待ってよ。行かないでよ。
叫びながら、私は必死に追いかける。
でもお兄ちゃんは待ってくれない。私に背を向けて歩き続ける。
私がいくら走っても、ふたりの距離はうまらない。むしろ開いて行くばかりだ。
わかっている。悪いのは私だ。
それはよく、わかっているから。謝るから。
だから、こっちを向いて。私を見て。
不意に目が覚める。
また、いつもの夢だ。私は長く息を吐いた。
あれからずっと、私は夢の中で、お兄ちゃんを追いつづけている。手の届かない人になってしまったお兄ちゃんは、夢の中ですら、私に振り向いてはくれない。
私がそれだけのことをしたんだっていうことは、これが罰だっていうことは、よくわかっている。
でも、だったら、どんなことをしてでも償うから、だからせめて夢の中では。夢の中でだけは、私を見てほしい。
ふと目頭が熱くなる。手をやると、濡れている。
泣いてもどうにもならないのに。それなのに泣くなんて、私は馬鹿だ。
気をまぎらわせようとして、目覚し時計に手を伸ばす。まだ四時だ。でも六時には起きないと学校に間に合わなくなる。また寝直したら、きっと寝過ごしてしまうだろう。
仕方なく私は起きだした。薄暗い部屋の真ん中で、伸びをする。
そうして、まだぼんやりとしている頭を軽く振って、私は部屋を出た。
一瞬、廊下の電気をつけようかと思ったけど、やめる。慣れているから、見えていなくとも大丈夫だし、なにより、明るくしてしまったら、どこかにお兄ちゃんがいたとしても、隠れてしまいそうな気がする。
台所に行くと、昨日、置いておいた夕食が、そのまま布をかぶせられて残っていた。
私はため息をついた。
まだ、一週間もたっていない。
それなのに、あの人は昨日、帰ってこなかったんだ。
たしかに仕事は大変だと思うし、大事だとも思う。そうやって女手ひとつで私たちを育ててくれたことは素直に感謝している。でも、自分の息子が死んだときくらい、喪に服したってばちは当たらないと思う。なんだか悔しくて、きつくくちびるを噛みしめた。
「……しょうがないか」
今さら怒っても仕方がない。そう自分に言い聞かせて、私は長く息を吐いた。
蛇口に直接口をつけて、水を飲む。生温いけど、それくらいがちょうどいい。
少し、頭が冷えた。でも、頭が冷えるのも考えものだ。だって、冷静になってしまうと、どうしても夢のことを――お兄ちゃんのことを思い出す。心が、熱さと冷たさのバランスを取ろうとしているみたいに。
私はお兄ちゃんが好きだった。
お兄ちゃんは私とはあまり似ていない、めがねのよく似合う背の高い人だった。たったひとつしか違わないのに、私はお兄ちゃんに育てられたような気さえするくらい、お兄ちゃんにべったりで生きてきた。
ほかの誰もわかってくれないようなことでも、お兄ちゃんはわかってくれた。お兄ちゃんはなんだって許してくれたし、大丈夫だよと笑ってくれたし、なに
より私を認めてくれた。
お兄ちゃんはあの日までは、私のよりどころだったのだ。
そう、五日前、お兄ちゃんは交通事故で逝ってしまった。私はひとり、取り残された。
そのときから眠るたびに、私はお兄ちゃんの夢を見るようになった。
でもお兄ちゃんはいつも、私を置いてどこかへ行ってしまう。一度だって、過去の、幸せだった頃の夢を見たことはない。
だから、お兄ちゃんのことを思い出すと、胸のあたりが熱くなる。
どうして、私はお兄ちゃんのそばに行かないんだろう。
どうして、私はお兄ちゃんのそばに行けないんだろう。
ずっと立っていたら足が痛くなった。私はかたい椅子にかけて、テーブルに突っ伏す。木のテーブルはひんやりしていて気持ちがいい。最後にふれたお兄ちゃんの頬は、もっと冷たかったのだけれど。
私はそっと、目を閉じる。眠ってしまわないように、くちびるをきつく噛みしめながら。
夢の中のお兄ちゃんはいつだってこっちを向いてはくれないけど、私のまぶたの裏に残っているお兄ちゃんの影は、決してむこうを向いたりしない。
ねえ、お兄ちゃん。私はどうしたらいいんだろう。あとを追いかけたら許してくれる? ひとりにしてごめんねって、謝って、同じ場所まで行ったとしたら、もう一度私に笑いかけてくれる?
