〜前編〜
「……ア」
声がする。
「…リア」
どうやら、私の名前を呼んでいるようだ。
私はゆっくりと目を開いた。
「マリア、目が覚めたかい」
透明なガラスの向こう側に、その人が立っていた。いつもと同じ白衣を羽織っている。優しい眼差しと、同じくらい優しい声のトーン。だけど……。
「具合はどうだい? 今日は君の大好きなケーキを買ってきたよ。あとで一緒に食べよう」
ガラスの向こうに居る白衣の男の人、この人は私の父親。
誰が決めたか知らない。でも、私のお父さん。
「もうすぐ君の誕生日だね。誕生日には……」
彼の口から発せられる言葉は、私に向けられている。本当の親子というのがどういうものか知らないけど、多分父親が娘に話しかける時はこんな感じなのだろう。
私は、この人が本当の父親でないことを知っているのに。
今、私は液体の中にいる。
何か問題が起こると、私はこの中に入れられる。いや、何も問題が起きなくても、定期的に入れられている。この中にいると心が落ち着いて、いつの間にか寝ている。どれだけ眠ったかわからない。今、何時だろう?
いや、そんなことはどうでもいい。お父さんが来たということは、すぐにここを出してもらえるということだ。そうしたら私の大好きなケーキも食べれるし、みんなと話もできる。みんな優しいし、欲しいものは大体用意してもらえる。
だから私はここにいる。
それが全てだと思っていた。
ゆっくりと水の抜けていく音がする。お風呂の栓が抜けて、バスタブから水が無くなっていく、あの感じ。
でも、私はなんでこの「水槽」の中に入れられたんだっけ?
それは全く思い出せない。
そこだけが、その記憶だけが、まるで空白なのだ。
間も無く、体を固定していたバンドが外され、私は自由になった。少し身体の感覚が鈍い気がする。
久しぶりに自分で呼吸している気がする。
水の抜けた水槽に人が入ってきた。お父さんだ。
手に大きなタオルを持っていて、それを私にかけてくれた。
「気分はどうだい?マリア」
「…悪くないと思う」
お父さんは嬉しそうに微笑んだ。何がそんなに嬉しいのだろう…。
それにその名前。
私はマリアという名前らしく、みんながそう呼ぶ。
でも、私は……。
あんまり好きではない。
「さぁ、部屋に行こう。身体も乾かさないと」
少し足の感覚が弱い気がする。それに重い。身体は軽く感じるのに、とても不思議だ。もしかしたら、ものすごく長い間あの中にいたのかもしれない。私はお父さんの後に続いて歩き出した。
ガラスの向うの研究室に、知っている人達の姿があることに気が付いた。
ほとんどみんな白衣を着ている。少し遠くだったけど、小さく手を振りながら微笑んでいる女の人が居る。この人はリカさんと言う名前で、とても優しくて綺麗な人だ。私は笑顔が苦手なので、とにかく手だけ振っておいた。
水槽の外はもう一つ別の部屋に繋がっていて、それは身体を乾かすことのできる小さな部屋である。同時に、そこは私専用の通路。この水槽部屋の出入り口となっていた。
逆にガラスの向う側の研究室には私は入ってはいけない。
乾燥室で充分身体を乾かしてから、いつもの真っ白な服に着替えた。
それから、お父さんと一緒に部屋へ向かう。これはいつものことである。
しばらく無機質な廊下を歩いて、頑丈な扉を何回か通るのだ。ドアごと色々な方法で通り抜ける。ただの鍵の場合もあれば、開けるのにカードが必要だったりする。私の部屋は凄く奥の方にあるのだ。
最後の扉は特に頑丈なもので、これはゲートと呼ばれている。
ゲートの所には見張り番がいて、必ずチェックをしている。
「久賀だ。通行許可を」
お父さんが言った。前に、「私ならほとんど顔パスなのだが」と言っていた。顔パスとは、何か許可がなくても通れるということらしい。お父さんは、ここではかなり偉い人なんだそうだ。
番人の男の人が私のことをちらりと見た。
この人…下品そうな人で、私は好きになれない。それに私を見る目つきが少し変な気がする。
通行許可はすぐに出た。私の部屋はもうすぐそこだ。
私たちは再び歩き始めた。
私の部屋の入り口には頑丈なドア。そして分厚い壁に囲まれている。こういうのを牢屋とか檻とかいうんじゃなかったっけ? じゃあ、私は囚人なのだろうか。
部屋のなかには大き目のベッド。テレビもある。クローゼットには洋服もいっぱいあるし、欲しい物はたいがい買ってもらえる。
お父さんと一緒にケーキを食べる。リカさんにも食べてもらいたいけど、私は一人ではこの部屋を出ることする許されていない。
どうしてだろう。私くらいの年齢になれば、友達とショッピングしたりお茶したりするものじゃないのかな。同年代の子供に会ったことなど、一度も無い。
「お父さん」
「なんだいマリア」
「私はどうしてあの水槽に入れられたの?」
「特別な理由なんてないよ。定期的に入っているじゃないか。今日はその日だよ」
……嘘だ。日程的に、今日であるはずがない。
きっと私に何かあったのだろう。
お父さんはいつもそうだ。私が何を聞いてもはっきりと答えない。
嘘だって平気でつく。
私だってバカじゃない。
自分が普通の人間と違うことくらいわかっている。
それなのに……。
私は一度だって、この研究所を出たことが無い。
お父さんは言う。もう少ししたら出られるって。君はみんなの希望なんだって。
だから大切に育てているんだと。
確かに、何一つ不自由な思いもない。
