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「お母さん、返事は?」
「台風なのはもちろん知ってるわよ。朋ちょっと来て」
部屋の入り口に立ったままの僕を母が手招きする。
手のひらに収まる青いガラスびんが渡された。
「何これ、カラだよ?」
「台風が過ぎたら、明日は晴れるでしょ?そしたら、白い貝殻の欠片を拾って、入れておいてくれる?」
「いいけど、何で?」
青いびんごと母は僕を抱きしめた。短くて濃い数秒間。
「ごめんなさい」
その小さな声に、咄嗟にどう反応すればいいかわからなかった。答えになっていないと、反駁するのが悪いことのように思えた。
僕が次の行動に躊躇っている間に母は玄関に行った。
今にも出て行ってしまいそうな母に再度問いかける。心臓がドクドクいう音が耳の奥で響いて、息がしづらい。
「何で? 海に、行くの?」
少し驚いた顔をして、笑って頷いた。
「朋は知ってたんだ。そう。お母さんの行き先は海。朋はしっかりしてるから、明のことよろしくね」
明るい笑顔だった。そこに明が来た。
「お母さん、どっかいくの? ぼくも外に行く」
「お母さんはね、人魚に会いに行って来るの。明はお兄ちゃんの言うことをちゃんと聞いて、良い子にできるよね?」
「ウソつきー。ホントにいるならぼくも人魚に会いたい」
「だめ。今日、明が外に出たら飛ばされちゃうよ」
「お母さん、やっぱりウソなんだ!」
ふくれて明はリビングに走って行ってしまった。
「じゃあ朋、後はよろしくね」
母はドアを開けて出て行った。
傘は傘立てに残ったまま。僕はその傘を掴んで母を追った。
住んでいるのはマンションの三階。階段でなら、マンションを出る前にエレベーターに乗った母に追いつける。
息を切らしてエントランスに行くと母の後ろ姿が見えた。
「お母さん!」
母は振り向かない。更に僕は走る。
マンションの前にある三段の階段。その向こうに人影が見えた。白っぽいロングスカートの女。ツキノがいた。
ツキノは母に手を伸ばした。その手を母は取った。
「お母さん!」
母は振り向かない。その代わりツキノが僕を見た。せっぱ詰まった僕の声がエントランスに反響する。
道路と建物を繋ぐ三段の階段を、母は下りた。
ツキノが勝ち誇ったように僕を嘲笑った。
僕は痺れたように動けなくなった。だから、ただ見ていた。雨に濡れて、黒々となびく母の髪を、腕に張り付く白いシャツを。その横を歩く、妙にくっきりと浮かび上がるツキノの後ろ姿を。
傘を差さない二人の姿が消えるまで、僕はじっと見ていた。見詰めることしかできなかった。
どれくらいの間そうしていたのかはわからない。とても長い時間だったようにも思えるし、ほんの一瞬だったようにも思える。我に返った僕は、父に連絡を取ることを思いついた。どうにかしてくれるのではないかと期待した。
階段を駆け上って父の携帯に電話をかけた。呼び出し音がもどかしい。カチッという音がして音が途切れた。
「もしもし、お父さん!」
「ただいま、電話に出ることができません。ご用件の方は、発信音の後に」
そこで電話を切った。
どうすれば良いのか、もうわからない。外は台風。父には連絡がつかない。海まで追ったとしても、母を連れ戻せるとは思えない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
どうすればいい?
弟が不安そうな目で僕を見上げていた。返す言葉が見つからなかった。
「お兄ちゃん?」
小さな体を抱きしめることしかできない。子供扱いを嫌がるようになった明も、この日はなぜか嫌がらなかった。
明はそれ以上何も言わなかった。
僕には弟と青い小びんだけが残された。
そして、母は帰ってこない。
そのことを受け入れることができない。何かを考えることもできない。僕等を置いて母が行ってしまった、その衝撃で頭の中が飽和状態。
早く朝になればいい。全部が悪い夢だったと言いたい。
ぼんやりとしたまま、ひたすら事務的に弟をお風呂にいれ、その後寝かしつけた。何も知らない安らかな寝顔がかわいくて、そしてかわいそう。
弟は、捨てられたことを、まだわかっていない。
滲みそうになる目を擦って父の携帯にもう一度電話をかけた。変わらない留守電の声に溜息をついて、できる限り簡潔に母のことを録音した。
それから自転車でなら気軽にいける所にある、母の実家にも電話をかけた。そこには祖父が一人で住んでいる。コール二回で電話に出た祖父に、同じ説明をくり返す。
くり返し言うことで母が帰ってこないことが、確定事項になっていくような気がする。泣き声になってしまった僕に祖父は気休めを一切言わなかった。まるで電話を覚悟していたみたいだと思った。
「明日になったらおじいちゃんの家においで」
その言葉を最後に電話は切れた。短いはずの夏の夜は、息が詰まるほど長かった。
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