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風のきざし
作:今井 祐一



第3話:赤髪鬼


 翌朝、屋敷の門を出掛かったところで王圭おうけいが包みを抱えて風彪ふうひゅうと林昭を呼び止めた。振り向いた二人の前で王圭が芝居掛った動作で包みを開くと、中に入っていたのは鞘に収まった二振りの剣。
 「風彪、この剣を、‘風鳴かざなりの剣’をお前に授ける」
 そう言って王圭は剣を差し出した。
 「かたじけない」
 深く頭を下げる。
 剣を鞘から引き抜く。その刃には‘風鳴’と刻されてあった。一振りすると風を切るような音が周りに響き渡る。手にもよく馴染む。
 風彪は剣を収めるとまた王圭に深々と頭を下げた。
 その後王圭はもう一本の剣を林昭に渡して言った。
 「なにぶん急なことでな、名剣というわけにはいかなんだが、それでもそこらのなまくらよりはましじゃ。持って行くがよい」
 「ありがとうございます」
 「うむ、ではまたな」
 そう言って屋敷に入ってしまった。
 「行くぞ、林昭」
 「はい」


 もうこれで丸一日、駆け通しである。森の中を木々を縫うように走る。時折枝や下草に打たれながら、鄭範ていはんは駆け続けた。春とは言え、山中の風はまだまだ冷たい。それが熱った体に心地よく感じられた。
 北へ向かっている。昌と帝国の国境警備は厳しいが、山脈を北上すれば見つかることはまずない。しかし、気が急くせいかすでに二回も馬を潰しかけている。その度に馬を下りて一刻(三十分)ほど馬を引いて走る。そうすれば馬もまた走れるようになるのだ。
 山腹に小屋を見つけた。中に入って火を起こし、饅頭を一つ二つ口にして八刻(四時間)ほど眠る。
 小屋はもともと猟師が使っていたのか、中に叉が何本か立掛けてある。中央には囲炉裏があり、その他には何もない。藁で葺かれた屋根の間からは空が見える。
 目を醒ますと外へ出て口笛を吹く。辺りは少し薄暗い。日が落ちるまでもういくらもない。夜の間に国境を越えてしまえばいい。
 馬が駆けよってくる。飛び乗るとまた駆け出した。
 馬蹄ばていの響きだけが聞こえる。木と木の間からは時々星が見える。ふと自分はどうしてこんなに急いでいるのだろうと思った。
 風彪が山を下りた。その知らせは余人にに任せず、自分で知らせるべきだと思った。しかし、それが言い訳だということも分かっている。鄭範はただ嬉しかった。やっと主が戻って来るのだから。
 ただ、それだけでもない。
風彪を、あの村から追い出したのは自分だ。食いつめた流賊に手頃な村がある、とけしかけた。主が立つなら多少犠牲が出ても構わない。結局死んだのは賊だけだったが、場合によっては村人が殺されることもありえた。影の仕事をしているとそういうことはいくらでも起こる。時には味方をも切り捨てなくてはならない。
 運だ。最後は。ぎりぎりのところで闘っていればそうなる。風家軍が消されてすぐはもっとひどかった。となりで一緒に走っている人間が敵か味方かも分からない。そんなときに鄭範はこの世界に入ったのだ。厳しさは骨の髄までしみている。今さら言うことでもない。
 ただ、風彪がそれに手をそめてはならない。裏では常に卑劣な騙しあいや殺しあいがあっても、頭領はそれに関わってはならない。汚れるのは自分たちだけでいい。そのための影なのだから。
 彼の気にかかっている問題はそれだけではない。もっと実際的なことも考えなくてはならない。風彪の偽名のことだ。
 山脈の反対側に親戚を持つ者も少なくない。帝国の中心部でならともかく、オストマルクで動きが制限されることはなかっただろう。風俗や習慣も微妙に違うことがあり、おそらく風彪にそれを隠すような器用さは無い。むしろ偽名だと気づかれてしまう危険もある。用心深いことは偵諜の必要条件だが、過ぎたるはなお及ばざるが如し、である。
 結局のところ、ようやく帰って来た主の障害を少しでも除いておきたかったということなのか。感情が目を曇らせたか。主がいなくなって十五年、もはや誰も‘風’という姓をかの武者達と結びつけたりはしないのに。
 暗くなるにつれて樹間を走るのが難しくなってきた。今や辺りは完全に闇に沈んでいる。しっかり前を見ていないとあらぬ方へ行きかねない。鄭範は夜空を見上げて方角を確かめると手綱を握り直し、馬腹を蹴った。


