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第三章(1)
   第三章(1)


 蒼馬とナオは、黙って階段を上った。
 ナオは話すことをすべて話してしまったし、
 蒼馬は、何も答えることができなかった。

 ようやくたどり着いた展望室への入り口で、やっとナオが口を開いた。
「今までは、」
 それは、独り言ともとれるつぶやきだった。
「父から授かった護符を貼り、たとえ封印できなくとも一時的に眠らせられればいい、くらいにしか考えていなかった。その程度の力しか、わたしは持っていないから」
 ナオはその言葉を続けなかったけれど、蒼馬にはナオの言おうとしていることがわかった。
 ――完全に、封印、するつもりだ。
「ナオ…、いざとなったら、僕が囮になる。僕の体は自前だから、多少ケガしても誰も文句言わないし」
「鈴木奈緒の体を傷つけるな、ということだろう? わかっている」
 わかっているが…。
 ナオは、その言葉を続ける代わりに、展望室のドアをゆっくりと開けた。
 たまにしか開けられることのないそれは、キィ、とわずかに軋んだ。禍玉まがたまは、まだ反応しない。
「ところでさ、禍物って、強いの?」
「…? なんだ今さら」
「いや、大事なこと聞いてなかった」
 ナオは、呆れたように鼻を鳴らした。
「禍物も、わたしと同じように誰かの体を使っている。すばしこい体だと、護符を貼るのに苦労する」
「じゃあ、僕みたいな人なら楽なのか」
 ナオは、何かを言おうとして飲み込み、一拍おいてから大げさな溜めいき混じりに言った。
「禍物だって、お前みたいな奴は選ばんだろ」
 蒼馬は、情けなさそうな苦笑いを浮かべて、だよね、と答えた。
 それに応じるナオの落ち着いた笑顔が、蒼馬には嬉しかった。

 ドアの隙間から覗き込むと、そこはエレベーターホールだった。エレベーターホールは展望室の中心にあって、左右に通路が延びている。どちらも円形の展望室に出ることができて、だからどちらからも赤黒く不気味な光が射し込んでいる。ナオはするりとドアを抜けると、蒼馬を呼び込んだ。
 ドアを閉めると地上からの騒音は遮られ、二人の息づかいだけが聞こえるようだった。ナオは蒼馬を背中にかばいながらゆっくりと展望室に向かった。
「蒼馬、後ろを見ていてくれ」
「りょ…了解」
 ナオと蒼馬は背中合わせになって広い展望室に出た。
 ガラス張りの展望室からは、無惨な街の様子がよく見える。けれど、非常階段とは違ってガラスで仕切られているから外の音が聞こえず、その光景は微かな現実感しか持っていなかった。
「ナオ、もう一つ、大事なこと聞いてなかった」
「なんだ」
「禍物は人の体を借りてるんだよね? 禍物かどうかって、どうやってわかるの?」
禍玉まがたまが反応するはずだ」
「…そう」
 蒼馬の視線は、ある一方向に固定されている。もっと正確に言うと、向こうで街を見下ろしている人影に。
「じゃあ、ここに禍物はいない、ってこと?」
 その人影が、ゆっくりと顔を二人に向ける。
「いや…、ここにいるとしか考えられないんだが…。何が言いたい?」
「うん、その…、なんか、その、人がいるんだけど」
「ばか、早く言え!」
 ナオは素早く振り返り、禍玉まがたまをかざして蒼馬の前に出る。けれど、
「…いくらなんでも、この距離で反応しないなら禍物ではなさそうだが。おい、お前はなんでこんなところにいる? 逃げ遅れたのか?」
 人影は動かない。逆光で顔は影になっていて、白目だけが光っているように見える。その視線はナオたちを見ているのではなく、ただまっすぐ前を見ているだけのようだ。
「蒼馬、ここにいろ」
 そう言うと、ナオはゆっくりと人影に近づいた。人影は、二十五歳くらいの男。真面目そうな顔立ちで、髪は乱れているけれど、もともとはきっちりと分けられていたようだ。
