布石、ひとつめ。
小学校へ上がって半月が経った。むずむずするような身体測定、安全教室、歯磨き講習なんてものまで越えて、漸く通常授業についた頃には四月の半分近くが過ぎていた。
気が付けば、という言葉が正しいと思う。先の行動の予測が全くつかない子供だらけの環境から、得られるものはストレスばかりに思われたが、慣れればなんてことはない。授業は退屈なくらい簡単だし、休み時間は図書館へと逃げ込んでおけば体を動かしたい盛りの子供たちの目には触れない。一年生に委員会活動は無いと聞くし、存外、暇潰しの方法さえ見付けてしまえば静かな生活が手に入れられるようだった。
『泪』とはまるで反対だ。今日も窓から枠を越えて侵入する甲高い声を背景にページを捲る。『泪』は自他共に今“声を上げている側”の人間だった。
「ね。」
ちょん。いつの間にか接近していた影に頭を小突かれた。
すっかりクラスメイトと打ち解けられた祁答院は連日外でかけっこに夢中だ。活字と静寂の支配国たる図書館に足を運ぶ知り合いは、一年生の中からは凉くらいしか思い付かない。
「あ、うごいた」
頭を上げた先、あどけない顔をした少年が突き出した人差し指のまま此方を見下ろしていた。
……どこかで見た顔だな。机の隙間から上靴を覗く。緑色のライン。ということは一年生か。えーと、クラスメイトではないな。
「しんでるかとおもった」
「…………」
「いきしてる?」
失礼な少年は、素直すぎる純な瞳を上半身ごと大きく横へ倒すと、断りなく隣の席へ座った。
なんだって俺はこうも絡まれやすいんだ。見た目か。見た目が派手だから目に止まりやすいのか。……そういや、大道寺がそれっぽいこと言ってたな。こっちは目立つことなんてちっとも望んでないというのに。
「ねえ、これおもしろいの?」
パッと本―― 一応、一年生という外面も考えて学級文庫にある物と変わらない簡単な児童書だ。これがまた意外と面白い――を取り上げられる。タイトルを確認する為、読み掛けだったページを閉じられてしまった。おいこら。
「なにこれ。わっけわかんねー」
ぺいっ。粗末に本が机へ投げ出される。……駄目だな。この扱いはいただけない。
「――君さ、」
「うん?」
くりくりした黒目が俺を捕らえたのを見計らって、頬を掴んだ。次に、悪意のない純粋な凶器を生み出す『子供』の指先を、力を込めて握り締めた。
「公共のものは大切にあつかいなさい、て、教えられなかった? しらなかったならこれから覚えるといい。この本は、君のしぶつじゃない。公共のもの。みんなのものだ。それを、こんなふうに投げたりするのはゆるされることじゃない」
「おこってんの?」
「おこってるよ」
少年は、掴まれた指を自身から握り返して俺を見た。不思議そうな瞳だ。
「なんでおこってんの?」
「君が本をなげたからだよ。あんなことしたらいたむでしょう?」
「いたむってなに?」
「悪いじょうたいになること……あー、ちょっとちがうけど、まあ、こわれるってことだよ」
「こわれたらだめなの?」
「だめだよ。ここにある本は、みんなのものだから。――君のものなら、こわそうがやぶろうが好きにすればいい」
「……なにそれ」
少年は憮然とすると、次の瞬間には大きく笑い出した。
「あはははっ。ぼくのものならこわしてもいいの? へんなのー!」
「君のものだからね。君が後悔しないならそうすればいい」
「やとは『ものはなんでもたいせつにしなさい』っていうよ?」
「なら大切にしたら? 君が大切にしたい、ておもったのならそれでいいんじゃない。――あくまでも、君のものならね」
きゃらきゃらと笑い転がる少年に、制止を掛けて本を目前に掲げた。
「これは、君のものじゃなくてみんなのもの。せいかくには学校のもの。だから、君がなげていいけんりはない」
道徳的には「すべての物を大切にしましょう」が正解なのだろうが、それを教育するのは彼の親や教師たちの仕事だ。他人の俺が手を出す領域じゃない。