だけど、きっと私は本当のことを何も教えてもらえないまま一生を終える。
そんな気がする。
……私は、本当のことが知りたい。
しかし、お父さんは私の質問に答えてくれないどころか、そのまま部屋を出て行ってしまった。
その日の夜。
私は思っていたことを実行に移した。つまり研究所を調べて、真相を知るのだ。それが無理だとしても、せめて一度くらいは外に出てやろうと思った。
部屋のドアはとても頑丈にできている。普通の人間ではどうすることもできない。
でも、私は普通ではないのだ。
念じれば、この程度の扉を壊すことはたやすい。
私は意識を集中し、扉に向かって投げ打った。物凄い音を立ててドアがひしゃげ、そして向こう側にドスン、と倒れた。
これは私が子供の頃から持っている能力だ。意識を集中させると、物を壊したり吹き飛ばしたりできる。この力はあまり人に見せたりしないから、みんなはきっとこのドアなら大丈夫だと思っていたのだろう。でも、この程度は造作もないことだった。
そして今、はっきりと思い出した。私が今日あの水槽に入れられていたのは、今みたいに力を使ったせいだ。そのときは気が遠くなって、気が付いたらあの水槽の中に入れられていた。 でも今日はメンテナンスをうけたばかり。体調はすごくいい。今日の私を止めることなんて、誰もできやしない。
私の邪魔は許さない。
研究所の中は詳しくないけど、水槽があるメインルームまで行けば、そこから色々なところに繋がっていたはずだ。
私は部屋から出ることに成功した。
でもきっと、このことはもう研究所内に知れ渡っているだろう。
それでも今は夜中。私は常に監視されているが、今なら日中よりはその監視も緩いはずだ。
お父さんはここで寝泊りしていないらしいから、すぐには来れないだろう。
最初のゲートまでは特に手こずるような障害もない。
目の前でシャッターが閉じた。気付くと、すでに後ろのシャッターも閉じていた。
やはり私を外に出すというのは是が非でも避けたいらしい。
私はいとも簡単に、目の前のシャッターに風穴を開けてやった。穴をくぐると、また目の前にシャッターがあった。馬鹿馬鹿しかったが、次々現れるシャッターを破壊しながら前に進んだ。
私はようやくゲートにたどり着いた。これはさすがに頑丈な扉ではあったが、二、三度力を叩きつけたら穴が開いた。その先は例の、門番がいる監視ルームのある部屋だった。急に間取りが広くなった。
目の前に、例の守衛の男が現れた。怯えている様子も無く、何か企んでいるに違いない。
「お嬢さん、おとなしくしてくれないかい? みんなを困らせることはやめにして」
そう言いながらも、一歩一歩ゆっくりと私に近づいてくる。
「君のお父さんだって、悲しむはずだよ。こんなことは……」
こいつはいつも私のことをいやらしい目で見ていた。気持ち悪い男だ。今も、どこかニヤついているように見える。ジリジリと私に近づいてくる。
恐らく男は後ろ手に何か武器のようなものを隠しているのだろう。一歩一歩、間合いを詰めてくる。
距離にして2メートル位になった。男が動きを見せる。一気に迫ってこようとした。
だが、次の瞬間には、彼の頭は無くなっていた。溜めた力を彼の頭にぶつけてやったからだ。返り血が私に降り注ぐ。気持ち悪かったが、あの顔がなくなっただけましだ。頭を失った無残な胴体はその場に転がった。殺すつもりはなかったけど、結果的にそうなってしまった。右手にはスタンガンとかいうものだろう。それを握っていた。
あたりにけたたましいサイレンの音が鳴り響いている。どうやらこの守衛が警報を鳴らしたらしい。まぁ、たいしたことではないが。私は先に進んだ。
ここから先には頑丈な扉がいくつかある。頑丈と言っても大したことはない。私の力を考慮して作ったとは思えないくらい、簡単に通ることができた。
そして、ようやく水槽のある研究室にたどり着いた。
水槽のある部屋を抜け、研究室側に出る。
すると。
「今だ!」
研究員が隠れていたらしい。飛び出してきて、私を取り押さえた。それとは別に、手の空いている研究員が一人。手に注射器を持っていた。
「早く打て!」
確かに、私は女だし、力はない。だけど、特別な力ならある。
私を取り押さえる二人の研究員は、力の直撃を受けて、大きく吹っ飛んだ。それから立つ気配すらしない。
残った注射器を持った研究員……それはよく見るとリカさんだった。
あきらかに怯えた表情。震える手から注射器がカチャリと床に落ちた。
私はゆっくりと立ち上がった。そして彼女に近づいていく。
「お……お願い……殺さないで……」
リカさんの歯がカチカチと音を立てるのが聞こえてくるようだった。あとずさりしたが、もうそれ以上下がれなくなって、床に腰をついてしまった。恐怖に囚われた瞳は、瞬きすら忘れているようだった。
私はこの人を殺すつもりはない。みんな、私によくしてくれたからだ。さっきの研究者も死んではいないはずだ。
「リカさん、私は自分のことが知りたいだけ。教えてほしいの……」
リカさんは困惑している。どこかで、断ればもしかしたらただではすまないかも、という心理があるのかもしれない。反面、私に研究の内容を教えることは許されているはずがない。
彼女はどうするだろうか。
リカさんは椅子に手をついてからゆっくりと立ち上がった。怯えた表情も幾分緩くなった。
「マリアちゃん……一体どうしてこんなことを」
「言ったでしょう。本当のことが知りたいの。みんなが隠すから、こうしなければならなくなった」
