それぞれの課題
独自設定・解釈あり。
5月11日 午前11時30分過ぎ
フランス セダン上空
『敵さんのお出ましだ』
誰かの声が無線電話から飛び込んできた。
メルダースはその声に口笛を吹く。
ぽつぽつと前方に見えるケシ粒のような小さな点。
それらは急速に数を増やしながらこちらへと向かってきている。
だが、まだ遠かった。
彼らがラーズグリーズと同高度に上がるには時間がかかる。
それもその筈でラーズグリーズ隊の侵入高度は6000mという高空であった。
フランス側にとって幸いであったのは沿岸部を制圧すべく北上していた地上部隊からドイツ空軍がフランスへと向かっていくのを目撃したことであり、それは可及的速やかに空軍へと伝えられた。
その為、滑走路上で奇襲を食らうという最悪の事態は脱することができていた。
「数は相手の方がやはり上だな。概算で300かそこらだ」
『なぁに、かえってスコアが増えるから良いだろう』
メルダースの言葉に答えたのはガーランドであった。
その言葉にメルダースは獰猛な笑みを浮かべる。
『よろしい諸君。我らの基本通りにやろう。増槽を落とせ。行くぞ』
リヒトホーフェンの言葉と同時に次々とラーズグリーズ隊は増槽を投下し、即座に機首を翻して急降下に移った。
メルダース隊も遅れじと急降下に移り、真っ直ぐと前下方に見える敵目掛けて突っ込んでいく。
メルダースは小隊と思われる3機編隊を組んでいる先頭機に狙いを定めつつ、僅かに操縦桿を動かして軌道を若干修正する。
そうこうしているうちに見る見る敵機との差が縮まっていく。
敵機の大きさは急激に膨らみ、敵パイロットが眩しそうに目を細めてこちらを見ているのがよく見えた。
メルダースは哀れな敵に容赦なく13ミリ機銃を叩き込んだ。
奔流のような弾丸はD520の主翼や胴体に無数に降り注ぐが、その結果を見ることなく彼は敵機の下へと抜けた。
そのまま反転しつつ上昇を開始し、彼は思わず感嘆の声を上げた。
たった今、彼が攻撃を加えた敵機は火を噴いて落ちていった。
小隊の3機はぴったりと彼の後ろにくっついており、それぞれ後続の敵機に一撃加えたようだった。
そして、戦場は開始数秒で混沌としていた。
フランス空軍は数の利を生かしてラーズグリーズ隊を押し潰そうと編隊ごとに追い回し、対するラーズグリーズは2機編隊、あるいは4機編隊の緊密な連携でもって1機ずつ確実に敵機を落としつつあった。
メルダースはその乱戦の最中で味方機を追い回している敵編隊を見つけた。
その味方機のペアとなる機は既に落とされたか、はぐれたか、その近くにいない。
「戦友を助けるぞ」
その言葉と共にメルダースは機首を向け、機体を加速させる。
ぐん、という強烈なGが彼に襲いかかるが、訓練で嫌というほど経験し、戸惑うことはない。
追われていた味方機は急降下で逃げようとするが、その前に敵編隊の弾丸が襲いかかる。
機体から火花と破片を撒き散らす味方機だったが、当たっている弾が小口径らしく中々火を噴かない。
その間にメルダース隊は目の前の味方に夢中になっている敵編隊の後ろへと回り込んだ。
彼は舌なめずりし、発射ボタンを押した。
両翼の13ミリ機銃が咆哮し、弾丸のシャワーが敵編隊の最後尾に位置する敵機に吸い込まれていく。
その効果はたちまち現れ、尾翼や胴体に無数の穴が空き、やがて火を噴いた。
そこでようやく気づいたのか、残った2機は旋回し、メルダース隊に狙いをつけたところで2番機を務めるグスタフの叫びが響いた。
『敵機直上!』
「急降下!」
メルダースは瞬時に叫び返し、機首を下へ向けた。
体に襲いかかるGは先程とは比較にならない程、強大になったが、そんなことはお構いなしであった。
速度計の示す速度は600kmをすぐに超え、700kmを突破した。
彼は猛烈なGの中、何とか視線を後ろへと向け、敵機がいないことを確認。
「反転上昇!」
間髪入れずにメルダースはそう叫びながら、重たい操縦桿をどうにか引っ張り、機首を今度は上へと向けた。
高度計をちらりと見れば3500を指していた。
メルダースはさらに燃量計へと視線をやる。
「まだもう少しは大丈夫そうだな」
機内燃料タンクを使い始めたばかりであり、彼の言う通りにまだ十分に余裕があった。
そして彼は戦場の様子を観察する。
落ちていくのは味方も当然いるが、それよりも敵機の方がより多く落ちている気がした。
「よし、もうひと暴れするとしよう」
メルダース隊は再び混沌の様相を呈している戦場へと入っていたのだった。
このセダン上空の空戦により、迎撃したフランス空軍はD520を322機繰り出したが、そのうち73機を撃墜され、33機が修理不能判定、残った機も損傷機が多かった。
対するJG22は52機が撃墜され、21機が修理不能判定となり、残った機も再出撃に耐えられるものは皆無であった。
数に勝るフランス空軍側が損耗率がおよそ3割であるのに対し、ドイツ空軍側はおよそ5割を失った結果となった。
ドイツ空軍を撃退した、という勝利に沸くフランス空軍であったが、彼らは空戦から僅か30分後、ベルギーにいるフランス陸軍部隊より急報が入った。
ドイツ空軍の大編隊が高空よりフランスへ向かっている、と。
フランス側は浮き足立った。
北フランスに展開する空軍部隊のうち、戦闘機が配備されている部隊は主に独仏国境に近く、またフランス本国最大の空軍基地でもあるランス空軍基地に集中配置されていた。
D520の足の長さならばランスに配置されていても、北フランス全域をカバーできると考えられていた為だ。
だが、先の空戦で再出撃できる機数は限りなく少なかった。
フランス北部 コンピエーニュ上空 午前12時32分
B43の各機は緊張した空気に包まれていた。
既にフランス本国に侵入してからかなりの時間が経過している。
