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壊れた海のひとつまみ
作:北本彩和



4


 ぼくの記憶は海で始まる。兄と二人、海岸で割れた貝を拾った。それ以前の記憶が全くないわけではない。風に揺れる今と違う柄のカーテンや水色の持ち方練習用の箸、そういう断片的なことなら覚えている。いろんなことを覚えている。ただ、前後関係がはっきりしない。時間の流れの始まり、鮮明な記憶の始まりはそこなのだ。
 貝拾いは、割れた白い貝でないといけない、という変わった条件がついていた。覚えているのはきっとそのせいだろう。拾った貝の欠片は青いびんにいれた。あのびんが何だったのかは知らない。兄が持っていた。
 びんに入れた貝は、ほとんど原型を留めていない。青いびんに入ったそれを、海の欠片だとぼくは思った。
 とても天気の良い日で、海の向こうまで青い空が続いているようだった。波が光をうけてきらきら光ってきれいだった。波音は繰り返し続いているのに、静かだと思った。強い風が吹いて気持ちよくて、兄が何も言わずに頭を撫でてくれてうれしかった。
 たぶん祖父の家からすぐの所にある海岸だろう。ぼくの家からも自転車でなら行ける。遊泳は禁止されている。夏休みに泳げない海はそこにある意味がないと思う。
 けれど、兄にとっては意味のある場所らしい。ぼくを連れてよく行った。最近は暇になると一人で行っているようだ。波の音を聞きながら、日陰でぼんやりしているらしい。兄にも一人になる時間が必要ということだろう。細かい詮索はしないことにしている。
 兄の朋は身びいきを抜きにしても、よくできた人間だ。だけどもう十八才、進学とか友達とか恋愛とか、まだ十三のぼくには計り知れないいろんなことがあるはずだ。そしてぼくも、もう自分のこともできないほど子供じゃない。
 もっと兄は楽に、自由になって良いはずだ。家を省みない父と捨てた母の、一番の犠牲者は兄だ。
 ぼくにはいつも兄がいた。それはぼくが一番知っている。それはかなり重要なこと。母親がいないことで引け目を感じないように気にしてくれていた。小学校や中学校での細々としたこと、例えば遠足のお弁当。余所のお母さんよりきれいにできた卵焼きは兄の努力と練習の成果だったと、ぼくは知っている。兄は知らないと思っているかもしれない。けれど、『みんなと一緒がいい』という気持ちはよく分かってくれていた。
 兄にはいつもぼくがいた。それもぼくが一番知っている。庇護すべき弟。きっと重荷。中学高校と、兄は部活にも参加しようとしなかった。ハッキリ聞いてみたことはないけど、たぶんぼくを一人でほうっておけなかったから。父親は頼れない。あの人は仕事に生きる人だから。そんな風に変わってしまった。ぼく達がだんだん母親に似ていくから。
 本当に似ているのかどうかは判らない。ぼくは母親の顔を覚えていない。ただ、他人からそう言われている。
 父親はその言葉を聞くのが嫌いらしい。
 あの人の考えることがぼくにはさっぱり解らない。解ろうとも思わない。母親の写真は全部何処かに隠されてしまった。捨てられたのかもしれない。
 母のいた痕跡はできるかぎり消されている。何をそんなに必死になっているのか解らない。あの人は、自分を捨てた妻のことを忘れてしまいたいのかもしれない。
 あいかわらず父親が何をしているのかはさっぱり知らない、興味がないから別にいい。兄はこの夏とうとう予備校に行くことを決意した。通うのは夏期講習だけだそうだが。受験生なんだからあたりまえなのかもしれない。けれどぼくはその決意をいいことだと思った。
 予備校にいる時間は完全な兄の時間。受験生という身分で家族をさぼることが堂々とできる。
 家族をするのはかなり疲れる。はっきりしていないくせに、動かせない役割分担が決まっているから。ぼくはただ弟をやっていればいい。兄は、兄をやるだけでなく母がするはずの役までやってきた。父は家族を放棄しているから、その穴も兄は埋めようとしている。一人で三役はさすがにきついだろう。弟をやるだけでもそれなりの苦労というものがある。
 夏休み、学校のない期間中の待避場所ができた。学校があればそこで兄ではない矢島朋になれる。学校の代わりができた。
 兄にもう少し余裕ができればいいと思う。海にいかなくても大丈夫なくらい。悩まないのは無理かもしれない、理由が何か知らないけど。でも、安心できる兄でいて欲しい。
 婉曲な我が儘。はっきり言えば、ぼくが安心するために兄は不安でいてはいけない。それだけ。
 自覚してもぼくは自己中心的な自分に落ち込んだりしない。一々自己嫌悪していられる程、自分がまっさらな存在ではないことはとっくに知ってる。ぼくは無垢な子供ではない。
 兄が朋になっている間、ぼくは弟でなくなる。弟であることのメリットはデメリットよりも大きい。だからそれにはたいした魅力はない。けど、たまにはそういうのもいいかもしれない。
 夏休みが始まる。ぼくはしばらくの間学校から自由になれる。兄は家族から解放される。じっとりと暑い夏は、きっと楽しい時間になるはずだ。







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