「それは……あなたのためを思ってのことなのよ」
「私のため?」
「私は研究員でしかないから、全ての情報は知らないけど、そのコンピューターからアクセスすれば、ある程度の情報なら見ることができるわ」
彼女は観念したのだろうか。椅子に座り、コンピューターのキーボードを叩き出した。
パスワードを打ち込み終わると、新しい画面が出てきた。
そこには、こうあった。
「人類救済計画、MARIAの概要・その一」
──25年前突如出現した新型ウイルスによって人類は壊滅的打撃を受けた。このウイルスは人間に対してその高い殺傷力を有するものであり、当時これに対する抗体およびワクチンを作り出すことは不可能と判断された。よって人間はこれらのウイルスを距離的な方法を持って対処せざるを得なかった。それはウイルスおよび感染者(致死率が非常に高いため、生存の可能性はゼロといっても過言ではないが)を完全に隔離するか、人類自らが安全な場所に退避し、地上に蔓延するウイルスとの接触を完全に絶つか、いずれかの方法である。しかるのち、このウイルスに対する対処法を考案することが、当時の世界におけるもっとも最良の選択肢であった。また、このウイルスの感染経路がはっきりと確認されていない上に空気感染するため、現在、地上は人間の住むに適さない領域であると言って差し支えない。そのために人類はシェルターで生活を行い、移動は地下を経由する。また地上への外出の際は感染を防ぐため、完全防備で臨まなくてはならないのである──
「嘘」
私は衝撃を受けた。テレビで見ていた情報では、そんなこと一言も無かった。地上では普通に人間が暮らしていると思っていたのだ。世界がそんなことになっているなんて。
「嘘ではないわ。あなたが見ていたのはVTRよ。ウイルス出現前の、地球上で録画された映像なのよ」
「ど、どうしてそんなこと」
「あなたの精神が不安定だからよ。全てを知るにはまだ早すぎて、下手をすると暴走する危険性がある。だから、全てあなたのためなの」
「じゃあ、私は何のために存在しているの」
「私だって全て知っているわけじゃない。久賀博士なら全て知っている。この計画の情報も、私ではここまでしか調べることができない。ただあなたがこの計画の鍵を握っているということはわかるけどね」
リカさんが立ち上がった。私は呆然とした。もう、何もわからなくなっていた。
「だからマリアちゃんは、この研究施設にいてくれるだけでいいのよ。じきに全て教えてもらえるわ。だから、ね、満足したでしょ。部屋に戻りましょう」
リカさんになだめられ、私は余計に困惑した。じゃあ私は何なのか。結局それはわからない。私はコンピューターのモニターをじっと見つめていた。
「いやだ」
「……え」
「全てわかるまでは、戻らない」
「そう……わがままなコね」
なぜかリカさんはそう言っただけだった。声が背中から聞こえる。いつの間にか私の背後に回っていたようだ。
「いずれにしても、あなたはこの研究所でないと生きられない身体なのよ。あきらめて、これ以上の詮索はやめたほうが…いい!」
私は背後のリカさんの動く気配を感じ取った。振り向くと、彼女がいつ拾ったのか、注射器を私に突きたてようとしているではないか。私はすんでのところで彼女の腕を押さえることに成功した。注射の針は私の体のすぐ目の前。私は躊躇無く力を解放した。
リカさんの体が宙に舞った。壁の辺りまで吹っ飛んでいった。威力のコントロールをする余裕がなかったので、もしかしたら死んでしまったかもしれない。
……だが、この人は私の隙を窺っていたのだ。もう心配などしてやるものか。私は研究室をあとにした。
どうやら、研究員では知っていることはたかがしれているようだ。これ以上自分のことを調べるとなると、やはり父親きどりのあの男に聞くしかない。それに、外の世界も自分の目で確かめておきたい。
そしてここから先は未知の領域だ。この施設内を色々見て回るのもいいだろう。
廊下の壁に案内が書いてあった。資料室への道も記されている。どこまで調べることができるかわからないけど、まずはそこへ行くことにした。
その時、目の前が突如真っ暗になった。電気が消えたのだ。静まり返った通路。さすがにこれでは何も見えないと思った。
だが幸い、すぐに電気は付いた。さっきとは違う、うっすらとオレンジ色の照明ではあるが。明るさはいまいちだけど、これなら行動に支障はない。
少し歩くと、資料室というプレートの付いた部屋があった。ドアには鍵がかかっていたけど、大したものじゃない。ドアノブごと吹き飛ばしてやった。中を覗くと真っ暗だった。電気のスイッチはどこだろう。
真っ暗な部屋……。
私は資料室に入るのをためらった。
やな予感がする。
何か、さっきからどうも様子がおかしいのだ。
誰かに見られているような気がする。
引き返そう。
……そう思ったときはもう遅かった。
首筋に鋭い痛みを感じた。
それから間も無く、身体に力が入らなくなってきた。立っていることすらままならず、私は地面に倒れこんだ。
いくつかの人影が近寄ってくる。全身黒ずくめで、手には銃のようなものを持っている。なにかの映画で見た、どこかの国の特殊部隊のようだった。
「何とかなったな」
一人が言った。
そうか。さっきの停電はこいつらの仕業。
暗くなった隙に、私に近づいたんだ……。
主電源を落としたのも、自分たちが自由に動けるようにするため……?
