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第一章(3)
   第一章(3)


 結局、何も言い出せないまま一日が終わってしまった。
 蒼馬は、朝と同じように奈緒の少し後ろを歩いていた。帰り道が同じ、ということもあるけれど、それ以上の理由がある。
 いつもと同じ、けれどいつもと違う奈緒の後ろ姿を見ながら、蒼馬は首をひねった。
 今日の鈴木さんは、鈴木さんじゃないみたいだ。
 なんて言ったらいいかわからないけれど、
 何かが、違う。
 それはひょっとしたら、元に戻った、ということかもしれない。少なくとも今朝の鈴木さんは、以前の、
 僕を遠ざける前の、
 鈴木さんに、奈緒ちゃんに、近い気がする。
 だから蒼馬は、話しかけてみよう、と誓っていた。
 学校の塀が途切れると、そこからは公園だ。森と呼べるほどではないが、背の高い木が茂っていて日陰を作っている。もう少しして夏が本番を迎えると、この日陰がとてもありがたく感じられるようになる。
 その日陰に、奈緒が足を踏み入れる。こげ茶色の髪が輝きを失い、蒼馬は一瞬奈緒の姿がかき消されてしまったような焦りを感じて声を掛けた。
「あ、あの、鈴木さん」
 呼びかけられて、奈緒は振り向いた。笑顔で振り向く前に舌打ちをしたが、それはこの年頃の女の子としては特に珍しいことではない。
 奈緒は、ほほえんで小首を傾げ、「なに?」と答えた。本当は無視したいが、鈴木奈緒の人間関係を壊さないようにと配慮しなければならない。
 何年ぶりかに見る奈緒の笑顔に蒼馬は少し慌ててしまい、だから思っていたことが思わず口から出た。
「あの、今日の鈴木さん、ちょっと変…いつもと違うな、って思って」
「朝からずっと、あの、気分が悪かったの」
 気分が悪いと言われれば本気で心配してしまうところが、蒼馬の長所であり、短所だ。加えて、女子が気分が悪いと嘘をついているときに機転を効かせてさらりと流せるほどのスキルを、彼はまだ持ち合わせていない。
「大丈夫なの? ちょっと保健室で休んでいったほうがいいんじゃないの?」
「うん。大丈夫、気にしないで」
 奈緒は、少し困ったような笑顔を作ってそう言い残すと、そのまま立ち去ろうとした。
「また笑った…。絶対ヘンだ」
 蒼馬がつぶやいた、そのとき。
 突然、木々で休んでいた鳥たちが一斉に羽ばたいて蒼馬たちの頭上を抜けて行く。一瞬の間を置いて、ドン、と突き上げるような衝撃があった。
「わ、地震?」
 校門の方から聞こえてくる悲鳴に振り返ると、道路が裂け、弾けている。アスファルトの破片をまき散らしながら、亀裂がこちらに走ってくる。まるで目に見えない巨大な剣が道路を切り裂きながらこちらに向かってくるようだ。
 見えない剣は何人かの生徒や車をはじき飛ばし、轟音と共にまっすぐこちらに向かってくる。大きな揺れと鼓膜に突き刺さるような衝撃音が蒼馬の足をすくませる。
「うわあああああっ!」
 はじき飛ばされる、そう思った瞬間。
 何かが、視界を遮った。
 それは、鈴木奈緒の姿をした少女。
 少女は、一枚の護符ごふを取り出して目の前に放ち、それを空中で支えるように両手のひらを突き出した。その瞬間、
 少女の全身が、目に見えない剣の力を受け止める。
 どどう、という地面が割れる重く低い響きと、
 金属同士がぶつかり合うような鋭い響き。
 体が押し下げられるような風圧と、飛んでくる小石。
 蒼馬は頭を抱え、地面に伏せた。数秒間、耳元で風が渦を巻き、
 やがて奇妙なほどの静けさが訪れる。
 蒼馬が恐る恐る目を開けると、
 宙に浮いていた護符ごふが、シャン、と鈴のような音を響かせて粉々に砕けた。
 亀裂は、奈緒と蒼馬を避けるように二つに分かれていた。片方はブロック塀を崩して突き抜け、もう片方はずっと先の電柱をなぎ倒していて、その先は見えない。
「あ、あ、あ…あ?」
 蒼馬が伏せたまま呆けていると、頭上から奈緒の声がした。
「ふん、こんな護符ごふでも使えるものだな」
 それは確かに蒼馬が聞き慣れた奈緒の声だけれど、
 それは確かに蒼馬が聞いたことのないほど冷たく威圧的な口調だった。
「怪我はないか?」
 見上げた蒼馬の目に飛び込んできたのは、鋭く、強い、奈緒の視線。いつもの鈴木奈緒とは違う、殺気を漂わせた目つき。伏せたまま下から見上げているのだから、もちろんスカートの中が見えそうだったけれど、
 蒼馬は、奈緒の目から視線を外すことができなかった。
「蒼馬、人目につかないところに案内してくれ」
 奈緒は、蒼馬の腕をぐいと引いて立たせた。


   ◆


 公園の茂みの中に、二人はいた。
