壊れた海のひとつまみ(1/15)PDFで表示縦書き表示RDF


この小説は私の空想の産物で、精神疾患や行方不明などの人またその関係者への中傷を意図していません。現実とは大きく異なります。
壊れた海のひとつまみ
作:北本彩和



プロローグ


 ぼくの母は死んだらしい。もう五年も前の話だ。ぼくはその時のことをはっきり覚えてない。八歳だった。
 らしいというのは別に、生きていて欲しいなんて思っているからじゃいない。常識的に考えれば生きているという、ただそれだけのことだ。
 葬式は行われなかった。
 父が母は死んだと言い張った。祖父もそうだと静かに頷く。けれど近所の人達の噂をぼくは知っている。母は僕たちを捨てて、逃げた。蒸発した。もちろんそれが憶測に過ぎないこともわかっている。
 違う。噂なんて知らない。父が母のことで何かを言ったことなんて聞いたことがない。祖父は確か、ヨモツヒラサカの向こうに行ったと重々しく言った。ヨモツヒラサカが何かは分からない。不思議な響きの言葉だから覚えているだけ。
 そして兄は、海ニカエッタと言った。
 人魚姫でもあるまいし、と今のぼくは思う。人魚なんて子供向けのお伽話にすぎない。生きていたとしても五年も子供を放ったままの母親に何も期待などしていない。いっそ死んでいてくれたらとさえ思う。
 ただ当時のぼくは海の中にヨモツヒラサカがあって、その向こう側に人魚の国がある。虹色に光を弾く白いお城や、貝で出来た家が建ち並ぶ、夢の国がある。そこに母は行ったのだと、漠然と思っていた。
 そして今、覚えていても良いはずの母の顔さえ覚えていない。何となくいたのだろうなぁ、という程度の認識。ぼくはそういう子供だし、母だった人もその程度の親だったのだろう。







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