私は心底悔しかった。しかし体の自由が効かない。こうなってはどうすることもできない。
徐々に意識も朦朧としてくる。
「資料室の前にて、目標を確保。こちらの負傷者は無し……」
「いや、待て。人数が一人足りないぞ」
「おかしいな」
どうやら外部と連絡をとっているようだ。他にも何か予想外のことがあったらしい。メンバーが足りないとか言っている。
「もうすぐ久賀博士が来るそうだ。それまで待機」
久賀……。
「それにしても、こんな小娘がな」
「あぁ、うちの娘と同じくらいの歳だ」
「もう、研究所で管理するのは無理なんじゃないのか。これで2度目だぞ」
「また、例の記憶操作とかいうやつをやるんだろう。ある意味、人を実験動物みたいに扱っている。ひどい話だとは思うが……」
そうか……。私には自由がないんだ。胸からこみ上げるものを抑えられず、私は涙した。
「おや、この娘、まだ意識があったんだな。今の話、聞かれてしまったかな」
「別に構わんだろ」
「それよりも泣いているぞ、この娘」
「俺たちは任務をこなすだけだ」
久賀。全てあの男が。私の中に殺意が芽生えた。たとえ普通の人間として生きられなくとも、あいつをこのままにしておいてたまるか。
誰かがやって来たようだ。足元に白衣の裾が見える。あいつに違いない。でも、私の意識はもう、限界だった。
〜後編〜
私は……目を覚ました。
水槽の中。
目の前にお父さんがいる。
いつもと変わらない優しい笑顔だ。
「マリア、目が覚めたかい」
お父さんがいるということは、ここを出してもらえるということだ。
嬉しい。
……でも、何で私はここに入っているのだろう。
それは思い出せなかった。
水槽を出て、身体を乾かし、それからお父さんと一緒に自分の部屋に向かう。
途中の通路、妙に荒れている箇所があったりする。何があったのだろうか。
半分だけ下りてへし曲がったシャッターがあったり、いつもはあるはずの頑丈なドアが外されたみたいに無くなっていたり。これから修理するのかな。
ゲートに着いた。ここには番人がいる。ゲートを通過する人間をチェックしているのだ。
でも、その守衛も今までの人物とは違うようだ。何かあったのだろうか。まぁ、前の人は嫌いだったので嬉しいくらいだけど。だけど、今日のゲートは何か変だ。壊れた箇所を急いで直したような跡がある。
「あれ?」
いつもの部屋へ行く道が通行止めになっている。
「あぁ、新しい部屋を用意したんだよ。こっちだ」
お父さんの後についていく。たどり着いた新しい部屋は、前の部屋より少しだけ広かった。ベッドとか、私の物は全てここに移してあった。そう、ここにいればなんでも欲しい物がもらえる。それで私は十分幸せ。
お父さんは間も無く部屋を出て行った。
私はベッドにうつぶせになって倒れた。
水槽の中で十分寝たはずだが、それと実際の睡眠とは別のようだ。
もう夜も遅いし、軽く睡魔が襲ってきていた。
枕の下に手をつっこんでもぞもぞしてみる。これが意外と気持ちいい。
と。何かが枕の下にあるではないか。
薄っぺらい物だ。取り出してみると、それは一通の手紙だった。
「何かしら」
この部屋は監視されているのに。一体誰が、どうやって?
今の姿だって、ばっちり映っているはずだ。異変に気が付いたら、誰かとんでくるだろうに。
……でも。気になる。とりあえず、読んでみる事にした。
「マリア、まず始めに。カメラのことは気にしなくていい。すでに工作を施してある。映っているのは偽りの映像だ。僕は君を助けに来た。何を言っているかわからないかもしれない。でも、信じて欲しい。君は檻の中にいてはいけないんだ。僕は君を助け出す。そして僕はすでにこの研究所の中に紛れ込んでいる。どうか、僕の言うことを聞いてくれ。まず、手始めに……」
一体、この手紙はナンなんだろう。助け出す? 私を? ここの生活は何も不自由がないというのに。でも、不思議な気持ち。私、檻の中……。心がざわめく。何かが私をかき立てる。好奇心と言えばそうかもしれない。
手紙には脱出の手順が記されていた。退屈な日々を送っている私にはちょうどいいかもしれない。ちょっとした遊びとしても。お父さんは優しいし、きっと許してくれるだろう。
まずはダクトに入る。天井にある通風孔から。でもあの通風孔はとてもじゃないけど通れない。私、太っているわけじゃないけど。
まず、ベッドの上にあるシーツなんかを床に広げる。厚めになるように重ねて。そして、指示どうりにやるなら、力を使って通風孔を破壊する。
「でも、それって相当な音が出るんじゃないのかな。カメラがちゃんと動いてなくても、音が響いたりしないのかな」
とにかく、通風孔を破壊してみる。すると、どうやら天井の材質は結構軽いものらしい。轟音をたてることもなく崩れた。あとには、私が通るに十分な穴が開いていた。
だけど、そこまでは手が届かない。物を重ねて足場を作った。
片っ端から物を重ねて乗ると、どうにか手がダクトにかけられるくらいになった、