JG22によれば多大な被害を被りながらも敵戦闘機の多数を撃墜・撃破した、という連絡がきていたが、それでも油断も安心もできなかった。
B43の第1梯団の隊長を任されたベッカー大尉はどこまでも続いている碧い空を操縦席の狭いキャノピーから見ながら、横へと視線を向けた。
「JG22がいるからきっと大丈夫ですよ。行って荷物を置いて戻ってくる……郵便配達と同じです」
出撃前はそう言っていた副操縦士のボッシュ中尉は今や無言であり、冷や汗をかいているのがみえた。
その様子にベッカーは無理もない、と思う。
彼自身も操縦桿を握る自らの手に必要以上に力が入っているのがよく分かった。
誰も彼もが初の実戦だ。
ドイツ軍内部で実戦経験者はほとんどいない。
総司令官から一兵卒に至るまで新兵であった。
ベッカーは自らの緊張を解く為、また部下の緊張を解く為にB43全機への無線をオープンにして、告げた。
「帰ったら」
ベッカーのその声はエンジン音でうるさい機内にも関わらず、よく響いた。
何事かとボッシュ中尉やコックピットの上部や機体側面、あるいは下部や尾部の機銃手達が顔を向けてくる。
ベッカーは彼らの顔をしっかりと目に焼きつけながら、努めて明るい声で言った。
「皆で一杯やろう。俺たちは陸軍や海軍を差し置いて……それに空軍内でも他の部隊を差し置いて……俺たちがパリへ一番乗りするんだ。他の誰でもない、俺たちが」
ベッカーは自ら告げたその言葉に改めて実感を――無理矢理にでも――する。
自分達がパリへ1番乗りである、と。
恐怖や不安を無理矢理押し隠せば、何とかなるという希望が湧いてくる。
「いいか、誰1人欠けることなく、皆で祝杯を上げるんだ。だから、死ぬな」
ベッカー自身も、それが如何に難しいことかは分かった。
フランス空軍がこのまま自分達を見逃してくれれば幸いだが、それは無理な話であった。
『敵機発見! 10時方向!』
そんな声が飛び込んできた。
ベッカー含め、全てのB43のクルーがそちらを向いた。
キラキラと陽光に煌めく銀翼があった。
その数から推測したところ、そこまで多数というわけではない、とベッカーは判断した。
「敵機は少数だ。大丈夫、落ち着け。全機、編隊を密にしろ。B42のときから散々訓練した密集隊形だ! いいか、編隊を崩すなよ!」
密集隊形――いわゆるコンバットボックスは爆撃機特有の密集隊形であった。
爆撃機は戦闘機と違い、3機編隊を1小隊としており、その小隊を数個から数十個を立体的に配置して相互に火力支援ができるようにした隊形であった。
そして、この隊形を持ってきたのは――
「頼みますよ、ルントシュテット大佐……」
ベッカーの脳裏にはドイツの偉大な魔法使いという渾名を持つヴェルナーの顔が浮かんだのだった。
「さすがはルフトヴァッフェといったところか」
ルイ・デルフィーノ少尉はそう呟いた。
彼は士官学校卒業したての18歳という若さながら、腕の良さを買われて首都であるパリの防空を担当する首都防空戦闘航空団に配属されていた。
とはいえ、この戦闘航空団は首都防空と銘打っているが、実質的には開発されたばかりの試作機のテストがその主任務であった。
国民には最新鋭機を配備している、というアピールが出来、なおかつ新たに実験航空団を立ち上げなくて良い為、空軍の財布に優しいという一石二鳥の面があった。
そして、パリにはこの戦闘航空団しか配置されていなかった。
このような配置となったのは、フランス空軍の上層部にはパリを直接攻撃されるような状況になってはもはや戦争の趨勢が決まっている、と考えた為であった。
彼らのその考えを批判することはできないだろうし、そもそもまっとうな常識を持った人間ならば首都を攻撃されたら終わりだと考える。
国家の象徴である首都はそれほどまでに傷つけられたときの国民への士気は大きい。
国民のやる気がなければ軍や政治家がいかに頑張っても戦争を継続することは難しかった。
しかし、敵対国であるドイツはその斜め上をいった。
開戦の翌日という常識では考えられない程の早さで首都攻撃を敢行したのだ。
それも、こちらの迎撃戦闘機を掃除した後で。
「だが、こいつはD520とは違うぞ」
デルフィーノは不敵な笑みを浮かべる。
彼の愛機は2ヶ月前に正式採用されたばかりの新型機であった。
その名はアルセナルVG33――
空軍が独自に持つ研究開発機関であるアルセナル航空工廠が送り出した最初の航空機であった。
イスパノ・スイザ製倒立V型1200馬力の液冷エンジンを搭載し、全金属製・引き込み脚・低翼単葉という近代航空機に必須のデザインを採用しつつ、速度と武装を重視した。
その為、高度5200mで直線飛行速度592kmを発揮し、武装もまたプロペラ軸内の20ミリ機関砲1門、13ミリ機銃を両翼に2丁装備していた。
驚くべきことにこの13ミリ機銃はドイツ軍も採用しているあのブローニングの12.7ミリ機銃であった。
フランス軍もまたブローニングが設計した各種銃器に目をつけ、ライセンス生産を行なっていた。
それも当然でアメリカは確かにドイツと友好的な関係にあるが、フランスと完全に敵対しているわけではない。
その為、政治的配慮から色々なものを規制することは議会が許さなかった。
そのような情勢は当然、ドイツ側の同盟諸国も把握していた為、ある程度黙認状態だった。
フランス船籍の船がアメリカでたんまりと物資を積み込んで大西洋を横断し、ブレストに入港することを黙認していた。
狡猾なイギリスならば、ありとあらゆるルートを駆使してフランスの貿易を妨害してもおかしくはなかったが、そうはしなかった。
イギリスは所詮、欧州大陸での争いは対岸の火事だとしていた。
大陸とイギリスとの間には英仏海峡が横たわり、もしフランス軍がイギリス本土に上陸を企てようものならばブリテン島南部の航空基地から上陸船団や護衛艦隊に空襲をかけ、さらにスカパフローより出撃したイギリス本国艦隊が完膚なきまでに叩き潰す。
