
 呼びかけにこたえるは、まぎれもなく、虞こと、香澄であった。
 滅びをさとった戦場で、待ち人は来たり。香澄は七星剣を振るい、立ち塞がる者たちを打ち払い、項羽のそばまでやって来た。
 漢兵たちは、突然現れた少女に驚きを隠せなかった。まるで風に遊ぶ蝶々のように戦場を駆け抜け、その紫衣、紫珠の北斗に光る七星剣は剣風を巻き起こし、これを阻もうとするものはことごとく血煙を上げた。
 戦況は、たった一人の少女の出現によって変わった。漢兵たちが、いつぞや、項羽の代わりに漢のつわものを討ち取った少女が現れたことに驚き、恐慌すらきたしはじめたのだ。
「仙女」
 ひとりがそう言うと、次から次へと驚愕は感染してゆき、ついには、
「楚に仙女あり」
 と今にも楚軍を揉み潰さんとしていた漢軍が慌てだす始末。後方で軍を指揮していた軍師、張良は前線からのそんな驚きの声を耳にして、やはりこちらも驚きを禁じえない。
 せっかくの有利な展開であったのだが、軍にほつれが生じそこから崩れてゆく危険性があったので、やむなく、
「引け」
 と命ぜざるを得なかった。軍を引かせながら、貴志に智之の言ったことを思い出し。
 仙女仙女と叫ぶ漢軍の兵たちの慌てぶりを見て。
(この世に神仙のたぐいの者は、まことにあるのか)
 と、それまで否定していた神や仙人というものの存在に惹かれている自分に、驚いてもいた。ともあれ、漢はあと一歩というところまで項羽を追いつめながら、殲滅の手を緩めた。
 これに楚軍や項羽が気付かぬはずはなく。楚の将兵のひとりが、
「覇王、今です。ここから垓下がいかの城まで、まっしぐらにお駆けあれ」
 とうながし、項羽もうなずいた。それから、ちらりと虞こと香澄を見やって、手を差し伸べる。
 香澄はくすりと微笑んで手を取り、項羽駆る駿馬、すいの腰の上に飛び乗り、そのたくましい背中に身を預けた。
(私は、もうすぐ屍にかえるのだ)
 項羽の背に身を預け、まっしぐらに駆ける騅の鞍上にあって、香澄は、命の火が燃え尽きようとしているのを感じていた。
 そんな香澄の出現により追いつめられた項羽と楚兵たちは、かろうじて垓下がいかの城まで逃げることが出来、防戦もしやすくなった。が、しかし、窮地を脱したとは言えなかった。
 城の四方八方から、漢に組する諸侯の連合軍がこれを包囲してゆく。その中に、韓信の姿もあった。
 垓下の城の外、見渡す限りの包囲網。数をかぞえるなど、そんな気も起こらぬほど。それに対して、楚は……。
 かつて三万で五十万を越える漢軍を追い散らしたことがあるとはいえ、当時と今とではあまりにも状況が違う。
 楚の兵たちは皆長年の戦いに疲れ、傷つき、そこへ漢の奇襲を食らい、かつての強さは影を潜めていた。
 今こそ総攻撃をかければ、と漢の誰もが息巻いた。だがそれを止めるものがあった、韓信であった。
「楚兵侮るべからずです。追いつめられた彼らは手負いの獣となって、我が方に甚大な被害をもたらしましょう」
 と言うのである。
 劉邦はあと一歩というところで水を差されたようで、苦い顔をしたが、項羽の強さを思ったとき、韓信の言もっともなことだと思い至り、平静を取り戻した。
 連合軍は巨大なまでに膨れ上がった。だがそのほとんどが日和見で漢についたに過ぎず、その忠誠心はいまだ計りがたい。下手をすれば、また過日のようなことが起こらぬとも限らない。
「ではどのようにすればよいのか」
 と、問う。
 韓信、斉王ながらあくまで漢の臣であると神妙に襟を正して言う。
「それがしに一計あり。まずは漢王、お聞きくださるか」
「聞こう。言え」
「されば……」
 韓信、じっと漢王劉邦を見据えて静かに言う。
 臣のその言、くうを震わせ君の耳朶に響きわたり。
 劉邦の瞳は、輝きを増した。
