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第一章(2)
   第一章(2)


「まさか、こんなに苦労するとはな…」
 汗だくになって教室に着いた奈緒は、右手に持った枯れ枝を見つめた。通学路をくまなく探しても見つからず、遅刻ぎりぎりで校門に滑り込んだとき、植え込みの中でやっと見つけた枯れ枝だ。
 枯れ枝、木ぎれ。そこらへんで簡単に手に入りそうだし、事実、今まではこんなに苦労したことはなかった。けれど今回は、
 汗だくになって、やっと細い枯れ枝を一本、見つけただけだった。
 窓際の席で、かすかに流れ込む冷たい空気に汗をさらしていると、奈緒は声を掛けられた。鈴木奈緒と仲がいいのだろう、サヨ、という名前がすぐに浮かんできた。
「奈緒、おはよー。今日は遅かったね。…なにそれ?」
「あ、お、おはよう。あー、この枝? ええとええと」
「…あんた、ほんっとに変わってるよね」
 きゃらきゃらきゃら、と笑う。
 大丈夫、私は鈴木奈緒。怪しまれることは何もない。
 奈緒は、よくしゃべる友人の話に適当に相づちを打ちながら、授業が始まるまでの時を過ごした。
 授業が始まると、奈緒はまじめに授業を受けた。授業の内容はよくわからないけれど、あの黒板の内容を、皆がそうしているように、そっくりそのままノートに書き写す。
 ――こんなので勉強になるのか?
 教師は、ただ教科書を読み上げながらびっしりと黒板を埋め尽くす。何を教えるでもなく、要点を書き並べているだけだ。それなら、あらかじめ紙に書いて配ってくれればいいのに。
 それでも奈緒は、必死にノートを取った。今、授業の内容を覚えたところで、奈緒本体の記憶には残らない。だからせめて、あとで少しでも鈴木奈緒本人の役に立てるように。奈緒は、無断で体を借りている以上、その持ち主になるべく迷惑をかけないようにしよう、と誓っていた。
「鈴木」
 突然、教師から名前を呼ばれて、奈緒の体は軽く飛び上がった。体は勝手に反応したけれど、自分の名前を呼ばれたと頭で理解するまで数秒かかった。
「次の問題。答えは?」
「え、あの、ええと」
 黒板に書かれた慣れない文字を書き写すのに精一杯で、いま教科書のどこを開いているのかすらわからない。
「なんだ鈴木、授業聞いてなかったのか」
 その通り、と思ったけれど、正直に言っていいものかどうか。
「先生、奈緒はこの時期ダメですよ」
 手を挙げてそう言ったのはサヨだ。
「番組改変期だから、アニメの新番組チェックで寝不足なんだと思います」
 教室のあちこちから同意の声が聞こえる。おそらく真実なのだろう、笑い声も否定する言葉もなかった。教師は、深いため息をついた。
「もういい、座りなさい。今期は豊作だから仕方ない」

 授業が終われば、あちこちにグループができ、楽しく幸せそうな笑い声が響く。
 奈緒のところにも数人が集まり、他愛ないおしゃべりが続いた。
 左から順に、ヨーコ、サヨ、シィ。
 奈緒は、とりあえず名前だけは覚えておくようにした。シィは別のクラスだけれど、休み時間ごとに来てくれる。
 ときどきガンザブロウという人の名前が出てくるようだが、話の流れからはそれが誰なのかはわからない。落ち着いて記憶を探せば、少なくとも昨日までの鈴木奈緒が知っていることはわかる。しかし、そんな余裕がないくらいに話題が次から次へと変わってしまう。奈緒は口を開くことすらできなかった。
 それでも、
 楽しい。
 奈緒は、こんなに楽しい思いをしたのは初めてだった。
 マツリのときとは違う、日常の、幸せと、笑い。
「奈緒さ、今日はどうしたの?」
「…っ、え?」
 気づくと、三人の目が奈緒に集中している。
 奈緒は慌ててその理由を探す。
 大丈夫、余計なことは話していないはず。というより、彼女たちの話には口を挟む隙間がなかった。
 それなら、どうしてみんなが注目しているのか。奈緒にはその理由がわからない。
「な…、何か…、変、かな?」
「変よ」
「ど…、どこ、が?」
「笑ってる」
 ――?
「あたし、奈緒が笑ってるとこ見たことないよ。少なくとも、…ここ何年かは」
 シィの最後の一言が妙に慎重な言い方だったのが気になるけれど、他の子たちも、うなずいている。きっと、真実なのだろう。
 笑わない、奈緒。
 そう言われると、そう、
 今朝、目が覚めたときから感じていたものがある。
 心の、割と浅いところにある、触れてはいけない部分。奈緒自身となった体の借り手にすら、決して触れさせようとしない部分。おそらくこの子たちは、その部分のことを話している。奈緒が笑わない理由は、そこにある。
「まあ、アレでしょ。新しく始まったアニメが当たりだったとか?」
 なんとなく半分バカにされたような気がしたが、奈緒は「まあ、そんなところ」とだけ答えておいた。みんなの溜め息を聞いて、奈緒は、やっぱり半分バカにされていたことを知った。
 やがてチャイムと同時に教師が入ってきた。奈緒は教科書とノートを広げ、教師の話を聞き流しながら黒板の文字を書き写す。

