「私の最後のお願い聞いてくれない?」
彼女は言った。僕は窓から空を眺めながら、何、と一言呟く。
「私を海に連れていってほしい」
「…難しいね」
僕は答えた。彼女はむすっ、と頬を膨らませているはずだ。それが彼女の不愉快の表し方。
「私の頼みが聞けない?」
「聞いてない訳じゃない。ただ、それは難しいと言っただけだよ」
出来る事ならすべて、彼女の頼みを聞いてあげたい、叶えてあげたい。
それが僕の願いだ。
彼女の病状を聞かされたのは婚約から一週間後だった。
癌
しかも相当進行してるらしい。
治療するのは難しいと。
僕はその事実を認めたくはなかった。
僕は毎晩、毎晩、泣いた。
僕は、ただ、彼女と一緒に居たいだけなのに。
彼女と同じ時間を過ごしたい、共有したいだけなのに。
彼女の入院が始まったのは婚約から1ヶ月が経った頃だった。
僕は時間の仕事が終わると真っ先に彼女に会いに行った。
いつも空を見ていた彼女は、僕が来ると、
「遅かったじゃない」
と微笑む。
日に日に、痩せ細る彼女を見るのは僕にとっては苦痛だった。
だけど、彼女は苦しそうな素振りなんて全く見せなかった。
「で…連れていってくれるの、海」
「外出許可が出たらね」
僕はそっけなく言う。帰りにでも担当医に頼んでおこう。
「でも、何故いきなり海なんかに行きたくなったんだい?」
「海が見たくなったのよ。あなたと初めて行ったデートも海だったじゃない」
「…そうだったね」
僕は空ばかり見ながら答える。既に太陽は沈み始めている。
「最後に行っておきたいなって思ったのよ」
「退院したらいつでも行けるさ」
「退院…出来たらね」
「出来るさ、必ず…」
時計は既に6時に近くなっている。面会時間も終わりだ。
「また明日来るよ」
「また明日待ってるわ」
僕はそれだけ言って病室を出た。
今日も彼女をまじまじとは見れなかったな。
彼女を見ると、彼女に死期が迫っていることくらい誰だって分かる。
いつからだろう、彼女をまじまじと見れなくなったのは。
それから一週間経った月曜日。
「今から海へ行こう」
朝早く、彼女の病室入るや、僕は彼女に言った。
「外出許可は取ってきた。後は君次第だけど」
「行くわ」
彼女は差し出した僕の腕に捕まりながら、嬉しそうに笑った。
一週間前から無理に担当医に頼んだかいがあった。
これが最初で最後の外出になるかも知れない、と医師は言っていた。
だからこそ、担当医は外出を許可してくれたのかも知れない。
「君のお気に入りの服」
僕は紙袋を彼女に差し出した。
「ありがと」
彼女は紙袋を受け取り、僕をちらり、と見た。
僕は苦笑する。
「ハイハイ、お姫さまが着替え終わるまで待っていますよ」
病室の扉を閉め、僕は目の前の白い壁を見つめる。
何度、この壁を眺めたものだろうか。
何度、この壁を眺め、暗い気持ちになったものだろうか。
だが、今日は違う。
今日は彼女がいるから。
悲しい気持ちにはならない。
「お待たせ」
彼女は病室の扉を開ける。
思った通りだ。
僕は微笑む。
「君には一番これが似合うよ」
「まだ、これ着れたのね」
白いワンピースを着た彼女は笑った。
「初めてのデートもこの服だったわよね」
「その服だったよ」
僕は彼女に手を差し伸べながら、笑った。
「また、あなたとここに来れた」
彼女は浜辺の岩に腰掛けながらオレンジ色に染まった海を見つめる。
「ああ」
「ここの夕陽が見たかったのよ」
彼女の髪が風に揺られる。
「この夕陽を見ると、何もかもどうでもよくなっちゃいそう」
僕はただ、彼女と共に海を見つける。
「この夕陽の前じゃ、私の病気なんて、ホント、ツマラナイ事よね」
彼女は夕陽に目を細める。僕は彼女の横顔を見つめた。
「また、連れてってくれる?」
「もちろん」
「嬉しい」
風で揺れる髪を押さえながら微笑む、彼女の横顔を見つめながら僕も笑った。
それから、彼女が、僕を一人にしたのはその一週間後だった。
婚約者の彼女を失った僕は、周りの誰からも、慰められ、哀れまれた。
だけど、僕はそんな時はいつも笑う。
「いつまでも私の事で悲しまないでね。悲しむ事はツマラナイ事なんだから」
これが僕が聞いた、彼女の最後のお願いだったから。
|