 カフカス家の護衛は私兵のようなものだった。風彪は日払いの傭兵みたいなものだと思っていたが実際は随分違っていた。
 何人かは自分や林昭と同じような、いかにも傭兵といった感じだが、ほとんどは同じ紫色の制服を着ている。
 彼らはみすぼらしい旅の武芸者が自分たちの一行に加わるのを快く思っていなかった。その考えは主人から伝染したものにも見えた。安陽を出てからずっと風彪はそのことを感じさせられていた。
 林昭はカルマは王圭の顔を立てるために自分たちを雇っているに過ぎない、あるいは雇っている格好をしているに過ぎないと言った。おそらくその通りなのだろう。もう一つの理由は風彪や林昭は旅人だと名乗っているのに全くその話をしないことだった。
 風彪はこの二十年を例の山中で過ごしていたため、旅の話など出来ない。生まれた土地からそこへ行くまでは長い道のりだったに違いないが、風彪はその時それを覚えているには幼過ぎた。一方の林昭は多少旅の記憶を持ってはいるものの、武術が未熟であるため弟子になってから日が浅いということになっており、師よりも弟子の方が旅の経験が豊かだと不自然なので、それについては一切話さなかった。
 安陽を出て二日目までは安水沿いの街道を進んだ。街道と言っても草が他の場所より少ないところが帯状に続いているというだけである。ただ人の行き来は多かった。帝国との戦で北から昌に入れないためだろう。風彪たちは何度も隊商とすれ違った。聞けば山道には山賊が出るのでとても一人や二人では越えられないのだという。
 風彪と林昭は荷駄の後ろを歩いている。
 しかし内心風彪はカルマに毒突かずにはいられなかった。護衛は一見屈強そうに見えるが、記憶の中で幼い彼を囲んでいる武者達に比べると激しく見劣りする。彼らに山賊どもの襲撃が防ぎ切れるとは到底考えられない。カルマはもっと自分のことを評価して然るべきだ。このように後ろについて歩いているだけでは何も出来ない。
 結局二日目も何事もなく終わった。一行は予定通り山道の入り口にある町、稜に辿り着いた。
 町の中を安水が流れている。カルマはそこに架かる橋の袂にある宿に今夜は泊まると告げた。風彪と林昭は部屋が空いていないからと、馬小屋で寝ろと護衛の一人が伝えに来た。
 仕方なく小屋に入ると中は荷を牽く馬やカルマたちの乗馬で横になる場所もない。結局風彪と林昭は小屋の隣で野宿ということになった。
 「親父に言ったら何と言うかな」
 「カルマ殿は無駄が嫌いなんでしょう」
 「俺は親父の推薦も、鄭範の、つまりはシバスの推薦も受けている。シバスが何者かは知らんが王圭が推した人間を無駄扱いするのか?」
 「なら、何事も自分の目で確かめて見ないと気が済まないのでしょう。商人にはそういう人が多いですから」
 「たいした目だな」
 風彪は実力相応に扱われないことが気にくわなかった。控え目に見てもこの待遇は公平ではない。
 「林昭、棒をとれ」
 集中してしていればカルマのこともしばらくは忘れていられそうだ。そう思って林昭に稽古をつけることにする。
 日はもう暮れかかっている。安水が、稜の町が夕陽の紅に染まっている。山の夕陽ばかりを見てきた風彪にとっては新鮮な美しさだった。

