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壊れた海のひとつまみ
作:北本彩和





 夏休みが終わる、一週間ほど前の日だった。数年ぶりに台風が関東地方を直撃した。午後から次第に雨足は強くなり、風は激しかった。
 この頃母の様子がおかしい。今日は更におかしい。僕は不安でしかたない。どこがどうとは言えないけれど。外は言葉通りの暴風雨なのに、カーテンも閉めずに外を見る。その後ろ姿が怖い。
 夕飯はハンバーグ。弟の明が大好きなメニュー。実は僕も好きだけど、中一になってそれを言うのは気恥ずかしい。黙っていても気付く物らしい。母親というのはそういうものなのだろうか。意味ありげに微笑んだ。
 それから弟。五歳も年の離れた明はかわいい。精一杯意地を張ってもやることが子供で見え見えなところとか、何かあるとすぐ『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と纏わりついてくるところとか。うっとうしくなる瞬間がないとは言わないけれど、やっぱりかわいい。
 一生懸命話す弟の言葉を聞きながら、三人で夕飯を食べた。いつもよりも品数が多いような気がした。食事が終わり後片付けも済んだ後、母がゼリーをだしてきた。
 丸ごと果物が入ったゼリー。カップからわざわざお皿に逆さまに出してテーブルに並べた。 透明のゼリーがガラスのお皿でふるふる震えた。
「お母さんの分は?」
 テーブルには二つしか並んでいない。
「お母さんはいいの」
「何で?」
「それより明のこと呼んで」
 呼ぶと軽い足音がして、うれしそうに明が走って来た。
 僕たちが食べる様子をぼんやりと見つめた後、母は違う部屋に行った。
 今日の母はいつもと違って、何処か怖い。不気味な感じ。父は出張で家にいない。この不確かな感触を相談する相手はいない。
 様子を見に行こうと席を立った。
「お兄ちゃんどうしたの?」
 何も気付いていない弟には言わない方が良い。
「おなかがいっぱいになっちゃったから。明これいる?」
「くれる?」
「いいよ、あげる」
 ありがとうと言ってうれしそうに食べるのを再開した。食べかけのゼリー一つで、こんなに喜ぶ弟はかわいい。怖がっていた気持ちが、少し和んだ。
 母の様子を見に行った。母は何故か着替えていた。鏡の前で髪を括ろうとしている最中だった。
「…朋、どうしたの?」
 滅多にはかないジーンズをはいて、白いシャツを着ていた。
「どっか行くの? 台風だよ」
 様子がおかしくなってから、夜になると家を出ていることに僕は気付いていた。浮気をしているのかと思った。母に限ってという気持ちと、もしかしたらという気持ちの間で悩んだ。
 それで、とうとう三日前、母の後をつけた。浮気相手の男を見たい気持ちが見たくない気持ちに勝ったのだ。
 浮気ではなかった。会っていたのは女の人だった。白っぽい服を着た、母と同年代の女の人。
 隠れるように夜に会う必要が何処にあるのかわからなかった。もっとどうどうと昼間会えばいい。
「ツキノ、遅れてごめん」
「気にしないで朔乃。ほんのちょっとじゃない」
 母は僕に背を向けている。
 それでもいつもと違うのがわかった。『お母さん』ではない。もちろん僕と明がいないからということもあるのだろうけど。
 この人が、ツキノという人が母の変化の原因に違いない。
 肩を寄せ合うように砂浜に座って話す声は僕にまでは届かない。声自体も小さかったし、規則的にくり返す波音がかき消した。
 僕に分かるのは、二人がとても仲が良いということ。母がおかしくなり始めたのは長く見積もっても二週間くらい前。その時初めて会ったにしては二人の距離が近すぎる。二人は親密すぎる気がする。
 まるで、昔からの知り合いみたいだ。
 会話の内容を聞きたくて、もっと近くに行こうとした。その時ツキノと目があった。母の背中越しに微かに笑った気がした。
 そのことが脳に伝わるまでの一拍の間をおいて、背中に悪寒が走った。触らなくても全身に鳥肌が立っているのがわかる。
 ツキノが恐ろしい顔をしているとか、そういうことではない。もしそうでも夜のこと、はっきりとは見えない。
 ただ嫌だった、怖かった。ふっと血が下がるような感覚。足下の不確かさに気付くような、崩れていってしまうような恐れ。
 何も考えられなくなった。本能のままに僕は逃げた。どういう風に帰ったかはよく覚えていない。ただ、走っていて、気が付くとマンションの前だった。
 この日のことは僕の秘密。誰も信じそうにないから。
 それから三日。母はあの人に会いに行っているようだった。僕は知らない振りを続けた。そして、母を問い詰める日が来てしまった。







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