 夜になった。
 包囲軍は夜を昼にせんばかりにかがり火を焚き、月も星もない闇夜から垓下の城の姿をすくいだす。
 城壁の石淡く照らし出され、それより魂が浮かび上がって夜空に飛んでゆきそうな趣であった。
 風はなく、城壁に立つ楚、項の旗。力なくしおれる。
 それでも韓信は、城の中にいまだ衰えぬ光があることをさとっていた。それこそ、覇王項羽であった。
(思えば……)
 劉邦より作戦の一切を任されている韓信は、垓下の城を眺めながらふとふと考えることがあった。
(源龍のやつは項羽と闘いたいがために、楚を離れて、俺のやった剣ひとつで江湖にくだったのだな)
 脳裏に浮かぶは源龍のことであった。楚軍時代から今までにかけて、心許せる友人といえば、源龍ひとりだけであった。もし、源龍が妙な気を起こさなければ、今ごろはあの城の中にいただろうか。
 となれば、源龍も敵となったであろうか。
(否! 哀れ源龍、我が敵にあらず)
 韓信はあっさりと否定した。源龍は、所詮は剣一本のみをたのみとする剣士でしかなく、戦場において軍隊を率いる才能もなくば、帷幕にあって兵法を練ることも知らない。ただ、剣のみの男である。
(どの道、生き延びられない人間だったのだ)
 真っ暗な空を見上げた。ふうー、と長いため息をついた。
 張良から聞いた、彼は密命を帯びて出向いたきり、何の音沙汰もないと。今ごろは、どこかで、屍を野にさらしているのか。
 蒯通が、消えた。斉王となって間もなく、どうしてか知らないが、突然気が狂って、失踪したのだ。しかし後から思えば、蒯通の気の触れる兆候はあったのではないか。例えば、王になれとしきりに薦めた上に、独立せよとまで言った。もっとも、蒯通の助言を聞いたのは王になるところまでで、独立はしなかったが。
 そして、源龍を遠ざけるようなことを言ったのも、そうではなかったか。
(俺は狂人の言うことを真に受けて、源龍を遠ざけてしまったのか)
 と自責の念に駆られもしたものだった。よもや政治参謀であったほどの男が、そのようなことになろうとは思いもよらず。かといって、後悔先に立たず。
 斉の王となった。しかし、王となったのに、心は晴れず。今まで必死になって死地を潜り抜けながら闘ってきて、その果てに、何があるのであろうか。
 気がつけば、王の位は得ても、心許せる友はなし。
 韓信はかがり火のとどかない、夜闇の向こうを見据えた。
(あの夜闇のように、何も見えぬ。俺はこれからどこへと行くのか、見えぬ)
 自分は、自分でも想像のしえないほどの、大きな歴史の渦の中に飛び込んでしまったのではないか。それはあまりにも大きくうねって、韓信ですらそれにねじられて、どうにでも出来るものではなかった。天命、というか、そういった実体のないものに、どのような兵法が通用するというのか。
 源龍は、蒯通は、そんな自分と関わろうとしたために、こんなことになってしまったのだろうか。
 ともあれ、もうすぐ覇王は滅ぶ。で、その先は……。
 見えなかった。
「むしろ江湖の一剣客として、風任せに生きられた方が、幸せであったのではないか」
 などと夜闇に語ったところで、もう後戻りはできない。
 自分には、やることがある。韓信は観念して、軍務にとりかかった。
 覇王生けるかぎり、力なきかに見える楚兵たちはいつでもその心を奮い立たせて戦うことが出来る。
「その心を、完膚なきまでにくじかねばならぬ」
 それこそが、この戦いに勝てるかどうかの肝要なところと、韓信は見た。心くじければ、どのようなつわものとて剣を振るうことはかなわない。
 では、何をもって心をくじくか。
 韓信は配下から包囲軍の状況をくまなく聞き取り、これから遂行する作戦について綿密な打ち合わせを行った。