そういうシナリオが組み上がっていた。
故に、イギリスが目指した欧州大陸のシナリオはフランスとドイツが潰し合って程よく弱体化してくれることであった。
同盟だから確執は捨てて皆仲良く――という幻想を抱いているのは日本くらいなものであった。
閑話休題――
デルフィーノの乗るVG33は僚機と共にぐんぐんと上昇していく。
このとき出撃したのは先行量産機である24機のVG33であった。
『各機、基本通りに一撃した後は急降下で離脱後、再び上昇し、一撃する』
隊長機からの指示にデルフィーノは了解、と答え、高度計を見た。
高度計は4000を回ったところだった。
敵機はなおも高みにいる。
彼は目を凝らし、敵の構成を探った。
クジラのような大きな四発機とその周囲にいる小さな点。
さながらクジラの周りを優雅に泳ぐイルカの群れを連想させるが、その小さな点はイルカなどではなく、獰猛なシャチの群れであった。
瞬間、シャチの群れから多数の黒い物体が落下した。
彼は爆弾か、と思ったが、それらはくるくると回転しながら地上へと落下していった。
狙いも何もないそれらはフランス空軍でも採用されている落下増槽であった。
『来るぞ』
隊長からの声にデルフィーノはごくり、と唾を飲み込んだ。
高度差は圧倒的に不利。
機体性能ではD520と同程度らしい、という情報があったが、本当かどうかは分からない。
『一撃を回避した後、第2中隊は敵戦闘機の相手をしろ。落とさなくても良い。逃げに徹して少しでも時間を稼ぐんだ』
デルフィーノはその指示が苦肉の策であることが容易に分かった。
敵戦闘機はこちらの倍以上、そして爆撃機も倍以上。
これではまともな防空戦を展開するのは不可能であった。
せめてあと2個中隊24機でもいれば、というのが隊長の偽らざる本音だろう、とデルフィーノはあたりをつけたが、すぐに彼はそのような余裕が無くなった。
機銃を発射しながら急降下で斜め前方から突っ込んでくる敵編隊――4機。
弾丸のシャワーを彼は機体を傾けて回避した。
その敵編隊の後にはまた4機編隊が突っ込んできた。
デルフィーノはそのやり方に舌打ちしながら、今度は旋回に移り、辛くも回避したが、すぐさま上空にいる敵爆撃機を目指すべく、機首を戻した。
彼が所属する第1中隊は今のところ落とされた機はいない。
無線電話からは各中隊所属機のパイロットによる喚き声で溢れており、彼らは口々に被弾無しやそれに類する言葉を言っていた。
そして、降下していった敵機は指示通りに第2中隊が相手にしているようだったが、どうも様子がおかしかった。
『クラウツの戦闘機は俺たちより遅い!』
決定的となったのは第2中隊隊長からの叫びであった。
それは喜びと興奮に満ちていた。
デルフィーノもまたそのことをすぐに実感することとなった。
急降下していった敵機のうち幾つかの編隊はデルフィーノらに追いつこうと上昇しているが、差は縮まるどころか開いていく一方だ。
ひとえにVG33とJF13の機体構造にあった。
全備重量が2.7トンしかないVG33はJF13よりも馬力が大きいエンジンを装備している。
これで上昇力がJF13に劣るわけがない。
デルフィーノを含む第1中隊は敵爆撃機編隊――B43へ接近していくが、そのときに彼らは全員目がおかしくなったか、と疑いつつも、多くの者が発砲した。
一言で言えばB43は大きかった。
その巨大さ故に距離感が狂わされ、第1中隊の多くの機は遥か手前から射撃した為、弾丸は1発も届かなかった。
『敵はでかいぞ! 照準器からはみ出すくらいにまで接近しろ!』
隊長の指示通りにデルフィーノを含めた各機はより接近したが、そこを猛烈な火箭が襲った。
B43のモデルとなったのは史実のB17のG型であった。
その為、13ミリ機銃を13丁も装備しており、まさしくハリネズミであった。
そして1機だけならまだしも、総数64機のB43が密集隊形を取り、相互支援を行なっている様はまさに空の要塞であった。
史実のドイツ軍や日本軍のパイロットが経験した弾幕を、デルフィーノらは味わうこととなった。
『こいつらはハリネズミか!?』
『こんなものを空に飛ばすなんてクラウツは気が狂ってる!』
悲鳴染みた叫びが無線から飛び込む中、デルフィーノの深呼吸をし、敵爆撃機を睨みつけた。
機体のあちこちから弾丸を吐き出す様は確かに空の要塞であったが、突破口はどこかにある筈だ、と彼は回避機動を取りつつも弱点を探す。
その最中、デルフィーノは気づいた。
「外側の機体だ! もっとも弾幕が薄い!」
編隊外縁部に位置するB43は他の機体からの支援が薄かった。
その提案を隊長はすぐに受け入れた。
このまま、ここでまごまごしていてはパリへの侵入を許してしまうことになる。
それだけは避けなければならなかった。
『中隊各機へ! デルフィーノの言った通りにやるぞ! 集中攻撃だ!』
隊長の指示の下、VG33は動いた。
デルフィーノもまた機体を操り、僚機と共に外縁部に位置する1機のB43へ狙いをつける。
B43は狙われていることに気がついたらしく、激しい攻撃を加えてきた。
また、他のB43も味方を援護しようとできうる限りの支援を行う。
横から接近した1機のVG33に火箭が集中したと思った瞬間、機首から火を噴きながら真っ逆さまに墜落していった。
また後方から接近した別の1機はハンマーで叩かれたようにバラバラになって爆発四散した。
しかし、防御砲火によるまぐれともいえる戦果はこの2機に留まった。
次々とVG33は目一杯まで迫り、20ミリと13ミリの弾丸を見舞っていく。
デルフィーノのは速度と上昇力の優位を生かし、B43の後下方に回りこみ、そこから突き上げる形で射撃を加えた。
