残業が終わり、会社から出たところで、携帯電話が鳴った。
電話の相手は、同期の田中翔子だ。表情を余り表に出さない、硬質の美人で「アイス・ドール」とからかったこともある。
人付き合いの悪い彼女とは、同じバーの常連ということで、僕は比較的交際を持っている人間になるだろう。
「はい。久高です」
「あ、久高君。いま、アクアにいるんだ。きてー」
ずいぶんと酔っているらしい、いつもは酒量をわきまえ、飲んでいる時さえも凛としている彼女と同一人物とは思えない。
「ずいぶんと酔っているね」
「うん。まっているよー」
言いたいことだけ言って、電話は切れた。
ただ彼女の様子から、ただ事でないのはわかる。彼女が、ああも酔っているのを、出会ってから6年、見たことがない。
「しょうがないな」
放っておく事も出来ず、僕は「バー・アクア」に足を向けた。
アクアに入ると、彼女はカウンターでグラスをかたむけていた。
薄暗いカウンターで、グラスを憂いを秘めた瞳で見つめる彼女は、その美貌もあいまって氷の彫像のようだ。
だが、店に入ってきたのが僕だと知ると、それは崩れた。
「久高くーん。こっちこっちぃ」
普段の彼女の雰囲気からしたら、「あんた、だれ?」と聞き返さずにいられないほど、酔っている。
「どれだけ飲んだ?バーは酔いつぶれるとこじゃないぞ」
「いいじゃない。ねぇ、のもっ」
僕は、ハイボールを注文し、一息つくと彼女に問いかけた。
「なにがあった?」
「なによー。何かないと飲んじゃいけないのー?」
「なにかないと、そこまで飲まないだろ?」
彼女は、グラスに残ったカクテルを一気に飲み干した。
「振られたのよ。5年、付き合っていた……」
「村田係長か」
「知っていたの?」
「まあな……」
村田係長は営業2課の係長だ。既婚者で、8歳と5歳の子供の父親……つまり、彼女とは不倫の関係だ。
「バーテンダーさん、今度はウォッカベースでなにか」
グラスを持ち上げて注文する彼女の手から、グラスを奪い取る。
「飲みすぎだ。もうやめておけ」
「やだぁ、もう一杯飲ませてよ。じゃ、久高君が決めても良いから」
「わかった。カクテルをもう一杯だけだぞ」
彼女に、念を押しバーテンダーに尋ねる。
「バーテンダーさん、シンデレラできる?」
バーテンダーは、うなずいた。
「シンデレラでいいな?」
「ロマンティックな名前ね。いいわよ。それで」
シンデレラが2杯カウンターに並ぶ。2杯なのは、自分の分も注文したからだ。
「ねぇぇ、乾杯しよう」
「何に?」
「なんでもいい」
「じゃ、明日には、いつもの田中さんに戻っているように……乾杯」
「うん。乾杯」
彼女はカクテルに口をつけ、びっくりしたように僕のほうを見る。僕はというと平然とグラスの中身を飲み干した。
「なにこれ、ミックスジュースじゃない」
「材料だけ見るとね。オレンジジュースとレモンジュース、パイナップルジュースを同量、シェイク。シェイクする際に氷を選んで、シェイクする時間を考え、完璧に混ぜるとノンアルコールカクテル「シンデレラ」になる」
「久高君、キライ」
彼女が、すねたように言ったが、僕は無視した。
「約束は約束。それに、もうシンデレラタイムだ」
僕は彼女を背負ってアクアを出た。彼女の口調はしっかりしていたが、もう立って歩ける状態じゃなかった。
「久高君の背中、広いね。それに暖かい」
「そうか?」
それからは、二人とも何もいわず無言で時間が流れる。彼女の住むマンションが見えてきたところで、僕の方から口を開いた。
「田中さん。僕じゃだめかな……」
「え?」
口に出してから、後悔した。
「ごめん。今、言ったことは忘れてくれ。このタイミングで言うのは卑怯だと思う。今度、ちゃんと話すよ」
「うん……ねえ、私からのお願いも聞いてもらえない?このまま泣いていいかな?服、汚してしまうけど……」
バーのカウンターでも彼女は泣いていなかった。必死に耐えていたのだろうか……
その心の痛みを……
それを少しでも癒してやれるのなら……
「いくらでもどうぞ。田中さんの悲しみを背負っても、潰れたりしないから大丈夫」
「何よ。格好つけすぎよ」
僕はゆっくりと歩き、彼女の嗚咽を背中で聞いた。
「久高君」
出社すると同時に僕を呼び止めたのは、田中さんだった。目の端が少しはれぼったいような感じがするが、表情をあまりださない、凛とした様子は、いつもの田中さんと変わらないように見えた。
「おはよう。田中さん」
「昨日は、本当にごめんなさい」
「昨日?ああ、あのこと。いえいえ、意外な一面を見させてもらいました」
「ちゃかさないで」
少しでも恥らう姿を期待したが、ピシャリと言われてしまった。
「じゃあさ、お詫びということで、アクア付き合ってよ」
「お酒は……しばらくは……」
まあ、あれだけ飲んでいれば無理もない。でも。
「フロリダ、シャーリーテンプル、バージンチチ、ノンアルコールカクテルは、たくさんあるよ」
食い下がる僕に、彼女は折れた。
「わかりました。付き合います。それじゃ、また一緒に飲んでくれる。シンデレラ……」
そう言って、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ彼女はやはり美しく、僕を魅了した。
|