覇王別姫・3
 
 項羽とともに垓下の城に入った香澄は、奥の部屋をあてがわれて。休息をとるでもなく、人形のように静かに座っていた。椅子には七星剣がかけられていた。
 何もない殺風景な部屋に、灯火がひとつ寂しげに灯されていた。その灯火に目をやれば、それはか細く今にも夜の闇の中に溶け込んでゆきそうだった。
 項羽の愛妾となれば、もっときらびやかな部屋をあてがわれそうなものだったが、争乱で荒れ果てた小さな城では、そんな贅沢は許されなかった。
 項羽は篭城の指揮を執りながら、各所を回って篭城の兵を励ましてまわっている。
 項羽の励ましを受けながら死んでゆく者たちもまた多くあった。楚兵のほとんどは、それまでの漢の追撃のために傷ついていた。
 しかしながら、身も心も散々に踏みつけにされた楚兵ではあったが、熱き風めぐるような項羽の励ましを受け。
「せめて漢兵をひとりでも多く道連れに」
 と熱き風を受け、心血をたぎらせていた。
 その心血たぎって城中に溢れかえろうとするのを、香澄は肌で感じ取ると。たぎる心血に火照ってか、途端に心に渇きをおぼえた。
 そのとき、ふっ、と憎悪に満ちた源龍の姿が脳裏に浮かんだ。
 彼もまた同じように、心に渇きをおぼえていたのだろうか。最初はわからなかった。俺にはこれしかないんだ、と言って剣を向けた彼のことを。
(俺を殺してくれ!)
 そんな言葉が閃いた。彼は、香澄に斬り殺されようとしたのだろうか。
 剣で死ぬことを、源龍は望んだのか。
 一太刀で始末は出来たはずだ。でもそれをせずに、腕一本で済ませた。
 なんとなく、そうした方がいいと思ったから。
 だけど今、心の渇きをおぼえて、ようやくにして源龍の気持ちが少しでもわかったような気がする。
 源龍はどうするだろうか。
 片腕を断たれてもなお、香澄を求めて剣を挑みに来るだろうか。
 また、自分と闘おうとするのだろうか。それを聞こうと思ったが、やめた。もう、自分には時間がないのだ。
 消え去ろうとする命の火を感じながら、香澄は心の渇きをおぼえて、おさえられずに。椅子にかけていた七星剣を手にとって。
 項羽を求めて部屋を出た。
 項羽を求めて、城中をさまよった。傷ついた楚の兵たちがたくさんいた。これで闘うことができるのだろうか。しかし、彼らの目には光りが宿っていた。その目の光るを見て、残り香のように、項羽より迸り出る熱き風も感じられた。
 人々は、項羽の愛する虞姫が剣を手に城の中を駆けるを見て驚き、何事でございますか、と声をかけようとしたが。皆すべて、風のように駆ける香澄に置いてけぼりにされた。
 ただ香澄は項羽のみを求めて、駆けた。
 そのとき、耳に入り込むもの。
 城の外から流れ込むようにして聴こえてくる、楚のうた。
 これには、香澄も足を止めて、うたに聴き入った。
 うたを聴くにつれて、それまで城中にたぎっていた楚兵の心血によどみが生じてきているのを感じ。
 光りをおびていた楚兵の目には、かわって涙が溢れていた。
 ひとりでも多くの漢兵を道連れにせんと輝いていたその目が、涙に濡れていた。
「母さん、母さん」
 若い楚の兵が、そうつぶやきながら泣いていた。剣を、まるで母親に甘えるように抱きしめて、ぶるぶると震えていた。剣を握る手も、その泣き顔も、血がこびりついていた。その顔の血は、涙で洗い流されてゆき。涙は、顎から剣を握る血塗れた手に落ちて、はじけた。
 香澄の中でも、何かがはじけた。 
 知らず知らずに、目に涙が溢れて、頬をつたい流れ落ちてゆく。
(自分は何者なのだろう)
 そんな、素朴な疑問。
 答えなど出ない。だけど、その疑問が香澄の中で繰り返される。
 項羽の残り香のような熱気は、うたに払いのけられていっている。
 その追い払われる熱気とともに、香澄は駆け出し項羽を求める。
 小なりとはいえ城の中をめぐるとなると、そう簡単に項羽は見つけられない。そんな香澄を追うように、楚のうたが背後から聴こえてきて。それは駆けようとも駆けようとも、逃げ切ることが出来なかった。
 これが実体のあるものなら、七星剣で斬り払うというのに。
