まだ見ぬ空が眠る場所。
「お兄ちゃん。もう起きなきゃ」
妹の声がする。
まだ大丈夫だって。
「だめだよ。そうやってちこくばっかりするんだから!」
耳元で音量を増加される。うるせえ。
高校生は多少遅刻しても大丈夫なんだよ。ガキはさっさと小学校行って遊んでこい。
「そーいうこと言ってるとりゅうねんするよ! お母さん心配してたよ! もうっ! お兄ちゃんのバカ!」
誰がバカだ。名門学校に特待で入った秀才様に向かって。もっとお兄様を敬え!
「はー? なに言ってんの? バーカバカバカ。ちょーバカ。大バカ。宇宙一バカ」
あんだと!?
「馬鹿だよ。兄さんは馬鹿だ。なんで気付かないの。また繰り返すつもりなの? はやくしないと、――泣いちゃうよ」
パチリ。
「…………」
妙な夢を見た。妙としか言いようがない夢だ。なんだって寝てる時にまで妹にバカバカ言われなきゃならないんだ。
「あんにゃろ……あ?」
自分のものとは思えない声に驚いて、喉を押さえた。小さな手。……あー……
そうだった。今の俺は七歳の来宮依流だ。
まだ寝惚けている証拠だな。さっさと顔洗って着替えよう。
よっこいせ、と、誰も見てないことをいいことに、お坊っちゃまな依流なら絶対に言わないオヤジくさい掛け声で起き上がる。ぐぐっと背伸びをして。
――さあ、憂鬱な子供社会二日目だ。
保育園へ向かう依耶を見送ってから、登校の為佐久間の運転する車に乗り込む。今日も喋り倒しな佐久間の話をしらっと聞き流しながら、外を眺めるふりをして欠伸を噛み殺した。相槌もないのによく話題が尽きないものだ。こいつは口から先に生まれてきたに違いない。
「あー、もう着いちゃった。忘れ物ないですかー? あ、また聞くタイミング間違えた」
「ないです。ありがとうございました。帰りもよろしくおねがいします」
「あっはっはー。さっすが坊っちゃん、クールだねー。そして律儀だねー」
最後まで気の抜ける笑みで子供みたいに手を振っていた佐久間と別れてから昇降口へ。下駄箱を開いて、――あ。
手を止めた。そうだ、俺の上履きは祁答院の所に入ってるんだった。
どうしようか、と思案していると、そこに。
「いずるくん! おはよー!」
「いずるくん、おはよう」
祁答院と保科――姉と区別がつかなくてややこしいので、勝手に凉と呼ぶことにする――がやって来た。真反対な二人だが、昨日感じていた通り仲は良いらしい。
「おはよう。カナちゃん、ほしなくん」
義務的に返して、少し下にある、くるんと目を輝かせたハムスターを見遣る。
「カナちゃん、今日はうわばき持ってきた?」
「もってきた!」
ニコォっと炸裂した笑顔に眩しいものを感じながら、じゃあ僕の上履き返して。と続ける。
「うんっ! はい! あ、えっと、きのうは、いちにちかしてくれてありがとーございました!」
一日でマスターしたらしく、下駄箱をすんなりと解錠して笑いといじらしさを誘う「いずるくん」の名が刻まれた上履きをすのこへ落とした祁答院は、華奢な体躯から重心が安定しなさそうな頭を大袈裟に下げてニコニコ笑顔で礼をした。あまりの勢いにそのまま前転してしまうかと思った。
そして、下げた時と同じ勢いで面を上げては、やはりキラキラした目で俺を見上げてくるのだ。
えーと、……こういうこと、だろうか。
「……よくできました」
そっと頭を撫でる。ただでさえ大きな目がパァァとさらに広がった。正解だったらしい。
「すっかりほごしゃだね」
一歩引いて見守っていた凉が落ち着いた笑みで祁答院を撫でた。……完全に眼差しが挨拶ができた甘えたな弟を見る目なんだが。祁答院は皆の弟ポジションなのかもしれない。
無事履き替えて教室へと向かう。右手は祁答院に取られ、左は凉が涼やかな笑顔で陣取っていた。美少年二人を携えて登校とは。我ながら贅沢だ。
席に着いて、ぼんやりと本日の時間割りについて考える。確か、今日も三時間授業だった筈。一、二時間目に全校集会やらレクリエーション、長休みを挟んで三時間目はホームルームだったか。あ、小学校はホームルームって言わないんだっけ? えーと、学級会? 学級活動、か?