 蒼馬は、虫に刺されたらしい腕をぽりぽりと掻きながら、黙って奈緒を見ている。
 もちろん、話したい事はたくさんある。なにせ、今、奈緒の手のひらの上では、数珠が宙に浮き、くるくると回りながら光っているのだから。
 けれど、
「少し黙っていてくれ」
 鋭い目つき、厳しい口調でそんなふうに言われてしまっては、黙って見ているしかない。
 公園の外では救急車や消防車が行き交い、人々が右往左往している。そんなことには構わず、
 奈緒は目を閉じ、何かを念じながら集中している。が、
 やがて奈緒が長い息を吐くと、同時に数珠は光を失い、手のひらに収まった。
「ダメか。やはりこんな小さな禍玉まがたまでは、よほど近づかないと反応しないのか…」
 奈緒が顔を上げると、蒼馬がじっと自分を見ている。こみ上げてくる言葉をなんとか押さえ込んでいる、という様子だ。奈緒はその様子がおかしくて、少しじらしてから、「もうしゃべっていいぞ」と言った。
 蒼馬は、早口でまくしたてた。
「君は、鈴木さんじゃないよね? 目つきが怖いし、しゃべり方も変だし、それに」
 それに、鈴木さんが僕に笑顔を見せるはずがないんだよなあ。
「それに、なんだ?」
「それに…、その、変な力を持ってる」
 奈緒は、悲しそうな顔をした。
 変な力、か。確かにそうだ。
「そうだ。わたしは、鈴木奈緒ではない。訳あって、この体を借りている」
 蒼馬にはわからなかった。体を借りているということの意味が、ではなく、
 何者かが不思議な力を使って鈴木奈緒に乗り移ったのか、それとも単なる鈴木奈緒の妄想なのか、ということが。
 ふだんの鈴木奈緒を知っていれば、鈴木奈緒の妄想だという言われれば何の疑いもなくうなずくだろう。ただし、光って宙に浮く数珠を見ていなければ、の話だ。
 戸惑う蒼馬を見つめ、奈緒は心を決めた。
 関わらない方が良かった。けれど、関わってしまったからには、すべて説明する必要がある。
 この少女――鈴木奈緒の体を返したあと、支障がないように。これから周囲の者に何か迷惑をかけるかも知れない。常識を外れたことをしたり、言ったりするかも知れない。それは鈴木奈緒のせいではなく、わたしにすべての責任がある、ということを、説明する必要がある。
 ――もっとも、鈴木奈緒はもともと変人扱いされているような気もするが…。それはまあ、それとして。
「わたしは、この世に災いを起こす禍物まがものを追ってきた」
「まが…もの…? 災いって、さっきの地割れみたいな…?」
 蒼馬は、何人もの生徒がはじき飛ばされ、壁や地面にたたきつけられる場面を思い出し、震えた。
「そうだ。禍物まがものを眠らせ、災いから世を守る。それがわたしの、」
 わたしの、何だろう。
 少女は、言葉に詰まった。
 わたしの、罪滅ぼし。そうなんだけれど。奈緒は、それを口にすることができなかった。
「…わたしの、使命だ」
「本当に、きみは…、鈴木さんじゃないの?」
禍玉まがたまが浮いているのを見ただろう?」
 数珠を目の前にぶら下げられて、蒼馬は認めざるを得なかった。
「この禍玉まがたまはな、お前にもわかる言葉で言うと…」
 鈴木奈緒本人の癖で、少女は人差し指をくちびるに当てた。くちびるがふわと凹む。蒼馬の心臓がどくんと弾む。
「レーダー、だ。禍物まがものの気配を探ることができる」
 奈緒は立ち上がると、独り言のようにつぶやいた。
「わたしは禍物まがものを探さなければならない。お前は家に帰っておとなしくしていろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 蒼馬は立ち去ろうとする奈緒を引き留めようとした。
 しかし、奈緒の足を止めたのは蒼馬ではなかった。そこにいたのは、
「シィ…。聞いていたのか」
「何かおかしいと思ってね、後をつけてきたの。あたしに内緒話なんて通用しないわよ」
「聞いていたならわかるだろう。そこをどけ」
 押しのけようとする奈緒を、シィは仁王立ちのまま睨みつけた。
「奈緒の体を勝手に借りてる? そんなことが許されると思うの? あたしだって借りたことないのに」
「借り…?」
「今すぐ出て行きなさい。奈緒の体を返して」
 ――シィの言うことはよくわかる。けれど。
「わたしが行かなければ、この世は災いに飲み込まれてしまう。今はまだ地割れ程度だが、放っておけばどんな災いが起こるかわからない。そうなれば、お前も、この鈴木奈緒も、死ぬ。それでいいのか」
 シィはどちらかというときつい目をしている。奈緒は普段は伏し目がちで人と目を合わせようとしないけれど、今はシィに負けないくらい強い視線をシィに向けている。
 向かい合う二人に、蒼馬は怯えていた。
 この二人…、怖い…。