 安陽を出てからは棒だけでなく剣も振るようになった。剣は棒より重い上、片手で扱わなくてはならない。ようやく棒が手に馴染んできた林昭にとっては、容易いものではない。
 一通り素振りが終わると風彪と立ち合う。林昭が受けられるのは一刻(三十分)で一回あるかないかである。どれだけ林昭が目を凝らして風彪の棒を見ようとしても、見えたと思った次の瞬間には消え、打たれている。弟子になってたった二週間で受けられるようになるはずないと分かっていても、林昭は情けなかった。
 「今日はここまでだ」
 その声を聞くと林昭はその場に倒れ込んでしまった。全身痣あざだらけである。笑いながら風彪が立たせてくれる。
 「飯にしよう」
 あたりはもう完全に夜だ。宿の明かりがひどく遠くに感じられた。そう言えば誰も風彪と林昭に食事の時間を告げてくれなかった。
 「カルマは飯代も出さぬ気らしい」
 そう言う風彪の顔が険しい。
 「稽古している私たちを見て遠慮したのかもしれませんよ」
 とは言ってみたものの林昭も不安を抱かずにはおれなかった。
 宿の食堂に入ると他の護衛たちはもう食事の後なのか、二十人ほどが軽く入れそうな食堂には人影が一つあるのみであった。
 人影が動いた。こちらへ顔を向ける。
 「トラキア殿」
 「カルマ殿」
 一人で座っていたのは他でもないカルマその人であった。
 風彪も少し面食らっている。
 「申し訳ない」
 カルマが謝った。林昭はその真意が測れずどう反応してよいか分からない。風彪も険しい顔をしている。やはり彼の態度が解せないようだ。二人の表情を見てカルマが言葉を継ぐ。
 「王圭殿やシバス殿が推して下さったトラキア殿とラルフ殿をこのように粗略に扱わねばならなかったのには訳があるのです」
 カルマの話によるとこの荷についている護衛のほとんどはオストマルク兵なのだという。
 「カフカス家が雇っている護衛は十五人ほどです。それすらも渋られました」
 それで林昭は合点がいった。臨時の傭兵だと思っていた者たちは、正真正銘カフカス家の護衛だったのだ。
 「それほど重要な荷ですか」
 「ええ、まぁ…」
 カルマは言葉を濁した。
 「荷の中身は聞くまい。ただ後ろからついて行くのでは何かあっても動きが取れん。もう少し前を歩かせてもらいたい」
 「弓が得物とお見受けしたので後ろの方がよいかと思いましたが」
 「なに、気遣いは無用」
 「では私の前を歩いて頂けますか」
 「分かった」
 用件が済むとカルマは宿の主人に食事を頼むと席を立った。
 「カルマ殿が言ったことは本当だと思いますか?」
 「半分は本当だろう。だがまだ信用されてはないな。それで自ら見張ることにしたのだろう」
 思ったより風彪は真相を見抜いている。林昭の考えもほぼ同じだ。すぐ前なら盾にもなり、不穏な動きを見せればすぐ斬れる位置でもある。
 ただ、別の見方もある。王圭や鄭範が推したために後ろに回したとすればどうか。前にいれば働き所はだけでなく、オストマルク兵と接触する機会も増える。
 山奥出身の武芸者、というだけでは説明出来ない気位の高さを持っている風彪のことである。おそらく貴族の子弟だというだけで兵になっているような連中と接するのは我慢ならないだろう。
 どちらにせよカルマの意図が読めないうちは隙を見せないことが肝心だ。風彪がそのつもりなら問題ない。

 食事を終えて外へ出ようとすると後ろから肩を掴まれた。
 「ラルフだったな。外で寝ることはねぇぞ」
 背はさほど高くないが肩幅がある。顔には額や頬にいくつか斬られた跡が残っている。壮年といったところか。風彪よりもいくらか年上に見える。風彪が先に口を開いた。
 「お前は?」
 「レルガだ。カフカス家の護衛を任されている。赤髪鬼なんて呼ぶ奴もいるな」
 「ほう、お前が赤髪鬼か」
 なるほど、髪が明かりを受けて赤く光っている。
 「俺の部屋の寝床は二つ余ってる。ちょいと狭いがな」
 「悪いな」
 「なに、カルマの奴、最初からそのつもりだったみてぇだしな。それにお前、さっきのを見るとなかなか出来るじゃねぇか。久しぶりにいい話し相手ができるってもんよ」
 どうやらさっきの稽古をどこかで見ていたらしい。あれを見られていたと思うと林昭は恥ずかしくなった。