20ミリと13ミリの弾丸が敵機に吸い込まれるのをデルフィーノのは目撃しつつも、そのまま上昇し、B43の機体を掠めるように離脱した。
単発機であるならば空中分解を起こしてもおかしくはない威力であったが、B43は分解どころか火も噴かなかった。
「ドイツの爆撃機は化け物か……?」
デルフィーノは思わず呟いた。
速度と武装を重視したVG33でも落とせないとなると現在のフランス空軍には敵爆撃機を撃墜できる機体は存在しないことになる。
しかし、すぐにそれは思い違いだと気がついた。
銃手が負傷したのか、側面や尾部銃座は沈黙し、ほんの僅かだが、速度も落ちているような気がする。
デルフィーノは20ミリの残弾を確認し、舌打ちした。
先ほどの攻撃で20ミリ弾は残り20発となっていたからだ。
とかく発射速度や初速が遅い為、命中率が悪いエリコン社の20ミリ機関砲であったが、更に悪い点もあった。
それは弾倉式を採用していることによる装弾数の少なさ。
D520もそうだが、VG33も20ミリ弾の装弾数はたったの60発でしかなかった。
これは連射すれば10秒も経たないうちに全て撃ち尽くしてしまう程度でしかない。
いくらモーターカノンである為、命中精度が高いとはいえ、たった60発ではすぐに弾切れを起こしてしまうことは誰の目にも明らかであった。
これと比較して13ミリ機銃の方は1丁につき280発と20ミリと比べて余裕があったが、これとて2丁あわせて560発でしかない。
こちらも連射では数秒で撃ち尽くしてしまう計算となる。
どんなパイロットでも弾が無ければ戦えないのは道理であった。
『このデカブツを落とすには一撃で操縦席を潰す必要があるな』
隊長が言った。
それは正しい、とデルフィーノの無意識的に頷いた。
どんな飛行機であれ、パイロットを潰されてしまえば空を飛べない。
だが、とデルフィーノはB43を見る。
前部には顎のようなゴンドラ型の連装銃座と操縦席の上部にある半球型の連装銃座がその弱点を補うべく獲物を追い求めて、火箭を放っている。
『前に回りこんで上方から急降下だ。それで潰せなければ首都の対空部隊に任せよう』
妥当な判断であった。
デルフィーノがちらりと第2中隊がいる筈の低空域を見てみればそこに乱舞しているのはドイツ軍機がほとんどであった。
12機いた筈の第2中隊はそのほとんどが撃墜されてしまったらしく、姿を確認することはできなかった。
また、最低でも20機以上の敵機が爆撃機を援護すべく、上昇しつつあるのが見えた。
遠からぬうちに自分達もまた第2中隊と同じ末路を辿る可能性は高かった。
速度が上でも、落とされる――
その認識が否応なしでも叩き込まれることになった。
『行くぞ』
隊長機の声にデルフィーノはほとんど反射的に行動していた。
彼は列機と共にB43の前へと旋回で回り込む。
爆撃機の防御砲火は命中率が悪いと相場が決まっている。
ドイツ人はそれを数で補おうと考えたのだろう――
デルフィーノはそう考えつつも、標的のB43の前上方に占位した。
彼が此処に辿り着くまでに4機のVG33が攻撃を加えていたが、B43は掠り傷だ、とでも言わんばかりに進撃していた。
彼は防御砲火を無視して一気に急降下を開始した。
あちこちから銃弾が飛んでくるが、ここまで纏わりついてもたった防御砲火は2機しか撃墜できていないことが、彼に自信を与えた。
照準器に目一杯はみ出すまで近づき、デルフィーノは射撃を加えた。
B43の上部に弾丸が吸い込まれていくが、すぐに衝突を回避すべく、機首を右に振って離脱する。
彼の後にもVG33が攻撃を加え、やがてB43はぐらりと傾いたかと思うと急激に降下していった。
それは明らかに通常の降下とは異なるのが分かった。
『……やった、やったぞ!』
声が響いた。
その言葉は次第に広がり、興奮の渦となる。
しかし――B43を撃墜したことは称賛されるべきことであったが、現実は非情であった。
迎撃を開始したコンピエーニュは既に後方にあり、パリは目前であった。
パリ市の外縁部に展開している首都防空部隊が撃ち始めたらしく、周囲には対空砲弾が次々と花開いていた。
未だその密度は疎らであったが、すぐに空一面を埋め尽くすことになるのは誰にも分かった。
『悔しいが、我々の仕事はここまでだ。帰投する』
隊長の声が響いた。
未だ60機以上の敵爆撃機がパリへと向けて邁進している。
大編隊のうち、たった1機を落としただけで爆撃を中止するような輩であったなら、最初からパリ攻撃など計画していないだろうことは誰の目にも明らかであった。
大損害が出ることを承知で、いきなりこちらの首都を叩きにきたのだ。
そして、ドイツ空軍はその大損害を補充できる支援体制があるのだろう。
デルフィーノはそれが羨ましかった。
「ドイツ人はあの魔法使い貴族から金と資源が無限に湧き出る壷を提供されているに違いない」
彼は呟きつつも、急降下へと移った。
蔑称であるクラウツではなく、ドイツ人とデルフィーノが呼んだのは蔑んだところで現状が変わらないことへの諦めであった。
彼は急降下のGに耐えつつも視線を後方へと向けた。
敵機は追ってこない。
連中が半分でも爆撃機の側に残っていたら1機も落とせなかったに違いない、と彼は感じたのだった。
引き上げていく敵機に対し、B43各機では罵声が相次いだ。
「くそっ!」
第1梯団隊長機のベッカー機もそれは例外ではない。
副操縦士のボッシュ中尉をはじめ多くの搭乗員が悪態を吐いたが、当のベッカー大尉は冷静であった。
如何に装甲を張り巡らし、無数の機銃を備えたB43といえど落とされる――
厳しい現実ではあったが、こちらも2機の敵機を落としている。
そして、こちらはたった1機の損失で済んでいる。