「きゃ」
突然、天井の穴から何かが飛び出してきた。それは人の手だった。人の手が伸びてきて、私の手をつかむのだった。天井の上から声が聞こえる。
「ジャンプして。引っ張りあげるから」
私は言われるがまま、思い切りジャンプした。
足場が崩れた。声の主は私の肩あたりをつかんで、そのまま結構な力で引っ張り上げる。すぐに上半身が天井の上に乗り出した。這い上がるようにして、私はダクト内に侵入することができた。
「やぁ。待っていたよ」
そこにいたのは一人の男だった。年齢は私よりは上だろうけど、まだ大人って感じでもない。男の子ってあんなに力のあるものなんだと感心してしまった。
「ここにいるのは危険だ。もう少し移動しよう。付いてきて」
私は言われるがまま、彼について移動した。ダクト内は中腰ぐらいまでなら立てる高さがあった。
しばらく行くと、通風孔の十字路らしきところに出た。ここはそれなりのスペースがある。
「あの、この手紙はあなたが?」
「ああ。そうだよ。僕のことはシンって呼んで」
「シン……あなたは一体」
「全部説明しなきゃならないね。だが、今はそんな余裕はない。僕はある機関の人間でね。君を助けに来た。この研究所はあまりにセキュリティが厳しくて、侵入が難しかったんだけど……」
「うん」
「この前、っていうかもう三日前だけど、特殊部隊が君を襲ったの、覚えてる?」
「……ううん」
「そうか。相当ひどいことされたみたいだね。でも大丈夫、じきに思い出すよ。とにかく、僕はその特殊部隊に紛れ込んで潜入に成功したんだ。特殊部隊は久賀の手下だけど、研究所の外からやってきたからね。潜入の好機だったわけさ。もちろんそのままだといつかはばれるから、途中でこっそり隊を抜けたけどね。いつの間にか一人人数が減ってたんで、奴らびっくりしただろうね。で、そのあとは研究者になりすました。侵入してしまえばもうこっちのものさ。それに君が研究員を何人か病院送りにしてくれたおかげで、次の日増員の研究者のフリをするのは簡単だったよ。ついでに内部調査もできたし」
「手紙はどうやって?」
「簡単さ。なんせ、僕は君の部屋の引越しを手伝ったからね。そのとき仕込んだんだ」
ここまでするからには私を連れ出すのは本気なのだろう。でも、お父さんに断りなくここを抜け出していいのかしら。少しドキドキする。
私はシンについて色々知りたかったけど、彼はあまり自分のことを話そうとはしなかった。
だから所属する機関のことなんて、なおさら秘密なのだろうと思ったけど……興味本位で一応聞いてみた。そしたら案の定、ほとんど何も教えてくれなかった。でも、特殊な犯罪組織に対する任務を遂行するのが彼らの仕事なのだということだけは教えてくれた。シンの機関の活動は一般に公開されることはほとんどないらしい。
「これからどうするの?」
「このダクトで行ける所まで行く。それから、外に出るルートはいくつかある」
彼の言葉。何か引っかかる。外? 外に出て、いいのか……? 軽く頭痛がした。
シンに付いて、ダクト内を移動する。彼の頭の中には地図が叩き込まれているらしい。網の目のようなダクトの迷路を、戸惑うことなく進んでいく。
……しかし。
急に周囲が騒がしくなってきた。
「どうやら気付かれたらしい。となると、僕たちがダクト内にいることもばれたってことだ」
もし捕まったら……。私はおそらく連れ戻されるだけで済むだろう。でもシンはどうなるのだろう。こんなことをして、無事で済むのだろうか。
でも、私は思った。もし何かあったら、シンを守ろうと。
「このあたりで、下に降りた方がいいかもしれない。前と後ろからこられたら、挟み撃ちにされてしまう」
シンは特にうろたえる様子がない。まるでこの手のことには慣れている、といった感じだ。ホルスターから拳銃を抜いた。
「この通風孔は通るのに十分な広さがあるね。よし」
彼は足元の通風孔を蹴破った。ほとんどはめただけの通風孔らしく、案外脆かった。それから、まず彼が先に廊下に下りる。そのあと私を受け止めてくれた。
「また特殊部隊の連中が来るかもしれない。急ごう。彼らは備えのためにまだ施設内で待機しているんだ。なんせ、僕が一人ぶっ飛ばして代わりに侵入したわけだからね。バレない訳はないってこと」
私たちは走った。
長い通路の奥に白衣の研究員がいる。こちらに気が付いたらしい。
「こっちだ」
シンは私の手を引いて、目の前にある、左へ曲がる道へ誘った。
その先にはドアがあった。シンは何かのカードを取り出すと、扉の横にある機械に通した。
機械がピピッ、と音を立てる。
次に彼は数字の並んだ文字盤を凄い速さで叩きだした。
入力し、エンターキーを押す。だが、文字盤には英語で「エラー」と出ている。
「もうコードを変えたらしい」
シンの顔に少しだけ焦りの色が見える。
(シンは私を外に連れ出そうとしている。でも、お父さんや皆は外に出てはいけないと言っている。では、シンは悪い人なのだろうか)