 けれど、奈緒の意識はそこにはない。
 授業の合間に、他愛もないおしゃべりに時間を費やす友人たち。
 バカにはされていたようだが、それでも怒りは感じない。かえって、バカにされることが少しだけ心地よく感じる。
 それがたぶん、
 仲がいい、ということなのだろう。
 けれど。
 奈緒は、窓の外を見る。
 密集する家々、それを見下ろす高いビル。
 人々の群れの間を、高速で行き交う車。

 守れない。

 奈緒は、震えた。
 この街には、いったい何千、何万の人が住んでいるのだろう?
 災いが起きたとき、わたしは、
 この人たちを守れない。
 わたしにとっての昨日、大火で大勢の人が死んだ。
 今日再び、わたしのせいで、
 いったい、いくつの命が奪われるのだろう?
 奈緒は、自然に涙が溢れていることに気づいた。
 わたしじゃない。わたしが泣いているんじゃない。
 この体が、勝手に、泣いているんだ。
 奈緒は、勝手に溢れてくる涙を止めることができなかった。
「と、こうして革命は幕を降ろしたわけだ。ここは必ず試験に…、おい鈴木、どうした?」
 クラス中の視線が奈緒に集まる。
「奈緒…、どうしたの?」
「何かあった?」
「どっか痛い?」
 口々に心配してくれる友人たち。
 なんでもない、なんでもないとつぶやく奈緒の肩に手を置いてくれる子。
 赤の他人のわたしを、自分の友人の姿をしたわたしを、
 慰めてくれる優しい子たち。

 わたしは、

 この子たちを守れない。
 ただ、一人でも多く生き残ってくれるように祈るしかない。
 切ない。悲しい。情けない。悔しい。
 わたしは、

 わたしは、

 許されることのない罪を、

 重く背負っている。
 あのとき、自分の力を過信していなければ。
 わたしは罪を負わず、
 大勢の人が命を失うこともなく、けれど、
 そんな空想は、自分へのごまかしでしかない。

 毎日、毎日、毎日、
 眠って、目覚めるたびに、別の体を借りている。
 眠って、目覚めるたびに、世に災いがもたらされる。
 眠って、目覚めるたびに、わたしは、

 大勢の人が死ぬのを見ている。
 わたしの、せいで。

 奈緒は、とにかく落ち着くまでと保健室に連れてこられた。保健委員だからという理由だけでなく、心から奈緒を心配してくれる優しい友人に支えられて。
 蒼馬は、その姿を見送った。
 何度、声をかけようと思っただろう。鈴木さん、大丈夫? と。結局、蒼馬は黙って見ているだけだった。
「ダメだよなあ、僕…」
 蒼馬の自己評価は、いつも正確だ。これは、彼の長所でもあるのだけれど。