そんなことはないって、よくわかっている。でも思わずにはいられない。
だってそれくらい、お兄ちゃんが好きなんだもの。好きで好きでたまらなくって。そう、お兄ちゃんは私にとって、砂漠にあるたったひとつのオアシスみたいな。もしもなければ生きてゆかれない――それくらい大切な人なんだもの。
血のつながりのある、実の兄を好きになってしまうなんて、私はどこかおかしいのかもしれない。たまにそう思うこともあったけれど、そこに関しては吹っ切れた。だって私は多分、お兄ちゃんがおじさんでも、女の人だったとしても、あまつさえ人間じゃなかったりしても、それがお兄ちゃんと同じ魂を持っているというだけで、好きになってしまったに違いないから。
もうそこには理屈なんてなにもない。もはや運命としかいいようがないことだ。
だから私は、こうして、お兄ちゃんに焦がれる。理屈ではもう会えやしないとわかっているのに、いつかまためぐり逢える日のことを夢想する。
もう一度出逢えたとしたら、お兄ちゃんはどんな顔をするんだろう。喜ぶんだろうか怒るんだろうか怯えるんだろうか。
でも、そんなことはどうでもいい。私はお兄ちゃんが好き。大切なのは多分、それだけ。
気づかないうちに眠ってしまっていたらしくって、気づいたときにはもう遅刻ぎりぎりだった。朝ごはんを食べる暇もなく、着替えて家を飛び出した。
通学はバスじゃなかったから、走れば多分、まだ間にあう。
お兄ちゃんが生きていた頃は、毎日、お兄ちゃんが私を起こしてくれていたから、こんなことになったことはほとんどなかった。こんな些細なことで、もうお兄ちゃんはいないんだ、と実感する。
でも最初の数日ほどは胸が痛まない。それがどうにも、切ない。走りながら私は、くちびるを噛みしめる。
こうして少しずつ記憶は薄れていって、最後には、忘れてしまうんだろうか。だとしたら、きっとやるせない。お兄ちゃんだって、きっと寂しいに違いない。
だって私は、あのとき、寂しくて仕方がなかった。
あの日、私はいつもみたいに、教室までお兄ちゃんを迎えにいった。でもお兄ちゃんは私の知らない女の人と、楽しそうに話していた。
すごく綺麗なひとだった。私とは大違いの、ふわふわした雰囲気のひと。ぱっちりした目に、小さなくちびる。たぶん、ほとんどの男の人は、私よりも彼女を選ぶに違いないっていう――お兄ちゃんとお似合いのひと。
私は声をかけられなくて、教室の入り口でぼーっと立っていたんだった。
普段だったら、そんなとき、お兄ちゃんはすぐに気づいて声をかけてくれる。でもお兄ちゃんは全然気づいてくれなかった。
ああ、今お兄ちゃんの中に私はいないんだ。そう思うとどうしようもなく悔しかった。
本当はあそこにいるのは私のはずなのに。あそこにいていいのは、私だけなのに。
しばらく待っていたけれど、お兄ちゃんは気づいてくれなかった。だから私はかなり怒りながら、結局、自分で声をかけたんだった。
きっとお兄ちゃんは謝ってくれる。そう思っていたけど、お兄ちゃんは全然気にしたふうもなく、今日は先に帰ってていいよ、なんて言ったのだ。
なによそれ、と思わず叫びだしそうになった。
私じゃなくてその人と予定があるっていうんだろうか。私よりもその人が大事だっていうんだろうか。
兄妹だから、だから私はお兄ちゃんの一番になれないっていうんだろうか。
そんなことをたくさん考えて、私は内心、泣きそうだった。
でもそういう自分には気づかれたくなかったから、私は笑って、じゃあ先に帰ってるね、なんて、いい妹を演じて見せた。
きびすを返して去っていく私の耳に、お兄ちゃんの隣にいた女の人が、かわいい子ね、妹さん? なんて言っているのが聞こえた。お兄ちゃんがそれになんて答えたのかは、耳をふさいでしまったから、覚えていない。
そのあと私はしばらく屋上で頭を冷やして、そうして、家に帰ろうと学校を出た。
あのひとが誰なのかなんて、私は知らない。関係ない。家に帰れば、お兄ちゃんは私だけのお兄ちゃんなんだから。そう思って、私は家路を急いだ。
そうして、もうすぐ家に着く――という、そのときに。
家の近くの交差点で、私はお兄ちゃんとさっきの女の人が、ふたりで並んで歩いているのを見たんだった。
なんでそのひとと一緒に家のほうに歩いてくるの。私は腹立たしくて仕方がなかった。
もしも、そのひとの家がうちと同じ方向にあって、それで一緒に歩いているんだとしたら、かまわない。
でもそうじゃないとしたら。
お兄ちゃんがその人を、うちに連れてこようとしているんだとしたら。
それは許せないことだ、と思った。私に対する重大な裏切りだ。
だって、あそこはお城なんだもの。
私とお兄ちゃんの、ふたりだけの砦なんだもの。
そこにどうして他のひとをいれるの? 私じゃだめなの?