「そっかあ。いずるくんはへんなのだね」
「は?」
「やとならぼくをわるいこ、ておこっておわりだよ。いずるくんはぼくをわるいこっていわないんだ。やととちがうね。へんなのー」
「……悪いこかどうかは僕のしゅかんじゃきめられないから」
「しゅかん?」
「ええっと、僕だけからみた目線ではきめられない?」
「ぼくだけのめせんってなに?」
「えー……」
子供お得意のなんでなんでが始まってしまい、げんなりとした。これには『泪』も『両親』もほとほと困らせられた記憶がある。
俺、教えるのには向いてないんだよな。なんというか、皆が何に躓いてるのかがわからない。頭の出来る奴特有の悩みだ、て生前の友人たちには散々僻まれたが。
タイミング良く予鈴が鳴った。五分で教室へ戻らねば。
「次、三じかん目はじまるよ」
「ねえねえ、ぼくのめせんってなにー?」
「帰ってからやととやらにでも聞け!」
ひょこひょことひよこのように付いて回る少年に、妙な既視感を覚えながら図書館を後にした。
――あ、そうか。見たことがある筈だ。前にもこうして廊下を歩いたじゃないか。協調性の欠片もない子供たちの中でも、特に自由な『彼』に大道寺も苦戦を強いられていた。
――この子は、D組の残り者の一人、沖一心だ。
コミュ障はコミュ障でも、人嫌いや人見知りではなく興味があるもの以外会話が成り立たない系のコミュ障だったか。
翌日も、さらにその翌日も、沖一心は図書館へとやって来た。元々、案内時に見られた通り図書館をいたく気に入っていたようだが、こいつの今での目的は俺だ。それはもうニコニコ笑顔で読書の邪魔をしてくれる。まあ、俺も手慰みに本を取っているだけなので然程の害はないのだが。強いて言うならば――
「ねえねえ、オレンジってなんでオレンジいろなの? なんでオレンジいろっていうの? だれがきめたの? グレープフルーツはグレープフルーツいろっていわないの? なんでグレープフルーツはオレンジみたいなのにグレープなの? ねえねえ、ねえねえねえ」
「うるさい。」
非常に煩い。声が大きい訳じゃない。矢継ぎ早に寄越される「なんで」が煩いのだ。
答えなんてそこらにごまんと整理されているではないか。……ちょっと探すのが大変だけれど。
「おきくんはさ、知りたがりなの?」
「しりたがり?」
「いろんなことが知りたいの?」
「うん。でもべんきょうはきらい」
にっこりと白状した沖に、文字を辿る手を止めて彼を見た。
「じゃあ、本はにがて?」
「なんで? すきだよ?」
「それなら、知りたいことはまわりを読んで知ればいい。これはべんきょうじゃないんだから、君の知りたいことだけしらべれてみればいいじゃない」
「でも、へんなのにきいたほうがはやいもん。へんなの、モノシリだから!」
……ちなみに、聞くまでもない風に流しているが、「へんなの」ってのは俺のことか。
変な子供に『変なもの』呼ばわりされるなんて……釈然としない。まったく。
「それ、――つまらなくない?」
「え?」
向かい席で頬杖をついていた沖少年は、ぱっちりと瞳を開いて俺を見上げた。
「おきくんは、ゲームでズルをしたりする? したい?」
「ううん。しないよ。そんなのたのしくないもん」
「それじゃあ、おきくんがしてるのはずるいことだとおもわない? せっかくヒントや答えをよういしてる本があるのに、なんでも知ってる人にきくのはずるいよ」
ま、別に“何でも”知ってる訳ではないけどな。どうも周りは俺を生き字引のように見ている節がある。俺はお前らの教科書じゃないぞ。
「どうせならさ、しらべるってかてい……あー、しらべることをたのしみなよ。人にきくのもしゅだんのひとつにはちがいないけれど、本のほうがしらべてるうちに別のことも知れてたのしいよ?」
「そうなの?」
「……僕は、だけどね」
ぶっちゃけただの屁理屈だが、これで彼が大人しく読書をする――いや、もうそこまで求めん。最低限大人しくさえしてくれるようになれば万歳だ。その為になら、多少の読めない漢字や文章の解説くらいは買ってやろう。
