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第一章(1)
   第一章(1)


 まどろみの中からこんこんと湧き出るように、目覚ましのアラームが鳴り始めた。
 そっと耳を撫でるようにささやいていたそれは、少しずつ音量を増し、ついに最大音量で部屋中に響く。その段階になって、初めて少女は目を覚ました。
 枕元に向けて振った腕が、正確に目覚ましの頂点にあるスイッチを叩き、アラームを止めた。
「ん…」
 少女は自分の胸に手を当て、記憶の中から拾い上げた自らの名を、慈しむように、詫びるように、つぶやいた。
「鈴木、奈緒…」
 起きあがり、部屋を見回す。
「目が悪いのか。…やっかいだな」
 奈緒はベッドから下りると、机の上にあった眼鏡を着けた。
 はっきりした視界で改めて部屋を見回すと、窓の前に垂らした薄布からは朝日が漏れ射している。部屋は無機的で簡素な作りだけれど、調度や壁には、今まで見たことがないような華やかさがある。
 部屋の隅には、山のように雑誌が積んであった。奈緒は一冊を手に取り、ぱら、と開いて慌てて閉じた。
「こ…これは」
 奈緒は、誰もいないことを知っていたけれど周りを見回し、本当に誰もいないことを確認してから再び雑誌を開いた。
「ひょっとして、春画…というものか? …少し、想像していたのとは違うが」
 顔を上げると、壁じゅうに大きなポスターが貼ってある。
 どれもこれも、
 ――なんで、男どうしで絡まってるんだ?
 しかも、上半身裸で。
「まあ…、趣味は人それぞれだしな」
 言い訳のようにつぶやくと、明かりを求めてカーテンを開けた。
「っな」
 ここは真寄まより市のほぼ中心に立つ高層マンションの一室だ。かなり上の階にあり、奈緒の部屋からも真寄市全体を見渡せる。奈緒は、そこからの都市の眺めに圧倒され、今、間違いなく、
 数百年の眠りから、覚醒した。
「なんじゃこりゃあ!?」
 連なる巨大建造物、たぶん牛車の進化したやつ、うじゃうじゃとうごめく人々。
 ここ数回、目覚めるたびに世の中がだんだん騒々しく大がかりになってきている、というのは気づいていたけれど、
 これはちょっとその度合いが大きすぎる。
 ――ひょっとして、何千年か寝過ごしたんじゃないだろうか。
 奈緒は本気で心配したが、もちろん、こうして世の中が生きているということが、寝過ごしたのではないことを証明している。
「奈緒っ! いつまで寝てるの!」
「はいっ!」
 奈緒の体は、その意志とは関係なく一瞬飛び跳ね、着地と同時に部屋を飛び出し、食卓に向かってダッシュした。
 体とは正反対に、奈緒の心は冷静に分析する。
 ――今の声は母親か。母親の声に対するこの体の反応はそうとう素早かったな。ずいぶんと華奢な体なのでどうかと思ったが…、案外使い勝手が良いかもな。
 食卓まで、三秒。かなりの速度で走ったが、足音はほとんど聞こえなかった。これは奈緒が階下の住民に配慮するよう母親に厳しく言われて育ったからで、今では特に意識しなくても足音を立てない歩き方になっていた。