昨日は一年生だけの登校なこともあって長休みはなかった。さて、どうやって二十分余りもの時間を潰すか……。サロンに制服を返しに行くか? ……大道寺が居たら面倒だな。
無表情の下、そんなことをつらつら考えていると、隣から伸びた手に裾を引かれた。
「なぁに、カナちゃん」
「あのね。あの、あのね、」
お決まりのもじもじが始まったので、一旦思考を止めて彼の言葉を待つ。
「おなまえ、ね、いずるくんにかいてほしいの」
そう祁答院が差し出してきた手には上履きが。祁答院の名はない。真っ白の上履きだ。……俺に彼の名を書けと言うのか。
正直な所、わざわざ俺に頼みたい祁答院の気持ちがわかるようでよくわからなかったのだが、こんなにも期待いっぱいの目で見上げられて断る程鬼でもない。この程度、面倒の内に入らないしな。
油性マジックを取り出し、「いずるくん」と書いてくれた彼に合わせて「かなちゃん」とひらがなで書き込む。
「これでいい?」
「うん! うん! きれい!」
大袈裟に喜ぶ祁答院は、ふわふわと頭を揺らして腕へすり寄ってきた。
「いずるくん、きれい!」
「字が?」
「うん! でもね、いずるくんもきれいなの。カナちゃんね、いずるくんすき」
祁答院は何かに付けて俺を好きだと慕ってくる。初めこそ動揺したものの、ここまで底抜けに好意を示されてほだされない人間がいるだろうか。面映ゆいのには変わりないが。
明野が教壇に立った所で、祁答院との雑談を切り上げた。
「一時間目は講堂で校長先生のお話。二時間目は体育館に移動してお兄さんお姉さんのクラブ活動を見学します。体育館シューズを持って、廊下に並びましょう。名前順でいいよ」
バタバタと児童たちが廊下へ飛び出していく。
学年集会とクラブ見学か。入学直後は詰めなければならない情報が多くて参る。
まだまだ慣れない小学一年生二日目。今日も目立たずひっそりと過ごせればよいのだけれど。
どこの学校も、校長や教頭の話が無駄に長ったらしく生徒に取っては睡魔への呪文でしかないことはお決まりだ。入学時にはピシッと緊張を見せていた児童たちだが、チラホラと気の緩んだ姿が見られるようになった。隣の彼なんて欠伸が五回目に突入している。
漸く、お偉い先生方の有り難いお話が終わった頃には、殆どの児童が集中を切らし顔に飽きたと貼り付けていた。これには各クラスの担任教諭たちも苦笑いするしかない。それでも、話し声が聞こえてこないだけ、名門華奧学院への入学を果たすような『教育』がされた子供たちなのだと思わされるが。
体育館へ移動して、並べられた椅子――間違ってもパイプ椅子なんかではない――に座る。舞台にはワインレッドの緞帳が下げられていて、舞台鑑賞のような形で見学するのだとわかった。
興味ない。――隣で瞳をキラキラさせて舞台を見上げる祁答院を見ながら思う。
ここ、華奧学院ではクラブや部活などの入部は自由とされている。六年、いいや十二年間、帰宅部を貫き通しても構わないのだ。
やる気があれば掛け持ちだってできる。そして、やる気がなければ何もしなくていい。ならば、目立ちたくないし活力も湧かない俺としては“なにもしない”以外の選択肢はない。――当然、児童会なんてものにも入る気はないのだが……
「こんにちは~! 児童会会長の大道寺修也です。児童会で一番えらい人です。みんな、戦隊ヒーローのレッドすき? アレアレ。僕、アレね。あ、依流くんみっけ! やっほー! ――ッあいた」
「最初くらいまじめにやれって言っただろ」
舞台で大道寺と瀬長が見慣れた漫才を繰り広げている。
周囲は好奇心から彼等を熱く注目して――
「いずるくんいずるくん! よばれたよ!」
……うん。わかったから俺にも注目するのはやめようか。
舞台では昨日大道寺が俺へと行った児童会の概要――をさらに噛み砕いた内容で説明していた。
祁答院ががっつり興味を示している。凉は「しず、すごい……」と姉ばかり見ていた。このシスコンめ。
「いずるくんいずるくん! カナちゃんじどーかいしたい! いずるくんもしよ!」
案の定。案の定、祁答院が騒ぎ出した。祁答院の女の子と大差ない甲高い声は舞台へと届き、大道寺の意識を再び引いてしまった。
「お、依流くんのお隣の君、児童会に興味あるの?」
「ある! カナちゃんブラックがいい!」
「えっ、レッドいや? レッドふられちゃった?」
「ブラックのほうがかっこいいもん」
「どうしよう勝憲、あんなかわいい子にふられた」
「知らん」
普段の人見知りっぷりはどこへやら。興奮した祁答院とマイク越しの大道寺のやり取りに忍び笑いが四方から漏れている。
「カナちゃん、座って。だいどうじお兄さん、一年生にすいせんしょはむりなんでしょう。かってなこと言ってこの子にきたいさせないでください」
「おい、一年に説教されてるぞお前」
「来宮くんのほうがよほど会長にむいてますわよ」
瀬長と靜の言葉に会場が沸いた。あっという間に俺へ注目が集まってしまった。壁際に監視の為立っていた教師陣からも好奇の視線を感じる。
まずい。この流れはまずい。こんな風に目立って……
――明野が喜ばない筈がない!