「ここは危険だ、非常階段で逃げろ。…怪我でもしてるのか?」
 目は開いているけれど、こちらの言葉は聞こえていないようだ。
「おい、聞こえてるか」
 ナオがその男の肩を叩いたその瞬間、
 握りしめていた禍玉まがたまが一斉に光った。
「禍物!」
 ナオの叫びに応じるように、人影が鋭く腕を振る。ナオが飛び退くと同時に床を切り裂くように衝撃が走って蒼馬に向かう。
「蒼馬っ、かわせ!」
「う、あっ!」
 蒼馬は一瞬で煙に包まれた。
「蒼馬っ!」
 蒼馬は、腕を前に突き出して立っていた。その手に持っていた護符が、ガラスのように砕けて消える。
「はは…、助かった」
「護符に頼るな、かわせるときはかわせ!」
「わかってるけどっ! ナオ、後ろ!」
 禍物が信じられない速さでナオに近づき、腕を振り下ろす。ナオが飛びのき、床が砕ける。
 すぐに振り返った禍物は、蒼馬に向かって衝撃波を放つ。
「うわはぁっ!」
 転びながらもなんとかかわすと、背後のガラスが吹き飛ばされた。ごうごうと強い風が吹き込んでくる。
 蒼馬が立ち上がると、
 目の前に、禍物が立っている。腕を上げ、蒼馬に狙いを定めると、そのまま振り下ろした。
 禍物の腕は、蒼馬がとっさにかざした護符にはじき返される。
 続けて迫ってきた禍物の頭に、まよりタワーの置物が当たった。ナオが投げたものだ。
「禍物! お前は…ツヌイだな。これで何回目だ?」
 その隙に蒼馬が逃げる。滑り込むように、自動販売機の影に隠れた。
「いてて…」
 肘も膝も、固い床に打ち付けてしまって痛い。
 いざというときは囮に、なんて怖くてできやしない。結局逃げ回ってばかりだ。
 恐る恐る顔を出すと、ナオと禍物が向き合っている。ナオは護符と禍玉まがたまを構え、間合いを計っている。
 蒼馬がまばたきした瞬間、禍物がナオに飛びかかる。ナオはぎりぎりでかわし、護符を禍物に叩きつけようとする。ナオの腕が空を切ると、今度は禍物が衝撃波を弾き出す。それは蒼馬のすぐ近くの壁を突き破り、鋭い破片をまき散らす。蒼馬は頭を覆った。
 ほんの少しの静寂。けれどそれはすぐに破られ、タワー全体を揺さぶるような激しい響きが蒼馬を襲う。
「ナオ、どこ? 大丈夫?」
 禍物もナオの姿を見失い、ゆっくりとあたりを見回す。
 蒼馬の所から、ナオの姿が見えた。
「ナオ!」
 暗がりに身を潜めたナオが、しっ、と人差し指をくちびるに押し当てて蒼馬を黙らせる。
 ――ああ、僕は、
 柔らかそうなくちびるにそっと添えられた白い指は、ナオの意図とは別の理由で、蒼馬の言葉を遮った。
 ――鈴木さんに好かれたいなんて贅沢は言わないよ。せめて、
 ナオは、緊張で乾いたくちびるを舐めて潤わせ、もういちど指を当てて蒼馬に合図した。
 ――僕は、せめてあの指になりたい。
 ぼんやりとそんな妄想にひたっている。
 ぞく、とナオの背筋に寒気が走ったのは、決して禍物が近づいているせいではなかった。
 けれど、禍物の背中が視界に入って、やっと蒼馬は(少しだけ)正気に戻った。
「まっ、禍物! こっちだ!」
 禍物は、ぎん、と振り返り、その足先を蒼馬に向けた。
 禍物が一歩、蒼馬に近づく。蒼馬は護符を握りしめる。
 ごくり。
 ゆらり、ゆらり、
 禍物が歩み寄る。
「あ…、あ…」
 禍物が蒼馬に気を取られているのを物陰から見ていたナオは、その体の限界に近い力で禍物の背中に向けて走り出した。
 禍物は靴音に気づいて振り返りざまに衝撃波を放つ。それを読んでいたナオは飛び上がり、そのままの勢いで禍物の懐に体ごと飛び込み、胸の中心に護符を貼り付け
 ようとした瞬間、
「スト〜〜〜〜ップっ!」
「なっ」
 突然の甲高い声に、ナオはタイミングを逃した。
「おうっ、とっ、はっ、くっ」
 意味のない言葉を短く発しながら、バランスを崩したナオは片足で数回跳ねたあと、ぺたんと尻餅をついた。禍物がゆっくりと腕を上げる。