「ふーん。へんなのはやっぱりへんなのー。でもわかった。なんでもへんなのにきくのはやめる」
案外聞き分けのいい沖少年は、パッと立ち上がると青い鳥をモチーフにした小中学生向けの文庫棚へと駆けていく。こら、走るな。
そして、途中で振り返ると、それはそれはにんまりとした笑みを浮かべた。
「んっとね、でも、やとが『そういうときはこういえばいいんですよ』ていってたからいうね。――ぼく、ほんよりもべんきょうよりも、いずるくんとはなすのがいちばんたのしいから、……これからもかまってね。いずるくん」
大道寺や悪戯好きだった生前の友人を彷彿とさせるような『悪い笑顔』に、妙な寒気を覚えた。
――あ、なんか厄介なのに目を付けられた気がする。
そんな嬉しくない邂逅を経ながら、のんびり五月へ差し掛かろうとした頃。明野伝に大道寺――否、児童会から呼び出しがあった。
悪趣味……とまでは言わないが、相変わらず統一性のない華美な廊下を通って応接間の戸を開く。
「わー! 依流くんいらっしゃーい! けっこう久しぶりじゃない? お、身長のびた?」
「いらっしゃい。来宮くん」
「へー。この子が例の」
「おお、かわいいじゃん」
大道寺と瀬長と靜。それから、対面は初めての男女四人。ついでに何故か凉。華々しい容姿の面々に囲まれて目が眩しい。……照明の所為、ということにしておこう。
あと大道寺。久々に会った親戚のおじさんみたいな挨拶はやめろ。成長期でもないのに一ヶ月そこらで身長が伸びるか。身体測定後、見事に背の順前列に配置された俺に対する嫌味か。
「急にごめんね。予定とかなかった? クラブ、もう入っちゃってたりする?」
「いえ、とくには」
「だよねー! 依流くん、ぜったいクラブとか入らないと思ってた!」
「…………」
陽気に人を苛立たせるこいつのコレは一種の才能だと思う。
「一応紹介しておくね。あれが勝憲と同じ副会長の桐生雪乃。で、こっちが書記の海田井晋哉。あの二人が会計の町山菊子と才木快。てきとーに仲良くしてあげて」
紹介された男女が三人三様によろしくと声を上げる。
大和撫子の言葉が良く似合う黒髪の彼女が桐生雪乃。爽やかで大柄な彼が海田井晋哉。残りの黒髪ショートカットの女児が町山菊子で、目は黒だが髪は茶色掛かっている少年が才木快か。
好奇の視線を遠慮なく浴びせる四人に、軽く会釈だけ返して大道寺を見る。此方の名前は既に知られているようだし、わざわざ会話する必要もないだろう。――それよりも。
「それで、なんの用ですか。だいどうじお兄さん。ほしなくんまで呼んで」
靜の隣でちょーんと人形のように大人しくしている凉を見遣って、笑顔の大道寺に眉を寄せた。大道寺は、なにやら「わあ」と間抜けに口を開くと、やっぱり笑顔で俺を挑発した。
「依流くん、笑うのはへたなのに怒った顔と呆れた顔はじょうずなんだね。あはは、にあうにあう。かーわいい」
「帰りますね」
会話する気がないと受け取り、ソファから立った俺に凉が慌てて付き添った。向かいでは大道寺が瀬長に後頭部を打たれ靜に膝をつねられ桐生雪乃に冷たい視線を送られていた。ほんと懲りない男だな。大道寺。
「ごーめんってー。無表情よりいいじゃないか。依流くん、素材がいいからどんな顔してもきれいだし」
「大道寺」
「はーい。まじめにしまーす」
瀬長にたしなめられた大道寺は、ごめんねとヘラヘラ笑いながら再び着席を勧めた。机には緑茶が置かれている。渋いな。今度は誰のチョイスだ。
「んじゃ、本題だけど、二人にはね、一年生としてある意見がききたいんだ」
ゆっくりと手を組んだ大道寺は、俺と凉の顔を流して見た。十一、十二そこらの歳で、既に上に立つ者として完成した眼差しをしている。緊迫を孕んだ空気に、自然と背筋が伸びていく。誰もが彼に『注目』していた。
大道寺の整った唇が開かれ、そして。
「――友達千人で遊ぶとしたら、なにがいい?」
「「………………はあ?」」