向こうは単発戦闘機であった為に良い取引とはいえないが、それでも当初の目標を達成できそうなことにベッカーは内心安堵しつつも、戦友を失った事実が徐々に心にのしかかってきた。
しかし、ベッカーはそれらを無理矢理振り払い、操縦桿を握り締める。
対空砲弾の破片が時折当たり、機体を揺らすが致命的なものではなかった。
「大尉……」
冷静な上官にボッシュが批難と悔しさが入り混じった顔を向けてきた。
そんな彼に対し、ベッカーは告げた。
「我々は彼らの死を無駄にしない為にも、悲しみを一時的に胸のうちに閉じ込め、目的を完遂する必要がある」
その言葉にボッシュ中尉はしばしの間を置き、小さく了解と返す。
そこから数分と経たないうちに爆撃目標が前方に小さく見えた。
煙突が無数に突き出た工場群だ。
ベッカーは更に近づくにつれ、工場群の近くに住宅地や学校と思しき建物があることも目に入ったが、今更中止するわけにもいかない。
「ちょい左へお願いします」
そのとき、爆撃手からの指示が入った。
爆撃進路に入れば爆撃手である彼の言葉が絶対だ。
あいにくとノルデン爆撃照準器という、爆撃手が機体のコントロールをできる便利なものはまだ無かった為、操縦士と爆撃手の連携が必要であった。
ベッカーは言われた通りにほんの僅かに左へと操縦桿を傾けたが、今度は右と言われた。
そこで動くか動かない程度の微妙な力加減でもって右へ操縦桿を傾ける。
「そのまま!」
その声にベッカーはぴたりと石になったようにそこで両手を固定した。
「爆弾倉開きます」
爆撃手の声が聞こえ、それから数秒後に投下の声。
抱えてきた250kg爆弾10発が落下し、ふわりと機体が浮き上がった。
「荷物は届けた。さっさと引き上げるぞ」
ベッカーはそう言い、機体を旋回させるべく操縦桿と格闘するのであった。
同日 午後17時過ぎ
ドイツ ベルリン 空軍参謀本部
「戦術を見直す必要があるな。特に爆撃機護衛時の戦闘機や目標への正確な投弾について」
作戦部の大佐はやれやれ、と溜息を吐いた。
結果から言えばワーテルロー作戦は成功と参謀本部は判断した。
損害は予想通りに大きかった――特に戦闘機狩りに出た部隊――が、パリ郊外にある工場地帯を予定通りに空襲した。
しかし、その大半は外れ弾であり、それらの外れ弾は郊外にあった住宅地や学校に着弾し、老若男女の別無く殺傷したらしい、という報告も上がっていた。
爆撃目標である工場を壊滅できなかったのであれば、不成功ともいえるが、そもそもの作戦目標がフランス人の心臓を鷲掴みにし、その心胆を寒からしめることにあった。
故にB43の爆撃を阻止されずにパリを攻撃できた、という事実が必要であった。
また民間人の死傷は問題があったが、民間人の死傷を抑えようとすれば敵に付け入る隙を与えることとなる。
空襲で民間人の死傷を抑えるには事前にビラ撒きでもすれば良いが、そんなことをすれば敵に迎撃体制を整えるよう言っているようなものであり、愚の骨頂であった。
作戦立案者の大佐は民間人の死傷を避けようとするあまりに、そんな愚かなことをする輩ではなかった。
ともあれ、このワーテルロー作戦の結果はドイツ国内は勿論、世界中のありとあらゆるメディアにより報じられた。
本国に侵入されているにも関わらず、パリを攻撃できるドイツの強さとフランス軍の不甲斐なさが喧伝された。
フランスメディアは反論していたが、勝っている筈なのにパリを攻撃された、という事実は重かった。
この報道により、ドイツ国民はその士気を大幅に高める結果となった。
他にも嬉しい知らせが多くあった。
同盟条項に則って参戦していたロシアが1日遅れで総動員と共に戦時体制への移行を開始し、また同じくイタリアでも総動員が開始された。
イギリスでは各地にある植民地で大量動員を開始しており、数ヶ月もすれば圧倒的な数でフランスを押し潰すことが確定していた。
そして、日露戦争で精強さを示した日本であったが、欧州各国とは違い、軍の動員に難色を示していた。
日本とドイツは同盟国であったが、欧州まで軍を派遣するのは史実より多少強化された程度の日本には荷が重すぎた。
その為、日本政府はイギリスを通じてドイツ政府に対し、太平洋や東南アジアにおけるフランスの海外植民地の制圧や物資供給などの後方支援を願い出ていた。
「我々には時間が必要だ。その時間を稼ぐ為の犠牲は許容されなければならない」
そう呟き、大佐はつい先程承認した陸軍支援作戦を思い出す。
ヴィットムントハーフェン基地は西部で唯一稼働機が存在する基地だった。
他の基地や飛行場は基地機能は復旧し、パイロットも大勢いたが、飛ばす飛行機が無い、という寒い話であった。
その為、多くの基地や飛行場からはこの際に機種転換をしてしまおうと多数の航空団が中部にある訓練基地へと移動している最中であった。
戦力を集結させた割りにはあっさりと壊滅してしまったことも、今後の課題であったが、何よりもまずドイツの体に刺さっている剣を抜かねばならなかった。
作戦の骨子は簡単なものだった。
ヴィットムントハーフェン基地から攻撃部隊を差し向け、敵軍の移動を阻害したり、直接その装甲車両を叩く。
この時点でドイツ軍が当初想定したエッセン・コブレンツ・ザールブリュッケンのライン――これらはマンシュタインラインと呼ばれた――に集結し、既にフランス陸軍の先遣隊と砲火を交えていた。
なお、ケルンからライン川を渡った敵軍に対してはケルンから東へ90km程のところにあるジーゲンに集結しつつある西方装甲軍集団が攻撃を加えることとなっており、会敵時刻は明朝と予想されていた。
ヴィットムントハーフェン基地が優先して叩くべき目標は基地から程近いエッセンに攻撃を加えているフランス軍であった。
「しかし、ルントシュテット大佐には今回ばかりは同情する……」
