クモノイト
私がこの母子家庭のもとへやってきてもうすぐ一年が経とうとしていた。まだ幼い娘が私の方をちらと見た。ん? 私に気付いたのか?
「あっ、お母さん、蜘蛛だよ」
私が来た頃、母子の目にはまだ光があった。ほんのわずかながら希望を持っていた。そんな気がする。
「あら……本当ね」
貧しいながらもその頃の母子には笑顔があった。それが今ではどうだ。母親の髪の毛は乱れ、目はどんよりと曇っている。一方、娘のパジャマは汚れ果て、その顔は栄養失調でげっそりと痩せ細り、寝たきりの生活を送っていた。
「えいっ」
この家に来てから二三週間もすると二人は私のことを忘れた。だが、それも仕方のないことだ。今日の食費だってどうしていいのかわからないこの母子にとって私の存在など所詮紙くず同然なのだから。
「あ…… 駄目よ。殺しちゃ」
今までずっとこの母子を見てきたが、どうやらもう限界のようだ。今夜はいつになく母親の目つきがおかしい。
「どうして?」
金は人間を殺す。そんな紙切れのためにここまで人は追い詰められるものなのかと私は不憫に思った。ちっぽけな存在ではあるが私はなんとかこの可哀想な母子を助けてあげたかった。
「殺生しなければ私たちがもし地獄に落ちても仏様が天から蜘蛛の糸を垂らして助けてくれるかもしれないでしょ」
娘がまた私の方をちらりと見た。そうだ、いいぞ、良子ちゃん。私がわかるかい?
私は糸を垂らしてあげたかった。どうせならこの母子がまだ“生きている”うちに救いの糸を垂らしてあげたかった。
「ふ~ん」
娘が私の方を見ていた時、母親は震える手でゆっくりと炬燵のコードを娘の首に巻き付けた。駄目だ! お母さん、考え直すんだ! お金のことなんかで人生を台無しにするなんて間違っている!
「ごめんね、良子。もう……こうするしかないの」
そんなことはない。貧しくても幸せになれる方法はいくらでもある。私のことを思い出せ。さあ、早く思い出すんだ! “今なら”まだ間に合う!
「ぐっ!」
娘の断末魔が細く響いた…… 。どうしてこんなことに。母親はしばらく泣いていた。が、やがて夢遊病者のように立ち上がると今度は椅子を踏み台にして炬燵コードを梁に結びつけ、その先を輪っかにした。
「良子、ごめんね……こんなお母さんでごめんね……」
母親は輪っかの中に首を入れた。
なぜだ、なぜ私に気づかない? 今の私だったら君たち二人を救ってやることができるのに……
「ぐっ……」
母親は椅子を蹴った。今宵二度目の断末魔が狭い室内に響き渡る。
「……………… 」
私はこれまで生活を共にしてきたこの二人を救ってやれなかった。もしも、もしも私の存在に気付いてくれたなら……
部屋の中は静寂に包まれていた。
ただ一匹、小さな蜘蛛がカサカサと私の側を徘徊している音だけが響く。
いや、考えるのはもうよそう。母子を救えたとしても結局それも束の間、今度は私が二人を不幸にし、最終的には同じ結果にしてしまったかもしれないのだ。
それほどに“当たりくじ”である“私”の賞金額は大きかった。
一等、六億円。
私の存在に気付いたとしても、今度はこの巨額の富が地獄の亡者のように二人の足を引っ張り、いずれこの母子の人生を狂わせたに違いないのだから……