人形
まだ冬の寒さが残る、三月の初め。
四月から大阪に転勤することが決まった俺は、ガールフレンドの眞由美と引越しの準備をしていた。
俺の住んでいる部屋というのは、かつて通っていた大学の近くに建っているマンションだ。一年生の頃から卒業した後も住み続け、丸七年はここに住んでいることになる。
初めての一人暮らしを経験した、思い入れのある部屋だった。荷物を段ボール箱に詰めながら、友人達と過ごした大学生活を思い出して郷愁に浸る。ここはもう、俺の第二の故郷と言ってもいい場所だった。
壁に貼ってあったビートルズのポスターを剥がすと、その下から壁の窪みが現れた。確かこれは……大学二年生の時。この部屋で友人達と夜通し飲んだ時、酒に酔った友人、隆が暴れて、ビール瓶を投げた時についた傷だ。
凹んだ壁がみっともないからポスターで隠していたんだっけ……。すっかり忘れてた。あの隆が今や、警察官だからなぁ……。時間が流れるのは、早いもんだ。
懐かしい気持ちになりながら、壁の傷を撫でる。あれっ、ところでこの傷。もちろん大家さんにバレたらヤバイよな……。どうしよう。
「ねぇ、真樹。この人形たち、どうする?」
振り向くと、眞由美が窓際に置いてあった人形の一つをつまんでいた。人形と言っても、ペットボトルについてくるオマケや、食玩のようなものだ。
「どうするも何も……。捨てるしかないだろ」
眞由美はなぜか、そういった小さいフィギュアが好きだった。しかしありがちなのだが、買って袋から出し、少し眺めると飽きてしまうらしい。なぜか俺の部屋に来るたびに、窓際のスペースに置いて行ってしまうのだ。
だから俺の部屋の窓際には、小さな人形たちが並んでいた。俺もそういったフィギュアは嫌いじゃないから放っておいたけど、よくもまあこんなに買ってきたな、と感心してしまう量だ。眞由美は俺の部屋に来るたびに一体、多い時には三体ほど置いて行った。
「えー。もったいないよぉ」
「じゃあ眞由美持って帰ればいいだろう。何で俺の部屋に置いていくんだ」
俺は呆れた調子で返した。
「……もったいないなぁ」
眞由美はしぶしぶといった風に人形を一つづつ、ゴミ袋の中に入れていった。俺はそれどころではなく、凹んだ壁を撫でる。どう誤魔化すか……。
「ねぇ、真樹」
「ン?」
「これは?」
振り向くと、眞由美が一体の人形を掌に乗っけていた。
「これは、って……」
それは、その他の人形たちとは明らかに様子が違っていた。
“フィギュア”といった様子ではない。和服の切れ端のような布に何かを詰め、縫って丸めたような、達磨のような人形だった。どこかで買ってきたといった風ではない、手作りのようであった。
それは、赤茶色の布だった。表面には――それがちゃんとした一枚の布だった時の名残のような――和物っぽい模様が浮いている。正面には肌色の布が縫い付けてあって、おそらくそこが顔なのだろう。黒い糸で、目、鼻、口が描かれている。その微笑みをたたえた表情が、妙に不気味だった。その顔の下には、連なったビーズが縫い付けてある。その様子は、まるでその人形が数珠を持っているようだった。
「これも、お前が持ってきたやつなんだろ?」
俺がそう言うと、眞由美の表情が曇る。
「私、こんなの持ってきてないよ」
――え?
そんなハズは無い。
だって俺にもそんな人形、見覚えが無いのだ。
「それ、どこにあった?」
眞由美は近くの窓際を指差す。そこにはまだ、人形がいくつか残っていた。
「どこだ」
「ここ」
眞由美が指差した場所には、その人形のいた跡があった。埃がある一部分に、溜まっていなかったのだ。それは丸い跡として、残っていた。
全身に寒気が走る。
俺はこんな人形、ここには置いていない。眞由美も置いていないと言う。ならばこの人形は、誰が置いたというのだ……?
大学時代の友人? ……にしたっておかしい。こんな人形を勝手に黙って置いて行くだなんて、そんなことをするやつは思い浮かばない。
誰が置いたのか。何の為に。
いつから置いてあったというのか。
ずっとそこにあったのに、今日まで気がつかなかっただなんて――。
眞由美の掌から、人形を掴み取った。その中身は綿などではなく、枕に入った蕎麦殻のように、“じゃりじゃり”としたものが入っていた。
中身を見る気にはならず、そのままゴミ袋に投げ入れた。
早々にこの部屋を出たい。そう思った。