 風彪と荷物を取って来てレルガの部屋に入れてもらった。稽古をしている間は気付かなかったが、外はかなり冷えていた。野宿せずに済むのは有難い。
 「それで、お前らはどうやってあの堅物に取り入った」
 風彪は危うく本名を明かしそうになりながらも王圭とシバス、つまり鄭範に推薦されたと説明した。
 「取り入ったとは心外だな」
 「でもなトラキアさん」
 「トラキアでいい」
 「じゃトラキア、いいか。あいつは絶対に危ねぇ橋は渡らねぇ。先方からも護衛が出るような大切な荷に初めて雇っ奴を使うってのは考えられんのよ。お前何者だ?」
 「見ての通り、ただの武芸者だ」
 「ふーん、そうかい。じゃ、まそういうことにしといてやろう」
 それから二人は武術の話を始めた。
 「俺の相棒はあいつさ」
 そう言ってレルガが壁に立掛けてある大刀を指差した。 大刀とは人の身長よりも多少長い柄に湾曲した刃が取り付けられたものだ。三日月のような刃の形から偃月刀とも呼ばれる。
 「お前の得物は何だ?」
 風彪は自分の棒を示して見せた。
 「じゃあその剣は何だ?」
 「何かあった時のためだ。棒が折れて丸腰というわけにはいかんだろう」
 「へぇ、そうかい」
 レルガは納得しきれない様子だ。何となく得物の話はそれで切れてしまった。
 その後二人の話題は古今の英雄論に移った。古の名君、皓王こうおうや無敗と言われた贏洪えいこうなど、中には林昭が知っているものもあった。
 眠い。まぶたが重い。風彪が余計なことを喋らないようにしなければならないのに。
 それがこの夜、林昭の最後の意識になった。

 目を覚ますと風彪とレルガがいない。風彪の棒もない。
さては置いて行かれてしまったかと、慌てて宿を飛び出すと川原の方に何やら人だかりが出来ている。のぞいてみればその中心にいるのは風彪ではないか。倒れている護衛も何人かいる。みんな同じ紫色に染められた鎧をつけている。オストマルク兵だと気付いた林昭は焦った。殺してしまったのだろうか。風彪に駆け寄ろうとするとまた肩を掴まれた。
 「ちょいと待ちな」

 いつの間にかレルガが左に立っている。
 「師匠だろ。信用したらどうだ。それにあいつらは伸びちまってるだけだ。骨の一本も折っちゃいねぇぜ」
 林昭の心配を見て取ったのかレルガが言い添える。もう一度兵に目をやると仲間に助け起こされて息を吹き返している。
 「たいした野郎だ。十人でかかってもかすり傷一つつかねぇ。師匠があれならお前もかなり出来るだろう」
 「いえ、私は…」
 まだ入門して二週間だと言おうとしたが、レルガの笑い声にかき消されて耳には入らなかった。
 「謙遜けんそんするんじゃねぇ」
 そう言って肩を叩くと前へ出て行ってしまった。自分も風彪と立ち合う気らしい。
 「トラキア、そんな雑魚の相手なんぞやめて、俺とやらねぇか」
 隣の護衛から棒を奪うと風彪の方へ向ける。
 「やめろ。お前にまで怪我をさせるつもりはない」
 風彪は知ってか知らずか挑発的な言葉を発する。林昭はまだ風彪の実力を測りかねている部分もあった。これまでの二回は多数を相手にして勝っているとは言え、まだ一騎打ちを見たことがない。これまでにかなり場数を踏んでいると見えるレルガに対してどう戦うのか。
 「言ってくれるじゃねぇか」
 レルガが踏み出す。風彪に向かって棒を構えた。風彪は構えるでもなく棒を持ってレルガの方を向いている。
 レルガがじりじりと距離を詰めていく。後一歩か二歩で棒が届く、というところでレルガは止まった。風彪は相変わらず立っているだけだ。しかしレルガの顔には汗が浮いている。

 突然レルガが崩れ落ちた。倒れて大の字になる。
 「強ぇな、お前」
 呟く息が荒い。少し離れていても胸板が上下しているのが分かる。
 「やっぱ、只者じゃねぇ」
 その顔は負けたのにすがすがしさすら感じさせた。
 朝日を受けて汗が光る。よく見ると風彪もわずかに汗ばんでいる。あたりにレルガの笑い声が響き渡った。


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