「お帰りなさーい、坊っちゃん。学業お疲れ様です」
すっかり慣れた車内に乗り込んで、ため息を吐く。じわじわ襲い来る疲労から、うっかり佐久間の変わらない笑顔に癒されてしまいそうだ。……佐久間が癒しに思えるとか、本当に疲れてるな。家に着いたら仮病使ってさっさと寝よう。
「ずいぶんお疲れですねー。授業むずかしかった?」
「かんたんすぎてたいくつ」
ポロッとこぼれ出た本音に、佐久間は苦笑した。
「さっすが来宮家の神童、依流坊っちゃん。……それじゃあ、なにがあったんです?」
唇を閉じる。
こいつに相談しても意味はない。俺に子供の気持ちはわからないし、佐久間は大人だ。――けれど。
――『俺』よりは、柔軟で子供に近い思考ができるかもしれない。
いつだって少年みたいな笑顔を浮かべられる、彼なら。
「……今度、れきゅっ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……りぇくっ、……れっ、きゅ、………………。」
沈黙。
「……言いたいのは、レクリエーション、ですかね? ……ふ、くっ」
「――っわらうな! 舌がうまくまわらないんだよ!」
これだから! これだから子供の体は!
「あっはは、いいじゃないですか。カタカナがうまく言えない坊っちゃんもかわいらしいですよ。ぶふふっ」
「うるさいっ!」
肩を震わせ忍び笑う佐久間に、傍らのランドセルを叩いて吼えた。ルームミラー越しに顔を真っ赤にした依流が睨んでいる。
くそっ、この程度で乱されるなんて。らしくない。疲れてるからだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。それで? レクリエーションがどうしたって?」
「……今度、新入生のかんげいに全校生徒であそぶらしいんですけど、ないようが思いつかないからなにかないかってそうだんされて、……僕、そういうの考えるのにがてなので」
まったく。面倒だからって、当の一年生に聞かなくてもいいだろうに。あの愉快犯め。……あ、小学校だから正確には全校児童か。
なんでも、花見も兼ねた新入生歓迎会が毎年この時期に行われているのだとか。年間行事予定表にも載っている。実際、桜なんてほぼ旬を終えて細々としか残っていないのだが、伝統とはそういうものだ。
六回目ともなれば、さすがの大道寺も頭の引き出しが空っぽになってしまったのかもしれない。……単純に面白がって俺たちに聞いている風だったが。
「まあ、定番は鬼ごっことかなんじゃないですか? 子供は風の子っていうし」
「千人で走りまわるんですか」
「え、千人!? あ、そっか……とんでもないマンモス校なんだっけ。ううん、確かに千人で鬼ごっこはきついな。ケイドロとかならまだしも……」
右折するハンドルと一緒に頭を傾けた佐久間は、次に「あ!」と声を上げた。
「あれとかどうですか? ――宝探し!」
「たからさがしって……」
幼稚すぎて瞬時に却下の言葉を吐き捨てようとした俺だが、――いや、待て。一理有るな。
幼稚だけれど、対象はこの間まで幼児だった小学一年生なのだ。案外、頭を使わないこれくらいのゲームが無難なのかもしれない。少なくとも鬼ごっこよりはマシだろう。
「たからさがしか。……それでいいか」
「で、て! 僕の渾身の案を、坊っちゃんったらひどい!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ佐久間の声を右から左へ流しながら、俺は静かに目を閉じた。
……ま、一応(佐久間が)考えたは考えたんだから、文句を言われる筋合いはない。何に決定しようとも子供に混じって遊ぶなんて精神的高難度な苦行、俺にできるとも思えないし……――どうでもいい。
チラリとミラー越しに後部座席を伺った佐久間が、優しい笑みと共に口を閉ざした。彼のこういった細やかな気遣いは、中々に心地好い。
沈む意識に身を委ねる。――とりあえず、今は寝てしまおう。
ああ、疲れた。