私は考えた。彼の目……嘘を言っている目には見えない。
でも、このままだとシンは捕まってしまうかもしれない。そうしたらきっと……。
「その道の先だ!!」
人の叫ぶ声がする。私たちを追いかけてきた人達だろう。
「くっ、コントロール・ルームをどうにかしておくべきだった。このルートは無理か」
シンは再び私の手を引こうとする。来た道を引き返すつもりだ。
この人は必死になって、私に何かしてくれようとしている。
「……ここを通るのね?」
私はシンの手を払ってから、力を使った。
意識を前方に向かって打ち出す。
ドアは派手な音をたてて、向こう側に吹っ飛んでいった。
「すごいな」
シンは感心している。
どうしてだろう。どうして私は彼のために何かしてあげたくなるのだろう。
私たちはドアを通り抜けた。
背後から拳銃を持った人間が何人かやってくる。その中の一人が発砲した。
弾は私にもシンにも当たらなかった。
「やめろ! 実験体に当たったらどうするんだ。麻酔銃を使え」
連中がもめている。実験体……それは私のことに違いない。
シンが壁についていた何かの蓋を開け、出てきたレバーを下げた。あっと言う間にシャッターが下りてきて、私たちの今来た道を塞いでしまった。
「このシャッターは、こっち側からじゃないと開けられないようになってるんだ」
私たちは再び走り出した。シンが言うには、他の通路を迂回すると物凄く時間がかかるらしい。シャッターを下ろしたことで相当な時間稼ぎになるようだ。
「こっちだ。一階まで上れる階段がある」
シンの言うとおり私たちの眼前に、上へと上がる階段が現れた。
蛍光灯だけの薄暗い階段は少し不気味に思えた。階段を一段上るたび、カツン、という足音が反響する。なかなか一番上までたどり着けない。研究所がこんなに地下深くにあるなんて知らなかった。
「これは非常階段みたいなものさ。エレベーターで昇るルートよりは安全なはず」
シンが言った。
それにしても、どれくらい上っただろうか。
パン!!
突如として発砲音が鳴り響いた。
シンが察知して身を隠すのが早かったので、銃弾は私たちではなく壁に命中した。
背後の私を制止してから、シンは上階の様子を窺う。
上の踊り場に誰かいるようだ。少し顔を出すと、すぐに銃弾を放ってくる。
それでもシンは相手の位置を見極めたらしい。
目で私に「動くな」と合図を送る。私はしっかりと頷いた。
少し間をおいて。
彼は横っ飛びで飛び出すと、躊躇なく発砲した!
「あぅ」
どうやらシンの撃った弾丸が命中したようだ。
だが、その声は男性のものではなかった。
シンはゆっくりと、私は彼の後ろから恐る恐る相手に近づいていった。
倒れていたのは……リカさんだった。お腹のあたりが血で赤く染まっている。
「……リカさん。どうして」
リカさんは座った姿勢のまま、壁にもたれかかっている。呼吸するのも苦しそうだ。
「マリアちゃん。今までごめんね……」
彼女の口から、謝罪の言葉が出た。何故彼女は謝るのだろう。
「何で? 何で謝るの?」
彼女の耳には私の声が届いてないのだろうか。何も答えようとしない。
「久賀がどんな人間であろうと……私は彼を天才だと思っている。尊敬していたのよ」
彼女は苦しそうに語る。
「でも、誰かが彼を止めるべきだったんだわ……本当は。本当は……私がそれをするべきだったのかもしれない」
「お父さんを……?」
「この先に久賀博士がいるわ。お願い、あの人を止めてあげて」
彼女の言葉は弱々しかった。
「シン! どうしよう、このままじゃリカさん死んじゃう」
「行こう。マリア」
「何で! そんなことできないよ」
「彼女は久賀の優秀な助手だった。彼女は最後まで久賀のためを思って行動していたんだろう。こうなることもきっと、わかってたんだよ」
「だったら余計に助けなきゃ! お父さんだって悲しむよ」
「……」
シンはすぐには何も言わなかった。けど、口を開いてこう言った。
「急いでここを出れば、彼女が死ぬ前に救助を呼べるかもしれない。一緒に連れて行くのは無理だけど……」
「そうだね! リカさん、少しだけ待ってて。助けを呼んでくるから」
リカさんはこちらを見て何か言いたげだった。でも、何も言わなかった。
シンの言ったとおり、彼女の傷口を布で押さえさせ、私たちはさらに階段を上る。
そして、ついに。
「ついたぞ。研究所の入り口といえる第一ゲートだ」
シンが教えてくれた。ここを通ると、そこはもう地上なのだという。
「よし、あとはパスワードを入力すれば。問題は変更されているってとこだな。解析できるかな……?」
とても分厚そうなゲート。なぜここまでの扉にする必要があるのか、私にはわからなかった。
「ミサイルの直撃にも耐える構造になっているらしい。君の力でも壊せないだろうな……」
「ねぇ、シン。本当に外に出ても平……」
私がそれを言い終わらないうちに。
バァン!!