体育館から教室へと戻る途中、明野の例の期待と観察が入り交じった居心地の悪い視線に晒されることとなった俺は、大道寺に次会う機会があったら八つ当たりしようと心に決めた。
三時間目。懸念していた長休みは大はしゃぎする祁答院に振り回されることによって気付かぬうちに流れていった。駆け回った祁答院は少し疲れを見せているが、この時間、することと言えば配布された教科書の落丁・乱丁・増丁チェックと記名くらいだろう。自業自得なので気にしないことにした。
前席から回される教科書を後席へ流しながら捲ってみる。ひらがな表……。様々な意味で新鮮だった。
国語、算数、理科と一通り配り終え記名の確認も終わらせた明野は、次にA4程のプリント用紙を取り出した。
「はーい、じゃあ今から、みんながどれだけお勉強できるかのテストをします。わからないところは空けていいからね。わかるところだけ埋めてねー。隣のお友だちに聞いちゃだめだよ?」
プリント用紙が回ってくる。テストなんて物々しく言っているが、五十個の枠が二つと二十六個の枠が一つ。その下には簡単な足し算引き算の計算式が五つ印刷されているだけだった。
「今から、先生が言うひらがなを箱の中に書いてね。わからなかったら空けてねー」
所謂学力チェックのようだ。流石お金持ちばかりの進学校。入学前から『教育』をされている可能性を視野に入れて授業計画を立てるらしい。
どうしようか。鉛筆を握り締めて黙考する。子供らしく何個か空けて書くか。子供らしさを追求するなら字も崩さなきゃならないよな。妹が子供の頃、「ぬ」とか「ね」に苦戦してたような記憶があるし。
…………無理だな。
あっさりと匙を投げた。子供らしく愛想を振り撒くことすらできない俺に、そんな面倒な計略ができる筈もない。凉や靜のような賢い子供もいるのだ。多少周りより図抜けていても、子供のうちは賢かった、で済む話だろう。俺の知識は高校生止まりなのだから。どうせ後々追い抜かれる。今ちょっと賢いように見られても問題はない。……たぶん。
明野ののんびりとした「か」だの「き」だのの声を聞き流しながら、空白を埋めていく。
ひらがなの次はカタカナ。カタカナの次はアルファベット。最後に計算と、一通り埋めた所で回収の為後席から回ってきたプリントに重ねて前席の子へ渡した。
渡してから思った。――あれ、小学一年生でアルファベットって覚えるのか? 普通に埋めたけど。
……進学校ならあるのかな。幼児用の英会話も受けてきたし。……うん、気にしないでおこう。
帰りの会で明日から本格的に始まる授業の話を聞きながら、ランドセルに教科書を詰めていく。同じく自宅通い組の祁答院と凉に連れられて、下駄箱へ。
頭の痛い悩みは尽きないが、先のことばかり考えても仕方ない。佐久間に繋がる番号を押しながら、不安や苦悩をため息に変えて吐き出した。
――精一杯だった。懸命に冷静ぶってはいるものの、やはり余裕なんてなかったのだと思う。
だから、面倒故何も考えず埋めてしまったチェックプリントが、後々『彼』に繋がってしまうだなんて、思いもしなかったのだ。
――コンコン。戸が叩かれる。歯の磨き方だとかストレッチの仕方だとかのポスターが貼られた戸の横。掛け札には『第三保健室』とあった。
「田上先生」
中にいる教師――養護教諭田上へと一年A組担任教諭、明野は声をかけた。
「田上先生、入りますよ」
返事も待たず明野はドアノブを回した。
「田上先生――って、またこの人は」
件の人は机に突っ伏してぐーすか寝ていた。眼鏡が眉の位置まで上がり下敷きにされた保健便りのプリントが涎に湿っている。とても児童に見せられる姿ではない。
「田上先生、起きてください」
軽く肩を揺らしてから、明野は――スッパァァンと勢いよく男の頭をはたき倒した。
「いぃったァァァ!! 誰だゴラ……あ、あけちゃんじゃん。なんだ、もう授業終わったのか?」
「なんだじゃありませんよ。気、抜きすぎです。あと職場であけちゃんなんて呼ばないでください。明野先生、でしょうが」