そんなふうに私が考えるのは、仕方のないことだ、と思う。だってあそこはお兄ちゃんだけの家じゃない。私の家でもある。そこに私に無断で誰かを連れてくるなんて許せない。私以外の誰かをあそこに入れるなんて許せない。
そしてふと、私は、もうお兄ちゃんは私なんていらないんじゃないか――そんなことを、思った。
お兄ちゃんが私だけのお兄ちゃんじゃなくなってしまう。
自分で考えたことだっていうのに、背筋が凍りつきそうになった。私には、耐えられない。
じゃあ、どうしたらいい? あのひとがお兄ちゃんから離れていくように仕向ければ大丈夫? ううん、そんなことはない。
お兄ちゃんの隣にいられる人なんて、それこそ星の数ほどいる。
私よりもきれいなひとも、かわいい人も、いくらだっているはずだ。お兄ちゃんが私以外の誰かを好きになってしまわないって、いったい誰が断言できるだろう。
なら、どうすればいいのか。どうしたら、お兄ちゃんはずっと、私だけのお兄ちゃんでいてくれるのか。
お兄ちゃんの背中が、前のほうに見える。お兄ちゃんの隣の女のひとが、うしろを振り返ってくす、と笑った。まるで勝ち誇ってるみたいな笑み。
ぷつん、と私の中でなにかが切れた。
なんなの、あれ。どうしてあの人がお兄ちゃんの隣にいるの。どうして私を見て笑うの。それをどうして私が、許せると思うの?
私だけのものでなくなってしまうのなら。
それなら、いっそ。
私は駆け出して、お兄ちゃんが振り向いた瞬間、背中を押した。
「……優子?」
お兄ちゃんは車道に尻もちをついた。歩行者用の信号は、赤。
――そうして。
走ってきたトラックが、お兄ちゃんの身体を押しつぶして。
赤い液体があたりに飛び散って。人形みたいにお兄ちゃんがひしゃげて。
これで、いいの。そう思って、私はそのとき、笑みをこぼしたんだった。
これでお兄ちゃんは、他の誰のものにもならない。
あのときと同じ笑みを私が口の端にのぼらせたとき、ちょうどあの交差点にたどりついた。信号は赤。私は立ち止まる。
道路は綺麗に掃除されていて、痕跡なんてなにも残っていないけれど。アスファルトにはお兄ちゃんの血がしみているんだ。
ねえ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんはあのとき、私の名前を呼んだよね。最後の言葉は、私の名前だったよね。
私はそれが嬉しかった。すごく、すごく嬉しかった。
私が悪いことをしたのは、自分でもよくわかってる。
私が罪人だってことは、一番、自分でよくわかってる。
でもしょうがないでしょう? お兄ちゃんには、私だけのおにいちゃんでいてほしかったんだもの。
きっと許してくれるよね。お兄ちゃんはいつだって、私に優しかったもの。
いくらだって謝るわ。
どんな償いだってする。
ねえ、だから、こっちを向いて。私を見て。夢の中でも、私に優しくしてちょうだい。
お願いよ、お兄ちゃん。 |