 ずっと泣いているわけにはいかない。
 奈緒は、保健室のベッドに突っ伏したまま枕で涙を拭くと、起きあがった。
 落ち着いたらそのまま早退できるようにと持ってきてもらったカバンの中から、家から持ってきたカッターナイフを取り出す。枯れ枝も一緒に持ってきてくれるあたり、律儀な友人で助かった。
「こんな小枝じゃ、禍玉まがたまも小さくなってしまうな…」
 父親から教わった呪文を小さく唱えながら、枯れ枝から器用に小さな十二個の球を削りだし、数珠を作り、手首にはめた。
「こんなので…役に立つだろうか?」
 本来は首にかけるくらい大きな輪にするものだが、小さな枝しか見つからなかったから仕方がない。奈緒はため息をついた。
 続いて、ルーズリーフ数枚を短冊状に切り分け、呪文を書きこんで護符ごふを作る。これも父親から教わったものだ。
 紙が手に入りやすいのはありがたかった。けれど、
 奈緒は、できあがった護符ごふをつまみ上げ、ひらひらと振った。
「大丈夫…、だよな?」
 護符ごふは、薄いパステルカラーのルーズリーフで作られていて色とりどりだ。全体に、デフォルメされたアニメのキャラクターがちりばめられている。
 呪文はサインペンで書かれていて、しかも奈緒本人の癖でその文字は丸っこい。それは威厳とか有難みとか神秘的とかいう言葉からは決定的にかけ離れている。少なくとも奈緒は、イラストが入った護符ごふというものを見たことがなかった。
「まあ…、呪文さえ合っていれば大丈夫、とは思うけど…」
 二十枚ほどの護符ごふを作り終えると、奈緒はそれをスカートのウエストに挟み込んだ。
「後は待つだけ、か」
 奈緒は、何度目になるだろう、口にしてはいけない言葉を、小さく、つぶやいた。
「このまま、何も起きなければいいのに」
 自分の罪から逃げることになるから、口にしてはいけない。そう誓ったのに。今日も奈緒は、何も起こらなければいいと、願ってしまった。
 横になって天井を見上げていると、ベッドを囲むカーテンの隙間から保健の千木田ちぎた先生が顔を出した。見た目は、若いというより幼い感じがする。顔だけを見れば生徒か、へたをしたらその妹と勘違いしそうだ。白衣を着てるからたぶん保健の先生、と推測できる程度で、保健室以外で会ったら何者かわからないだろう。
 千木田ちぎた先生は、鈴木奈緒にとっては「関わりのない人」らしい。奈緒は記憶の中を探ってみたけれど、この先生の名前が出てこなかった。
 先生は奈緒の顔を覗き込む。奈緒は、さりげなく視線を外す。先生の目の透明な輝きが、濁りも曇りもない微笑みが、痛い。
「鈴木さん、落ち着いたかなぁ?」
「あ、はい、大丈夫です」
 うそ。
 大丈夫なんかじゃない。わたしを救ってくれる人がいるのなら、すべてを捨ててでもすがりつきたいくらい。
「突然泣き出すなんて、どうしたのかなぁ? 何か…あった?」
 奈緒には答えることができない。本当のことを言ってもしかたがないし、うその理由も思いつかない。
「まあ、そういうことってあるわよね。先生もね、むかし飼ってた猫のことをたまに思い出して…。ううっ」
 そう言って目を潤ませる先生から、奈緒は目をそらした。なんとなくだけれど、この人とは合わない気がする。いきなり猫の話をされたって答えようがないし、なにより人を小馬鹿にしているようなω型の口が気にくわない。
「先生、いつでも相談に乗るからね? それとも…先生じゃ頼りにならないかなぁ?」
 奈緒は答えられなかった。名前も知らないちんちくりんな保健の先生が頼りにならないのは事実だけれど、
 頼りにならないのは、先生だけじゃない。

 誰にも頼れない、わたしの苦しみ。
 誰にも理解されない、わたしの使命。
 誰にも許してもらえない、わたしの、罪。

 先生の優しさが辛い。この人も、わたしのせいで死ぬかもしれないのに。
「先生、わたし、もう大丈夫です。ありがとうございました」
 奈緒は、先生の顔を見ていることができなくなって、保健室を出た。
「あ、ちょっと、鈴木さん、最後に一つだけ」
 立ち止まって振り返った奈緒に、先生は優しく猫を撫でるような声で言った。
「マンガの主人公に恋をするのは、べつにおかしいことじゃないからネ。先生にだって経験あるし。先生、鈴木さんの味方だからネ」
 ぱ…ぱち、とたどたどしく片目を閉じた先生に、奈緒は「はぁ」とだけ答えた。どうもこの鈴木奈緒という少女は、家だけでなく学校でも周囲に妙な印象を持たれているようだ。けれど、それは決して的外れではないのだし、わざわざ否定することもないだろう。
 どうせ、わたしはただの通りすがり。この体を返して眠りにつけば、もう二度とこの人たちと関わることはない。
 遠ざかる奈緒の足音を聞きながら、先生は鏡の前に立った。そこに写っているのは、だぶだぶの白衣をまとった、ちんちくりんな自分の姿。
「悩み事の相談に乗るのも、私の仕事なんだけどなぁ…。やっぱり、見た目がこうだからダメなんだよね。もっとこう、ばいーんと」
 胸元に丸めたガーゼを二つ詰めてみる。
「うん、そうそう、これこれ」
 腰に手を当てて満足げに頷いている。けれど、もしそこに誰かがいたなら、それが誰であっても否定するだろう。そういう問題じゃない、と。
 保健の先生は、その日の仕事が終わるまでガーゼを詰めたままだった。何人かの生徒が保健室を訪れたが、いびつな膨らみを見て誰もがほろりと涙し、心の中で「先生がんばれよ」と励ましたのだった。

 奈緒は教室に戻ったけれど、奈緒にとって教室の居心地がいいわけではない。
 取り囲まれる奈緒。決して語れない真実。存在自体が、うそ。
 奈緒は、先生が授業を再開するまで、大丈夫、大丈夫と嘘をつき続けた。
 蒼馬は(いつものように)少し離れたところから、奈緒を心配そうに見ていた。
 朝、いつもなら無視されるだけなのに、今日は笑っておはようと言ってくれた。
 昔のように、蒼馬と呼んでくれた。
 きょろきょろと辺りを見回し、枯れ枝を拾っていた。
 楽しげに笑っていたかと思うと、急に泣き出して。
 保健室から帰ってきたら、ひどくつらそうな顔で「大丈夫」とうそをついている。
 なにか、いつもと違う。
 いつもの鈴木さんじゃない。
 何かあったんだろうか?
 けれど、
 奈緒に話しかける勇気を、蒼馬は持っていなかった。