「誰も聞いてねーんだからいいだろぉ」
「聞いてるでしょ。……あれ、もしかして綾崎くんまだ寝てる?」
明野が追った視線の先にはカーテンに仕切られたベッドがある。そこに、明野が第三保健室へと寄った目的の人物がいるのだ。
「おー、薬飲んで寝てる。まだ寝かしてていいだろ」
「それは構わないけど……そっか。じゃあいいか。あー、疲れた。ほんと子供はパワフルだな」
診察用の回転椅子にどかりと腰掛けた明野は、子供たちの前では見せない男臭い仕草で肩を回した。ついでに「あ゛あ゛あ゛~」と湯に浸かるオッサンの如く腑抜けた声も上げた。
児童等の前で見せていたどこか頼り無く見える明野が嘘のようだ。強制的に叩き起こされた田上は、そんな彼の変化に頬を引き攣らせるしかなかった。
「そうしてるとちゃんと三十路いってるように見えるよなー、あけちゃん。普段はどこの新人教師だ、て具合なのに。若作りってのは男女共に恐ろしいもんだねぇ」
「子供にはあれくらいが丁度いいんだよ。頼りない兄ちゃん持つと弟がしっかりするだろ? 押さえ付ける怖い先生にはなりたくないの。あと若作りって言うな」
意図して気弱な教師像を作り上げている明野は、ゆるりと余裕を見せて笑った。思惑通り依流に新人教師と見られている明野だが、その実、同じ初等科教師から困った時に真っ先に名を上げられる程のベテランだったりするのだ。
「それも憧れだった近所のオニーサンからの受け売り?」
「これは俺の教師としての教訓ですー。なんでもあの人と結び付けないでください」
ムスゥっと唇を尖らせた明野は、ふっと気を緩めるとファイルから採点未遂のプリントを取り出した。一番下に挟んでいた誰の記名もないまっさらな一枚を出して、田上へと渡す。
「今日いつものテストしたから、それは綾崎くんに。綾崎くん起きるまで丸付けの続きここでしていい? いいよな、よし」
「端から聞いてねぇじゃねぇか……」
田上からあっさりと意識をプリントへ移した明野は、机を占領してテストのチェックを始めた。これの結果によって、明日からの授業計画に変更を入れねばならないのだから。――とは言うものの、今年の児童は予想以上に優秀だ。大半がひらがな、カタカナと基礎はできている。特に保科凉や来宮依流なんて――
「うん。やっぱすごいなー、来宮くん。委員長してほしいなあ。勿体ない。ほら見てよこれ。アルファベットまでちゃんと書けてんの。久々の天才児当たったかもしれない」
田上へと『きのみやいずる』と書かれた解答用紙を見せる。児童からテストとして回収したプリントを他人に見せるのはよろしくないが、正規のものではないし付き合いの長い田上相手となるとついその辺りの気も緩んでしまう。――立場も含めて、『相談』するにはぴったりの相手なのだ。
明野からプリントを受け取った田上は、気だるげに微睡んでいた目をすっと細めた。
「……この子、どんなかんじだ?」
「んー、とりあえず大人しいな。あんま喋らないし注目されるのとか嫌いみたいだ。でも本人はすごくしっかりしてるし、あの感じだと考えとかも大人びてると思う。――やっぱり、問題あるか」
「問題しかないな」
プリントを明野へ返した田上は、側にあったボードを掴んで新しく名を書き込んだ。――『来宮依流』と。
「一回この子連れてこい。とりあえず話してみる。頭良い子はそんだけ浮くからな。子供社会で浮くのはつらいぞ。天才くんはやり方間違えたら一気にドボンだ」
「ん。機会見て連れてくるよ。俺も気にはしてたんだ。だから、一番無理なく側にいられる委員長してほしいんだけど……ありゃ無理かな。フラれっぱなし」
「へえ。お前が。珍しい」
「ほんと変わってるんだよ。……たぶん、子供扱いされるのも嫌いだ。んー、どう対応するか……」
子供の扱いならば百戦錬磨、なんて恥ずかしい評価を受けている明野の悩む姿に、田上は再び来宮依流のプリントを見た。