ワーテルローは成功であったが、問題は肝心要の戦闘機――JF13の稼働機が100機を割り込んだことだった。
開戦前には256機の定数であったことから考えればわずか2回の交戦で6割以上の損耗であった。
しかも悪いことにフランス空軍にはD520よりも高速の新型機が存在することもあわせて明らかになり、ヴェルナーへの要求は高まる一方であった。
とはいえ、幾ら彼が偉大な魔法使いと渾名されていても、次々と新型機を出せるわけではなかった。
同時刻 空軍参謀本部内補給本部
噂されているヴェルナーはくしゃみをすることもなく、来客の対応をしていた。
とはいえ、その相手は軍の高官でもなければ企業の営業でもなかった。
来客はアドルフ・ヒトラーだった。
彼はウィーンの美術学校卒業後、画家をやりつつ、帝国国民党というちっぽけな政党の党首に就任し、ドイツ帝国議会で少数だが議席を得ることに成功していた。
彼の党が掲げるのは世界に冠たる大ドイツ帝国であり、その為に必要な諸々の施策とその財源や施策と既存の法律・制度・慣習との対立的問題など、極めて具体的な選挙公約を掲げていた。
それらの全ては彼自身が自らの足で調査し、導き出したものであった。
既存の政党にもドイツ帝国党など強いドイツを掲げる政党は多くあったが、ヒトラーの掲げたものはいわゆるゲルマン人だけ、もっと言えば白人だけではない多人種国家であった。
ヒトラーとヴェルナーが会うのは美術学校卒業以来、初めてのことではなく、それなりの回数で雑談の場を設けるなどして、変わらずの友好的な関係にあった。
「……コレを議会に出すのか?」
ヴェルナーの問いかけにヒトラーは頷いた。
彼の持ってきた政策にヴェルナーは驚きしかなかった。
海外植民地の原住民をドイツ帝国の2等国民として、限定的な市民権を与える――
ヴィルヘルム2世の肝入で設立された帝国植民地省により、植民地の統治は万全であった。
他国のような搾取のみの統治ではなく、原住民にもしっかりとしたリターンを与え、汚職や不正、虐殺などを徹底的に撲滅するやり方が功を奏し、原住民の感情はドイツに対して友好的であった。
史実の第一次世界大戦におけるドイツ植民地での原住民もまたドイツに対して友好的であったが、それは帝国植民地省の統治政策によるものが非常に大きかった。
故に、植民地の原住民とうまく付き合っていくことに関してはヴェルナーはそこまで心配していなかった。
だが、その原住民に限定的とはいえ市民権を与えるとなれば話は別だ。
ヴェルナー個人としては白人だろうが黒人だろうがアジア人だろうが、こちらに対して好意的ならば気にしなかったが、他の者はそうではなかった。
黒人もアジア人も奴隷、ひどい場合には珍種の猿という差別意識の者は非常に多い。
「大佐、我が国に根本的に足りないものは何ですか?」
「……人口だ」
ヴェルナーはヒトラーの言わんとすることがよく理解できていた。
何をするにしても、根本的に人手がいる。
単純な話、人口が多ければ多い程に国力は増大する。
無論、現実問題としてその増えた人間を養うだけの食糧を万全に供給し、なおかつ、平等に高度な教育を施す必要があるのは言うまでもない。
「私の試算では海外植民地の原住民をドイツ国民とすれば我が国の人口は1億を超えます」
「だろうな。そして、市民権を認めれば原住民の中から優秀な者が本国へ来ることができ、我が国の経済的・技術的発展がより進む」
そうでしょう、とヒトラーは頷いた。
そんな彼を見つつ、ヴェルナーは史実のヒトラーとは正反対のヒトラーに何とも言えない感慨を抱いた。
「ユダヤ人は当然、保護するのだろう? その口ぶりからするに」
「当然ですとも。連中の宗教は面倒臭い面も多いですが、その頭脳や資金力は有用です。私としましては国内に招き入れるよりか、イギリスやロシア、アメリカと協力した上でどこか適当な場所に連中の国を作ってやれば良い、と思います」
「それなら黒人達に国を与えてやるのもいいのではないか? 植民地を止め、独立国として扱う」
そう言ったとき、ヒトラーは笑みを浮かべた。
悪戯を思いついた子供のような笑みだった。
「そして、我々は原住民から最大の感謝を受けつつ、実質的な属国として支配する」
「だが、現実的には植民地放棄など国内の反発が大きくてやっていられんよ」
ヴェルナーはヒトラーの言葉を切って捨てた。
「確かに。ですが、軍としては植民地警備は大きな負担では?」
「海外展開している軍なんぞ、端金で養える程度の規模だ」
「なるほど……では企業の経営者としてはどうですか?」
ヒトラーの問いにヴェルナーは顎に手を当てた。
利益は出ており、自国内であるから好き勝手開発できる。
他国のライバル企業もいないことから極めて安全に。
だが、もし他国が攻めてきた場合、その利益が一時的に得られなくなる。
全体で見た場合は少ない割合だが、業績が下がるのは面白くない……
そこまで考え、ヴェルナーは2つしか選択肢が無いことに気がついた。
独立させるか、それとも強力に植民地の本国化を進めるか――そのどちらかであった。
つまり、現状のドイツ軍の配置状況では他国が植民地を攻めてきた場合には植民地を一時的に放棄せざるを得ない。
そして、敵国はきっと独立やら何やらの甘い言葉を原住民に吹き込んで反独感情を煽る。
無論、配置を変え、植民地にもそれなりの兵力を常駐させることも選択肢としてはあるが、予算が掛かり過ぎる上に本国の守りが疎かになるので現実的ではない。
「分かった、分かったとも。独立させるのと限定的な市民権ではどちらも同程度に大きく危険なことだ。どっちが必要だと君は考える?」
「アメリカやロシアを真似するならば本国化でしょう。逆にイギリスに習うならば独立です」
こっちに丸投げしてきたヒトラーにヴェルナーは溜息を吐いた。
「私はただの空軍大佐だ」