 食卓には、奈緒と母親のぶんの朝食が用意されていた。ホイップしたバターを添えたトーストと、ミルク。白い皿に映える青リンゴと、細く刻まれたハムを載せたサラダ。
 ――バターより、マーガリンの方が好きなんだけどな。
 奈緒は口をとがらせた。ただし、それは鈴木奈緒本人の嗜好だ。
 奈緒は、ちらりちらりと母親を見ながらトーストをかじった。いつものことだが、肉親には何か感づかれるのではないかと心配になる。もっとも、いつもと少し違う行動をとっただけで「ひょっとして中に別の人格が入っているのでは」などと考える者はまずいない。
 それはわかっているんだけど。
 しゃく、とリンゴを囓ってみる。じゅうっ、と果汁が口いっぱいに弾けた。さわやかな香りが鼻を抜け、心地良い酸味が舌の奥の方でくるくるとはしゃいでいる。一段落して残るのは、例えようのない恍惚感に満ちた、強烈な甘み。
「ほむぅ…」
 奈緒の母は、奈緒がいつものようにバターに対する文句を言わないことを不思議に思った。文句どころか、リンゴを食べてあんなに嬉しそうにしている。いつもは、半分寝ているようにもそもそと食べるだけなのに。
 けれど、母はもちろん「どうして今日は、バターは嫌いって言わないの?」などとは言わなかった。代わりに、言いにくそうに、とても言いにくそうに切り出した。
「ねえ奈緒? 部屋にある雑誌のことだけど…」
 ぶふ、と奈緒がミルクを吹き出す。
「いや、あれは」
「あんまり、人に見せられるものじゃないわよね?」
「あれはべつに」
「もうちょっと、女の子らしい雑誌を読んだらどうかなって思うんだけど」
「――っ」
 酷い、酷い屈辱だ。わたしはあんな本、
 あんな本、
 まあ、少しはその、「おっ?」とか思ったけど。
 あんな本、読みたいわけじゃない。ただ目が覚めたら山積みされてたんだ。
「だからね、奈緒ちゃん」
 恥ずかしさと悔しさで、奈緒は真っ赤になってうつむいている。
「あの本、捨てちゃっていいかしらね?」
「だっ、」
 立ち上がった勢いで、ミルクがこぼれてしまった。
「だめだ、勝手に捨てるな!」
 ぎょっ、と母が目を丸くした。
「捨てるな…んて、…だめ…だと…、あの、ええと」
「ごめんなさい、奈緒ちゃん。ちょっと言ってみただけだから…。気にしないでね」
「うー…」
 わたしが体を借りている間に大切な本が捨てられてしまっては、申し訳ない。
 そう思って母親を止めたけど、
 ――ひょっとして、よけい妙な印象を持たれてしまったかもしれないな…。
 すまない、鈴木奈緒。本は守ったから、許してくれ。
 思わぬ娘の反抗に驚いた母は、溜め息混じりにこぼれたミルクを拭き取った。
「…グズグズしてると遅刻するわよ」
「あ、はい」
 奈緒は、急いで朝食を終えると身支度を調えた。
 何を着たらいいのか、顔を洗うのに何を使えばいいのか、奈緒にはさっぱりわからなかったが、
 こういうときには、心を無にする。
 そうすれば、体が勝手に、普段しているように振る舞ってくれるから。
 奈緒は、だんだん他人の体を使うコツが飲み込めてきていた。

