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自転車に乗って駅の方へ向かう。とりあえず人のいる場所へ。人がたくさんいたから何がある、ということはない。でも人混みの中にいれば、何も考えないでいられる。そろそろ母を探すことに疲れてきた。そう思うと祖父の家は、少し息苦しい。
でも、悲しいことにここは中途半端に田舎。駅前に行ってもたいして人はいない。だからといって観光客が来るほどの所でもない。何の取り柄もないベットタウンだと実感する。人が少ないのは夏休みのせいかもしれない。家族旅行に行った人も多いはずだ。
ふらふらと走っていると、向こうから同じくらいの子供が犬を連れて来た。
「新藤って犬、飼ってたっけ?」
挨拶も何もあったものじゃない。どこかから五時を告げる音楽が流れてきた。
「マンションで飼えるわけないだろ? 近所の犬だ。小遣い稼ぎ、暑いから飼い主は散歩に行きたくないんだと」
まったくだめだよな、ちゃちゃ丸?
犬としゃべっている姿は、学校にいる時よりも年相応に子供っぽい。
「ちゃちゃ丸っていうんだ? かわいい」
「いや、こいつの本名はムハンマド・山田だ。けどさ、ムハンマドって無理があるだろ?」
大人になる少し前の丸々とした柴犬系の山田さんちの雑種にムハンマドは、確かに辛い物がある。そんな濃い名前を付けるくらいなら、山田太郎の方がまだ似合っている。
いいんだよ、こいつはちゃちゃ丸って呼んでも返事するから。新藤が言い訳じみたことを言う。そのまま二人の散歩にお供することにした。
そういえば新藤も家族旅行とは縁の遠い奴だ。口にすれば反論は目に見えている。泊まりがけで母親と二人で何しろって言うんだ、て。まあその通りだと思う。
「そうだ! おまえに言っとくことがあったんだ」
それによれば、ウチの兄が不審な行動をしているらしい。まさかと最初は否定した。しかし場所は海だという。
「一人でしゃべってたぞ、楽しそうに。ヤバクない? 受験生だったっけ? 煮詰まってるんじゃないのか?」
去年、新藤の隣の家に浪人生がいて、その人は夜中に木刀で電柱を叩きまくるという奇行に走っていたそうだ。大学入試というのは、絶対大変なんだと新藤は言う。
「別に家では変じゃない。見間違いとかだろ。きっと誰かいたんだよ。それかケイタイとか」
新藤は首をひねりながら疑わしそうにぼくを見る。
「何時頃だった?」
「六時過ぎか、七時ぐらいだったと思う。聞いてどうするんだよ」
行ってみるに決まってる。兄がヤバイかヤバクないか自分で見ないと納得いかない。
「行くのはおまえのかってだけどさ、暗くなってからあんまりふらふらするなよ」
なんだか心配しているような口振りに、まじまじと新藤を見る。目が合うと彼はニヤッと笑った。
「明はかわいいんだから。女の子と間違えて、変態に誘拐されるぞ」
「なんだよそれ。けなしてる?」
「けなしてるー。まあ実際、そこら辺の女より明の方がかわいい顔してるから。美少女?」
「気持ち悪いこというなよ。ぼくは男だ。ちゃちゃ丸! こんな奴噛んじゃえ」
ワンと一声ちゃちゃ丸は返事をしたが、意味は分かっていないらしくぼくにすり寄ってきた。力が抜ける。苦笑してちゃちゃ丸の頭を撫でた。
おまえがいると散歩が先に進まない。新藤に邪魔者扱いされたので、ちゃちゃ丸をもう一度撫でて別れることにした。調度お散歩コースは海岸へとさしかかったところだった。ぼくは砂浜に降りていった。
ヤバイ、ヤバクない。おかしい、おかしくない。その境界はどこにある。基準がはっきり決まっていないと何も測れない。ぼくから見て兄は普通。新藤から見て兄は異常。彼とぼくの間のズレ。むこうとこちらで基準がどうも違うらしい。むこうとこちら、そんなことを前も何か考えていた。母だ。せっかく考えるのを止めたのに、結局そこに戻ってしまう。
ヨモツヒラサカのむこう。
ヨモツヒラサカ、そのむこう、人魚の国に母は行った。行ってどうしたのか分からない。行く前のことすら、こんなに探して見つからない。そこはこちらと違う基準に支配された場所。こちらの基準で覗いても、何も見ることの出来ない場所。
こちら側から理解できない場所に行くこと。たぶんそれがヨモツヒラサカのむこう側に行くということ。もしそうなら、兄は新藤から見てむこう側の人。兄を異常と思わないぼくは、どちら側にいる? そもそもヨモツヒラサカ、そのむこうには何がある。
「ヨミの国があるのさ。」
口に出した覚えがないのに、返事があった。唐突に男が横に立っていた。本当に変な人が来た。まだ真っ暗になっていないからと油断した。どうやって逃げよう。追ってきたらどうしよう。
「酷いなぁ、そんなに驚くことないと思うよ? 一緒に花火で遊んだ仲じゃないか。」
「なんだ、サクノさんか。…どうして?」
一瞬の中で逃げる方法を必死で考えていた。その分、知り合いだと分かって気が抜けて思考が停止した。
「どうしてって? 何でここにいるかってこと? ヨミの国だって答えたこと?」
言語中枢まで脱力してしまった。言葉にならない。
「ここにいるのは、矢島を待ってるからだよ。で、答えられたのは、おれが明君の、お母さんだから!」
顔中で笑った。だからぼくは、何のことを言っているのか反応できなかった。