乾いた音がした。それは銃声だった。
すぐそばにいたシンが倒れる。
「シン!!」
銃声のした方向には…久賀博士。つまりお父さんがいた。
いつもの優しい笑顔はなく、右手に拳銃を持っている。
彼はここで私たちを待っていたのだろうか……。
「どうして! どうして撃ったの!」
私は、シンを抱えながらお父さんをにらみつけた。
「ネズミだからだ。私の大事な娘をさらおうなど」
「だからって……」
私はシンを庇う体勢をとった。確かにシンは私をさらおうとしているのかもしれない。でもこの人は絶対死んじゃだめなんだ。それが私の気持ちだった。
「そこをどくんだ、マリア。そいつには死んでもらわねばならん」
「だめ! 撃たないで!」
私は叫んだ。
そしてその瞬間。
私に変化が起きた。脳裏に次々と映像が浮かんでくる。断片的ではあるが、それは確かに私の記憶。またそれと同時に蘇ってきたもの、それは久賀に対する憎悪だった。
お父さんは引き金を引いた。そして。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁッ」
叫び声を上げた。だがそれはシンのものでも、私のものでもない。
お父さん……いや、久賀が上げた叫び声であった。
私がやったのだ。シンを守るために。
だが、それだけではない。
久賀が引き金を引こうとしたとき、部屋を抜け出した日の記憶を取り戻したのだ。
本当の父親でもないのに父親顔をして、私に何も教えようとしなかった。
何かあると水槽に入れ、目を覚ますたびに記憶に空白ができていた。
私は久賀の実験動物ではない。
私は力を使って、あいつの銃を持つ手を破壊したのである。
久賀は右手の指がへし折れたせいか、この世の物とは思えない表情で苦しんでいる。
「久賀……!」
私はこの男が憎い。これは今始まったことではない。ずっと前からそうだったのだ。忘れていた空白部分を思い出すたび、この憎しみは蘇ってくる。
通路の方から数人がやってきた。例の特殊部隊だ。この前より一人多いようだ。恐らくシンがなりすました隊員が復帰したのだろう。麻酔銃を構えて、私を撃とうとしている。目障りだった。私は目もくれず力を解き放った。キューで突かれたビリヤードの球みたいに、全員が物凄い勢いで吹っ飛んだ。起き上がる者はいない。
「話して。全て」
私は久賀に言った。
「マリア……よく聞くんだ……。君の知ったとおり、この世界はウイルスに汚染されているんだ。人類は地上ではもう生活できないんだ」
久賀は続ける。
「だが、ここに一つの希望がある。それが君だ、マリア。君はバイオテクノロジーが生んだ、新しい人類の第一号なんだよ。初めての成功例だ。では、何故君が生み出されたのか。我々の頭を悩ますウイルスには抗体が存在しない。人類を滅亡させるために生まれてきたとしか言いようのないものだった。しかし、君の身体は、あらゆるウイルスに抵抗を持つ身体なんだよ……。君が母になることで、人類は地上で変わりなく生活を送ることができるようになる。君の遺伝子が可能にする。君はまさに聖母そのものなんだ」
「……」
「君に本当のことを教えなかったのは、君が情緒不安定であったからだ。刺激を与えすぎると、暴走行為を起こすことがある。だから、君の精神が安定しないうちは、外に出すことはできなかった。暴走を起こせば、君の持つ能力で被害が出る恐れがあった」
「……」
「だが、君に謝らなければならないこともある。君の体は定期的なメンテナンスを要する。例の水槽に入らないと、細胞が活動を停止してしまうんだ。また、君の心身に異常が出た場合、速やかに養液に入れなければならない」
「……」
「そうしてもう一つ。実の父でもないのに、君に父親面してしまったことだ。でも、わかってくれ。君は本当に、実の娘のように大事だったんだ」
久賀は苦しそうではあったが、随分饒舌に語った。
「嘘ばかり並べて、満足か?」
そう言ったのは私に抱えられたシンである。当たり所がよかったのだろう。致命傷ではないらしい。
「そんな嘘っぱちの話をよくも作り上げたものだ。マリア、地上は滅んじゃいない。君はずっと騙され続けてきたんだ」
シンは叫んだ。
「久賀、僕はお前の研究の内情を探るためにきた。お前のやったことは犯罪行為だ。この場所も、もう割れている。すぐに応援も来る。逃げ場はないぞ」
「やはり特捜部のエージェントか。ふん、そう簡単に捕まるものか。いくらでも逃げる方法はある」
久賀は動揺しなかった。そして私に向かって言う。
「マリア、その小僧は人類の希望であるお前をさらおうとしているのだ。許されざる大罪だ。これから君と君の子孫は地上を謳歌するんだ。どうだ、素晴しいことだと思わないか? さあ、私のもとに戻っておいで!」
……いずれにしろ。
「久賀、あなたは私をもてあそんだ。私はあなたを許すことはできない」
それが私の気持ちだった。
この男は本当の父親ではないし、私に対しての扱いは許せるのものではない。
断片的ではあるが、記憶のどこかがそう叫んでいる。
久賀は黙っていた。が、やがて。
「ひとつ、教えてやろう。マリア。お前の頭の中にはチップが埋め込まれているんだ。私が持っている機械のスイッチを押せば、君はたちどころにして意識を失う。つまり、君は私には逆らえないのだ」
久賀は高笑いをした。
「とんだマッドサイエンティストだな。ヘドが出る」
シンが言った。
「記憶が戻ればまた記憶操作。君は一生、私の実験材料なのだよ! ハッハ……」
バン!!