 家を出ようとする奈緒を、母が引き留めた。
「奈緒? あなた、ちょっといつもと…感じが違うみたい?」
 え。
 気づかれた? どうしよう。早く逃げたほうがいい? それともごまかしたほうが?
 動揺する奈緒を品定めするように、母がゆっくりと奈緒の周りを回る。奈緒の首筋を冷たい汗が伝う。
 やがて奈緒の背中に回った母は、手をぽんと叩いた。
「わかった。リボンがないじゃない」
「リボン…?」
 母は奈緒の部屋から赤くて長いリボンを持ってくると、奈緒の髪を留めているゴムを覆うように結んだ。今どきの流行りじゃない、そんなことはわかっている。けれど、
 奈緒はこのリボンを結ぶと不思議と落ち着いた。
「大切なリボンなんだから…、忘れちゃダメでしょ。じゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます。…お母さん、」
 奈緒は母の目を見た。
 わたしはこの人を騙している。わたしは奈緒じゃない。だからせめて、
 この厳しいけれど優しそうな母を、
 この母に愛されている奈緒を、
 悲しませることがないように。
「行ってきます」
 奈緒は、もう一度そう言うと、家を出た。


 奈緒がマンションから出てくるのを、その少年はずっと待っていた。
「今日は…ちょっと遅いなあ」
 腕時計を見ながらそんなことをつぶやく姿はどうみても待ち伏せだったけれど、彼にしてみれば「そんなつもりはなかったのに偶然ばったり出会うタイミング」を計っていたにすぎない。
 何かあったのかな、と顔を上げた瞬間、そこに奈緒がいた。
「あっ、す、鈴木さん、おはおはおは、おはよう」
 奈緒は驚いたけれど、少年の名前を、鈴木奈緒本人の記憶から探った。考え事をするときにくちびるに人差し指を当てているのは、鈴木奈緒本人の癖だ。
 少年の名は、市村蒼馬そうま。小学校に上がる前からの、いわゆる幼なじみ。
 ――ならば、笑顔であいさつ、が妥当だろう。
 そう考えた奈緒は、それを実行した。
「おはよう、蒼馬クン」
「えっ、あ、うん」
 今日も無視されるんだろうな、と悲観的な(そして正確な)予想をしていた蒼馬は、立ち去る奈緒を呆然と見送った。
「今…、笑ったよな、鈴木さん…。僕に向かって、名前を呼んで」
 蒼馬は、にへら、とだらしなく顔を崩した。けれど、
「何かの間違いだよな、うん。ありえない」
 うん、うん、と頷きながら、蒼馬は奈緒の後を追った。並んで歩くわけでもなく、ただ奈緒の少し後、話しかけても声が届かない程度の距離を保って、ついて行く。
 ――わたしを待っていたんじゃないのか…?
 奈緒は不思議に思ったが、それはかえって好都合だった。探さなければならない物が、ある。
 蒼馬も不思議に思っていた。奈緒は、普段は蒼馬から逃げようとでもするように早足で、そして少し寂しげに視線を落とし、まっすぐに学校に向かう。けれど今日の奈緒は、
 なにかを探しているのか、きょろきょろとあたりを見ながら歩いている。普通に歩いていると追いついてしまいそうになる。
 ――何か、落とし物、かな?
 蒼馬は迷った。
 もし落とし物だとしたら、
 探すのを手伝うのは、“約束”に含まれる、僕の役目だろうか?
 鈴木さんが困っているのだとしたら、手伝うべきだとは思う。
 けれど、
 鈴木さんのプライベートなことなら、僕にはそこに触れる権利はない。
 でも。
「あの…、何か、落とし物?」
 奈緒は答えない。
「手伝おう…か?」
 ――こいつ、うざい。
 奈緒の頭に、そんな言葉が、自然に浮かんできた。
 意味はよくわからないけれど、たぶんこのいらいらもやもやした気持ちを表す言葉なんだろう。この少年は、なぜだか、わたしをいらつかせる。
 けれど一般的に考えて、相手が幼なじみである以上、あまり邪険にもできない。
「ううん、いいの。ありがとう」
 奈緒は、きょろきょろと見回すのをやめた。蒼馬に声を掛けられるきっかけを作りたくなかったし、なにより、見渡す限り捜し物は見つかりそうにない。
 視線だけを左右に散らしてみる。
 道の右側は、建物がびっしり並んでいる。左側は、植え込みを挟んで大きな道があり、車がひっきりなしに走っている。
 植え込みの木は小さくて、
 ――これじゃ役に立たない。
 もう少し大きな木、少し太めの枝を持った木はないか。
 ――それにしても、
 と、奈緒はあらためて街を見た。

 いよいよ本番を迎えようかという夏の空は、けれど朝から薄汚く淀んでいる。
 その空の下で、

 うじゃうじゃと、しかも早足でうごめく人々。
 ごうごうと、やかましく油くさい煙を吐いて走り去る車。
 奈緒は思わず手で口を覆った。

 夜の間に濁った空気は、
 まるで命が再生するかのように、
 朝日によって浄化される。

 朝日を浴びて鳥は目覚め、
 朝日を浴びて草木は輝き、
 朝日を浴びて、

 人々はちょうど一日分の活力を、
 みな平等に分け与えられる。

 ――その理は、まるで変わっていないはずだけれど。

 空気はさっそく煙に覆われ、
 人々は歩いているうちにすでに疲れ、
 誰もが朝日から目をそらすようにうつむいて歩いている。

 それでも、

 それでも、
 わたしは、

 この街を、この世を、

 ――守らなければならない。

 奈緒は、少し足を早めた。


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