3
翌日僕は祖父と二人、向き合って座った。一緒に来た明は蝉を捕まえに公園へ行っていない。祖父と二人きりで話すのは初めてだ。空気が重い。
昨日のことを詳しく話した。一人で抱えていられない。明を騙し続けられない。
「それで、朔乃はその女の人をツキノと、そう呼んでいたのかい」
「はい。…でも、ツキノって、何か変だった。どういう知り合いだったか全然分からなかった」
蝉の声がとても、大きく聞こえた。頭の中を、その声だけで埋めていこうとしているみたいだった。できることなら、僕はそれでいっぱいになってしまいたかった。
チリーン、チリリーン
涼を求める風鈴が、そしらぬ顔でどこかで鳴った。
「ツキノは人魚だ」
「何を言って…」
「海で死んだ人間は、みんな人魚になる。月野も朝美も…朔乃も」
「お母さんは、死んでなんかいない」
「ああ。そうだといいとおじいちゃんだって思ってる。おじいちゃんは、お母さんの父親だ。だけど、朋君は青いびんをもらったんだろう?」
僕は説明のために、持ってきた青い小びんを祖父に見せていた。
「びんはもらったけど、でもそれが何? それに月野と朝美って誰?」
祖父は複雑な顔をしていた。
「今は、話すのを待ってくれるかい。朋君はまず眠らないといけない」
「そんなの平気だから、一日寝ないぐらい大丈夫だから、だから教えて」
「必ず話すから、最低一時間はまず眠らないといけない。その間におじいちゃんは心の準備をするから。それでもだめかい」
無理に笑った顔で、強がっているのがわかった。だから僕は折れてあげることにした。
クーラーをいれた部屋でクッションを枕に眠っていると、タオルケットがかけられた。乾いた柔らかな感触と微かな暖かさ。気遣うやさしさを感じて、眠った振りをしたまま僕は泣きたいような気持ちになった。
母と重なるこの感覚を、この曖昧な幸せを、僕はもう二度と味わうことができないだろう。
薄青い無音の町、ホログラムのように微妙な色合いで光を放つ建物が並ぶ。熱くもなく、冷たくもなく纏わりつく大気が気怠く重い。けれど同時に、たゆたうような安らぎがある。遙かな頭上に、ゆらゆらと光る境界が見える。
そこで自分が海の底に沈んでいることを知る。この青さは微かな光しかないこの場所での闇だとわかる。輝く水面に上がりたいと思う。痛いほどの太陽が恋しくなる。この青い世界はあまりに静かすぎる。このまま心地よい水の中に溶けていってしまいそう。ここは全てに満ちた場所だから。自分を呼ぶ場所だから。
それでも、ここにいるわけにはいかないと思う。浮かび上がろうと勢いをつける。振り向くと、有無を言わせない白い手が腕を掴んでいた。ゴボッと大きな気泡が口から漏れる。全身で抗うのにどうしても抜け出せない。もがけばもがくほど口から空気が逃げていく。
手には強い力が入っているようには見えない。柔らかそうな女の手。
自分の背が、女の胸までもないことに気が付く。自分の腕が頼りない細さなことに驚く。子供の視点で女を見上げた。女の顔は青く影って判別できない。長い髪か括られたまま逆立っている。
なだめようとしているのか、女が歪んだ形の飴を取り出す。食べさせようとする。その形は鱗を連想させた。金色がかったその白い飴を食べてはいけない気がする。戻れなくなる。根拠もなく強くそう思う。
苦しくてたまらない。息ができない。
頭の何処かでこれは夢だと声がする。この声を待っていた。ああその通りと理性が応える。
女も町も全てが曖昧に溶けていく。溶けだした夢の中で、ほんの一瞬女の顔が見える。それなのに誰の顔だか分からない。見たことがあると思うのに。
それさえもいつも通り。何度も何度も見た夢だ。呆れるほどにくり返す、夏の始まりを告げる夢。たぶんこれからもくり返す。これ以上、夢の世界に続きはない。
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