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涙が潮のように引いてしまうあなたへ。
作:林檎


 いつから私はこんなに強がりになったのか。
涙が溢れそうになると、やけに冴えた、いや、冷めた気持ちがそれをひっこめてしまう。
 父の置いていったミルクティーに、鼻をつんと熱くした私は、そんな涙を例のごとく、潮のように引き上げてしまった。
 大人になることは、涙を流さないことだったのだろうか。
 昔々、うーん。どれくらい昔だったかな?そんな境目すら定かでない昔々。親の前で泣くのを恥ずかしがった私は、階段を脱兎の如く駆けあがり、部屋の鍵を閉めるなり声を上げて泣いたものだ。
今、一人部屋の窓に映る、しんしんと降り続く真っ白な雪を、まるで魂が抜けたような姿で私は眺めながら、こぼれかける涙が勝手に引いていくのを不思議に思っているのだ。
 昔、雪景色を描いた。図画工作の時間だった。白い画用紙に何故だか白い雪が上手に描けたものだから、先生に誉められた私は、絵心など実は全くなく、絵の具を使えば意に反してドブ色を生み出すような子供だったので、だからたいそう喜んだとさ。
そんな風に思い出した時、ふと感じる。
泣けないことは、絵が描けないのと似ている。そこには描きたい焦燥感と、描きたくない面倒臭さが、矛盾しているようで、実はそれが私自身なのであって、パラドックスだ。
私自身はひとつの存在なのであって、ただひとつしかないその存在は、確かにここに体温を持ち合わせているのだから、それを矛盾としたくない。
だからパラドックスだ。
 涙を流すことでストレスが減少するという。ならば私は今、かなりストレスフルな状態。体にたまったそれはドブ色をして、たぷたぷと音を鳴らす。
それは、黒と緑をまぜたような汚い色で、ミルクティーとは程遠い。温かいふわふわのセーターとも程遠い。
人間の汚さの全てがそこに凝縮されているのだ。
 横になって目を閉じると、疲れて瞼がひとりでに閉じる。蛍光灯の光は瞼を貫いて眼球に突き刺さる。
ため息が増える。
どうにかして泣けないものか、と考えてみるのだが。果たしてどうしたものか。
 だって私はこの世で最も深い絶望を知っている。
だって私はこの世で最も深い疲労を知っている。
だって私はこの世で最も深い愛情を知っている。
涙を流す原因はいくらでもあるのだ。それは日常のどこにでもポロポロと転がっている。無意味に泣く人も、フリで泣く人も居るぐらいだからね。
だけど私の知っている多くの出来事は、それら小さな涙の種を踏み潰してしまう程に冷酷かつ柔らかすぎるものなのであって、だから私の頬に涙が伝うことが久しく無いのは当たり前と言えば当たり前なのだ。
 心臓がドクドクいって眠れないのは珍しいことではなく、頻繁にあることなので慣れるべきなのかもしれないが、果たして慣れるのは大人になることなのだろうか。壁に囲まれた小部屋で身動きがとれないような私は、それでも動き続けていくしかないのであって、そんなのなおのこと興ざめである。
 涙について悩みながら、私は眠りにつく。
答えが無いから眠るしかないのだ。考えたところでまた興ざめだ。
高鳴る心臓を押さえて。
私は眠りにつく。








 あぁ。翌朝目が覚めたら。枕がひんやりとしているのだ。それが雪で氷点下に冷やされた空気のせいではないのだと気付いた時、私は思わず笑ってしまった。
どんな怖い夢を見たのだろう。
どんな切ない夢を見たのだろう。
どんな温かい夢を見たのだろう。
どんな苦しい夢を見たのだろう。
私は笑っていた。
そこに染みを作ったそれは、ドブの色なんかではなく、ただの透明だったのだ。
あぁ。
人間の体はたいしたものだ、と。
勝手に、そういう風にできているのだ、と。
そんなふうに感心しながら、笑うことすら久しぶりだったことに気付くのだ。
あぁ。
たいして悩むことは無いのですよ。
私の涙は透明で、ミルクティーみたいに、ふわふわのセーターみたいに。それでもそういう風にできていたのだから。


感想など、いただけたら幸いです。













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