「ドイツ国内のみならず、国外の政界や財界とも繋がりがあるでしょう」
ヒトラーの言葉にヴェルナーは再び溜息を吐き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「まあ……君の目指す強いドイツはアメリカやロシアだろう。そして、私もそちらの方が良いと思っている」
イギリスの凋落は史実を見れば明らかであり、また、この世界でも既にそれは始まっていた。
確かにイギリスを盟主とするイギリス連邦は強大であったが、それはイギリス本国政府が悪魔も驚愕する程の悪知恵・二枚舌を持っているからこそ、なせることであった。
そして、そのような恐ろしいものを持ってしても史実での大英帝国解体は止まらなかった。
「あなたと意見が一致して嬉しい限りです」
ヒトラーはそう言ったが、ヴェルナーは釘を刺すことを忘れない。
「ただし、私は軍人としての立場があるから軍内部でロビー活動などはしない。また、政治家や企業の取締役などにも賛同するよう圧力を掛けたりはしない。君を彼らに会わせることはするが、そこから先は君の能力と熱意次第だ」
ヒトラーは自信満々に大きく頷きつつ、更に言葉を告げた。
「実はそれだけではなく、保険としてもう一案あります」
「その一案とは?」
「簡単に言えばあなたのしたことを、国家規模で推進するのです。1人の男が100人以上の女に子供を産ませ、その子供達に高等教育を施す……」
ヴェルナーは戦慄した。
ヒトラーの言っていることは紛れもなく、史実の生命の泉計画であった。
どちらかと言えばそれはヒトラーよりもヒムラーがやっていたことであったが、ともあれ史実と似たようなことであるのは間違いない。
だが、決定的に異なる点はヒトラーが為そうとしているのは人種選別的な側面は皆無であり、単純に国家規模で人口を増やす為の手段であった。
どんなに倫理、道徳を説いたとしても性交しなければ子供は生まれない。
コウノトリが子供を運んでくるなどという幻想は絵本の中だけのことであった。
そして、人類にとって性交ほど肉体的に気持ちの良いこと――慣れていないと大変だったり、体力的に中々きつかったりするが――がないのも事実であり、そこを堕落とかそういった面と結びつけたのが宗教であった。
「昔の私はあなたを人間失格でいつ神罰を受けてもおかしくはない、と思っていましたが」
ヒトラーは言葉を続けた。
「しかし、あなたはドイツに対して経済で、軍事で、そして最も大きな問題の人口で貢献している。これはおそらく、ドイツ帝国史上もっとも偉大なことではないでしょうか?」
「……いや、若さ故の過ちというか、まあ……何というか……」
前世でヨーロッパ人とやったことがなかったので童貞みたいにハッスルしました、なんて正直には到底言えない。
ヴェルナーももう46歳であり、彼のこの世界での初めての相手であるクララは61歳であった。
なお、彼は体型とか美容といったものに気を使うよう、自分が囲っている女性達に口を酸っぱくして言った為に同世代の女性達と比べると驚く程に若くみえるが、歳は歳であった。
そんな風に笑って誤魔化すヴェルナーであったが、ヒトラーは更に言葉を続けた。
「男は多くの女を求め、女は多くの男を求める……私はこれは自然なことであると思うのです。種の生存本能はおそらく優先されるべき、人間本来の姿なのです」
要は価値観の問題であった。
たくさんの異性と関係を持ち、子を持つことを野蛮とみるか、それとも種の保存の為の必要行為とみるか――
「まあ、それはいいとして」
ヒトラーの話題転換にヴェルナーはがくっと崩れ落ちそうになった。
いったいこの前振りは何なんだ、と彼は咎める視線を送ったが、ヒトラーは全く気にすることなく告げた。
「要するに私が言いたいのはあなたみたいに、1人の金持ちが多くの女を囲うような形態ではなく、ドイツにある全ての家庭で子供を産みやすい、育てやすい社会環境を構築したいのです」
「それなら子供手当とでも称して、子供用品や日用品、食材などと無料で交換できるチケットでも作るのはどうかな?」
「それは良い案ですね。現金支給にすると子供の為ではなく、自分の為に使い込むバカが出そうですし」
ヴェルナーはヒトラーの言葉に耳が痛かった。
彼がいた21世紀日本ではまさにそのバカな政策が実行され、予想通りに自分の為に使い込むバカが出たのだから。
しかし、その使い込んだ連中も、世界が違えど、あのヒトラーからバカ呼ばわりされるとは思いもしないだろう。
「子供を産み、育むのは非常に良いことだが、自分の収入や生活状況との兼ね合いからその数を決めるべきだ」
ヴェルナーは自信たっぷりに言ったが、ヒトラーは笑いながら言った。
「その理論だと、世界のほとんどの女性があなたの愛人になりますね。今、子供は何人なんですか?」
「エリカとの間に11人、クララとの間に7人、マルガレータとの間に10人……」
「100人超えてますよね、それ」
「確か300人は超えていたと思う」
100人以上の女を囲っているヴェルナーが1人につき1人しか子供を産ませないわけがなかった。
「で、その全員を学校に通わせて、一流の家庭教師をつけて、お小遣いも毎月渡しているんですよね?」
「当然だ。毎月650万マルクの子供への費用が掛かる。だから、私の預金残高は常に愉快なことになっている」
「収入も多いでしょう?」
「ロックフェラーやロスチャイルドには負けるがね」
それだけでどれだけ多いのかがヒトラーには良く分かった。
「私は2人で精一杯ですよ」
ヒトラーは肩を竦める。
彼は1927年にエヴァ・ブラウンと出会い、そこから猛烈なアタックをし、翌年に結婚。
その後、彼女との間に2人の子供をもうけていた。
ちなみに結婚当時、ヒトラー38歳、エヴァ15歳であった。