乾いた銃声。それと共に、久賀の脳天に風穴が開いた。シンが撃った拳銃の弾が命中したのだ。倒れる久賀。
「僕にはチップは関係ないぜ……ノータリン」
だが、どうやら久賀がスイッチを押すのが僅かに早かったらしい。
私は意識が遠のいていくのを感じた。
「おい! しっかりしろ! マリ……」
シンの声がだんだん聞こえなくなっていった。
……私は目を覚ました。
今度は水槽の中ではない。
ベッドの上であった。
しかも研究所の自分の部屋でもない。
見たことのない部屋だ。
窓から光が差し込んでいる。
これが陽の光なのだろうか。
……頭が少し痛い。
どうやら頭に包帯が巻かれているようだ。
コンコン。
ドアをノックする音。
間も無くドアが開いて、一人の人物が部屋に入ってくる。
シンだった。
「やあ」
「シン」
私は彼の無事な姿を見てホッとした。
「ここは?」
「病院だよ。何も心配はいらない」
シンの話によれば。あのあとすぐにシンの機関のの特殊部隊が駆けつけて、研究施設に突入したのだという。そして私たちは助けられ、この病院に搬送された。久賀の部下や研究者など、たくさんの人が逮捕されたという。
「そうだ! リカさんは助かったの?」
私が一番気にしていたことだ。
あの人は優しい面も確かにあったから。本心ではどう思っていたのかはわからないけど、私に対してだいたい良くしてくれたから。
「あぁ、重症だったけど、助かったよ。身柄は拘束されたけどね」
「そう……」
安堵感。彼女が犯罪組織の一員だとしても、生きていてくれたことが嬉しかった。
「あなたの方は、撃たれた傷は大丈夫なの?」
「ああ、なんてことないさ」
彼は腕を振り回してみせた。
「い、いてて」
強がりだったらしい。痛がっている。そんな姿がおかしくて、私は笑ってしまった。
「笑顔、初めて見せたね」
「うん」
「君はどう? 具合は」
「まあまあ、かな。でもこの包帯……」
「あぁ、久賀の言ったチップを取り出したんだ。君が気を失っている間にね。簡単に取り出せたよ。構わなかったかい?」
「うん」
そして、シンは今回の事件の全容について説明してくれた。
私は久賀に誘拐されたのだという。久賀という男はマッドサイエンティストとして有名で、実験のためには手段を選ばない。言わば犯罪者まがいのことをやっていた。シンは久賀の研究の内情を調査するために派遣されたのだ。
まず、研究所の場所を特定するのに相当な時間を要した。それから、研究施設はかなり強固なセキュリティーを誇っていた。余計に怪しいと踏んだシンは実情を探るため特殊部隊になりすまし、潜入。私のことを知った。
この時、私と行方不明中の少女の情報が一致したらしい。
私は記憶がまだ完全に戻っていないので、さらわれたときの記憶はない。でも記憶は直に戻ると教えてくれた。さらに、私の体が正常であることも教えてくれた。例の水槽の中身は久賀の開発した特殊な液体で、ある種の催眠作用を引き起こす薬品が混入されていたらしい。
その上で様々な暗示をかけたり、偽りの情報を刷り込むことで、私はほとんど久賀の思うがままになっていたのだ。全ては研究所からの逃亡を阻止するためのマインドコントロールだったのだという。研究所でないと生きられないと思い込まされていたのだ。例のウイルスで世界が滅亡したとか言う話も当然でっちあげであった。
「私一人にずいぶん大掛かりなことをするのね」
「それがやつのマッドサイエンティストたる所以さ。固執すると半端じゃない。こんなこと言うのもなんだが、君が死ぬまで開放したりはしなかっただろうな」
そう、私は思い込まされていた。精神操作によって、何もかも。そして、あげくのはてには記憶を操作された。情緒不安定なのはマインドコントロールと投薬のせいだったらしい。今後ゆっくり治療すれば、記憶も戻るし、普通の生活も送れるようになるそうだ。
「君は普通の人間さ。ただ、例の超能力を除いては」
「これは子供のときから持ってたの。久賀はこれを目当てに私を誘拐したのね」
そう、特殊な私の能力だけは本物である。ずっと嫌いだった、自分の力。でも、今はこの能力があったことを感謝している。でなければ私はここへ導かれることもなかっただろう。
「ああ、そうだろうね。君を研究や実験の材料として逃がしたくなかったんだろう。手元に置いときたかったんだ。でも、逆に君を救ったとも言えるね。その能力は」
「でも、私、人を殺した……」
あの守衛のことを思い出した。
「だが、君は完全に自分を失っていたんだよ。情緒が著しく不安定だったから。久賀風に言うならば暴走、ってやつだね。でもそれは久賀によるマインドコントロールと投薬の弊害でしかない。それに正当防衛と言えなくもないんじゃないかな」
「そうかな」
確かにそうかもしれない。あの時は邪魔をする人を全て殺しても良いとさえ思えたのだ。でも私は加減して、リカさんの時は殺さなかったのも事実。それでも判断ができなかったと言い切ることができるだろうか。そう、人を殺したことに違いはない。この罪悪感が消えることは無いだろう。
「いずれにしてもみんな久賀の一味さ」
シンは言う。
私はシンに感謝するしかない。
自分を正当化することはできそうもないから。
窓から光が差し込む。鳥の囀りも聞こえる。
世界はとても生命に満ちている。
私はきっと、以前よりそれを感じることができるようになっただろう。
研究所にいる時は、まさかこんな日が訪れるなんて夢にも思わなかった。
「のどが渇いたなぁ」
「じゃあ、僕が買ってくるよ」
シンが部屋を出て行こうとする。
「あ、そうそう、重要なこと教えるの忘れてた」
「なに?」
「君の本当の名前」
……そう、私の名前はマリアではない。
今や私は檻の外。
どこまでも広がるこの世界に生きている。
この素晴しい世界に生きている。
私だけの、たった一つの、大事な世界に。
−終−
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