「項羽さま、項羽さま」
 もはや泣き声となって、喉よりその言葉を搾り出す。
 溢れる涙はとどまることを知らなかった。
 今まで流した血が、涙にかわって香澄から溢れているのか
 命の火は消え去ろうとしているのに、涙のとどまることはなかった。
 項羽を求めて、城中を駆け回る。紫の衣がなびくその様は、まるでうたに引かれているようにも見え。ほんとうに引かれているのか、香澄の駆ける足どりがゆるくなっていき。
 ついには、足から力が抜けて転んでしまった。
 手にした七星剣は、手を離れて飛んで、乾いた音を立てて地に落ちた。
「ああ」
 地に伏したまま、横たわる七星剣を見て、香澄は終わりの近いことをさとった。
(せめて項羽さまにひと目……)
 はいずりながら七星剣を手に取ろうと足掻く。力が入らない。なにより、不思議な眠気が香澄をおそってきた。
「待って、もう少しだけ待って」
 懇願するようにつぶやいた。
 ……、何に懇願しているのだろう。
 だが懇願の甲斐あってか、どうにか七星剣を手に取り、それを杖がわりにして立ち上がりよろよろと歩く。
 紫の衣の袖は垂れて、裾は引き摺られていた。それでも聴こえてくる、楚のうた。
 項羽はどこで楚のうたを聴いているのだろうか。楚のうたを聴いて、どう思っているだろうか。
「漢はすでに楚を平定したというのか。なんという楚人の多きことか」
 うたとともに耳に入る声。
 香澄は目を瞠って声のする方角を見れば、紛れもない、声の方角から項羽が楚将を数人引き連れこちらにやってきて。行く先に香澄があるのを目にし、驚きに我を忘れて駆け出す。
 安堵感からか香澄はたおれそうになって、項羽はあわてて抱きかかえた。
「項羽さま」
 香澄は項羽の腕の中で微笑んだ。
「虞よ、いかがいたしたのだ」
 しかし香澄は微笑んだまま、何も言わない。異変を感じた項羽は配下にあとをまかせ、己は香澄をかかえて、あてがっていた部屋へと行った。
 部屋は召使いの女たちが慌てて行ったり来たりを繰り返し、虞姫はいかがされたかと心落ち着かぬ様子。灯火は下女たちの慌てる様につられてか、しきりと大きくなったり小さくなったりしながら揺らいでいて。さらに城外より流れ込む楚のうたにも揺らいでいるよう。
 虞姫は部屋を飛び出し、楚のうたの流れ込むに、女たちはこの世の終わりが近づいたかと気が気でない。 
 そこへ、虞姫が項羽にかかえられて戻ってきた。項羽は女たちに下がるよう言いつけ、ふたりきりで部屋にこもった。
 項羽の腕の中で、まるで夢うつつの香澄ではあったが、
「これは、粗相をいたしました」
 慌てて己の足で立ち上がると、項羽の手に七星剣があるのを見て、
「あら、わたくしはいったいどうしてしまったのでしょう……。項羽さまにご面倒をおかけしてしまい、お詫びのしようもござりませぬ」
 としおれるように跪く。
「なんの」
 項羽、優しい声をかけ香澄の肘をささえて、椅子へと導き。七星剣を香澄に手渡す。その間にも、楚のうたはやまず。ふたりの耳朶に響いてくる。
 気丈を装う項羽ではあったが、楚のうたに何を思い、力なく椅子に座る人形のような香澄、虞を見てなにを憂うか。
 どのような情景が城内にあるのか、そんなことを考えながら、韓信は兵たちに楚のうたをうたわせていた。
 過日、源龍の連れの貴志と麻離夷が、頼まれて楚のうたを笛で奏でるのを見て。うたはいかなる人の心にもあることを、改めて知った。戦のときにも、平和なときにも、うたはつねに人の心に宿る。
 心奮わせるのもうたならば、逆もまた真なり、心をくじくもまたうたによる。長い戦役で傷つき疲れ果てた楚の兵たちが、ふるさとの、楚のうたを聴けばその心どうなるか……。
 夜を昼にするような多くのかがり火は、城を取り囲んで夜闇よりその姿をすくい出し。城はうたにゆらされているように、心なしか、幻のようにゆらぎ明滅しているように感じられ。まるで城そのものが一個の生き物として、うたに心打たれているようであった。
 それを遠く離れた小高い丘から眺める者がある。
 赤鹿毛に跨る隻腕の剣士と、それに付き従う女、源龍と羅彩女であった。