「ともあれ、そのようにやってみます。もし私が宰相に指名されたら、あなたには陸海空の三軍を統括する国防大臣でも新設して、そこに就任してもらうつもりですのでよろしくお願いします」
ヴェルナーはあからさまに嫌そうな顔をした。
三軍の調整で非常に面倒くさい仕事であることが簡単に想像できた。
そんな彼にヒトラーは笑いながら、部屋を出ていった。
後に残されたヴェルナーは深く溜息を吐いた。
「史実とは違う、綺麗なヒトラーだが……何だか史実よりも怖いぞ」
史実のヒトラーがヒステリー持ちの成功した素人であるならば、この世界のヒトラーは確かな知識と情熱を持った政治家であった。
「しかし、ヒトラーと言えばヒムラーだが……」
ヴェルナーがそう言ったとき、扉が叩かれた。
彼が許可を出せば入ってきたのは丸メガネを掛けた男性であった。
その男はヴェルナーの部下であり、ゲーリングらとはまた違った、事務的な面で極めて有能な人物であり、彼は職務に対して非常に忠実であった。
「大佐、各メーカーの今月の予想生産数です」
彼が持ってきた書類を受け取りながら、ヴェルナーは尋ねた。
「ヒムラー、今さっき出ていった男が誰だか知っているかね?」
「政治家のヒトラー氏ですが……」
それがどうかしましたか、と言いたげな彼にヴェルナーは鷹揚に頷いた。
「君は私にとって無くてはならない存在だ。私がここにこうして椅子にふんぞり返っていられるのもひとえに、君が優秀な能力を持っているからに他ならない」
だから、自信を持て、と彼はヒムラーに言った。
その言葉に彼は照れくさそうに笑い、感謝の言葉を述べた。
彼の名はハインリッヒ・ヒムラー。
史実では親衛隊長官として恐れられた存在であったが、今の彼は空軍補給本部勤務の軍属であり、その事務能力の高さや職務への忠実な態度からヴェルナーの右腕として働いていた。
ヴェルナーは史実の軍関係者や技術者だけに留まらず、NSDAP関連の面子もまた良い方向に進むよう、できる限り拾い上げていた。
ヴェルナーはヒムラーを褒めた後、その報告書に目を通す。
予想できてはいたが、やはり生産数は前月と比較して多少増加した程度でしかなく、全機種合計で700機程度と見積もられていた。
とてもではないが、機材の消耗に補充が追いつかない。
パイロットも整備員も予備人員は多くいた為、尚更もどかしい。
「増産命令は既に出され、各地の工場では昼夜兼行の24時間操業が行われることになっております」
ヒムラーは上司の機嫌が悪くなったのではないか、とすぐに理由を告げた。
「いや、予期されていた事態だ。来月からは効果が現れるだろう。わざわざ我々が指導しなくても良い」
その言葉にホッとした様子のヒムラーを見、ヴェルナーはやれやれ、と内心溜息を吐いた。
どうにもヒムラーは精神的に打たれ弱く、依存心が強い。
これが美少女とか美女だったら大歓迎であったが、現実は丸メガネをかけたおっさんである。
おっさんに依存される趣味はヴェルナーになかった。
「……確かヒトラーはアニメーションも推進していたな」
ヴェルナーはふと彼が前に持ってきた政策の一つを思い出した。
アメリカに負けない、国営アニメを作るべきとヒトラーは声高に主張していた。
ヴェルナーとしてもアニメは懐かしいものでアニメに関する脚本やキャラデザインは任せろ、と太鼓判を押した記憶があった。
皇帝陛下や政府高官、軍人まで全部TSしたドイツ女性帝国とかいうアニメでも作ってやろうか、とヴェルナーはちょっと考えてしまった。
彼はそのアイディアを手近なメモ用紙に書くと咳払いをし、ヒムラーに告げた。
「ともあれ、報告ご苦労。下がってよし」
ヴェルナーはそう言い、ヒムラーを退室させた。
誰もいなくなった執務室でヴェルナーはゆっくりと息を吐き出し、鍵の掛かった引き出しを開け、そこから分厚い書類の束を取り出した。
それは彼が責任者となって進めている計画の報告書と予算申請関連書類であった。
ヴィルヘルム2世や政府高官、軍高官には研究組織を立ち上げる、ということしか伝えていない。
「まさか自分がこの組織を立ち上げるとはな……」
ヴェルナーは報告書を読みながら改めて苦笑した。
何で自分でもこの名前にしたか分からないが、ヴィルヘルム2世に組織名を尋ねられたときに頭に思い浮かんだ単語がそれであった。
「アーネンエルベか……シャンバラを探す気も、虹の都を作る気も無いんだが、ちょうどいい隠れ蓑だ」
ドイツ語で遺産を意味するこの組織の目的は唯一つ。
それは核兵器及び大陸間弾道弾やそれに類する戦略兵器の研究と開発であった。
そして、その隠れ蓑として考古学などの諸分野に手を出すのだ。
ヴェルナーは核兵器の登場こそが大国間の戦争に終焉をうち、人類が地球で平和を享受するたった1つの冴えたやり方だと考えた。
また、核兵器は必ず登場するとも。
たとえ今の段階で判明している核物理学者全てを暗殺したとしても、たった数十年程度の遅れが生じるだけで原子力は歴史の表舞台に出てくるだろう。
その開発を命じるのは権力者かもしれないし、利益を狙った企業かもしれない。
予期できぬ危険があるのならば自らの手で開発し、制御下におくしかない。
彼がいた21世紀ですら持て余している超兵器であり、人類との共存は不可能とまで言われた原子力。
安全に管理すれば良いというレベルを超えている代物であったが、それでもやるしかなかった。
そして、核の均衡による平和を作り出し、列強のみが核を保有し、他国やテロリストなどには渡さないようにしなくてはならない。
その為には列強同士による利益共有が必要であった。
ともあれ、それらは絵に描いた餅でしかなく、その餅を本物にする為のアーネンエルベであり、核開発であった。
しかし、まだアーネンエルベも机上の空論に過ぎない。
正式に認可されるかどうかはヴェルナーにかかっていたのだった。