「もっとなんかさ、こう、リアクションないの?」
「は?」
サクノさんは半端な長髪ではあるが、どう見ても男。しかも兄と同い年。年の差、五歳。どうやってぼくを産む。
あはは固まってら、と疑惑の主はご満悦。
「同じ名前ってだけだよ。サクノっていうんだろ? お母さん」
付け足された『矢島に聞いた』という言葉が更に混乱を深める。何でこんな他人に、母の話を兄がするのか。
バカにされている。しているのが目の前にいるこの人なのか、兄なのかは別として。子供だからといって、いいように遊ばれるのは癪に障る。このままこの人のペースにはまっていてはだめだ。からかわれ続けるのは絶対に嫌だ。
「そんな話、誰も聞いてないよ。それよりヨミの国って何?」
へらへらと余裕の笑みを浮かべ、彼は丁寧に答える。その懇切丁寧な口振りさえもが疎ましい。
それによると、ヨミの国は黄泉の国というらしい。死者が行く場所なのだそうだ。古事記という神話に出てくると彼は言った。
まだ世界が出来て間もない頃、伊耶那岐という男神と伊耶那美という女神が天より遣わされた。二人は夫婦だった。だが伊耶那美は子供を産むときに死んでしまった。伊耶那岐はその死に耐えられなかった。それで死者の国へ伊耶那美を迎えに行くことに決める。そこが黄泉の国。その時、黄泉の国は生者の国と地続きだった。それが何処なのかは記されていない。ただ、伊耶那岐はそこに辿りついた。
けれどそれは遅すぎた。再会した伊耶那美は言う。この世界の食べ物を、もう自分は食べてしまった。だから生者の世界には帰れない、と。伊耶那岐は納得しなかった。それで伊耶那美はその世界の支配者と相談する。結果、帰る許可が下りる。ただし伊耶那岐は伊耶那美を絶対に見てはならないという条件があった。
見るなと言われると見たくなる。伊耶那岐は伊耶那美を振り返って見てしまう。そこには変わり果てたぼろぼろの姿の伊耶那美がいた。虫が蠢く腐乱死体。伊耶那岐は余りのことに逃げる。姿を見られたことに逆上した伊耶那美は執拗に追いかける。命からがら逃げた伊耶那岐は大きな岩を置いて黄泉の国と生者の世界を区切った。その場所が黄泉比良坂。そこまで追ってきた伊耶那美は岩に阻まれそれ以上追ってくることができなかった。
話を聞きながらぼくは朧な夢を思い出す。ゆらゆらと青く暗い夢、白い女の腕、遠くに見える光の境界。
「黄泉の国が何か分かった?」
「うん。何でそんなに詳しいの?」
「好きなのさ、神話とかそういうやつ。矢島も結構好きだよ。聞いてみなよ、きっとおれよか詳しいから」
ぼくの知らない兄を知っている。そんな口振りが気にいらない。それがどうも顔にでていたらしい。ほっぺたを引っ張られた。痛くはない。冷たい指だ、とだけ思った。
されるがままは自分らしくない。指を振り払ってやり返そうとした。余裕の顔で避けるから、ついむきになって加減もなく思い切りほっぺたを引っ張った。顔も冷たかった。
「ヤヒヒャー、助けてー」
兄を見つけて思わず手をひっこめた。
「楽しそうだな? 明はもう暗いのに、こんな所に何でいるんだ?」
本当はこっそりと、海岸に来た兄が一人でいるかどうかを確かめる予定だった。失敗したのは絶対サクノさんのせいだと思う。でもそんなこと言えない。上目遣いで見る兄の顔は、ぼくの答えを聞く前から怒っている。
「…お兄ちゃんのこと待ってた」
「おじいちゃんにはちゃんと言ってきたのか?」
「言ってない。ごめんなさい」
「今すぐ、自分でおじいちゃんに謝れ」
兄の携帯電話を渡された。電話するよりメールの方が気が楽なのに、と思っている間に登録してある番号を兄が呼び出してしまった。すぐにつながった。
「もしもし、明です。おじいちゃん?」
「こんな時間まで何やっとる!」
本気で怒っている声だった。いつも優しい人だから、その分とても怖い。
「ごめんなさい。駅の方まで行った後、帰ろうと思ったんだけど、お兄ちゃんの帰る時間がもうすぐだなって思ったから。…ごめんなさい」
「…それでお兄ちゃんには会えたのか?」
一緒に帰ることを伝えると、落ち着こうと努力しているような声で、気をつけて帰ってきなさいと言われた。
「おじいちゃんは何て?」
「何やってんだって怒られた。それと気をつけて帰ってきなさいって」
「まあ、怒られて当然だな。何も言わずに出てきたんだから」
うわっ矢島にまで怒られてるよ、と楽しそうに囃し立ててサクノさんがぼくの髪をクシャクシャにかき混ぜた。意外にも優しい感触が、元気づけようとしてくれているみたいに感じた。いつも無意味にむかつく人なのに、どうしてこんなことで慰められてしまうのだろう。単純に出来ている自分が情けなくもおかしい。
自分を外から眺めれば、大事に心配されている事実を見つける。中学生で子供だからだと思う。子供扱いだと思う。でもくすぐったいような気持ちにもなる。おじいちゃんに後でもっと怒られるのだとしても、ちゃんと我慢できる。
家に着いて、開口一番ただいまより早く謝った。祖父は、これから遅くなるときはどこに何しに行くのか言って行くとぼくに約束させた。それだけでこの話は全部終わってしまった。但し三人で食べたこの日の夕飯はとても静かで、テレビの音だけが響いて居たたまれなかった。
次の日、兄が出かけていった後、話があると祖父が改まった調子でぼくに言った。 |