覇王別姫・4

 死の町より戦のあとを追いかけ、今しがたここに来たのだが。
 いよいよ楚漢の戦い終結するか、城を取り囲む漢の大軍。数える気もうせるほど、大地を埋め尽くし。今にも城を揉みつぶそうとしている。それが、何を思ったか楚のうたを大合唱していた。
 さすがに源龍も、これが韓信の策によるものだとは思いもいたらなかったが。もはや韓信のことを特別にどうこうと思うこともなかった。香澄に腕を断たれるとともに、韓信への友情の思いもどこかへと断たれ、飛ばされたようだった。
 ぞのくせ股夫剣はずしりと重い。
 それに重なるように、楚のうたが心にずしりと重かった。
 剣士として項羽との闘いをもとめて江湖にくだってから、今に至るまで。よもや香澄と出会い、また屍魔と戦い、その果てに片腕を失い。それでも香澄と項羽を求める自分がいる。
 今までのことが、明滅しながら脳裏に浮かぶ。
「ねえ」
 大軍の気風に押されてか、羅彩女はそっと源龍に耳打ちする。
「これからどうするのさ」
 大軍のために、自分たちの出る幕はないのではないかと、羅彩女は思うのだが。源龍がそこまで考えているかどうか。
 この男は片腕のもげた木偶のように那二零にまたがり、じっと大軍取り囲む城を眺めていた。
「さあ」
 夜闇に吹くよそ風とともに、源龍はそう言ったきり、押し黙り。
 馬を降りて、右手を地に着け、足を投げ出してすわって、楚のうたに聴き入って。羅彩女もそれにつづいて、隣にすわる。
 ちらりと、源龍を見れば、そよ風に吹かれて、左の袖はゆらゆら揺れていた。そよ風の運ぶ楚のうたとは無関係に、我が道を進むように、うたの音律に乗らず。
 風任せに揺れていた。
 地を覆う大軍のかがり火は、真っ暗な夜闇の中に無数に灯り。それが、かがり火より救い出された垓下の城を十重二十重に取り囲んでいて。まるで雲に隠された星たちが地から湧き出て、地上に銀河を形成しているようにも見えた。
 垓下の城は銀河の中。無限に広がる大宇宙に放り投げられてしまって、今にも飲み込まれてしまいそうだった。
 そこから楚のうたが大合唱されている光景は、端から見れば異様でいて、腹に響きわたってはらわたから脳髄にかけて、強く手を添えられているようだ。
 楚の兵の心をくじくためにうたわれる楚のうたは、おおいに感傷的にして、怨念をも含んでいるように聴こえ。それを聴く楚人は郷愁と哀惜に心焦がされ。楚とは風土の違う匈奴の生まれの羅彩女でも、楚のうたを聴くにつれ、言いようのない心のむずがゆさを感じずにはいられず。
 こと楚生まれの源龍がじっとしているのは、ひとえにこのむずがゆさを堪えるためなのかも知れない。
 城内の項羽は、どうするのだろう。ともすれば、堪えきれずに自害する恐れもあった。源龍に恐れるものがあるとすれば、それだった。
 事実、項羽は最期をさとっていた。ともに、虞ののちのことも、憂えていた。
 ふるさとよりいまだ遠く離れた垓下の城で聴く楚のうた。
 項羽の心は麻のごとく乱れ、少しでも油断すれば衝動的にすべてを破壊しそうになるほど。ともすれば、虞すら壊してしまいかねなかったが。項羽の中の十五の少年が、それをかろうじて抑えていた。
 だが、それもいつまで持つのか。
「虞よ、そなたには、苦労をかけた」
 香澄、虞の頬にのこる涙のあとが、項羽にはいたたまれなかった。
「……」
 香澄無言。いまにも深い眠りにおちいりそうであった。それが項羽の心をさらにえぐった。どうにも様子がおかしいが、まさか屍にかえろうとしているなど、夢にも思わない。
 それでも、項羽のさとるところはあった。
(虞も、もう生きてはいられまい)
 一見傷も負ってはいないが、病なのかどうか、彼女から命の雫が一滴一滴と漏れこぼれて、今にも涸れ果ててしまいそうな雰囲気であり。それに対して、言葉もなく。たた受け止めるより他なく。
 深くはわからずも、もうすぐ、虞の命は果てることを項羽は直感し。
 おもむろに剣を抜き、剣舞を舞い。
 うたう。
 項羽剣を振るい、舞うたびに、剣風巻き起こり灯火は激しく揺れ。それにつられて影も激しく揺れた。
 うた声は外より流れ込む楚のうたをすべて覆いつくし、うた声響くこの間こそが世界のすべてであり。この世には項羽と、香澄こと虞しかないようであった。