完璧な解答用紙。子供は完璧であってはならない。大人だって完璧なんて存在しないのに、子供でこれだけ『完璧』を作れるだなんて、――潰れる。
近年見なかった久々の『問題児』に、田上が本来の真面目さを取り戻して取り掛かろうとしたその時。
――先生。
心細さを如実に表した小さな声がカーテンの向こうからこぼれた。瞬間、田上の纏っていた雰囲気がガラリと変貌する。
「おはよう、綾崎くん。よく眠れた?」
カーテンを開いて、ベッドの主へと牧師もかくやといった清廉そのものな表情で近付く。先程までのぐーたらなオッサンの姿など微塵も存在しなかった。
明野は思う。――俺なんかよりもよっぽど猫被りがお上手ですよ。
「せんせい、ごめんなさい」
「どうして謝るの? 具合が悪いのは綾崎くんの所為じゃないでしょう? 何も気にしないでゆっくり休みなさい。お家の方はもう少しかかるみたいだから。あ、そうだ。明野先生も来てるからね」
呼ばれて、明野は机からベッドサイドの椅子へと移動した。病院に置かれているものと同じ機能を持つベッドは、リモコン一つで上体を起こすことができる。寝た状態からほんの少し上半身を傾けて、横になる『彼』は明野へと微笑んだ。
「あけのせんせい、こんにちは。きょうもきょうしついけなくてごめんなさい」
「いいんだよ。元気になったら、クラスのみんなに会おうね」
一年A組の未だ埋まらない一席。それは『彼』の為にある席だった。
「今日はね、テストをしたんだよ。綾崎くんも、気分がよくなったらまたしようか。先生が忙しい時は田上先生が見てくれるからね」
枕に散らばったままの栗色の髪を撫でる。――ふと、連想式に来宮依流が浮かんだ。目の前の彼よりも薄い茶の髪。儚く見える整った顔立ちは、病弱な彼よりもどこか不安と焦燥を掻き立たせた。
知らぬうちに消えていってしまいそうだ。――あの人のように。
「さ、お迎えが来るまで先生とお話ししようか。何がききたい? 気になるクラブとかあるかな?」
「あ、あの、えっと、クラブじゃなくてもいい?」
「うん。何でもいいよ」
「じゃあ、クラスのひとのおはなし……」
「クラスの?」
「うん。どんなひとがいるの?」
おずおずと上目遣いに伺う少年に、明野は丁度良い、と笑った。
「今ね、田上先生ともお話してたんだけど、来宮依流くんって子がいてね」
「きのみやいずるくん?」
「そう。綾崎くんみたいな茶色い髪の子なんだよ。んー、でも、もうちょっと薄いかな。目はね、琥珀みたいな……そうだな、綾崎くんはべっこう飴って知ってる? あんな色なんだけど……純度の高い茶色? どう言ったらいいんだろう。むずかしいな。でもきっと見たらすぐわかるよ。お人形さんみたいに綺麗だから。その子がね……」
「――しってる!」
少年の瞳がハッと開いた。睫毛の奥にある色彩は、――深い緑色だ。
「ぼく、しってるよ! きれいなひと! あのね、ぼく、あいたいの! そっかあ、きのみやくん――かあ。おなじクラスなんだあ。えへへ。あいたいなあ」
はた、と田上と明野は丸くした目を見合わせた。
初恋の君でも思い浮かべているかのようなこの少年は、虚弱体質故に授業が受けられない――俗に言う保健室登校の子供だ。何時何処で他の児童と会う機会があったのだろうか。第一・第二保健室ならまだしも、ここは『第三保健室』だというのに。
「はやく、きょうしついきたいなあ。……きのみやくんにあいたいなあ」
布団を手繰り寄せ、寂しげにこぼした少年に、明野と田上は優しく微笑んだ。
「すぐによくなるよ。綾崎くんのお母さんも昔は貧血気味だったけど、たくさん食べてたくさん寝たらびっくりするぐらい元気になったんだから」
「幼馴染みだった明野先生が言うんだから間違いない。だから落ち込む必要はないんだよ」
「……うん!」
弾けるような笑顔を取り戻した少年に、再び横になるよう告げてから、明野は彼の保護者と連絡をつける為保健室を出た。
布団に潜って、瞳を閉じて。瞼の向こうに“きれいなひと”を思い浮かべながら、少年は呟く。
――きのみやいずるくん、あいたいなあ。