「…やばっ」
 禍物の腕が、見上げるナオを薙ぎ払う。
「ぐふっ!」
 直撃を食らったナオの体は大きく横に吹き飛ばされた。その放物線の跡を引くように数枚の護符が連続して空中で砕け、きらきらと細かい塵になって降る。最後に、床に叩きつけられたナオの手に握られていた護符が砕けて消えた。
「ナ…ナオっ、大丈夫?」
 再び物陰に隠れた蒼馬は目だけを出して、ぴくりとも動かないナオに呼びかけた。
「ナ…ナオ?」
「う…ううう」
「ナオ、その…、パンツが見え」
「うわあっ、見るな馬鹿っ! あいたたた」
 ナオは弾けるように立ち上がると、手近な柱の影に転がり込んだ。
「大丈夫?」
「んー、護符のおかげで大きな怪我はしてない。…護符をほとんど使い切ってしまった、危なかったな。ところで、」
 柱の影から、叫ぶ。
「誰だ、邪魔したやつは!」
 声のした方を見ると、ガラスの破れたあたりに人影が見える。
 街の炎を逆光に、吹き込む風に暴れる髪を気にもせず、
 長い白衣の裾をはためかせ、その心の強さを表すようにまっすぐに立つ、ちんちくりんな姿。
 先に気づいたのは、蒼馬だった。
「保健の、ち、ち…、ええと…保健の先生? なんでここに?」
「はあ、はあ、はあ、すず、すず、はあ、はあ、」
「危ないぞ! 入ってくるな!」
「はあ、はあ、だい、じょぶ、はあ、はあ、」
 話にならない。ナオと蒼馬は千木田先生の息が整うまで待つしかなかった。
 ツヌイは三人から興味をなくしたように展望室の外を向き、街を見下ろす。そして深く息を吸い込むと、大きな叫び声を上げた。
「ウオォォォォォォォォォォォォォォォォン!」
「うわ」
「なっ」
「ぴゃ」
 同時に、ずずん、とタワー全体が揺れる。直後、街を直線で切り裂くような爆発が連続して起きた。
「ナオ、やっぱりツヌイのしわざだったんだね」
「間違いない、が…。あんた、もう話せるか? 何しに来た?」
「ん、はぁ、お待たせ。ええとね、今日の鈴木さんがいつも以上におかしかったこと、」
「いつも以上って…」
「それから、自然とは思えない現象が起こっていること。それで何かあると思って、現象の中心部であるこのタワーに来てみたの」
 得意げに胸を張っている。蒼馬が「初めてのおつかいから帰ってきた子供みたいだ」と思ったのは内緒だ。
「ほらナオ、闇雲に走り回ってたのはナオだけだよ」
「うるさいな」
「そしたら、下に紀乃月ヶ原さんがいて、二人が上にいるっていうから。でね、そいつ、まだ封印しちゃダメ」
 指さす方に、禍物がいる。こちらを向いているけれど、ゆらゆらとしているだけで攻撃してくる様子はない。
「ダメって…あんたに何がわかる、そいつは」
「ふふん。あなたこそ、何がわかってるのかなぁ? 例えば、ツヌイの封印のしかた、とかは?」
「…あんた、どうして禍物の名を」
 先生は、白衣のポケットに両手を入れたまま禍物に近づく。
「ツヌイは、こっちから手を出さなければ攻撃してこないはず」
「おいやめろ、危ないってば。ちょっ、やめっ」
 慌てるナオにもお構いなし。先生はつかつかと歩み寄り、とうとう、禍物の横に並んで立った。
「ほらね、攻撃しなければ大丈夫なの。そうとわかれば、カワイイでしょ?」
 ぽん、と禍物の肩を叩く。
「あ」と蒼馬。
「あ」とナオ。
「ん?」と先生。
 ぶわ、と禍物が腕を薙ぐ。
「ぴぎゃ!」
 先生はぎりぎりでしゃがんで腕をかわすと、蒼馬の後ろに転がり込んできた。
「あぶあぶあぶ、危なかった〜…」
「先生、何やってんだよ…」
「と…、とにかく、叩いたりしなければ大丈夫だから、ええと、ナオちゃん、だっけ? こっちに来て。作戦会議しましょ」


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