「まあ、」
 奈緒は少し目をそらすように言った。
「鈴木奈緒には、申し訳ないとは思う。でもな、わたしは自分の意志でこの体を選んだわけではないし、自分の意志で返すこともできない。わたしにできるのは、」
 視線をシィに戻す。ただし、伏し目がちに。
「無事にこの体を返せるように努力する。それだけだ」
「…訳わかんないね、あんたも被害者だって言いたいの?」
 ――そうだ、わたしは被害者で、加害者で。
 黙っていれば殴り合いが始まりそうな雰囲気だったので、蒼馬は恐る恐る口を開いた。
「あの…、シィ、さん…?」
「馴れ馴れしく呼ぶな! つかあんた、ひょっとしてあたしの本名知らないんでしょ?」
「ええと確か、きねつき…」
「あたしは餅か? 紀乃月ヶきのつきがはらだよ!」
「きき、きのねの…」
「きのつきがはら、だってば! って待てナオモドキ!」
 どさくさに紛れて消えようとしていた奈緒は、ち、と舌打ちした。
「悪いが、お前たちの漫才に付き合っている暇はない」
「あたしらのネタの途中で抜け出すとはいい度胸じゃないの」
「ネタじゃないでしょ」
「蒼馬は黙ってろ!」
「はい…」
 蒼馬は一歩下がって小さくなる。理不尽だとは思うけれど。 
「とにかくナオモドキ、お前に勝手なことはさせない」
「わからない奴だな。わたしにもどうしようもないんだ」
「ひっぱたけば元に戻るんじゃないか?」
「ふん、叩けるものなら叩いてみろ! 鈴木奈緒の顔だぞ、ほら」
「ねえちょっと二人とも」
「くっ…、卑怯だなお前! モドキのくせに」
「モドキって言うな! わたしはわたしだ!」
「あの、ほら、ねえ」
「本物じゃなければモドキだ! モドキモドキモドキ」
「お前だって杵つき餅じゃないか」
「ほらもう、そのくらいにしようよ」
「モドキモドキモドキモドキモドキ!」
「餅餅餅餅餅!」
「ねえ聞いてよ二人とも!!」
 柄にもなく大声を上げた蒼馬に、奈緒とシィは思わず視線を向けた。ただしその目は吊り上がったままで、蒼馬はびく、と後ずさる。
「あのさ、」
 蒼馬は、遠慮がちに軽く咳払いしてから続けた。
「僕と、ええと…、きね…」
 指さす方に、シィがいる。シィは明らかに落胆した様子でその指に応えた。
「…シィでいいよ」
「ゴメン。僕とシィさんで、…ええと…」
 指さす方に、奈緒がいる。シィは明らかにバカにした様子でその指に応えた。
「ナオモドキでいいんじゃない?」
「僕とシィさんで、ナオ…モゴモゴ…を手伝うっていうのはどう? どっちにしろ、その、マガモノ?をどうにかしないと鈴木さんの体は返してもらえないんだし、無事に返してもらうにはやっぱり手伝いがいたほうがいいんじゃないかな」
 一瞬の間を置いて、二つの声が重なる。
「無理だ」
「無理ね」
 奈緒は、蒼馬とシィに向かって突きつけるように言い放つ。
「まず第一に、お前たちには禍物まがものを探すすべがない。第二に、禍物まがものに立ち向かう術がない」
 シィが引き継ぐ。
「第三に、市村蒼馬、あんたは運動オンチの意気地なし。第四に、」
 ぎん、と奈緒を睨みつける。
「奈緒の体を危険にさらすなんて、あたしが許さない」
 沈黙の中で、思いが巡る。
 奈緒が行けば、奈緒の体は危険にさらされる。
 奈緒が行かなければ、この街は、この世は、滅びてしまう。もちろん、奈緒の姿をした少女の言うことが本当なら、の話だが、学校の前にできた地割れや宙に浮く数珠を見せられては疑う理由はない。もし、
 もし本当に、より大きな災いに襲われるのなら、
 危険にさらされる、だけではすまないかもしれない。
 シィも蒼馬も、答えはわかっていた。奈緒は、この少女は、禍物まがものを探しに行かなければならない。だから、
 奈緒は、沈黙を破ることなく、去ろうとした。赤いリボンをなびかせ、シィに背中を向ける。その時、
「ナオモドキ!」
 シィはいきなり蒼馬の腕を掴んで言い放った。
「あたしらも一緒に行く」
 え。
 蒼馬は、頭の中がぐるんと回ったような気がした。
「だって、僕たちには無理だってシィさんも」
「あたしに逆らうな!」
「はい…」
「あんたが無茶をしないように見張らせてもらうよ」
 シィが奈緒を睨みつける。
「ナオモドキ! あたしはね、」
 ぎり、とシィの奥歯が軋む。シィは小さな声で、すぐそばにいる蒼馬にさえ聞こえないような小さな声で、けれど視線は鋭く奈緒を突き刺し、絞り出すようにつぶやいた。
「あたしは、あんたまで失ってしまうわけにはいかないのよ…」
 奈緒は、
 シィから目をそらすように、公園を出た。


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