力拔山兮 氣蓋世
時不利兮 騅不逝
騅不逝兮 可奈何
虞兮虞兮 奈若何

力は山を抜き 気は世を蓋う
時は利あらずして すいゆかず
騅ゆかざるは 如何とすべきも
虞や 虞や 汝を如何せん

 剣舞を舞いながら、虞への想いを激しくうたい上げるその様。言葉こそ悲痛に満ちていたが、項羽は十五の少年に戻って、ここに晴れて憧れの少女に、己の想いを告げていた。
 最後のひと振り、剣風が香澄に触れる。
 いまにも屍にかえろうとしていた香澄であったが、触れる剣風に生命を呼び戻されたか。ゆっくりと目を開き、顔を上げて項羽を見つめると、七星剣を手に取り立ち上がって。
 さきほどの項羽にかえすための、剣舞を舞って。
 うたをうたった。
 ひらり、ひらりとひとひらの蝶々のように舞う、剣の北斗七星。紫の衣ひらめき、風に遊ぶ花のようにゆれ。
 可憐なうた声、そよ風のように流れる。
 
漢兵已略地
四方楚歌聲
大王意氣盡
賤妾何聊生

漢兵すでに地を略し
四方に楚の歌聲うたごえ
大王の意気 きたれば
賤妾せんしょうなんぞ生をやすんぜん

 香澄の命は、風前の灯火。
 だが灯火は、最期の一瞬に強く光りを放つ。
 その光りに照らされるように、項羽は知らずに恍惚と香澄の舞を見つめていたが。その舞う七星剣を見、五体に雷落ちるがごとく衝撃が走った。
 その舞は、ただ美しいというだけでもなく、覚悟を決めた潔さや悲壮感だけでもない。
(これは)
 香澄の剣舞を目にし、項羽は震えが止まらなかった。
 やがて、舞いは終わる。
 香澄剣を背にして跪くとともに、ひらめく紫の衣、蝶が羽を休めるようにしてさがり。顔を上げて、項羽に微笑む。
 それまでの間、永遠であったか、一瞬であったか。 
「おさらばでございます」
 香澄は最期の言葉を言い終えると、崩れるようにたおれ。七星剣は紫の珠きらめかせながら、乾いた音を立てて落ち、横たわる。
 項羽は慌てて香澄、虞を抱き上げようとするも、息はなく。とこしえの眠りについたことを、いやでもさとらなければならなかった。
 ここに、香澄は屍にかえった。

scene10 覇王別姫 了 
last scene 虞美人草 に続く
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